表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

第四楽章 地獄の使い魔

 彼は名前を拓也(たくや)という。松風(まつかぜ)高校の二年生で、バスケットボール部に所属している。バスケットボールは、高校に入ってから本格的に始めた。それまでは、特に意識してバスケットボールを行ったことはなかった。

 運動神経は、よいほうだと拓也自身も思っていて、小学校ではかけっこをすれば常に一番、中学校では体育の授業でバスケットやサッカーなどの試合をすれば彼の活躍は他の人間の目を()いた。

 ――当たり前のように感じていた。

 スポーツ万能な自分。

 周囲から突出した自分。

 自分ならば、高校に入ってからも活躍できる。自分の才能は生まれながらのもので、誰も自分を超えられない。みんなが自分を(うらや)んで、みんなが自分を敬ってくれる。バスケットボール部に入ってすぐにエースになれる。

 自分なら、なれる。

 自分なら、できる。

 だって、それが自分だから。

 そんな淡い期待と強い自負を持って、高校に入学してすぐに受けたバスケットボール部への勧誘を、拓也はあっさりと承諾(しょうだく)した。

 ――現実はどうだっただろうか。

 そこは、拓也が思い描いていた世界とは、まるで違っていた。

 拓也のバスケットボールにおける技能は、高校の部活の中では、はっきりと言ってしまえば、中の中。

 つまり、普通だ。

 ごく当たり前のことだが、バスケットボールなどという名の知れた競技を小さい頃からずっと続けているという人間は相当数いるはずだった。中学校ではバスケ部だったとか、試合にはよく出ていましたとか、バスケットの強い中学校の選手でしたとか、小学校のころからずっと続けていますとか、そんな人間はかなりいる。

 対して、今までの拓也はバスケットボールを遊び程度にしかやったことがない。ルールだって、正直なところよくわかっていない。ゴールさえ決めてしまえば、弱そうな奴からボールを奪い取ってもいいのだと、体は勝手にそういう方向に動いていた。

 そんな理屈が、正式な試合の中で通じるはずもない。

 中には拓也のように中学校は違う部活に入っていました、という生徒もいたが、だからといってバスケに関して拓也と同レベルというわけではなかった。

 ――何でついていけるんだよ。

 自慢だった足の速さは、高校レベルでは人並みより少し早い程度でしかなかった。バスケットボール部の中では、真ん中よりも遅いくらいで、そんなに威張れるような速さではない。何よりも、自分よりも足の速い存在がいるということが、拓也にとっては許せることではなかった。

 中には、ドリブルをしているにもかかわらず普段と変わらない走りを見せている奴もいる。ドリブルをしていれば自然と意識がボールのほうへ行くはずなのに、高校に入る前からバスケをよくやっていたという経験者は、そこらへんのボールの扱いには、当然のことだが慣れていた。

 拓也も、ボールを見ないようにドリブルをするようにはしていたが、できる奴にとって、ボールを直接見なくても自由にボールを扱えるのは当たり前らしく、拓也のように、ドリブルをしていると走る速度が遅くなることはほとんどなかった。

 ――何かの間違いだ。

 中学校の頃には、あからさまなフェイントをして、スポーツのできなさそうな、弱い生徒を驚かせていたが、高校のバスケットボール部では、拓也のほうが先輩のフェイントに翻弄(ほんろう)されている。

 走ったり止まったりする、緩急(かんきゅう)の激しい移動に、彼はついていくのがやっとだった。とても試合の主導権を握れる次元ではない。

 加えて、今までに経験したことのないハードな練習メニューに、部活の後半にもなると拓也は完全に息が上がってしまい、練習開始時の単調な準備運動は、拓也の中では苦痛の前兆になっていた。

 ――こんなはずじゃなかった。

 拓也は現実に絶望した。

 こんなはずではなかったのだ。

 すぐにでもバスケットボール部の中でエースの座を取って、周りの生徒たちから、同輩から、先輩から、熱い視線を一身に受ける。

 自分の活躍はすぐに学校中の生徒たちの話題となって、バスケに関係なく自分は(した)われて、みんなから憧れの存在となる。

 そうなるはずだったのだ。

 ――そうなるんじゃないのか。

 自分が想像していた、信じていたものが、(もろ)くも崩れ去っていく。自分の思い描いていた理想と、自分の目の前に与えられた現実のあまりのギャップに、拓也は目眩(めまい)を起こして倒れそうな気持ちになる。

