エピローグ【SIDE:ファリアル】 ~血染めのファリアル編~ 2/4
こちらは既にこの地の人間ではない。
警戒させてしまうのも面倒だ、少しくらいは愛想笑いをするべきだろう。
ファリアルは集落で学んだ外向きの笑みを作り言った。
「突然お呼び止めして申し訳ありません、少しお時間宜しいでしょうか?」
問いかけに返事はない。
気付いているのは間違いないのだが。
ただ茫然と、老いた瞳はファリアルの顔を静かに見つめていた。
警戒されているのか?
それとも聞こえていなかったか。
どちらにしても、もう一度アクションを起こすべきだろうと、かつてこの宮殿にいた経験もある錬金術師は口を動かす。
「大魔帝ケトス様の連れの者です。あの方のために厨房をお借りしたいのですが、少々道に迷ってしまいまして……。場所を教えていただきたいのですが」
以前ならば自己紹介などせずにでも相手がこちらを知っていたのに。
こんな事は初めてだったのだが――。
失敗はしていない筈だとファリアルは思っていた。
けれど。
やはり返答はない。
老人はますます瞳を開き、動揺したように息を呑む。
僅かに開いた唇から言葉が出されることはなかった。
心の中の前言を撤回し、ファリアルは失敗したと思った。
相手はどうやらこの国では地位の高い人物だったのだろう。後ろに控えていた魔力の高い魔術師たちが、無礼だろう、そんな視線で近づいてくる。
その手に隠れて浮かぶのは護身用の魔法陣。
この老人は地位あるがゆえに下々の者とは会話をしないのかもしれない。高齢ゆえに血染めの名を知っていたのかもしれない。
どちらにしても他の者に聞いた方がいいだろう。厄介ごとは御免だ。
と――、男は内心苦笑する。
「これは失礼いたしました。高名な方とは知りませんで……、他の方に聞くことにいたします。それでは、お時間を取らせてしまい申し訳ありませんでした。それと後ろの方々、急襲用の魔術を組むときは隠匿の詠唱を先に唱えておかないと気付かれます、意味がありませんよ。脅しならばいいのですが、っとこれは過ぎたお節介でしたね、すみません。それでは――」
つい、余計な事まで言ってしまった。
西帝国という場所が彼の口を滑らせたのだろう。
謝罪の礼を一つ、残し。
踵を返したファリアルが、立ち去ろうと廊下を進む。
カツリカツリ。
宮殿の廊下の窓から注ぐ斜陽が、端整な男の顔立ちに光と影を与えていた。
歩く背中。
遠ざかる背中。
老人の瞳には何が映っていたのだろうか。
弟子たちを押し退け――彼は喉を震わせた。
「その魔力。涼やかな顔つき……ああ、間違いない。おぬし、もしや、ファリアル……っ、なのか?」
声は老人の口から零れ出ていた。
思わず。
ファリアルは振り返っていた。
老人は見た目以上に齢を重ねているのだろうと、観察眼に長けた血染めのファリアルには感じられた。
大戦時代の生き残りだろうか。
いや。
それよりはもう少し後の生まれか。分からない。判断できなかった。けれど、相手は自分を知っている。
敵か、味方か。それとも傍観者か。
今、この場には大魔帝と元大魔帝。そして色欲の魔性。
三柱の偉大なる存在が揃っている。魔族とも人間とも違う勢力が、スパイとして帝国に紛れ込んでいる可能性もある。
魔術波動が漏れ始める。
大恩ある大魔帝ケトスのためならば――おそらく男は何を犠牲にしてでも、その忠義を果たすのだろう。
警戒したファリアルは振り返ったまま、少し硬い声を出す。
「失礼ですが、どこかでお逢いしましたか?」
見慣れぬ賓客。
滲み出る膨大な力。人の器を遥かに超えた魔力。
賢者のお付きの魔術師たちが魔力を溜め始める。
それを強い視線で止めたのは――老人の眼光。
スッと上げた手でお付きたちを下がらせ。
皮肉とも嫌味とも違う不思議な声で老人は言った。
「ケトス様がお連れになられたお客人よ。人間を救いし偉大なる錬金術師よ。弟子の不作法をどうかお許しくださいませ。そして――少々、お待ちいただけませぬか。それとも、そなたよりも才なきわたしの言葉では、あの時のように……立ち止まってはいただけないのでしょうかな?」
