エピローグ【SIDE:ファリアル】 ~血染めのファリアル編~ 1/4
かつて人間界には二人の英雄がいた。
一人は誰もが知っている輝かしき存在。
魔王との長き戦いの果て。
魔を統べる者の永き眠りに成功した転生者であり――魔王の腹心、荒れ狂う混沌殺戮の魔猫ケトスの報復により殺された伝説の勇者だろう。
そして、その裏の歴史。
仲間である人間たちからも畏れられた昏き存在がいた。
勝つためにはどんな手段すらも是とする常勝無敗の魔術師。
血染めのファリアル。
救った民から血染めと蔑まれ、居場所を追われ……人間の地を去った稀代の錬金術師である。
かつて英雄であった彼が西帝国の宮殿に足を踏み入れたのは、いったい、何十年ぶりだったのだろうか。
もはや本人すらも覚えていない程の、長い時が過ぎていた。
恩人である大魔帝に献上する焼豚を調理しようと、厨房を借りるべく歩くファリアル。
彼の目に映るのは、遠い過去だ。
自らがこの国を守るために設計した宮殿内部。
当時の最先端だった錬金技術で作られた宮殿はいまだ健在。
魔術防御と運気維持を重視した城作り。
設営の際につけてしまった壁の傷さえも、当時のままだった。
ファリアルは思わずその傷を指でなぞっていた。
意味などない。
本当にただの気まぐれだった。
少し意識が移っていた間に、誰かがその姿に目をやっていた。
宮殿に使えるおっとりとした女性修道士だった。
修道士は不思議な表情で壁の傷をなぞる客人に向かい――声をかけた。
「気になりますか? この壁が」
声を掛けられたファリアルは思わず身構えたが。
すぐにその警戒を解いた。
相手は女性だ、失礼がないようにちょっとした笑みを作って応じる。
「え、ええ……まあ。何故このように目立つ傷がそのままなのか。そうですね、興味がないと言えば嘘となってしまいますね」
女性修道士は、きょとんと瞳を動かし、小さな口を動かした。
「あら、そちらでしたの」
「そちらとは?」
「いえ、すみません。あたくしはてっきり、この素晴らしき錬金術で組まれた宮殿の防壁の方に目を奪われているものかと……うふふ、これは失礼。だって魔導を知る者ならば、この錬金術を超える事ができないと分かって――あなたのように呆然としてしまう方が多いので……」
つまり。
ファリアルが編み出した技術から、変わらないまま。
更新されていないのだろう。
それが喜ばしい事なのか、それとも技術の停滞を嘆くべきなのか少し考えたが――彼はすぐに考えることを止めた。
それは深い感傷ではなく、至って単純な理由。
どうでもいい。
そんな冷えた感想が浮かんでいたのである。
彼にとってこの地は既に故郷ではなく、もはや未練などなかったのだ。
そんな彼の冷めた美貌に向かい、女性修道士は思い出したかのように言った。
「えーと、そうそう。この傷のことですね、そう……確か……これはどなたの命令だったかは忘れてしまいましたが――そのままにしておく事が命じられているのですよ」
「理解できませんね。この傷は魔術の流れに少々の亀裂を生じさせています、この僅かな一点から隙が生まれる可能性もあるでしょうに。そんな下らない命を出したのはきっと、愚かな方なのでしょう」
男の口からは、戦術を何よりも尊ぶ血染めとしての声が零れていた。
「あら、風情があっていいじゃありませんか。どなたかの命令なのかは……ちょっと分かりませんが、あまり大きな声で言わない方が良いですよ? きっとこの国の偉い方なのでしょうし。と、言ってもあたくしも内戦後に教会から派遣された聖職者なので、この傷の話はほとんど存じ上げませんけれど、嫌いじゃありませんよ」
くすりと微笑む女性にファリアルは問う。
「内戦?」