 こんなはずではなかった。

 自分は優れているのだ。才能を持って生まれてきた。生まれたときからそう決まっているはずだ。どんなスポーツであろうと、自分はできていたじゃないか。どんなときでも、自分は誰よりも輝いていたじゃないか。

 おかしい。

 間違っている。

 自分が劣っているはずがない。自分が負けるはずがない。自分より優れている奴なんているはずがない。自分の上をいく人間なんているはずがない。

 いるはずがない。

 いてはいけないんだ。

 ――どうすればいいんだ。

 現実を認められない。

 でも己の優れた技能を他者に示せない。

 同等の立場にいることさえ(あや)うい。

 認められない。自分が下等な存在などと、認めてはいけない。しかし他の部員にそんなことを言ったって、誰が納得するだろうか。昔はできたなどと言ったって、過去の栄光(そんなもの)など幻想に過ぎない。

 今できる奴のほうが重宝されるし、高校の部活の時間の中で実際に成果を果たしているプレーヤーのほうが真実だった。

 自分の目の前に存在している、現実。

 今置かれている、自分の立場。

 拓也に残された道は、チームメイトの足を引っ張らないこと。そうやって自分の存在を繋ぎ止めていた。

 無理に争っても、それはひがみでしかない。無理に張り合っても、あしらわれるだけでしかない。

 ――何でこうなるんだ。

 影のような存在に徹することは、拓也の自尊心を深く(えぐ)った。

 少しでもできる人間なのだということをアピールしたくても、現実の拓也のレベルは平均値。人並みの存在が自己主張しても、高が知れている。結局、周囲からはなめられて、相手にされないのがオチだ。

 最初は自分のプライドを捨てることに拓也は抵抗を感じていたが、月日を()るごとに入部したばかりの一年生の数が次第に減っていき、反比例するように、辞めた生徒たちに対する陰口が広まっていった。

(結局、×××××辞めちまったよな~)

(来たばっかのときは調子乗ったこと言ってたのにな)

(そうそう)

(何つってたっけ?)

(確か、バスケ全然やったことないけど楽勝、みたいなことだっけ?)

(あー、言ってたっけ、そんなこと)

(舐めてんのか、って話だよな)

(練習もすぐサボるしよ)

(消えるべくして消えてくれちゃったし)

(ま、もともとダメダメくんだったってことだな)

 部室に入れば、そんな言葉ばかりが充満している。部活の時間でも、休憩になればそんな話題が当たり前のように持ち上がる。

 その陰口のほとんどが、何の根拠もない、根も葉もない戯言(ざれごと)だということを拓也は知っていた。

 知ってはいたが、それが偽りだと言うことはできなかった。拓也の立場からは、それを否定するだけの発言力が、ない。

 ――これでいいのか。

 なぜなら、周囲の発言を否定すれば、今度は拓也自身が周囲から否定されるからだ。自分のここでの存在が危ういものになってしまう。自分の存在が他人から受け入れられなくなってしまう。

 それは避けなければならない。

 これ以上、拓也自身の存在を悪化させてはいけない。

 もう一つの理由は、他人を(けな)すことに妙な快感があった。

 自己の劣勢(れっせい)隠蔽(いんぺい)して、自己の優越(ゆうえつ)を確立できる。部活の同輩や先輩たちとの会話の中で、辞退した部員たちに対する非難の陰口を言い合っている間、拓也は一種の(ゆが)んだ幸福を感じていた。

 ――あいつがやって来たのは、落ち葉の散る季節だった。

 そう思いながら、拓也は寄りかかっていた椅子から下りた。

「……」

 拓也は自分の部屋の中にいた。そう広くはない一人用の個室。机とベッドだけでも部屋を圧迫するのに、そこにポスターや学校の教科書、高校の制服や普段着などが乱雑に置かれて、さらに部屋のスペースを奪っている。

 拓也は立ち上がって、扉付近にあるスイッチを押して電気を消すと、拓也はそのまま部屋を出た。

 階段を伝って一階に下りて、台所を横切って、拓也は玄関へと向かう。

「どうしたの?こんな夜遅くに」

 拓也の母親が台所から顔を出して拓也に訊いた。

 拓也の家ではすでに夕食を終えていて、母親はちょうど明日の朝食の下ごしらえのために台所に残っていた。

 拓也も、普段ならば居間でテレビをつけて適当に面白そうな番組を見ているはずなのだが、今日に限って、夕食と入浴を済ませるとすぐに自室にこもってしまっていた。

 そんな普段と変わった様子の拓也に、拓也の母親は少しばかりの興味を抱いていた。

「ちょっとランニング」

 拓也は靴を履きながら答えた。

 母親は軽く驚く。

「あら、珍しい。今までそんなこと一度もなかったのに」

「…………」

 拓也はつま先で二、三度玄関のタイルを蹴って、靴を足に被せる。

「そのやる気を勉強のほうに向けてくれればいいのに」

 そんな通例的な言葉(セリフ)を言う母。

「…………」

 拓也は振り向かず、玄関のドアを押し開ける。

「あんまり遅くならないようにね」

 拓也はそれには答えず外へと出た。

 ――ガチャ!