ファリアルの顔が揺らぐ。
心を突くような懐かしい声が胸を伝ったのだ。
「その声、その言い回しは……まさか」
「ケトス様からその名を聞いた時は、もしやと思った。あり得ぬと思いながらも、どこかでそうであってほしいと思っておった」
老人は老いた細い腕を伸ばし。
宮殿の外に佇む大樹を背景に、鼻梁に昏い翳を落とす男、ファリアルに向かい――唇を震わせた。
「おかえりなさいませ、我らはあなたのお帰りを待ち望んでいた。贖罪と後悔を胸に、我らはただ長い時を待ち続けておりました。ああ、それがようやく……この日を迎えることができた。英雄よ、愚かなる我ら人間に血染めと陥れられた……真の英雄よ。おかえりなさいませ、よくぞ……よくぞ、お戻りくださいました」
ファリアルの心が、再び、微かに揺らいだ。
確信をもった老人の瞳。擦れていたが、聞きなれた声。このまっすぐな瞳の輝きには覚えがあった。
老人は――。
数多くの弟子を持ち、皇帝の付き人となりこの西帝国を支え続けた賢者は――既に国の多くを預かっているその手を震わせ。
こう言った。
「……生きておったのだな、ファリアル。我が友よ」
と――。
老人は、あの時キツネが願った姿を模倣するかのように、頭を垂れて、英雄の帰りを歓喜していた。
錬金術師と賢者。
人としての器の限界を超えた二人の男。
その、再会は突然だった――。
西帝国の廊下に佇んでいるうちの一人は……かつて英雄と呼ばれた男ファリアル。
そして。
もう一人は……賢者と呼ばれる老人。
治安も安定し、人々に活気が戻り始めた西帝国の実質的な大臣職。皇帝ピサロに次ぐ権力を預かる、穏やかだが老獪な男だった。
最後に二人が顔を合わせたのは、いつだったのだろう。
それは既に遠き記憶の彼方。
掴もうと手を伸ばしても崩れて消えてしまうほど昔の記憶。
揺らぐ瞳に動揺するファリアルの脳裏に、捨て去った筈の過去が過る。
血染めだった時の記憶だ。
◇
時代は戦乱。人と魔との戦い。
その戦禍の口火を切ったのは、人間による弱小種族への虐殺が原因だと言われているが――実際はどうだったのだろうか。
少なくともファリアルが気付いた時には既に人間と魔族の戦いは、もはや戦争と呼べる規模にまで膨らんでいた。
人々を守る力があったのなら、自らが動かなければならないだろう。
面倒だが、仕方がない。
自分にはその力があったのだから。
その信念が彼の全てを崩壊させた。
人々を守るために行った非道が恐怖を買い、命を救うための手段が反感を買ったのだ。
天才ゆえに彼は、人間として生きることが苦手だったのだろう。
それでも彼はあの戦争を生きた。
それが――彼を疲れさせ、これほどまでに心を凍らせてしまった。
凍った心は更に彼を不器用にさせ、戦争が終わると名声はすぐに悪名となった。
彼は敵を殺すためには――今、生きている味方を生存させるためには味方の死すらも利用した。
それは何も知らないものにとっては……ただの殺戮。
戦闘狂。残酷な狂人の姿として映ったのだろう。
彼は勝ちすぎたのだ。
負けることのできないその才覚こそが、全ての不幸の始まりだったのかもしれない。
英雄としての称賛や歓迎ではなく、化け物としての誹りや迫害を受ける結果となった事に――ファリアルは疲れ切っていた。
彼は疲れていた。
疲れて、疲れて……泣くことすら出来ぬほどに疲れ切っていた。
人間を諦めたのは、いつ頃だっただろうか。
何故こんなモノを、心を擦り切らせてまで守っていたのだろうか。
そんな疑問を浮かべていたある日、彼は気が付いた。
自分の中に、憎悪の魔性たる魔力持つ感情が育っていたことに……。
彼はもはや、人でありながら魔性になりつつあったのだ。
純粋な人間ではなくなっていた。
いつの間にか人を投げ捨てていた。
それは悲しい事なのだろうと理屈では分かっていたが、彼はもはやその憎悪を受け入れていた。
妙な納得があったのだ。