「あらご存じないのですか。ふふふ、聞いたら驚きますよ。実はつい最近、この大陸に伝説の大魔獣、大魔帝ケトス様がご降臨なされたのですよ? そしてこの国を腐らせていた聖職者を窘め、暗躍せし魔竜を滅ぼし……この国の民に力をお授けになられたのです。伝説の竜の肉を人間にさえ分け与え、平等と平和を忘れるな――と、言葉ではなく行動で示した。そんな神話の時代みたいな出来事が実際に、この地で起きたのです」
男は微笑していた。
あの方は、シグルデンの集落だけでなく西帝国も既に一度救っていたのか、と。
その気まぐれな奇跡を想像し、心を動かしていたのだ。
「えーと、それでお客様。大変申し訳ないのですが、その骨兜だけは外していただけませんか。この地は既に大魔帝ケトス様を神と仰ぐ者もいるほどに信仰の自由があるのですが、一応、大いなる光を信仰していることになっておりますので――骨装備のまま歩かれるのは、ちょっと困ってしまいますわ」
「これは失礼。気付きませんで」
「いえ、文化の違いですから仕方ありませんわ。あたくしも実は文化の違いと知らずにお酒を嗜んでいたら怒られてしまいましたし。うふふ」
それでは、よろしくお願いしますねと深い礼を残し女性修道士は去っていく。
本題はこの忠告だったのだろう。
確かに変なトラブルに巻き込まれる前に外しておくべきか。
しかし、彼は思った。
禁止されている酒を嗜むのは文化とは違うだろう――とファリアルは平和になりつつある西帝国の近況を感じながら、魔術を使いだす。
牡鹿の骨兜を外し亜空間に収納する事にしたのだ。
そして。
そのまま手を翳し。
六重の魔法陣を展開する。
西帝国の宮殿の壁に、人の器を超えた魔術波動が伝導する。
「聞くがいい、命なき魔導の土塊よ。我はファリアル。帰還せし汝らの創成者にして、汝らの守りを更新する者也や――。防壁更新!」
かつての拙い技術が気に入らずに、今の技術で勝手に宮殿の守りを何世代も先へと更新させたのだ。
本来なら喜ばしい事なのだろうが、普通ならば許可を得るはずだ。
しかし、である。
とある黒猫と似ているのか。
残念ながら彼は普通ではなかったのである。
宮殿全体の魔術防壁が更新されていく。
強固な魔術的結界陣。
それは魔導を少しでも齧った者ならば、誰の目から見てもすぐに理解できただろう。
天才たる何者かが、西帝国のために魔術を使ったのだと。
男はすぐにその場を離れた。
技術は更新させたが、それを説明するのは面倒で責任を放棄したのだ。
あまりにも突然な行動に、周囲の目が少し動揺に蠢くが。
構わずに男は我が道を進む。
そう。
少し彼は人より変わっていた。
彼と知り合った黒猫の大魔族に言わせれば、相変わらず君は不器用だねぇ、ぷぷぷ♪ と笑うのだろうが。
血染めの名を知る者からすれば彼の変わった行動は、とても奇異なモノとして映ったのだろう。
あの集落で身を落ち着けるまでの彼は――酷く孤独だったと言えるかもしれない。
もっとも、平和となった今の世で彼の行動を蔑む者はあまりいないようだった。
視線から逃れる意味もあった牡鹿の骨兜を外したファリアルは、しばし、新鮮な空気を取り込み息を吐く。
鼻梁に翳を与えていた兜の下から出てきた武骨な男の表情は、薄い。
全てを拒絶するような冷たさが張り付いていた。
けれど、端整だ。
芸術家が作り出した氷の彫刻。
美の女神が生み出した英雄譚のための美貌、そう言われたら信じてしまうほど、恐ろしく整っていたのである。
神は彼に二物も三物も与えたが、ただ一つ……彼には与えられなかったものがあった。
それを言葉にするならばおそらくは――常識。
彼は類まれな頭脳と魔力と美貌の持ち主であったが、常人の考えが理解できないという致命的な欠点を抱えていたのである。
何も知らない宮廷の人間がすれ違うたびに、振り返る。
男も女も、子供も老人も……皆が目を奪われた。
血染めのファリアル。