 玄関の閉まる音を聞きながら、拓也は夜の道の上を歩いた。すっかり暗くなった道路には、等間隔に街灯が並んで、暗い道を明るく照らしている。

 外の空気は、思ったよりも冷たくなくて、(ほの)かな暖かみが、夕飯を終えて火照(ほて)った肌に調度いい。風が吹いていればもっといいのにと拓也は思った。

「……」

 人気はなかった。

 規則的な生活を送っている人間ならばあと少しで眠りにつくであろう今の時間帯では、さすがに夜道を出歩く人はいないらしい。

 道を走る車の姿すらない、寂しい夜。

 静かな住宅地では当然のことだ。

「……」

 拓也は川沿いの道路を走ることに決めた。そこは多くの人が散歩やランニングのコースとして利用していた。

 拓也は今までにその場所を利用したことがなかったが、その場所以外に走りやすい場所を知らなかったのでとりあえずそこまで行ってみることにした。

 そこまで歩いて、その途中の割と大きな道路に出る。やはりそこにも人通りはない。車の数もあまりなく、やって来たとしても一台一台が個人的に通るくらいで連なるほどの頻度はなかった。

 ――ピーポーピーポー…………。

 そこを一台の救急車が走って行った。



 ――ピーポーピーポォ…………。

 救急車のサイレンが遠くで聞こえた。

「……」

 倉橋(くらはし)はその音に気付いて耳を傾ける。

 遠く、意識しなければ聞こえないくらいの遠くで、そしてここからさらに遠ざかっていく。サイレンの音は次第に小さくなり、その音はすぐにほとんど聞こえなくなった。

それ以外には何も聞こえない。

静寂だけがそこにあった。

 夜の学校は静かだった。膨大な場所が広がっているのに、そこには誰もいない。信号機が設けられていても、夜の学校の前を歩く人間は滅多にいなくて、明かりの少ない道の上には夜の闇の部分のほうが濃い。

 呑み込まれそうな暗黒。

 静寂では安易すぎる無。

「……」

 倉橋の耳に人の声が飛び込んできた。

「テメー!」

 雨宮(あめみや)が倉橋に向かって怒鳴った。

 倉橋は振り向いて雨宮を見る。

「テメー。俺の獲物、横取りしてんじゃねーよ!」

 雨宮の顔は怒気に染まっていた。

 倉橋は素っ気なく答える。

「お前がもたもたしているからだ」

 雨宮はつかつかと倉橋に歩み寄る。

「俺の獲物だ。テメーにゃ関係ね―だろ!」

MASKS(マスクス)の使命は迅速なるフラスト抹消。俺はその通りに動いただけだ」

 雨宮はわざとらしく顔を背ける。

「けっ、だからテメーなんざと組むのは嫌だったんだ」

「それは俺も同じことだ。貴様などの尻拭(しりぬぐ)いをするのはな」

 雨宮は歩みを止めない。

「だったら来んじゃねーよっ。目障(めざわ)りなんだよ!」

「上からの命令だ。俺とて貴様なんぞの傍にいるのは耐え(がた)い苦痛だ」

 雨宮は足を止める。雨宮と倉橋の距離は、もう一メートルもない。

「なんだと」

「なんだ」

 二人は真っ向から睨み合う。

 何も言わない。

 ただ睨み合うだけ。

「…………」

「…………」

 一触即発とは、こういうことを言うのだろう。雨宮と倉橋は互いに相手を睨むように見つめたまま、一向に動く気配がない。

 周囲の空気に言いようのない緊張が漂う。

 二人の間を唐突に声が割って入って来たのは、雨宮が倉橋に向かってさらにもう一歩を踏み出そうとした瞬間(とき)だった。

「はぁい、そこまでぇ」

 二人の睨み合う間に扇子が割り込んできた。

 顔を覆うには十分な大きさの扇子。

 飾りものは付いておらず、実用的な面では問題ないのだが、際立って目に付くのが、扇子全体を彩っている、その柄。

 ――彼岸花(ひがんばな)

