第三領域と聖女達 ~猫の与えし試練~その3
尋常ではない魔力と混沌の渦。
世界の法則から隔離された闇の中で、驚愕に魔力を揺らした聖女カトレイヤが声を震わせた。
「空間領域支配!? この一瞬で、それになんて力なの……!?」
空気が、変わり始めた。
戯れを捨てた私の空間支配を見渡し――聖女騎士カトレイヤは剣に手を掛ける。
輝く光。
抜いた聖剣の刃に――黒猫の貌が映り込んでいた。
「あなた! 本当に何者なのよ!」
『だから言っただろう、私は魔狼の友人さ。そんな事よりも、試練を開始する。準備は良いかな? まあ、良くなくっても始めちゃうんだけれどね』
獣人モードで、揶揄うように闇から顔をだした私は聖女に告げた。
『最初の質問だ。もし明日、神界が、君たちの世界が崩れて消えてしまうとしたら――君はどうする?』
額に一筋の汗を滴らせ、緊張した面持ちで彼女は言う。
「あなたの質問の意図は分からない。けれど、真面目な質問なのね」
『どうして真面目だと思うんだい』
「そんな真摯な貌をして、冗談を言える人はいないわ。まるで無の微笑ね」
え、なにそれ! カッコウイイ!
大魔帝たる我にふさわしい響きである!
そんな私のウキウキを知らずに――試練は開始された。
私は再び闇の中へと消えていく。
いいなあ! 無の微笑か! と小躍りする私を知らず。
聖女はしばし考えて、答えを告げた。
「わたしは今の世界が好きよ。過ちがないとは言い切れない、失敗をしたことがないなんて言い切るつもりもない。けれど神に選ばれた者としての誇りを持っているの。だから、止めて見せるわ」
『おや? じゃあ次の質問だ。あの槍戦士、戦乙女ダイアナにすら勝てない君がどうやって?』
「それは――っ……」
試練なのだ、ちょっと嫌味っぽく言ってみるのがベストなのである!
別に、いまだにネチネチと根に持っているわけじゃないよ?
『答えられないのかい。なら――もういいや』
十重の魔法陣を展開した私は指で闇を弾いて、無数の泥人形を生み出す。
汚泥は人の形を作り出し、それはやがて闇の自動殺戮泥人形となっていく。
意思なき土塊が、ぎょろりとその貌の空洞を輝かせた。
汚泥で包まれたモジャモジャ雪男を想像して貰えばいいだろうか。
モジャモジャ泥人形が次々と闇の世界に顕現していく。
カトレイヤが甲冑の下で眉をピンと跳ねさせた。
「うそ……っ、これって……! いえ、間違いなく、本物だわ」
『ん? この魔術を知っているのかい?』
これ天才錬金術師ファリアルくんのオリジナル錬金術をパク……参考にして発展させただけで。
便利そうだから大幅に魔術構造を強化して使ったけど、実は私も名前を知らないんだよね。
「無から有を生み出す……主神クラスの大規模儀式。魔導書にだけ名を残す失われた魔術……神話再現魔術。まさか……っ、その使い手が実在しただなんて――あなた! どんだけ非常識な存在なのよ!」
神話再現魔術か。
あーあったなー、そんな禁術指定されてる魔術カテゴリー。
あ……、そういや魔王様に禁止されてたけど。うっかり発動させちゃっただけだから、セーフだよね?
うん、ネコちゃんのうっかりはカウントされないだろうから、セーフだ。
私は知らなかったと強調するように宣言した。
『へー、これ。そういう名前だったんだ、ぜーんぜん、まーったく知らずに使っていたよ。じゃあ神様って錬金術師だったのかな? やはり人間との魔術戦というものはなかなか勉強になる事が多いね。あー、でも君は元人間なのか。ごめんごめん』
にゃはははは! と笑っているが、この泥人形部隊の実力は本物。
答えられないならせめて実力を見せてみろ、そういうことである。
神はこうして泥から人を作りだし、魂を吹き込んだと言われているが。
この世界ではどうなのだろうね?
