聖女が見た領域その4 【SIDE:聖女騎士カトレイヤ】
【SIDE:聖女騎士カトレイヤ】
思考の渦から帰ってきた聖女は、強い疲労感に襲われていた。
成長した能力にまだ順応できていないのである。
聖女は考えた。
けれど、まだ間に合う。
普段は取り巻きだなんて、周りも自分も、彼女たちも言っているが。
大切な仲間なのだ。
絶対に、助けて見せる――と。
青褪めた顔を拭ったカトレイヤは、深呼吸をした。
――あれはあくまでも、わたしの能力で見た未来と真実。想像や予想に影響を受けた推理に過ぎない……現実とは違う――けれど、彼が世界を滅ぼしてしまうほどの存在なのは、間違いないわね。
同時に複数のあり得る未来を覗き、脳を揺さぶられながらも。
聖女は言った。
「彼の心配をするほどの自信は、私にはないわ。見えないの? あの人が持つ並々ならぬ闇と力が」
静かに、穏やかに。
淡々と教え諭すしかない。
漏らす聖女騎士カトレイヤの言葉の意味が分からないのだろう。
やはり取り巻き達は困惑を浮かべてしまう。
「闇と力と言われましても」
「あの獣人さん、支援の祝福は超大得意みたいですけど。戦闘職のレベル一桁、ですよね?」
聖女は取り巻き達の言葉を反芻するが、やはり違う。
「レベル一桁の獣人が、なぜダイアナさんの奥義をいとも容易く避けられると思うの? 今の彼から得られるレベル情報は全てあやかし。練度詐称、鑑定スキルを誤魔化す上位の幻影魔術よ」
「え、でも……」
「魔道具に頼らず――もっと自分の目を凝らして、よく見てみなさい」
言われて彼女たちは男に目をやるが、やはりその瞳に映る色は変わっていない。
今すぐに、助けに行きたい。
助けなければならない。
あの哀れな猫を――。
我を、癒せ。我を愛せよ。我を退屈させるな。
そんな飢えた愛情を欲するように伸びる、甘い香り。あの男の魂のどこかが、誘蛾灯のように、周囲の心を魅了し囁き続けているのだろうか。
我は猫ぞ。
愛せよ猫を――と。
これも、彼が持つ能力の一つなのかもしれないとカトレイヤは考え始めていた。
聖女は件の獣人、殺戮の魔猫――大魔帝ケトスに目をやった。
翳を帯びた鼻梁。
その瞳には慈愛にも似た憐みが浮かんでいた。
まるで神の憐れみ――。
その矛先にいるのは、女神の末裔ダイアナ。
――どういうこと……? 彼女に同情をしていると、いうの?
どんな理由かは知らない。
カトレイヤの力では理解に届かなかった。
この槍の攻防が始まる前。
なにやら精神戦があったとは認識していたが、その内容までは感知できなかったのだ。
けれど、彼女の何かをあの男は既に覗いていたのだろう。
おそらく、過去を覗いていた。
そして、何かを感じ取っていたのだろう。
聖女騎士カトレイヤの瞳には、あの男が、戦乙女ダイアナを哀れんでいるように見えるのだ。
カトレイヤの推理を証明するかのように、男は口を開いた。
まるで助け舟を出すように。
『ダイアナくん、だっけ。本当に、このまま諦めてはくれないかい?』
「あら、命乞いですか?」
憐れみを隠さず瞳を閉じて。
男は言う。
『そう、君のね』
「不愉快ですわね。わたくし、ここまで不快になったのは初めてですわ」
『交渉決裂か。そうだね。仕方ないね、じゃあ決めたよ』
その瞬間。
世界が悲鳴を上げるかのように――軋んだ。
『君を殺すよ』
再び男が瞳を開けた時。
紅く、ギラギラと輝くネコの瞳が輝いていた。
周囲の魔力が――律動し始める。
男に惹かれ、動き出す。
彼は、口を開いた。
ゆったりとした口調で、穏やかな言葉を奏でだしたのだ。
『勇者の関係者ダイアナよ。いまだ妄執に囚われた哀れな娘よ――私はあの戦争の生き残りとして、君に死という名の休息。慈悲を与えよう』
「わたくしを、殺すですって?」