 雨宮と倉橋の間を割いて、二人は扇子の柄以上のものを見ることができない。

「飽きないわねぇ。会うたびにこれじゃなぁいぃ、あんたたちぃ」

 高峰(たかみね)(つや)のある声が、呆れたように呟く。

「……っ!」

 雨宮が高峰を睨みつける。

「邪魔すんじゃねーよ!」

 高峰は少しも臆することなく雨宮を見返す。

「仕事は終わったのぉ。さっさと仮面戻しときなさいよぉ」

 何か言いたげに高峰を睨みつける。

「ちっ……!」

 その後で、雨宮は舌打ちしながら顔を背けた。

 一方の倉橋は、まじかに掲げられた扇子に動じる様子もなく、強烈な赤い花を目の前にしても興味を示した様子もなくて、何もせず、先程までのいざこざすらなかったかのように、ただじっとしたままだった。

「…………」

 誰も何も言わない。

 雨宮はあからさまに二人から顔を背けている。

 倉橋は一向に動く気配がない。

 そんな二人を見ている高峰の口から出てくるのは、溜め息ぐらいのものだ。

「…………」

 重い沈黙。

 その中に、遠慮気に声をかける人物がいた。

 三人に向かって、咲希(さき)ができるだけ足音を殺して駆け寄っていく。

「ねえ……」

 その声を聞いて、雨宮が振り返る。

「あぁ?」

 駆け寄ってくる咲希に向かって、雨宮が顔を向けた。その顔にいつもの笑顔はない。とても不機嫌そうに見える。

「……!」

 雨宮の表情と声音(こわね)に気圧されてか、咲希は足を止めた。

「…………」

 しばらくその場に硬直して、言葉が出てこなかった。

「えっと……」

 (わず)かに出た言葉は、ひどく弱い響きを含んでいた。雨宮に睨まれて咲希はゆっくりと言葉を(つむ)ぎ始めた。

「……今の、本当に、フラスト?」

 咲希を見る雨宮の顔には欠片の優しさも見られない。

「フラストに決まってんだろ。でなきゃ何だってんだよ」

 雨宮はぶっきらぼうに答える。

「……………………」

 咲希は再び黙ってしまう。

 ――学校のときと、違う。

 普段の、学校にいるときの雨宮は、その幼い容姿のためか、柔らかな印象を受ける。柔らかそうな頬に、柔らかな瞳、そこから(こぼ)れる笑顔が、成熟して硬くなり出した高校生の表情(もの)とは違う面を見せる。