やはり自分は人間として生きることが苦手だったのだ――と。
もはや遠い昔になってしまった彼の記憶には、既にその時、その瞬間の嘆きは残されていない。ただ人間を諦めることに、それほどの時間は必要としなかった事だけは、深く、彼の心に刻まれている。
けれど、それも全て昔の話だ。
やがて戦争は終わった。
魔王が眠りにつき、勇者もまた大いなる闇に敗れ元の世界へと帰還した。
人としての器を捨てたファリアルにもようやく平穏が訪れた。
そう。
訪れるはずだったのだ――。
身も心も削ったあの戦争の果てに掴んだものは、何だったのか。
ファリアルは考える。
血に染まった手を眺めながら、敵を屠ったあの日々。
百を救うために、千のタブーさえ厭わぬ男は禁忌を冒し続けた。
後ろを振り返らず。
人々の助けを求める声を叶えるため。
男は勝利を掴み続けた。
戦いが終わり。
やっと休める。不器用だった自分にも役目があった。
少なくとも人間として役に立ったのだろう。
そう思い、冷たい美貌で振り返ったその道には――。
何も残されてはいなかった。
ただ血染めの名だけが残った。
待つ者は誰もいなかった。心を預けていた仲間といえる人間は、既にあの戦いで死んでいた。その遺骸すらも、詫びながら勝利のために活用した。
勝利した。勝利した。勝利した。
勝利し続けた。
全ては人を、人間を救うためだったのに。
人間は勝者を拒絶した。
目線を向けることなく、無かったものとして扱った。
そう。
血に染まった腕で掴めるモノなど、なにも……そこにはなかったのだ。
戦後の記憶は悲惨だった。
人間嫌いで、他人の顔を記憶するのが苦手だったファリアルはますます人の顔が覚えられなくなった。
それは戦後の昏い道を歩む度に、酷くなった。
世界が平穏で幸せになっていく。
それと反比例するように男は不幸になっていった。
平和が進む度に、血染めの手を嘲笑する声が大きくなっていたからだ。
少し前までは頭を垂れて縋ったその貌が、まるで邪魔者を見るように蔑んだ瞳を向けるのである。
ファリアルが凍らせていた心が死んだことを自覚したのは、かつて出逢った人々の顔が、完全に思い出せなくなった時だったのだろう。
心を削る度に、思い出の中から人の顔が崩れていくのだ。
罵倒や陰口を浴びる度に、まるで指で千切られるように……思い出の頁が細かく千切れて消えていくのである
楽しい思い出もあった。
淡い恋すらもあった。
それらは人の醜さを体現する度に、霧のように擦れて――いつの日にか、思い出せなくなっていた。
ファリアルにとって人間は、怪物になった。
救いの手だけを求める歪で狡猾な化け物になったのだ。
人間を捨ててよかった。
いつしか彼はそう思うようにもなっていた。
人間というだけで吐き気を催すほどに――人という生物を忌諱していたのだ。
もはや、純粋な人間ではなく魔性となりかけていた彼は人を捨てかけていた。だからだろう、人間の顔など覚えていたくなどなかったのだ。
それは部屋の中に侵入した害虫の個体を一々把握しないのと同じ感覚。
人に捨てられ人を捨てたファリアル。彼にとって、何も言わずに、何も聞かずに自分を受け入れてくれた集落の人間以外は、人ではなかったのである。
彼はもはや人間という群れを、群れではなく敵と認識していたのだろう。
長い時の中で記憶した人間の顔など、とっくの昔に闇の中に消えていた。
その筈だったのに。
彼にはこの老人に確かな見覚えがあった。
少なくとも彼の人生の一時に、顔と声を刻んだ男である。
戦後の僅かな時、ファリアルが帝国に仕えていたあの日。
血染めと謗られ人間の世界での居場所を失っていたあの時。帝国の人間でありながらも唯一、ファリアルを信じ、擁護をしてくれた魔術師の若者だった。
あの日。
シグルデンの調査を目的に出立したファリアルを止めようとしてくれたのも、彼だけだった。
死にに行くつもりなのだろう――と。
当時、若者だった賢者はファリアルの心を把握していたのである。
◇
記憶の彼方から帰ってきた男は、目の前の老人を見た。