その名は既に、人々の日常から消えかけているのだろう。
彼を見る瞳に、恐怖はない。
まだこの国に仕えていた時は皆、怯えた表情で目線を逸らしていたのに。
ファリアルは微かに照る日差しに釣られ、宮廷の外を見た。
廊下の空気孔。
悪い魔力と負の運気を逃がすために設計した窓だった。
外界から覗く日差しが眩しくて――彼は眉を顰める。
大樹が見えた。
風に揺れて、ざざざざぁぁぁっと音を立てている。
彼が追放に近い形でシグルデンの調査を命じられた時、あの樹はまだ若木だった。
時の流れを感じさせる大樹の揺らぎ、響く風の音が、ファリアルの感傷を誘う。
長く生きた。
本当に長く、生きてきた。
男は既に歴史の中の登場人物。童話の中に描かれるフィクションに近い存在となっていたのだろう。
しかし。
そんな彼にも一つ困った事態が起こっていた。
クールな微笑。
冷徹な鼻梁に僅かに浮かぶ翳り。
貴族さえも霞んでしまう覇気が――彼の顔に滲んでいた。
緊急事態である。
内部の施設が変わっていて、道が分からない。つまり――迷ったのだ。
それは少し間抜けな話でもあった。
だからこそすぐに言い出せなかったのだろう。
彼はゆっくりと周囲を見る。
こんな時に声をかけるべきなのは……老人だ。
◇
彼はカツリ、カツリ……とゆったりと優雅に歩く。
ターゲットを探しているのである。
何も知らないものから見れば午後のひと時の静かな遊覧。そう思えるほどに、彼の顔は落ち着いていて……道に迷ったなどという間抜けな動揺を覗かせてはいなかった。
若い者だと、青臭く淡い妙なトラブルに発展する可能性もある。質問があるのならば、まずは子供か老人を選ぶ。それは彼が普通の人としてあの集落で生きてきた時に掴んだ、処世術だった。
探るファリアルの目にとまったのは――。
静かながらも膨大な魔力を内に秘めた理知的な老人――賢者のクラスにある人間。
賢者の老人は壁に手を当て、ぽつりと呟く。
「これは――なんとも素晴らしい……しかし、いったい、なぜ今更に動き出した」
賢者は突如更新された魔術防壁の調査をしていたのだろう。
その瞳は魔術構成を読み取りながら、驚嘆の色を覗かせていた。
ファリアルは、ほぅと珍しい息を吐く。
老人が手にする書に記す走り書き。
そこには、先ほどかけた防壁更新魔術の流れを正確に捉え、記述している痕跡が見てとれたからである。
賢者の筋張った小さき指が壁の魔力を掴んで、瞳を揺らす。
「魔力の流れを固定化し、空間ごと保存しておるのか。ああ、なるほど……たしかに空間を固定すれば魔力は強固な守りと化す――これは、この技術は……もしや」
それも正解だ。
よほど熟練した魔術師なのだろうとファリアルは感じていた。
自分がいなくなった後の西帝国にも、それなりの知恵者が残っていたのだと、感心した。
だから興味が湧いた。
だから声を掛けようと思った。
魔導を知る者としての親近感があった。
話しかけやすいと判断した。
そう。
彼にしては珍しく。
自分から知らない他人へと、しかもムシケラとすら思っていた人間に声をかけたいと思ったのだ。
それも、奇跡の一種だったのだろうか。
太陽の光が――ファリアルの顔を照らす。
牡鹿の骨兜がない今、彼の素顔は晒されている。
老人が、気配に振り向き――ゆったりと男の顔を見た。
目が合った。
なぜだろうか。
ファリアルの心は微かに動いていた。
だから彼は。
何も知らずに――賢者に声をかけた。
「調査中に失礼、すこし宜しいでしょうか?」
これが――、数多くの奇跡。
数多くの運命を捻じ曲げた先に与えられた……本来ならあり得ぬ機会だと知らずに。
賢者と錬金術師。
互いに別れて時代は進み。
彼らの物語は今、ようやく――同じ道を辿るように繋がったのだ。
それはまるで――気まぐれな猫が与えた悪戯の様な奇跡だった。