 笑顔に、苦笑、困った顔も、驚いたときの表情、そこにはまだ小学生くらいの幼さが残っている。

 でも今はどうだろうか。

 歪んだ口元、明らかな敵意を放っている眼光、口調も普段と違って、強く、荒い。

 体の構造そのものに変化が起こっているわけではない。いつものように、高校生とは思えないほど小さいし、小学生と言ってもおかしくない体付きをしている。

 それでも、明らかに違うと断言できる。

 そのきっかけを、咲希は気付いていた。

 仮面だ。

 フラストと闘っているときの雨宮は、仮面が現れたときの雨宮海斗は、いつもの雨宮海斗とは違う。

 ――まるで別人。

 雨宮の冷たい表情が咲希に向けられる。

「……」

 ようやく咲希は口を開いた。

「声が聞こえなかった」

 雨宮だけでなく、倉橋と高峰も咲希のほうを見る。

「は?」

 雨宮の顔があからさまに歪む。

 咲希は懸命に言葉を続ける。

「声が、聞こえなかったの。フラストが消えるとき、いつも頭の中に声が聴こえていた。きっと、その人の心の叫びだと思うの。……でも、今は聞こえなかった」

 倉橋と高峰は静かに咲希の話を聞いていた。

 雨宮は面倒そうに肩を落とす。

「それでもあれはフラストだ。その感じはあった。だからフラストに決まって……」

「ハズレか」

 雨宮の話の途中で倉橋が呟いた。

 話を邪魔されて雨宮は倉橋を睨みつける。高峰はすでに扇子を下ろしていたので、雨宮と倉橋は向かい合う形になっている。

 しかし倉橋は雨宮を見ずに、どこか遠くのほうを見ているようだった。その表情は硬く、真剣だった。

「…………」

 突然、倉橋は駆け出した。

 無言のまま校門まで駆けて行き、その勢いで校門の上まで跳躍し、さらに校門を蹴って他の建物に飛び移る。

「あなたも行くわよぉ」

 言われた雨宮は高峰に視線を向ける。

「行くって、どこにだよ」

 訊かれて、高峰は大きく溜め息をついた。高峰の目は薄く雨宮を見据えて、その表情は侮蔑(ぶべつ)を含んでいるように見えた。

「行きながら説明してあげるぅ」

 そう言って、高峰は倉橋と同様に校門を越えて行った。

「なんなんだよ、どいつもこいつも!」

 雨宮は悪態をついてから二人の後を追った。

「…………」

 誰もいない校庭の上に、咲希一人だけが取り残された。三メートル近くはある校門を跳躍だけで飛び越えるという、普通ではありえないような光景を目にして、咲希はただただ呆然としていた。

 夜の学校。

 人気のない校庭。

 純粋な静寂。

「……」

 咲希は黙ったまま、硬直して、夜の校庭の上に、たった一人でただ立ち尽くしているだけだった。

 十秒くらい()って。

 ようやく我に返った咲希は、三人の後を追うように駆け出した。

「私を置いていかないでよ!」

 建物の上を軽々と飛び移って行った三人の姿は、もう見えなくなっていた。



 拓也は河原に沿って走っていた。

 アスファルトで整備された道は、ランニングには調度良い。川の周りに明かりはなくて、水面には夜の闇が映っている。

 星の光を頼りに、拓也は川の上流に向かって駆けて行く。時折、人とすれ違うことがあったが、拓也は気にせずに走り続けていった。

「……」

 息は乱れていない。順調に自分のペースで走っている。どこまでも平坦な道を、どこまでも一定の速度で駆ける。

 軽めのランニングとしては適した運動ではあるが、走っているというには多少遅いような印象も受ける。

「……」

 拓也は走るのを止めた。

「ふー……」

 拓也は大きく深呼吸をする。

 そしてゆっくりと歩き出す。五メートルほど歩いて河原に下りた。河原の上を静かに歩いていく。

 歩くたびに、小石がジャラジャラと音を立てる。夜の河原に、その音だけが静かに響いていた。

 川の上には漆黒の夜が広がっていて、水の流れる音は静か過ぎて、拓也の耳には聞こえてこない。

「……」

 彼は歩きながら、先の見えない夜をぼんやりと眺めていた。

「ふー」

 拓也は軽く息を吸う。

 ――郡内(ぐんない)がバスケ部に入部したのは、二学期の真ん中頃だった。

 新人戦も終わって、部内が一様に落ち着いてきた頃に、郡内はバスケットボール部にやって来た。

 四月、五月の勧誘の時期以外でバスケットボール部に入部してきたのは、郡内ただ一人だけだった。

 痩せ型体型で、スポーツができるようには見えない。かといって、勉強ができるようにも見えない。

 肌は白く、何かと上目遣(うわめづか)いで、いつも余所余所(よそよそ)しく(かし)まって、男らしい覇気の欠けた、はっきり言ってぱっとしない男子だった。

 実際、バスケットボールの経験はなく、体育の授業でしかやったことはないと言う。その他のスポーツ経験もないと言う。

 拓也はそのとき初めて郡内を見た。

 郡内とはクラスが別だった。

 廊下かどこかですれ違ったことがあるかもしれないが、拓也には今までに郡内を見たという記憶はなかった。

 それくらい、印象がなくて、影の薄い存在。

 郡内は、確かにバスケットボールができなかった。

 走りは遅いし、ドリブルも全くの素人だし、シュートも全然入らないし、ディフェンスのやり方も知らなかった。

 バスケットボールの基本的な技量はなく、そもそも、バスケットボールどうこう以前に、運動音痴であった。

 誰よりも走りが遅くて、誰よりもドリブルができなくて、誰よりもシュートが下手くそで、誰よりもディフェンスができなくて、誰よりも体力がない。

 何をやってもダメというのはこういう奴のことを言うのだろうか。

 ――何で、あいつが来たんだよ。

 拓也には、郡内がバスケットボール部に入ってきた理由がわからなかった。

 運動に関して人並み以下の郡内が、バスケットボールをやって何になるのだろうか。いくらやっても下手であることに変わりはないし、普段の練習でも体力が追いついていないように見えた。