ネコちゃんには、そういう、むずかしいことはあんまり興味ないのである。
もし私が主神になったら、美味しいご飯を作り出す新人類を大量に作るんだけどね。んでもって、毎日ごちそうパラダイスになるぐらい貢がせるのだ!
ともあれ。
どうせこのまま滅びる定めなら、せめて痛みなく消し去ってやるのが優しさか。
苦しみのない無へと、私は彼女を誘おう。
ごめんね、ホワイトハウル。
君との約束は果たせそうにないや。
……。
ねえねえ! なんかいまの格好よくなかった?
そんな私の心を知らないだろう彼女は、キッと決意を込めた瞳で泥人形の部隊を睨む。
口篭もり、拳をぎゅっと握り。
けれど、答えを得たのか。
聖女は闇に向かい威勢よく啖呵を切った。
「それでもわたしは止めて見せるわ。たとえどんな手段を使っても――神の信徒としての道から外れてもね! 我が名はカトレイヤ! 聖と魔の力を持ちし、救国の聖女!」
言って彼女は手にした聖剣に魔炎を纏わせ、強化。
流れるような剣舞で泥人形の首を刎ねる。
「お眠りなさい! 魂無き泥の肉塊よ!」
なんと! これは予想外だった!
彼女から感じていた闇はこの魔炎だったのか。生まれつきの体質なのだろうか。
私がこの世界に生を受けた時に不死の能力を得たように、彼女も生まれた時にその力を背負っていたのだろう。
聖とは異なる闇の力である。
なるほど、彼女の悪心の正体はこれか。
本来なら闇側の性質だったのだろうが、それを抑えて聖女なんかをやっているわけだ。悪心増長だか増強だかの影響を受けた理由も納得できる。
闇を背負いし聖女ってなにそれ、ずるい。絶対にかっこういい奴じゃん、いいなあ!
私も魔炎でゆらゆら、やってみたい!
『へー、全滅させたのか。凄いじゃないか、本当はこのまま眠らせてあげようと思ったのだけれど。そうか。それもまた一つの答えだろうね。いいよ嫌いじゃない。じゃあ最後の質問だ』
そんな心のワクワクを隠し。
闇の中から拍手を贈りながら、顕現するのは当然、私。
気分は、なんか消えたり現れたりする童話生物、チェシャ猫である。
闇を自在に渡りながら――私は聖者ケトスの書を片手に問う。
『君は野良猫が救いを求めていたら、それを救ってやるかい?』
これが、私の与えし試練。
その本題。
聖者ケトスの書から生まれいでるのは、あの日の幻影。
汚泥の上で這いずりながら光を睨み、助けを求める黒い猫。
私は知りたかったのだ。
今の彼らが、ネコを救うかどうかを。
ダイアナという女は誤魔化していたが、あれは救う気などなかっただろう。では、この彼女は? 闇に近い性質も持つ彼女なら、どうなのだろうか。
黒い雨と猫の闇に包まれた暗黒空間。
運命を変える猫の試練。
私がこれからどうするか、その選択は目の前の聖女騎士カトレイヤにかかっているのだが。
彼女は魔炎を引っ込めて、はぁと大きなため息を漏らす。
え? なに?
