悪夢の終わり ~救済と罰~その2
かつて勇者の仲間だった女神の末裔ダイアナ。
彼女から情報を引き出すために使用したフォックスエイルのお手製香水。
禍々しい香水に身を支配された女は、ただ茫然と佇んでいた。
女は何らかの暗示にかかったのだろうか。
自らの手のひらを鏡のようにじっと見つめて、静かに息を吐く。
「わた、わたくし……は……」
声は甘く擦れていた。
傷つき潰れかけたその腕から折れた槍が抜け落ち――。
カラン――ッ……と、静かな音を立てる。
「なに、これ、なんなのですか……っ」
香水の効果が出始めたのだろう。
女の魂に変化が訪れていた。
人間と女神の混血だった彼女の魂は大いなる光に召し上げられたその時に変質している。その質が、また一つ、変化しだしているのだ。
魔眼で女の魂を覗いてみると見えるのは――無数の亡者。
彼女が今まで殺しただろう無辜の人間の魂が、かつて美貌を誇っていた彼女の身体にべっしりと……しがみついているのである。
対象者が殺した相手を幻覚として体内に召喚し、呪わせる――か。
件の香水。あの禍々しいアイテム効果の一つだろう。
「い。いや、出ていって……あなた方は、もう死んだのでしょう?!」
彼女は割れたネイルで自らの頬を拭う。
細い指がツツツと頬をなぞって落ちていく。
まるで薬物中毒の患者のようだった。
女は身体に集る蟲を掃うように、ケガを負った血塗られた指で肌を掻く。
それでも亡者は女の肌を朽ちた手で掴み、こう訴えていた。
なぜころした、なぜただ静かに生きているだけだったワレラを殺した――。
と。
かつて人間だったダイアナの血は紅いのだろう。
その白い肌が、亡者を振り払おうとする度に、鮮血で染まっていた。
「わたくしは、美と槍の女神の末裔……由緒正しき神の血族ダイアナ……。勇者様の仲間で、勇者様の……わた、わたくしは……」
その言葉を漏らして、しばらく。
女は佇んだまま動かなくなってしまった。
ただぼんやりと、何もない空間を惚けて見つめている。
これで完了、なのかな?
後は質問すれば答えてくれるんだろうか。
ちょっとエグかったけど。
私が直接的に拷問とか、尋問とか、そういうのはしたくないしね。
一応、女性だし。
綺麗なまま殺してあげるのが大魔帝の慈悲というヤツなのだ。
だから、さっさと情報を聞いて彼女の存在を消去。他の皆が待つキャンプに戻りたい所なのだが――なーんか嫌な予感がしてきた。
彼女の体内に召喚された亡者が、何やら儀式を行い始めているのである。
あのフォックスエイルの……香水、か。
自白剤みたいなものだと勝手に思っていたが。
彼女はああ見えて色欲の魔性。
神々や魔族を含めたとしても、上から数えた方が早いほどの強者。
魔女としての性質を持つ彼女の香水が、ただそれだけの効果で終わるだろうか。
やっぱり。すっごく、嫌な予感がする。
ネコの直感が、ものすっごく働いているのである。
ヒゲがピクピク。
鼻もムズムズ。
ちょっと落ち着かない。
そういや、説明書を貰ったのに読まずに使っちゃったけど。
あれ、もしかして……なんかまずかったかな。
案の定。
終わったと思っていたのに、なにやら起こり始めていた。
「いや、いやぁぁぁぁああああああああああ!? 入ってこないで、わたくしの中から、でていってぇぇぇ!」
喚く彼女の上。
女神の末裔の頭上に生まれ始めたのは――モヤモヤとした黒い霧。
彼女の体内で召喚された亡者が、更に悍ましい何かを召喚したのだろう。
魔狐の香水の効果なのは間違いない。
召喚した亡者の恨みを糧とし、更に召喚させる二重召喚か。
しかし。
なんだあれ。
召喚されたのは――憎悪の魔性である私ですらも一瞬、ビクっとしてしまうような邪悪な気配だった。
『ニャニャニャ……!? にゃんだこれ?』
思わず毛を逆立てて私は玉座から身を乗り出す。
グモモモモモ……ォ。
尋常ならざる悪意が迷宮に広がっていく。
召喚されたのは、幻影の霧――か。
これもおそらく、色欲の魔性が本気で作り出した魔道具の効能の一つ。
対象者の心を蝕み掴む魔力の塊なのだろう。
香水から生まれた霧が、形のない腕を伸ばす。
ズン!