 明らかに何もできなかった。

 まるで小学生にバスケットを教えているようなものだ。一から基礎を教えて、ボールの持ち方から、ドリブルのやり方まで、シュートを決めるやり方、そのときの正しいフォーム、郡内は本当に何も知らなかった。

 ――だからあんなことになるんだ。

 才能のない郡内はいじめやすかった。珍しいタイミングに、一人で入部してきたこともあって、部内でいじめの対象になった。

 練習中にぶつかったり、足を引っ掛けたりして転ばせたり、取れないようなボールをわざと投げたり、ボールをぶつけたり、体育館の端に立たせて向こう側のゴールにフリースローをさせるなど無理難題をさせてみたり、掃除を押し付けたり、ジュースをおごらせたり、着替えを隠したり、雨の日に傘を盗んだり。

 いろいろとやった。

 ――来なければ良かったのに。

 拓也が郡内をいじめていることに抵抗はなかった。

 郡内をいじめることで、拓也よりも劣っている者がいるということを実感できた。弱者を甚振(いたぶ)ることで、自己の虚栄(きょえい)を満たすことができた。

 いじめという集団の遊戯(ゆうぎ)の中に自分が参加していないと、いつ自分がいじめられる対象になるかわからない。

 人を見下す快楽と、人から見下される恐怖。

それが、拓也にいじめをさせていた。

 ――あいつが、自殺……。

 郡内は自殺したという。そう担任は言った。

 郡内が自殺をしたという日も、いつも通りバスケの部活はあって、いつものように郡内は部活の時間に体育館に来ていた。

 本当にいつも通りだった。

 いつものように郡内はボールを出しておいて、バスケットゴールを準備しておいて、拓也を含めて他の部員が体育館に入って来たときにはひたすらコートの掃除をしていた。

 いつも通り、命令していた通り。

 郡内に何かをやれと言えば、あいつはその通りに動いた。

 掃除をしておけと言えば毎回部活が始まる前に一人でずっと掃除をしているし、ボールを渡して一人でドリブルをしてゴールを決めろと言えば下手くそなりにドリブルをして、他の連中がただ郡内の前に立って壁になると必死に避けて、そんな郡内の様子をみんなで笑っても郡内本人は真剣に言われたことをやろうとする。

 あいつの技量では無理だということはバスケ部全員が把握している。

 それをわかってからかっていた。

 それをわかって命令していた。

 できなければジュースをおごらせる。許しを出すまで体育館の周りを走らせる。雨の日も晴れの日も関係ない。

 ――何で今……。

 いつも通りに郡内を使って遊んでいた。

 一年の二学期に郡内が入部してから、二年になってしばらく経った今日に至るまで、いつも通りのことが行われていた。

 郡内にも、特に変わったところはなかった。

 いつものように何も言わずに、嫌だとか、反論する素振りも見せずに、ただ頷くだけ。そしていつも通りに言われたことをやっていく。

 その日は確か、郡内を体育館に残したまま他の部員は先に帰ったと思う。最近やっていた遊びだが、郡内だけを残して部室の鍵を閉めてしまうのだ。そうすると、郡内は部室に入れなくなって、郡内が持ってきた荷物は全て部室の中に置きっぱなしになる。そして次に部活がある日に部室に行ってみて、実際に郡内の荷物があるかどうかを確認して、バスケ部の部員同士で笑う。

 毎回のようにやっていた行為。

 だがその日、郡内は自殺した。

 ――自殺、した。

 拓也のクラスの担任は、朝のホームルームの時間にクラス全員に対して、郡内の自殺について何か心当たりはないか、郡内の自殺の話をした後でアンケートをとった。

 その後で、拓也を含めた男子バスケットボール部に対して何の通告もないことから、拓也たちを非難するような証言は、教師の耳に入っていないらしい。

 拓也を含め、男子バスケットボールの部員は一様に安堵の息を漏らした。しかし、それは本当にささやかな、一瞬の安息でしかなかった。

 拓也は焦っていた。己の罪が暴露されはしないかと。

 拓也は恐れていた。己にいかなる裁きが下るのかを。

 部員の中にも罪の意識を持っている者はいた。だが多くは虚勢(きょせい)を張っていたか、あるいは自分に対して何の(とが)めもないことに安堵して、いつも通り郡内の悪口を言って笑っている奴もいた。

 このままいけばすぐに忘れてしまうような出来事だった。一人の人間が自殺した、それだけの現象でしかない。ただそれだけのことになるはずだった。

 ――山本(やまもと)が車に()かれた。

 郡内が自殺した次の日だった。

 郡内をいじめていた者の一人が、深夜に車に轢かれたという。すぐに病院へと運ばれたが、意識不明の重態らしい。山本が車で轢かれた場所は、信号のある見晴らしのいい道路のようだった。

