屍虫殲滅作戦
通りを歩いていた母娘が、煙草を手にした背広の男とすれ違う。
糞尿が焦げるような悪臭に顔をしかめ、足早に立ち去ろうとする。
異能にも怪異にも無縁な母娘は、男が脂虫と呼ばれる危険な存在であることなど知る由もない。ただ臭くて不快だから避けた。
それなのに、男は不意にヤニ色の双眸を見開いた。
両手の指からカギ爪がのびる。
脂虫――否、今や変化した屍虫は、煙草が癒着した口を広げて雄叫びをあげ、無防備な母娘を背後から襲う。
母娘は思わず振り返る。
ヤニにまみれた怪異のカギ爪が、娘をかばった母親の肩口をえぐる。
鮮血。
悲鳴。
屍虫はヤニで溶けかけた口元に嗜虐的な笑みを浮かべる。
そして血まみれの母親と、恐怖で動けない娘にカギ爪を振り上げる。
だが次の瞬間、屍虫の顔面が爆ぜた。
正確には口腔と鼻孔、耳と目から爆風が吹きだした。
「はやく逃げて!」
ビルの影から声がかけられた。
そこには幼い少女――執行人エリコがいた。
母親は半身を血に染めてなお娘をかばって立ち上がろうとする。
エリコが男に向かって聖句を紡ぐと、男の目鼻が再び、爆ぜる。
だが男は眼鼻と口から煙を吹きながら、それでも平然とした顔でエリコに向き直る。
屍虫に、【断罪発破】を模した彼女の魔法は効かない。
理性と引き換えに強化された体組織が爆発によるダメージを抑えてしまうためだ。
エリコはビルの隙間に逃げこもうとする。
だが焦りのためか、空き缶を踏んで転倒する。
背後の雄叫びに、倒れこんだまま振り返る。
屍虫が、新たな目標に向かってカギ爪を振りかざしていた。
エリコはなす術もなくカギ爪を見つめ――
――不意に男の身体が持ち上げられた。
男の背後には2メートルを超える巨大な尼僧がいた。
そしてヤニ臭い顔面を片手でつかんで持ち上げていた。
男はカギ爪を振り回してもがくが、袈裟を着こんだ巨躯はびくともしない。
垂れ幕のように巨大な袈裟の袖からのびる屈強な指に力がこもる。
すると屍虫の顔面は腐った果実のように潰れてヤニ色の体液をまき散らした。
支部の受付で陽介に見せた彼女の筋肉は、屍虫など相手にならぬほど強かった。
「エリコ、独断専行は厳禁だぞ!」
「……ごめんなさい」
「だが、よくやった!」
大女の口元が笑みの形に歪む。
「さっきの親子は無事っす! 医療機関に連絡しました!」
大女の背後から、屈強な【虎爪気功】が走り来る。
高枝切りバサミを携えた取り巻きが並ぶ。
フィクサーの命により、ビル周辺には魔道士を中核とした遊撃隊が配置されていた。
彼らは周辺の喫煙者を監視し、儀式の影響で屍虫と化したら迅速かつ秘密裏に排除することで一般市民への被害を抑えるよう厳命を受けていた。
まるで、ひとりのヒーローの代役を100人の兵士で担うように。
そして大女の袈裟の胸元の通信機から、殲滅の合図。
儀式による影響とおぼしき屍虫への進行が確認された場合、周辺の脂虫――人間の社会に紛れた不快で危険な怪異を殲滅する手筈になっていた。
「よし、これより我々は殲滅任務に移行する! お前たちも続け!」
大女は手近な怪異に襲いかかる。
魔法で強化した鉄拳で怪異の顔面を潰しながら、叫ぶ。
「「「イエス、尊師!」」」
リーダーは民家の庭先で煙草を取り出した脂虫を見つけ、大女には劣るものの屈強な肉体からパンチを繰り出して叩きのめす。
取り巻きたちが高枝切りバサミを振るい、薄汚い怪異の全身を斬り刻む。
一方、いくらか離れたコンビニでは、くわえ煙草の集団が店員を取り囲んでいた。
「この店の従業員は客に文句をつけるのか!? オラ! お客様は神様だぞ!」
集団のうち1匹が、店員の胸ぐらをつかむ。
だが次の瞬間、空気からにじみ出るように女があらわれた。
半裸のロシア美女だ。