八重の魔法陣を展開。
ギシシと声のみで微笑し、魔力効果を発動させた。
『へえ! すごい、魔道具なのに魔術を扱えるのか。いいねえ、初めて見たよこんなアイテム』
こういう魔道具は興味深い。
まだ見ぬ魔道具に、魔術師としての私が大変興味を惹かれてしまった。悪い癖だと自覚はしていたが、魔術への探求心は止められないのである!
その時。
ニャハ! っと賢い私は閃いた。
一時停止をするように魔術で時間を止めて、と。
一番見やすい場所に玉座をふよふよ移動させてえ。
ネコのお手々で紅蓮のマントからポップコーンを取り出して、玉座に深く座り直してモグモグモグ。
雰囲気を出すために、映画館で飲むようなコーラも用意で、準備完了だ!
せっかくなので観察しよう。
私は一時停止代わりの、時間停止の時魔術を解除する。
突如出現した映画館セットに気付かず――。
荒ぶる八重の魔法陣に目を奪われた取り巻きの一人が、呆然と声を漏らす。
「なん、なんですか……これ……」
塩分が足りないポップコーンにお塩をフリフリしながら私は答えた。
『んー、一種の魔力生命体。人工の精霊種みたいなもんなのかな』
「なのかなって……。えーと……あなた様が呼び出したのでは、ないのですか?」
尻尾の先を振りながら、肉球についた塩を舐めて。
んー……と私は考える。
魔術構成を読み取っているのである。
『術系統は呪い。あー、魂を根本から呪って操作する系の邪術か、これ』
「こんな禍々しい呪い……はじめて、みましたが……」
『そりゃフォックスエイルの作り出した香水。新しき呪いだからね、私だって初めて見たさ』
魔狐の名を聞き、取り巻き達がまともに顔色を変えた。
「フォックスエイル!? 神すらも幻影の虜にしてしまうあの魔性と、彼女とお知り合いなのですか?!」
『知り合いも何も、いま、彼女は魔王城でコンビニ……って言っても分からないか、万物を取りそろえた万事屋でショップを経営しているよ? うちの居候みたいなもんさ』
取り巻きはようやくこちらを向いて――。
一瞬、謎の映画館セットに困惑したようだが、構わず疑問をぶつけてきた。
「そんなバカな……っ。彼女は、あの魔狐は……大いなる光様からの勧誘を断り、自らの目的のために去っていったというのに……」
『知っているよ。だから私は彼女と戦った――互いに自らの信じる心をぶつかり合わせてね』
あの日の戦いを思い出し、私は瞳を伏す。
じゅるじゅるー、とコーラをストローで吸って口の中でぶくぶくぶく。
そんな、黄昏る私を横目に、取り巻きくんは真剣な表情で言葉を漏らす。
「色欲の魔性……この世界に漂う大災厄のひとつと……憎悪の魔性であり大災厄のひとつであるあなたが……戦いを……」
声は震えていた。
あれ。
そういやその辺の事情、神族達は知らないのか。
大いなる光相手に商談を持ち掛けたとは言っていたから、行方不明だった筈の彼女が健在だったのは知っているのだろうが。
そりゃまあ。
やろうと思えば世界を滅ぼせるレベルの存在が、神の知らぬ所で戦い合っていただなんて知ったら。
寝耳に水状態からの、驚天動地だよね。
ごくりと息を呑み、取り巻きは言った。
「どちらが、勝利、したのでしょうか」
『そりゃあ決まっているだろう? 私はこの通り傷一つなく健在だ。そして彼女は今、我等が主、魔王様の居城に棲みつき汗水垂らして働いている。まあ、そういうことさ』
ここはちょっと大魔帝っぽい闇の微笑を浮かべてみた。