 クラスの中では、山本は郡内が自殺したことに対する罪の意識から、自殺を(はか)ったのではないかと(ささや)かれている。

 ――ありえない。

 しかし拓也は、そう思わなかった。

 山本は二年のバスケットボール部の中心人物だったし、郡内をいじめていたリーダー的存在だった。

 部内でも有力なプレーヤーだったし、山本自身も、自己のカリスマ性を信じて疑っていなかった。

 山本は、二年の間では特に慕われていて、みんなが山本の周りに集まった。

 拓也も、いつも山本の傍にくっついていたが、本音を言えば、拓也は山本のことが好きではなかった。

 ――あいつが……。

 山本は常に自分が一番でなければ気の済まない性格だった。

 いつも自分の技量のすばらしさを自慢していて、みんなが自分を(たた)えているものだと思い込んでいた。

 目立つことが好きで、地味なことはすぐに他人に押し付ける。逆らう者には容赦がなくて、暴力沙汰(ざた)はしょっちゅうだった。

 郡内をいじめ始めたのも、おそらく山本だろう。

 郡内を率先的にいじめていたのは、確か山本だった。

 山本は自分勝手な奴だと拓也は思っていた。だから山本が車に轢かれたと聞いたときは、自業自得だと思った。

 ――でも。

 ささやかな喜びと、重い恐怖が、拓也の中に混在していた。

 次は自分の番かもしれない、と拓也は思った。

「……」

 自分は大丈夫だと信じたかったが、思考は恐怖の中に舞い戻り、そのたびに胸が苦しくなった。

「俺は悪くない」

 口にしたのは言葉として聞いておかないと不安になるからだ。

「俺のせいじゃない」

 自分に言い聞かせて、自分の中に(くすぶ)る恐怖を()き消そうとする。

「……」

 拓也は空を見上げた。

 目が大分夜に慣れてきて、清んだ空気に星空が見える。街の中の星は少なかった。しかしその僅かな星明りが拓也の知る全てだった。

 拓也は大きく息を吸った。

 ――帰るか。

 そう思って、拓也は振り向こうとした。舗装された道へ戻ろうと、片足を一歩引いたところで足を止めた。

 ――ィィィィ……。

 風の中に聞き慣れない音があった。



「おいっ!」

 夜の空に月は出ていなかった。星のない漆黒がささやかな彩りを見せている。街灯のない路地は闇に包まれている。

 天空を舞うように、三つの影が流れていく。

 非常に速い速度で移動している。

 暗闇の中を駆ける三つの影。それを人影だと認識できる人は、まずいないだろう。それ以前に、目の錯覚と思い込むのが普通だ。

「おい、聞いてんのかっ!」

 三つの影の最後尾から一つの声が上がった。ひどく若くて、ひどく怒気の入った少年の声だった。

「どういうことか説明しろ!」

 民家の屋根を蹴って、再び雨宮が声を上げた。三人は少しも速度を緩めずに、屋根の上を飛んでいく。

 真ん中を走る高峰が振り返った。

「わかったからぁ、そんなに怒鳴らないのぉ」

 雨宮は再び怒声を上げた。

「どこ行く気だよ」

「話すからぁ、もう少し小さな声でぇ」

 高峰は正面を向いて口を開く。

「フラストが出たのぉ」

 それを聞いた途端に、雨宮の表情が緩んだ。

 雨宮は楽しそうな笑みを浮かべる。

「新手か」

 高峰の言葉が割って入る。

「正確にはさっきのがねぇ」

 雨宮は眉を寄せる。

「どういう意味だ?」

 高峰が続ける。

「咲希ちゃん言ってたじゃなぁいぃ。声が聞こえなかったぁ、ってぇ」

「それがなんだよ」

 雨宮はイライラしたように高峰の背中を睨みつける。

「きっとフラストを沢山見たせいとぉ、私たちに関わり過ぎたせいでぇ、フラストの気配を察知できるようになっちゃったのねぇ、あの子ぉ」

「だから何だってんだよっ!」

 雨宮が怒鳴り声を上げた。

「声が大きいぃ」

 高峰は一瞬雨宮に視線を送って、再び前を向いて走る。

「声が心の叫びだとするとぉ、声が聞こえないっていうのはぁ、あのフラストの声が多すぎたかぁ、声を出す能力もなくなったのかのどっちかなんでしょうねぇ。――あれはフラストの集合体ねぇ」