以前に陽介の前にあらわれたときと同じように、全身に巻きつけたベルトに提げられた無数のドリル刃だけが、白い裸体の大事な部分を絶妙に隠している。
執行人プロートニクは手にしたチェーンソーを無造作に振るう。
回転する鋭い刃が、店員をつかんでいた脂虫の腕を切断する。
脂虫はヤニ色の飛沫を振りまきながら、駐車場をのたうち回って泣き叫ぶ。
他の脂虫たちは、突然の乱入者に悲鳴をあげて逃げまどう。
そんな彼らの背後に、全身タイツに覆面姿の【偏光隠蔽】たちがあらわれた。
ニンジャは手にした日本刀で、脂虫たちをめった切りにする。
実際のところ、怪異との戦闘で、異能力者は有効な戦力とは見なされていなかった。
彼らの異能力が身体強化や近接能力の強化に限定されるためだ。
彼らは排除が必要な脅威との戦闘では役に立たない。
だから【機関】にとっては多種の魔法を操る魔道士だけが戦力だ。
例外は銃の使用を許可された一部の精鋭くらいか。
異能力者や、ましてや武道者などは魔道士の魔法によって戦力と化す触媒か、あるいは捨て駒としか見なされていない。
その例外が、今回の作戦である。
格上には絶対に負けるという異能力者の欠点は、市民に紛れた脂虫を奇襲する妨げにはならない。
脂虫の身体能力は非武装の人間のそれと変わらないからだ。
進行する前に排除するのなら異能力者でも十分だ。
そんな執行人の奇襲を逃れた1匹の脂虫が、バイクにまたがって逃げようとする。
だがプロートニクは超能力で回転ノコギリを飛ばす。
回転する鋭いノコギリ刃がバイクのガソリンタンクを削って切断する。
煙草の火がガソリンに引火して大爆発をおこす。
宙に投げだされた脂虫を、空中で回転ノコギリが受け止める。
悪臭を放つ害虫は空中で解体された。
「ありがとうございました!」
パニックに陥った店員が営業スマイルで叫んだ。
その側で、別の脂虫の指先からカギ爪が生える。
「ひぃっ! 進行したぞ!!」
ニンジャたちは立場が逆転して怖気づく。
だが、その目前で、屍虫の四肢が大の字に広げられた。
プロートニクの超能力による拘束だ。
もがく怪異の背後に、プロートニクは瞬間移動でまわりこむ。
そして耳の横に、刃の長い電動ドリルの先端を押し当てる。
哄笑、モーター音。悲鳴。
ヤニ色に濁った体液が飛び散り、頭蓋骨にゆっくり穴が開いていく。
側頭部を穴だらけにした怪異がボロ雑巾のように打ち捨てられた後に、プロートニクは虚空からウォッカの瓶を取り出し、あおる。
その口元が、凄惨な狩りの空気にそぐわぬ寂しげな笑みの形に歪む。
半分ほどに減ったウォッカを、側に現れた屍虫めがけて投げる。
瓶は爆ぜて、薄汚い怪異の上半身を吹き飛ばす。
超能力を使った即席の火炎瓶だ。
「……スティール、いっしょに善いことをするデス」
次いでプロートニクは、ベルトに提げられた得物を手に取る。
形も大きさも様々なドリル刃と混じってひとつだけ提げられた回転刃。
それは【装甲硬化】が使う電動ハンドミキサーだ。
念をこらすと、手の中のミキサーが消える。
そして向かいの民家の庭先で煙草を取り出した中年男の目の前に出現する。
ミキサーは男に襲いかかり、自らの先端を脂虫の口腔にねじこむ。
術者の哄笑とともに、甲高いモーター音をたてて金属の刃が回転する。
ミキサーは脂虫の歯を砕き、舌を、唇を斬り刻み、ヤニで歪んだ頭部を内側からヤニ色のミンチに変える。
そこからいくばかか離れた路上では、歩き煙草を囲むように野球のユニフォームを着こんだ少年たちが出現した。
金属バットを一斉に振り上げる。
そして不潔なシャツを着こんだくわえ煙草の脳天めがけて振り下ろす。
チーム【機関】の球児たちは全員がバッターだ。
透明化の魔法を操るマネージャーの庇護の元、炎や稲妻に包まれた金属バットが怪異の脳天をかち割る。会心のファインプレー!!