なに、その反応。
分からぬ私は猫っぽく眉を顰めるが――。
「はぁ? まじめな貌をしているから付き合ってやったのに。そんな質問? 余裕があったら救うに決まってるでしょ、見ちゃった後で見殺しにしたら気分が悪いもの」
容易く言ってのけて、彼女は汚泥の中から猫を拾い上げる。
幻影だと気付いている筈なのに、黒猫の汚れを清い力で拭い、亜空間から取り出した干し肉を差し出している。
けれど黒猫は人間を憎悪するように威嚇し、聖女の腕から逃げていく。
再び、汚泥の中で黒猫は紅い瞳をギラギラとさせながら――牙を剥いて、世界を睨み始めた。
「なにこの子。そんなに世界と光が憎いわけ?」
『さあ、どうなんだろうね――』
「もう、いいからおとなしく救われときなさいよ。言っておくけれど、わたし、しつこくアンタを救いあげるからとっとと諦めなさい」
ただ天を睨む黒猫。
その憎悪滾らす獣に向かい手を伸ばす聖女カトレイヤ。
躊躇のない動きが、少し私の心のヒゲを揺らす。そんな彼女の背に向かい、私は淡々と告げた。
これが、最後の試練だった。
『じゃあ、もしその黒猫が――世界を滅ぼす可能性のある猫だったとしたら? それでも君は、今のように汚泥から拾い上げていたのかな?』
私はカトレイヤの脳裏に、あの黒猫が齎す将来の破壊を見せつけてやる。
今でこそ私は愉快なグルメ魔獣扱いだが、まあ昔はやんちゃだったのだ。
色々な事をした。
色々と復讐もした。
彼女の言葉ではないが、全てが正しかったと言い切るつもりはない。
おそらくそれが――。
こちらを見ていた筈の大いなる光が、あの日の黒猫を救わなかった一番大きな理由だろう。
神は知っていたのだ。
あの汚泥で憎悪を燃やし地に這う黒猫が、大いなる闇として、大魔帝ケトスとして主神と並ぶほどの存在に育つことを――。
そう。
だから彼女もきっと――って、あれ?
「あら、いいじゃない。格好いいわね!」
『え? ちょ? いきなり拾い上げるかい』
脅かしてやるつもりだったのに、彼女は何故か喜んで猫を躊躇なく抱き上げて。
ぎゅっと抱きしめる。
「世界を滅ぼすほどの力があるのなら、きっと救う力もある筈よ。見て見ぬフリをせずにちゃんと救ってあげて、世界は醜いだけのものじゃないって教えてあげるのよ。教えてあげたら後は簡単、世界を平和にするために力を使ってね、って説得すればいいだけの話だわ」
まるで自分の事を語るかのように、彼女は戸惑う黒猫を慰めるように撫でていた。
『そんな単純な話じゃないと思うんだけど……』
「そうかしら。世界って案外単純なものよ? だって、わたしだったらこうして欲しいモノ。きっと、この子だってそうなんじゃないかしら?」
本音なのだろう。
嘘を語れば食らいつくはずだった黒猫は、そのまま聖女の腕の中で寝息を立て始めていた。
黒猫は薄目をあけて光を見ていた。
自分を救う光を……その日、初めて闇は見たのだ。
本来とは違う過去に何の意味もない。
これはあくまでも幻影。
彼女が黒猫を救うかどうか確かめたかっただけ。
けれど。
私は――光に向かい肉球を伸ばしていた。
その伸ばしかけていた手が幻の腕。獣人のモノだと気が付いて、私は腕を止めていた。
もし今の私が、黒猫の姿だったら、そのまま縋っていたのだろうか?
分からない。
分からないが、それを試すつもりはない。
それでも。既に憎悪と怨嗟に染まり切っていた私の紅い瞳だけが、だた穏やかに安堵する黒猫を見続けていた。
ニヒルでクールに佇む私も、けっこう素敵なのである。
そんな私に気付いたのか。聖女カトレイヤは小馬鹿にしたような顔で、フフンと闇の中の私を見て。
けれど、慈愛の眼差しを黒猫に向けて。
「あなた、インテリな格好をしているくせに、そんなことも分からないの? わたしに身を預けるこの子の方がよほど賢いわね! いい? あなたはこのネコより下なのよ! つまり、わたしの勝ちね!」
『……どんな理論だい、それ』
聖女騎士カトレイヤは眠る猫の頭を優しく撫で、慈愛の微笑を携え続ける。
えー、なにこの聖女。
私に喧嘩を売りまくっていたくせに、ちゃんと聖女ムーヴかましてきやがるってどういうこと?