女の美貌に、ヒビが入っていく。
『ああ、だって君。勇者がいないこの世界なんて、もう――どうでもいいのだろう?』
「魔族風情がぁぁぁぁ!」
男は魔力による言葉で、女の精神を撫でたのだろう。
それは憐憫の言葉だった。
だからこそ、彼女は挑発された。
ダイアナの女神を彷彿とさせる髪が広がっていく、怒りの魔力に反応しているのだ。
「わたくしの勇者様の名を軽々しく口にした不遜と傲慢。その代価は高くつきますわよ! 分を弁えさせてさしあげますわ!」
隙だらけの姿のまま静かに佇む、獣人魔族。
二又の槍を構えるダイアナ。
それを目にしていたカトレイヤの取り巻き達が、目配せをし頷く。
獣人を助けようというのだろう。
それぞれの武器を顕現させ、戦士の貌をし覇気を高める。
発動するのは戦意高揚の鼓舞スキル。
聖女が教えた戦いの術だ。
「我らは行きます」
「弱き者を守る事こそが本懐。天に召し上げられた時に願った誓い、人々のため、この剣を振るう筈だった。それを思い出したのです」
カトレイヤの瞳には、未来が見えていた。
先を読む能力、神託だ。
皆が、死ぬ。
聖女は叫んでいた。
「待ちなさい! 殺されるわ!」
「分かっております、我等ではダイアナさんには到底敵わない。けれど、黙ってあの方が惨殺される姿を見ているわけにはいかないのです!」
違う。
聖女カトレイヤだけが気付いていた。
けれど、説明ができない。
あのダイアナは神族でも最上位の使い手。かつて勇者の仲間であり、女神の血筋による加護を受ける女傑。
団体行動は不得手だが、おそらく単独では神族でもトップクラスの存在。
そんな彼女よりも、あの得体のしれない紳士が強いなど――。
理屈で説明できる道理がない。
ふと。
一つだけ。
考えが浮かんだ。
彼女の瞳には自分が神の眷属から、仲間から見放される未来が見えていた。
追放される未来も見えていた。
聖女の選んだ答え、それは――。
仲間に剣を向けること。
たとえ彼女たち自身を傷つけてでも、止めること。
裏切り者と謗られようと。
臆病者と見捨てられようと――止めてみせること。
彼女にとって、仲間はそれほどに大切な存在だった。
考えてみると、不思議だった。
なんだ簡単な事じゃないと、彼女は思った。
答えは初めからそこにあったような気がしたのだ。
――悪いけれど……腕の一本もっていくぐらいは勘弁して頂戴ね。あの大魔帝ケトスの誘惑の瘴気から逃れるには、たぶん、これしかない。
心は揺るがない。
自分の手で誰かを救えるのなら、それで構わないと思っていた。
自分の行為は独善的であっても、間違っていないと誇りをもって宣言できると信じていた。
だから彼女は剣を握った。
あの日、黒猫に助けられた恩を誰かに返せるのなら――と。
魔炎を纏わす剣を顕現させ――。
カトレイヤが決意した、その瞬間。
光と闇は、見ていた。
彼女の尊い決意をちゃんと見ていたのだ。
迷宮に、闇の声が響いた。
『やれやれ、仕方ないね――カトレイヤくん、これは貸し一つだからね』
あの男の声だと、すぐに分かった。
言って。
男は手を翳し――膨大な魔力の一端を解き放った。
ズォゥゥォゥン!
世界が、軋んだ。
信じられない重圧が、聖女の取り巻き達を諫めたのだ。
魔力の圧に押された取り巻き達が、悲鳴に近い呻きを上げる。
「な……、こんな重圧……っく、うわぁぁぁぁ!」
「か、彼が、やっているというのですか!?」
「う、うごけない……っ」
束縛された彼らに眉を下げて、獣人紳士は優しく告げる。
『そこの君達、部下があまり上司を困らせるものではないよ。私みたいに、ちゃんとイイ子でいないと――安心できないだろう?』
続く流し目で聖騎士猫たちに合図を送った男。
その男の意志を受けたのか。
猫たちが、動き出した。
ジャキン!
