聖女が見た領域その1 【SIDE:聖女騎士カトレイヤ】
【SIDE:聖女騎士カトレイヤ】
謎の聖騎士猫たちに守られる安全空間。
隠匿状態の取り巻きを付き従える聖女騎士カトレイヤは、固唾を呑んで二人の戦いを見守っていた。
戦いは既に始まっている。
けれど。
不思議と現実感はない。
槍を避ける男の動きに、まるで緊張感がなかったからだろう。
聖女騎士カトレイヤは心の中で呟いた。
――本当にこの人は、いったい。何者なの?
彼女は考える。
先ほどの亜空間接続はただの亜空間接続ではない。
ここは既に次元の狭間の亜空間であり、様々な干渉を弾く神話級ダンジョンの内部。
ただ他の空間に今いる空間を繋げる通常の亜空間接続とは、レベルが違うのだ。
世代を超えた遥か先にある、未来の技術。
または。
世界創成期に存在したとされる始祖、始まりの者たちと呼ばれる彼等の有した既に失われた技術になるのだろう。
大いなる光ですらも時間を要する大魔術。
それをまるで初級魔術のように使って見せたのだ。
しかも彼は――その先で軽く奇跡を行使していた。
女神の末裔ダイアナ。彼女が、神のためにと独善のままに動き下界の人間を襲ったのだと、聖女騎士カトレイヤにはすぐに理解できた。
そういう噂は彼女の耳にも届いていたからだ。
それを確認するために。
あの男はわざわざ大魔術を用いて、空間を接続。
そこで彼は見たのだろう。
神の名の下で行われた強奪を。
襲われていた神殿に心を痛め、まるで自分の居場所を傷つけられたかのような悲痛な面持ちで、あの暴虐を嘆いていた。
美しい顔立ちをした男の、悲しみに暮れる横顔は――不謹慎だが目を奪われる程に幻想的だった。
それほどに、あの地の人間を大事に思っていたのだろう。
たかが人間如きを――。
少し前までのカトレイヤなら、心のどこかでそう驕っていたのかもしれない。
今の彼女は、既にそういう傲慢の呪いからは解放されていた。
かつて抱いた大志を、思い出していたからだ。
それもあの男が用意した試練のおかげなのだと、彼女には分かっていた。
導かれたのだ。
君は間違った道を歩み始めていないかい? と。
あの試練の中で彼女は成長した。
自らの過ちと腐敗を、恥じ。
忘れかけていた大切なものを――取り戻していた。
そして、過去を振り返ると――今まで見えなかったモノが次々と見えるようになっていた。
彼女は救われたのだ。
だから、助けようと思った。
女神の末裔ダイアナの独善から、今度こそ守り切ろうと思った。
あの日。
一番大切な人を守れなかった自分を思い出した、それも大きかっただろう。
過去の感傷に心を撫でられたカトレイヤは、胸をぎゅっと締め付けられていた。
彼女の心の中に。
淡く切ない記憶と決意がよみがえっていたのだ。
綺麗でもない、可愛くもない。性格はお世辞ですらも良いとは言えない、暴走してすぐに周囲を焼き焦がす迷惑女……そんな自分を愛してくれた――あの人。
好かれる筈もない自分を好いてくれた、あの人を――。
カトレイヤは守り切れなかった……。
あの人の命を守るよりも、あの人が命よりも大切だと願った国を優先して守ったのだから。
後悔していないと言えば嘘になる。
けれど過ちではなかったはずだ。
永遠の眠りにつく前のあの人は――本当に穏やかな貌でありがとうと、そしてごめんと言って――瞳を閉じたのだから。
あの日。
涙の味を初めて知ったカトレイヤには、平和になった国はどんな景色に見えていたのだろうか。
功績を認められた彼女は大神、大いなる光の目に留まった。
魂が天に召喚されていた。
肉体から離れ、地上を見下ろし浮かび上がっていた。
天に召し上げられる彼女の瞳に映っていた故郷は――どんな色だったのだろうか。
それを知る者は、彼女しかいない。
きっと、彼女も生涯語る事はないだろう。
それは彼女と、その想い人だけの思い出なのだから。
カトレイヤは思った。
あの人は守れなかったけれど。
この新しい恩人を――守りたい。
心から、彼女はそう思ったのだ。
これが綺麗な冒険譚。勧善懲悪を是とする御伽の物語であったのならば、きっと、正しき心を取り戻した聖女が恩人を救い、綺麗に物語は閉ざされる。
そんな。
心温かい一冊の童話が紡がれたのだろう。
けれど。
それはとんだ驕りだったと実感させられた。
アレはたしかに彼女を救ったが。
それだけではない。
アレは違う。
綺麗で温かいだけの存在ではないと、成長した彼女には見えてしまった。
彼は彼女の目の前で、奇跡を起こした。
人型だった腕を黒き獣に変貌させ、猫の瞳にも似た輝きを放つ杖を――そっと。
翳したのである。
それだけで――魔術は発動した。
十重の魔法陣を展開し、傷ついた者の負傷を一瞬で完治した。
それだけに止まらず。
彼は時を操り、遡らせ、崩れた神殿を強襲される前に戻すという、時間干渉の大奇跡を容易くやってのけたのである。
――みんな、誰も気が付いていない。見えていたのは、わたしだけ……だと言うの?