これで黒猫を見捨てたら、容赦なく私も見捨ててやろうと思っていたのに。
神託とか予言ができないように妨害もしてたから、これは彼女自身の意志なのだ。
黒い雨が、すこしだけ治まっていく。
魔狼の修行で、今の試練で――。
私の中にも、まあ少しだけ――変化があった。
憎悪が少しだけ和らいでいたのだ。
憎悪を力の源にする私にとっては、少しレベルダウンなのだが――ま、この迷宮で得た力を考えれば大幅なレベルアップには変わりない。
そう、私がもし世界の敵となるならば倒す方法が一つだけある。
簡単だが、おそらく不可能な手段。
世界から、憎悪を取り除けばいいのだ。
私は憎悪の魔性。
その糧さえなくなってしまえば――ただのちょっと最強クラスなだけの魔猫。低級なダンジョンモンスター、武芸と戦術に長け、ありとあらゆる魔導と奇跡を扱うだけの猫魔獣に過ぎなくなってしまうのだから。
少なくとも無限に復活したり、永久に湧き続ける魔力を湯水のごとく使うことができなくなってしまうのである。
世界平和こそが私の弱点なのだ。
ま、そんなことできるはずないんだけどね。
そもそも恨みが全くない平和な世界なんて、考えられない。たぶん平和とは程遠いディストピアになってしまうだろう。
ともあれだ。
幻影の中に作られた試練。
あの日には得られなかったもう一つの未来。
黒猫は救われて――ゴロゴロ喉を鳴らし、ただの猫のように甘えている。
ペチペチと薄い胸を叩いて、まあ我慢してやるかと妥協をしているが。
ともあれ黒猫は救われたのだ。
まったく。
何の躊躇もなく救ってやんの。
えー、なんかあっさり過ぎて拍子抜けなんですけど。
少なくとも。
まだ、残しておいてやってもいいかと、思えるくらいには私も心を傾けていた。
んー、やっぱり最初の印象が最悪だと。
こういうことしただけで、ポイント上がっちゃうよね。
ダンジョンを強奪していた闇を引っ込め、私は肩を竦めて見せる。
『君達神族にとって、ネコなんて蟻んこと同じ存在なのかと思っていたよ』
私が空間制御を解いて、緊張も解いたからだろう。
彼女も緊張を解いて、ふぅと息を吐く。
「ネコは特別好きなのよ――。魂の価値に差などない。差別は良くないと思うけれど――これがネズミだったら、わたしも救っていたかどうかは……ちょっと怪しい所だったわね」
『へえ、そうなんだ。天界の人々ってみんなネコが嫌いなんだと思っていたよ』
別に。あの日、助けられなかった事をいまだにネチネチ言っているわけじゃないよ?
「わたしね。昔、ネコに助けられたことがあるのよ」
……。
それはまた、ずいぶんとファンシーな。
『猫に? えーと、夢の中とかで?』
「ま、そーいう、反応になるわよね。皆に言っても信じて貰えなかったから慣れているけれど。でも、本当の事なのよ」
遠くを見ながら、彼女は嬉しそうな顔を浮かべていた。
すんごい気になるじゃん。
『聞かせて貰ってもいいかな』
「嫌よ、どうせ信じて貰えないもの」
『まあ言いたくないならそれでもいいけど、私、本気になれば相手の心を読めちゃうよ?』
隠しても無駄だと悟ったのか。
ほんとうにあなた何者なのよ――と、ちょっと呆れた様子で彼女は口を開き始めた。
彼女は語る。
それは、まだ彼女が人間だった頃の話。
一人の聖女として英雄になる前の、孤独な人生の物語だった。