そして臨時のマネージャーを務めるSランクは選手たちにかけた透明化の魔法を維持しながら、進行した屍虫をかまいたちの魔法で斬り刻み、火矢の魔法で焼き払う。
大通りでは黒づくめの双剣使いが脂虫の首をはね、屍虫の胴を貫いていた。
あるいは禿げ上がった頭頂と切りそろえられた髭をした小男が、1匹の脂虫を睨む。
すると脂虫は煙草をくわえたまま車道に跳び出し、通りがかった軽四輪に轢かれる。
魔法によって発狂させられたのだ。
脂虫は身勝手で意志薄弱で、暗示や洗脳に影響されやすい。……ソードのように。
その特徴を逆手にとって、普段は支部で条件付けに専念している教導担当官ザビエルも殲滅作戦に参加してくれていた。
まるで自身がいつか垣間見た、善き魂への手向けのように。
だが脂虫を轢いた軽四輪に乗っていたのも正気を失った脂虫だった。
ヤニ臭い鉄塊は耳障りなエンジン音をあげながら、双剣使いに襲いかかる。
そんな軽四輪に、何処からか飛来したロケット弾が命中して粉砕した。
執行人たちは総力を合わせ、街中の脂虫を駆逐してくれていた。
まるで失われた魂に報いようとするように。
道路の先で、回転ノコギリが自転車喫煙の両腕を切り落とす。
腕を失った脂虫はヤニ色の汚物をまき散らしながら自転車ごと壁に激突し、そのまま地面に崩れ落ちる。
その脳天に、くぐもった銃声とともに風穴が開いた。
止めを刺された怪異の前に、女と少女が立っていた。
冷たい雰囲気の女は黒いスーツを着こみ、サングラスで目元を隠している。
そして減音器つきの拳銃をゆっくりと下ろす。
支部で執行人を指揮しているはずのフィクサーだ。
「何もフィクサー自らが前線に立つ必要はないんじゃいかしら。危険だわ」
側にいた巫女服の少女が声をかける。
ふんわりボブカットの、おっとりした雰囲気の少女だ。
彼女は諜報部に属する神術士。
神道を母体とし、森羅万象に潜む魔力を用いて魔法を使う魔法使いだ。
天地に満ちる魔力を操るという点では、小夜子の使うナワリ呪術に似ている。
異なるのは神術士が用いる術がナワリより防御寄りなこと。
そして贄を使わぬ代わりに森羅万象と心を通わせる能力に秀でることだ。
「動員できる執行人に対して敵の数が多すぎる。わたしでも賑やかしくらいにはなる」
巫女服の言葉に、フィクサーは自嘲気味に答える。
「それに危険を部下だけに押しつけるリーダーが、如何に愚かかを知ったばかりだ」
「自身の危険を顧みないリーダーも同じなんじゃないかしら」
「……そうかもな」
フィクサーは乾いた笑みを浮かべ、サングラスの奥の瞳で空を見やる。
ヒーローになりたかった少年の姿を追い求めるように。
そして、次の目標を探して視線を巡らせる。
その途端、
「大屍虫!?」
フィクサーを突き飛ばして巫女服が地を転がった。
その顔面めがけて、背広姿の大屍虫がカギ爪を振り下ろす。
だが巫女服は、とっさに魔法を行使し、不可視の障壁で受け止める。
奇襲を受けた。
そう理解した瞬間、もう1匹の大屍虫がフィクサーめがけて襲いかかっていた。
フィクサーは異能力すら持たないただの人間だ。
怪異に――それも大屍虫に対処する力はない。
巫女服は驚愕に目を見開き――
――次の瞬間、大屍虫の身体が引き裂かれた。
「えっ……?」
巫女服は驚愕する。
塵になって消えゆく怪異の背後に立ち尽くす、ひとりの少女。
戦闘セーラー服を身にまとい、セミロングの頭から猫耳を生やし、手には輝くカギ爪を生やしている。
「デスメーカー……」
フィクサーは安堵するようにひとりごちる。
小夜子はカギ爪を無造作にふるい、もう1匹の首をかき切って巫女服を救う。
怪異は塵と化して消える。
支部最強の一角を担う小夜子にとって、この程度は容易かった。
「あの……ありがとう」
巫女服は小夜子を見つめる。
小夜子も巫女服を見返す。そして、
「……フィクサー。わたし、戦います」
ひとりごちるように、言う。
「そうしないと、陽介君、寂しいままだから。ちゃんと、お別れ、しなきゃ……」
心を決めたような、あるいは思いつめたような、そんな脆くて強い笑みを浮かべる。
「そうか……」
小夜子の瞳に宿るものは決意なのか?
それとも自暴自棄なのか?
フィクサーには判断がつかなかった。
だから執行人を統括する責任者として正しい選択肢を選んだ。
「執行人デスメーカーに命ずる」
氷の女は、魔道士を真正面から見やる。
「先行中の仕事人と共に滓田妖一を排除せよ。その際に全兵装の使用を許可する」
その言葉に、小夜子はこくりとうなずいた。
そんな2人を、巫女服は不安げに見ていた。
彼女は小夜子のことをよく知らない。
人見知りな小夜子は【機関】の他の魔道士とあまり話さなかったからだ。
けど純真で穢れなき神術士の瞳には、小夜子の表情はあまりに張りつめていて、まるで此処ではない何処かを渇望しているように見えていた……。




