免疫力と恋愛小説
泉下の遠藤先生、うろ覚えで書いてすみません。
遠藤周作氏のエッセーに、免疫力にプラスの映画とマイナスの映画について書かれていたものがあったように思う。仮に記憶が正しければ、前者がラブコメ、後者が流血もの(ホラーとか殺人とか)だったような気がする。読んだのも中学時代だったか高校時代だったか、ともかく相当前で、今となっては記憶も曖昧、典拠も示せなければ内容の正確性も保証できないのだが。
「どうせ読むなら体にいいもの(?)を」と思い、当時、意識的に恋愛小説にも「チャレンジ」したことがあった。映画を見る趣味が元々なかった一方、文章を読むのは苦にならなかった(もっと言ってしまえば、「授業についていけない」ために活字に逃げ込んでいた)ので、映画を小説に置き換えてみたのである。
しかしまったく性に合わなかった。自分には類する経験はもちろん、はるかに淡い経験すら皆無なのに、読んでいて気恥ずかしくなってしまい、先を追うのがしんどくなってしまったのだ。
そのまま恋愛小説からは遠のき、そうこうしているうちに忙しくなって、専門書のような「必要な文章」しかほぼ読まなくなっていった。たまに無関係な本を新たに購うとしても、東海林さだお氏の連載を単行本化したもののように、気楽なエッセーを選んでいた。小説を読むとしたら、それこそ中学時代などに好んで読んだものを再読するだけで、実家の蔵書のなかで「既読」の書物が増えることはとんとなかった。文章の「偏食」が進んでいった。
最近、仕事の行き詰まりで何もしたくなかったから、というはなはだ後ろ向きな動機から、「なろう」の小説を恋愛ものを含めていくつか読んでみた。購う本に恋愛小説が入ったことは一度たりともなかったので、まあ気まぐれの部類だった。
しかし昔とは異なり、恋愛小説を読んでも、もはや気恥ずかしい想いはしなくなっていた。自分の恋愛経験値には当時と今とでまったく変化はないので、経験や慣れが心境を変えたわけではない。それでも、小説を読むとともに、登場人物に対して「気恥ずかしさ」ではなく「微笑ましさ」や「応援したい気持ち」が芽生えてくるようになったのだ。
振り返ってみると、気恥ずかしかったのには「それを(文章を通して)人目にさらすのはどうなんだ」という、非モテの言いがかりめいたものがあったのだが、単にそれだけではなく「自分がもし当事者だったら/当事者になれることがあったとしたら」という想像がそこには働いていたような気がする。しかし今では、加齢と世間的な立場・状況の変化に伴い、「自分はもはや恋愛の当事者になることは終生あり得ない」と覚る一方で、「若い人には若いうちに体験できるならして欲しい」と思うようになった。小説の登場人物はもちろん架空のものであるが、「応援したい気持ち」というのも、小説に対する「傍観者としての感情移入」ではあるのだろう。
不惑を超えて、恋愛小説を忌避する必要はもはやなくなったようだ。もちろん、「どうせ読むなら気持ちのいいものを」とは思うので、読了時に暖かな気持ちになるものを選びたい。ただ、恋愛小説が本来生じさせる(と推測される)はらはらどきどきとは明らかに異質なこのような気持ちが、果たして免疫力に効くのかどうか、答えは未だ持ち合わせていない。
<以下追記>
さすがに典拠が曖昧なのはまずいような気がしたので調べた。
初出は産経新聞のコラムで、タイトルはどうやら「微妙な癌告知」だった模様(単行本の項にはそのタイトルが記されている)。
単行本としては文藝春秋からハードカバー、文庫で刊行されており、手元の文庫版(遠藤周作「変るものと変らぬもの」文春文庫、ISBN4-16-712011-9)ではp.289に以下の内容が挙げられている(引用に際し箇条書きに改めた)。
・ホラー映画や暴力映画を観たあとで血液を検査すると免疫機能が観る前より落ちているそうである。
・健康にいい映画はロマンチックなラブ・ストーリーだそうである。
遠藤氏はこの内容について「面白い話をきいた」としている。
読むのも書くのも「仕事したくない」現実逃避なので....。
読み手に配慮した文章になっていないので、感想執筆者の「得体の知れなさ」を緩和するのではなく、むしろ拡大してしまっているかも。