カツオブシを振りかざした聖騎士猫たちが、白き獣毛を靡かせながら凛と宣言したのだ。
「騒ぐでにゃい小娘ども」
「塵芥に等しきにゃんじらが出て、どうにゃると言うにょだ」
「今この瞬間。我らは主から命じりゃれた、邪魔が入らぬようにとにゃ」
彼らはあの獣人魔族が召喚した、神話の聖獣を真似た猫魔獣達。
見慣れぬ護衛陣形を組んでいる上位魔獣であると、カトレイヤにも理解できていたが。
動けない。
聖騎士猫たちの力が、自分たちを遥かに上回っているのだ。
儀式も用いずに。
ただ一瞬で呼び出された彼らにだ。
取り巻きの一人が鑑定の魔道具を手にしながら、震えた。
「なに……この猫たち、レベルが……見えない。我等よりも、はるかに……高みの」
聖騎士猫たちが、ドヤァァァっとヒゲをぴんぴん蠢かす。
我等の方が遥かに上位だと、アピールしているのである。
取り巻き達もその力の一端を知ったのだろう、落ち着きを取り戻していく。
矛を収めた彼らに頷き。
聖騎士猫たちは謡うように獣人魔族にネコ腕を伸ばし――。
肉球を翳す。
「そう、それでいい。我らも弱き娘を束縛する趣味はにゃいからな」
聖騎士猫たちがあの男に目線を戻す。
「刮目せよ、あれこそが我らが主」
「あの方こそが我等全ての猫の王」
「美貌の君主」
「この地に舞い降りし混沌」
「最も新しき神――世界の柱となる資格を有する大いなる闇」
まるで聖騎士猫たちの言葉が聞こえているかのように、獣人魔族のモフモフ耳がドヤァと膨らんでいる。
おそらくそれは勘違いだろうとカトレイヤは思っていたが、実際はどうだったのだろう。
男もようやく、新たな動きを見せる気になったのだろう。
両手を広げ。
まるで大いなる光のような態度で下々を見下ろしながら告げた。
『私は、見た。光を見た――あの輝きこそが我が主。我が君、私が唯一認めた光』
「人の真似をしないで頂けないかしら、それはわたくしが勇者様を見た時の心」
戦乙女の殺意の睨みを物ともせずに、男は言う。
『そう、認めたくはないけれどどこかが似ているのだろうね――君と私は。だから――友との約束を違える事となっても、せめて真実を明かしてから、君を滅ぼしてやろうと決めたんだ。感謝してくれていいよ』
「あら、変身でもなさるのかしら。姿を戦闘モードにし、能力を高める種族が実在するとは存じております。あなたにそれができまして?」
『おや、やっぱり気付いていないんだ。私はね。既に変身しているんだよ。それにすら気付かないから――君達神族は脆弱なる存在、かよわく儚き雑兵になってしまったんだろうね。まあ良いよ、無力は罪じゃない。悔いることはないさ』
言って、獣人魔族は指を鳴らした。
刹那。
ザァァァァアアアァァァァァァァァアアアッァァァァァァ!
瘴気が、空間を駆け巡り――。
男の姿は闇に溶けていく。
「失礼とは存じておりますが、わたくし他人の変身を待つ心なんて持ち合わせておりませんの。残念ですけれど。これで――終わりですわ!」
その瞬間にダイアナは跳んでいた。
闇の変貌をただの強化系に属する変身魔術だと勘違いをし、隙をついたつもりだったのだろう。
渾身の一撃を闇に振りかざした。
キーン!
と、音が遅れてやってきた。
音よりも先に、女は大地に転がっていた。
地面には、女の折れた槍が突き刺さっている。
何が起こったのか、誰も分からなかっただろう。
『その程度の光では、届かないよ』
闇に向かい、地を這う女は叫んだ。
「卑怯者! 逃げるのですか!」
『逃げる? ふふ、脆弱なる小娘の分際でよく吠えたね。いいよ、ちょっと今のは面白かった。勇者を慕い、ただ傍にいるためだけにと戦乙女として成長した、勇ましきその心。嫌いではないよ。好きでもないけれどね』
とてとてとて。
小さな足音が響きだす。
とても小さな、足音。
「小動物の足音? いったい、どこから……」
瞬時に体勢を立て直し。
武器を更に取り出しながら――ダイアナは頭を悩ませるように眉を顰めた。
けれど答えは直ぐに見つかったのだろう。
女の瞳が、ソレを見た。
闇の中から出てきたのだ、小さき黒い生き物が。
「黒猫……?」
底の見えない闇の渦。
混沌の中から這い出てきたのは一匹の黒猫。
黒猫はあの男の口調のまま――皮肉気な猫口を動かして、言葉を生み出し始めた。
『やあ初めまして。この姿では初対面かな? 百年前の戦争で私のもとへと辿り着いたのは僅か数名。その中に、君はいなかった』
「闇を纏いし……黒……ねこ」
驚愕に喉を震わせるダイアナが、呟いた。
彼女もようやく気が付いたのだろう。
自分が誰と対峙していたのか。
ナニに遊ばれていたのか。
なぜ、槍がいつまでも届かなかったのか。
聖騎士猫たちが恭しく頭を下げる。
『そうだよ。ちょっと可愛いだけの黒猫さ。ごめんね、さっきのあの姿は変身魔術だったんだ。ホワイトハウルに正体を隠して欲しいって言われてたから、ちょっと窮屈だったけれど、友たちに言われたら仕方ないよね』
黒猫が歩くだけで、肉球が世界を軋ませる。
並々ならぬ魔力の渦が、迷宮全体を振動させる。
「そ、んな……まさか……」
『そう――この名をよく覚えておくといい。私こそが偉大なる魔王様の腹心。愛されるべき今の魔族を束ねる闇の長。君の愛する勇者を噛み殺した、憎き仇』
ニィィっと猫の口を尖らせて。
瞳を細め闇は言う。
『我こそが大魔帝ケトス。今から君を滅する者の名さ』
世界に、混沌が再臨した。