魔王様風のおとなのよゆう顔、というやつである。
商売が繁盛して、恩人であるファリアル君とも同じ場所に居られて――めっちゃ人生を謳歌してるんだけどね。
あの魔狐。
まあそういう話は伏せておこう。
『一応、警告しておくよ。アレは既に私の仲間だ。手を出そうなどとは思わないことだ』
本当は匿っているだけなんだけどね。
これであの魔狐が私の配下、管理下に加わったと伝わっただろう。
フォックスエイルの安全は保障されたといってもいい。
まあ……あれほど強力な魔狐の身を心配する必要なんて、まったくないような気もするけれど、一応女の子だしね。
ポップコーンの黒っぽい豆部分が、なんとなく、焦げたパン色のように見えて。
私はちょっと、こそばゆくなっていた。
『さて、それよりもこっちが本番だ。見てごらん、呪いが魂の奥にまで浸食している。へえ、凄いね。魔女が得意とする古代呪術系統だ』
私は視線と思考を、フォックスエイルの自白剤こと魔性の香水に戻す。
浸食を進める魔性の霧が次の動きを見せ始める。
呪いはじっくりと浸透しているのだろう。
『この呪縛をレジストするには、最低でも七重の魔法陣を扱えるレベルでないと話にならない筈だ。そしておそらく。この幻惑を防ぐ手段を持つ存在など、今の神族には殆どいないだろうからね。そろそろ、かな』
呪縛された女の魂は――幻惑の虜になっていく。
彼女自身の手によって殺された亡者。
恨み持つ彼等から生み出された魔性の霧に、囚われたのである。
霧は完全に女の魂を掌握したのだ。
虚ろに彷徨う女の頭上に漂うのは、おどろおどろしい幻影。
ナニかが禍々しく漂っていた。
「あれは、いったい……」
『たぶん、彼女が今まで殺してきた罪なき者たちの憎悪。その怨念が悪意となって顕現した邪霊だね。相手が一番苦しむ幻影を半永久的に見せ続ける呪いだとは思うんだけど……』
「罪なき者たち……彼女は、やはり、神の目が届かぬ場所でそのような事を、して、いたのでしょうか」
『君達も噂ぐらいは知っていたのだろう? 全部が全部とは言わないけれど、ここ百年、急激に大いなる光が弱体化してしまった原因の一つがおそらく彼女さ。君達は見ていなかったかもしれないけれど、殺された人間たちの家族はずっと覚えている。神の眷属に、家族が殺された。あんな神を信仰するのはもうやめよう。それよりも新しき神、そうだ、大魔帝ケトスを崇めよう! なんて、こともあったのかもね。まあ最後のは冗談だけど……。全ては勇者再臨のため……心のブレーキが既に壊れちゃってたんだろうね』
新たに取り出したキャラメルソースのポップコーンを食べる? と、取り巻きくん達に差し出しながら私は言う。
なぜか彼女たちが首を横に振っていたので、私一人でムシャムシャムシャ。
歯にキャラメルソースがちょっとくっつくのが気になるけど。
うむ。
甘くて美味しい♪
そんな私の目の前で。
魔性の霧は女の魂を蝕みながら、覆い被さるように糸を刺す。
心を蝕む悪意の糸針だ。
一つ、二つ。
徐々に、徐々に心の隙間に針状の糸が埋まっていく。
ダイアナにはもはや、この糸から逃れる手段はないだろう。
おそらく。
彼女の意識の中だけでは、抱擁されている感覚に囚われているのではないだろうか。
もっとも愛したものからの抱擁だ。
それはおそらく、勇者。
白き女の肌に、虚ろなる霧から垂れる甘い糸が絡みつく。
彼女の悪夢は終わらない。彼女に殺された霊たちは止まらない。
むしろこれからが――本格的な復讐の始まりだろう。