聖女騎士カトレイヤは神に祈るように、胸の前でぎゅっと拳を握る。
恐ろしかったのだ。
魔性と化した男の腕が握っていたあれは、おそらく。
猫目石の魔杖。
神話に語り継がれるこの世界最上位のアーティファクト。
この世界最恐の存在、魔王が所持する秘宝の一振り。
孤高に生きる神鶏、全てを無慈悲に石化させる大魔族ロックウェル卿が賜ったとされる世界蛇の宝杖。
神獣という属性故に神の許へと戻った大魔族、白銀の魔狼ホワイトハウルが預けられたという牙状の杖、三女神の牙杖。
猫目石の魔杖はそれら神話級の武器と並ぶ一振り。
限られた者しか装備の出来ない神器なのだと、伝承されているが――誰がその杖を受け継いだかは、不明。
神族の所持する情報では、語られていないのだ。
それを自在に扱えるという事は――。
少なくとも彼は、神族の二番手にあたる白銀の魔狼ホワイトハウルと並ぶほどの存在ということになる。
しかし。
おそらく違う。
上司に対して無礼を承知で彼女はこう思った。
あの男は、白銀様より上位の存在なのだろう――と。
聖女カトレイヤは握りこぶしの隙間に汗を滴らせ、考えた。
まさか。
彼が魔王なのかしら――そんな直感が脳を過ったが彼女は即座にそれを否定した。
魔王は勇者との戦いで疲弊し、休眠。
今もなお、長き眠りについていると大いなる光が語っている。
ならば、あの男は――。
ホワイトハウルよりも強く、魔王ではない大魔族。
そしてあの白銀の古き友。
汗ばんだカトレイヤの首筋が動く。
ごくりと、息を呑んでしまったのだ。
一つだけ。
たった一つだけ答えが浮かんだ。
けれど、それをすぐに否定した。
ありえないと思ったのだ。
聖女は男を見た。
確認しようと思ったのだ。
違うと、思おうとしたのだ。
この結論が間違っていると確認したかっただけなのだ。
だから聖女は闇を見た。
その闇の中を覗き――深くまで見てしまう。
穏やかなる紳士の奥底で蠢く、黒き獣の影……。
滾る憎悪を紅く輝かせる猫の瞳、怨嗟の焔をギラギラと照りつかせる漆黒の獣毛。
闇が、見ていた。
闇を見る聖女を、闇の中から覗いていた。
「まさか――そんな……っ」
思わず、言葉が出ていた。
戦いを邪魔しないように見守っていた筈なのに、指の隙間から貯めた水が零れるように……言葉が零れ出てしまったのである。
聖女の取り巻きが、心配そうにカトレイヤの青ざめた顔を見る。
「凄い汗、じゃないですか。どうかなさったですか?」
「いえ、なんでもないの。気にしないで頂戴」
たぶん。
まだ自分の口から語ってはいけない、そんな直感が聖女の口を閉ざしていた。
あの男の本性に、心当たりがある。
一つの恐ろしい答えが浮かんでいた。
心臓が跳ねた。胸が早鐘を打っていた。
けれど間違いない。
恐らく、あの男の正体は――。
大魔帝ケトス――。
そう思ったその瞬間。
全身の毛穴から汗が滴っていた。
魔力を伴った危険を知らせる汗。
コレには、ぜったいに抗ってはいけない。
どんな些細な無礼さえも許されない。
選択を間違えれば、この世界は殺される。
魂がそう叫んでいるのだ。
そんな彼女を振り返って、男は微笑み――。
モフ耳をピョンと立て、更に人差し指を口元に立てて微笑んだ。
しぃぃっと合図を送ってきたのだ。
内緒だよ、と。
――間違いない。
あれこそが勇者を噛み殺した大魔族。
戯れに人々を救い、戯れに命を狩る――混沌の魔猫。
魔王不在の今、魔族たちが暴走しないでいられる要因とされる大物魔族。
魔を率いる闇の牙。
魔王軍最高幹部であり、最強の猫魔獣。
魔、魔、魔、魔。
カトレイヤの頭の中に、魔という言葉が広がっていく。
背筋が冷えて、喉が凍っていた。
自分はなんてモノに武器を上げていたのか。
助けるためだったとはいえ、悪心増強の罠にかかっていたとはいえ。
今、生きているのは奇跡だと実感したのだ。
荒れる心とは裏腹。
静かな口調で聖女は部下たちに告げた。
「いい? 絶対に……飛び出しては――駄目よ。彼を助けようだなんて、思わないで」
「え、けれど――」
「いいから。お願いだから、言う事をきいて頂戴。これは神の信徒としての命令よ」
いつもとは様子の違う凛としたカトレイヤに、取り巻き達は困惑する。
今の彼女からは、まるで白銀の魔狼を彷彿とさせる高潔さが滲み出ていたのだ。
それに構わず。
聖女は見た。
目の前で繰り広げられる戯れの戦に、意識を集中させたのだ。
聖女の瞳。
その心は彼らの戦いに注がれていた。
武芸を嗜む者なら、この機会を無駄にはできない。
戦う彼の動きが、信じられない程に秀でていたからである。
――今の動きは縮地? 祝福や魔術を用いず行う受け流し?
いえ、それだけじゃない……動きそのものが美しいわ。まるで武術の指南本のような軽やかで、一切の無駄のない……。
あら? いま、無駄な動作が入って――なにかパン生地のようなモノを口にした?
能力向上アイテム、かしら……鑑定結果は、熱々チーズピザ?
異界の魔道具、なのかしら……――。
カトレイヤには彼の全てが理解できなかった。
何故これほどの強者が弱い振りをしているのか、理解できないのだ。
まるで、ただ自慢するため。
彼女の上司であるホワイトハウルの酒の入った時の言葉を借りれば――ドヤるため。
ただそれだけのために、隠しているだけのようにも見える。
けれど。
――大魔帝ほどの男がそのような戯れを、猫心を拗らせたような無駄な事をする筈がない、か。
もっと壮大な裏がある筈だ――。
聖女として成長したカトレイヤはそう考える。
それが正解か不正解か、あの男が耳にしていたら何と答えていただろうか。
彼女の思考を裂いたのは、戦乙女ダイアナの上げる戦意に満ちた声。
「もう後がありませんわよ!」
弾ける魔力。
渦巻く闘志。
踊るように駆けるダイアナの槍捌き。
それら全てを正面から受け流し、謎の男は猫耳をモフっと揺らす。
『さて、それはどうだろうか。その強化魔術でまだ早くなるんだろう? 私ははやくそれがみたいのだけれど、まだかな?』
「減らず口を!」
一見すると接戦だ。
繰り出される槍の一閃を、男は紙一重で避けているように見える。
避ける動きに余裕はない。
一歩、また一歩と槍は男の動きを捉え加速していく。
――ダイアナさんが使っているのは……徐々に倍増していく強化魔術! けれど、おそらく無駄ね。格が違い過ぎる。
その槍が刺さるのはもはや時間の問題。
瞬きしている合間。
ほんの一瞬、目を離したすきに、二又の刃が胴を薙いでいても不思議ではない。
男は遠からず女の槍に突き殺される。
戦いに長けた者が見れば、誰しもがそう判断するだろう。
けれど。
鋭く空を掻く槍の切っ先が男に触れることはない。
いつまでも、いつまでも――届かない。
先見の力を持つ聖女カトレイヤには未来が見えていたのだ。
たとえ百年、一方的に槍を振り続けたとしてもあの男には届かないと。
――遊んでいるのね、彼は。
槍の達人である戦乙女。
才気あふれる彼女が赤子に思える程の体捌き。
天才の更に先。
もっと高みの技量をあの男は持ち合わせているのだ。
それは魔術の腕や、内包する魔力量とは全く別の力。
練達の果て。
研鑽を積み上げた果てにある、剣聖と称される程の高みの技。
こういう手合いは厄介なのだと、聖女は知っていた。
ただ魔力が高いだけなら、隙はいくらでも生まれる。
自らの膨大な力だけを力任せに押し付けてくるタイプならば、いくらでも捌き方があるのだ。
魔道具でも魔術でも儀式でもいい。
その膨大な力を反射すればいいのだ。
神話でもよく聞く話。
最強の矛は、自らの胸を貫く矛ともなりえるのだ。
実際。
聖女騎士カトレイヤも、そうして格上の相手を屈服させたことが何度かある。
――でも、無駄ね。わたしがどう動いたところで、全てが見切られてしまうはずだわ。
おそらくこの男にそれは通用しないだろう。
力に溺れることなく、自らの技術を研ぎ澄ました上で成り立つ匠の武術が――この男には備わっていた。
反射しようと企んだその瞬間には、おそらく戦い方を変えてしまう筈である。
聖女の瞳には彼と無謀にも戦う相手が映っていた。
かつて勇者と共に旅をしたという戦乙女、ダイアナ。
今は余裕の表情だ。
少しずつ槍は男を捉え始めている。
あと少しで届くだろう。
飄々とした男の肉体を抉り穿つだろう。
そう錯覚させられている。その槍が届くことは永遠にないと知らずに。
彼女では絶対に、勝てない。
いや、彼女だけではない。たとえ主神といえども、この闇には届かない。
そう思ったその時。
聖女騎士は、自らが弄ばれていると知らない哀れな戦乙女に、声を上げていた。
「ダイアナさん! もうお止めなさい! それ以上やったら、死んでしまうわ!」
これもまた。
運命の流れを変える言葉だったのだろうか。
魔猫の試練で成長した彼女の上げた声が――今確かに、女神の末裔の心を揺らしていたのだ。