 雨宮は眉を寄せる。

「は?」

 高峰は溜め息を吐く。

「さっきのはぁ、フラストにもなれないようなぁ、ちっぽけな心の寄席集(よせあつ)まりってことぉ」

 雨宮は状況が飲み込めず黙っていた。

「おかしいと思ったんだ」

 先頭を走る倉橋が口を開いた。

「『(きり)』も使えて、『(かべ)』も使える。相反する二つの性質を(あわ)せ持つフラストなど、ありはしない。集合体であったから、可能だったのだ。複数の心を持っていたから、咆哮の中に声がなかったのだ」

 高峰が頷く。

「確かにぃ、何を言っているのかわからなかったわねぇ」

 倉橋と高峰は互いに納得しているように話を進める。しかし雨宮にはまだ理解できていなかった。

 雨宮は苛立ったような声を出す。

「じゃあ何でそんな屑共(くずども)が出てきたんだ?フラストを殺すには奴らを散らせるんだろ。何でそれが集まったりしたんだ?」

 高峰がそれに答える。

「MASKSが三人も集まったんですものぉ、その影響ねぇ。それに、学校には心が溢れているしぃ」

 雨宮の口元が僅かに歪む。

 生徒の教師に対する不満。

 教師の生徒に対する不満。

 それに生徒同士のいざこざや教師同士の人間関係。

 成熟し切れていない精神は不安定で、心が乱れやすい。心の断片は体の世界に漏れ出して、その不安定な心の傍にいる人も心が荒れてくる。それが連鎖的に広がって、病んだ心を蔓延(まんえん)させる。

 雨宮にも、そのことは理解できた。

 しかし、もう一つの疑問が解消されていなかった。

「それじゃ、自殺した奴のフラストは?」

 高峰が答える。

「それを今追っているのぉ」

 それを聞いた倉橋が、苦い表情を浮かべる。

「さっきの救急車のサイレンから、また犠牲者が出たようだ」

 高峰が頷く。

「でももう手遅れねぇ。気配がどんどん遠ざかっているものぉ。被害にあった子には悪いけどぉ、ここは公共機関に任せましょうぅ。――私たちの役目はぁ」

「迅速なるフラスト抹消」

 倉橋の声を聞いて、雨宮の顔に笑みが戻った。

 楽しそうな笑みだった。それに合わせるように、雨宮の顔から下げられた仮面が軽やかに揺れる。

「今度こそ、俺がぶっ殺す」



 咲希は夜の街を駆けていた。次第に町の明かりは薄れていき、仄暗い闇が静かに広がっている。

「……はぁ、はぁ…………」

 咲希は走り疲れて足を止めた。

 両手を自分の膝に乗せて、何度も荒い呼吸を繰り返す。首筋に小さな汗が幾つも浮かんでいる。

「……まったく……」

 吐き出された息と一緒に言葉が漏れる。

「…………」

 その後で、自分の口の中に溜まった液体質な唾液を飲み込んで、咲希はもう一度大きく呼吸する。

 大分落ち着いたところで、咲希は膝から手を離して空を仰いだ。小石のようなちっぽけな星たちが、僅かばかりに空を飾っていた。

 それ以外には何も見えない。

「どうすれば屋根の上を走れるのよ」

 吐き出された声は、真っ黒な夜空に吸い込まれて消える。人通りのない路上で、咲希は一人きりだった。咲希の独白は、何もない道の上でよく聞こえた。

「連れて行ってくれたっていいじゃない」

 そう呟いたが、その言葉に意味がないことを咲希は自覚していた。

 ――あんたが来たところでなんになる?

 咲希の頭の中に、倉橋の言っていた言葉が浮かんだ。

「…………」

 咲希は俯いたままじっとする。

 自分が行ったところで何もできないだろう。現に、先程まで学校でフラストが現れたときだって、咲希はただ見ていることしかできなかった。

 見ているだけで、何もできなくて。

 心配するばかりで、動けなくて。

 ――何にも変わらない。

 現実にならない願いは夢幻(むげん)でしかない。

 叶わぬ理想は意味を持たない。

 ――そんなこと、わかっている。

 強い思いがある。

 意思がある。

 そんなことを言っていても、果たせない努力は無謀でしかない。

 ――わかっている。

「でも――」

 咲希は顔を上げる。

 じっとしていることができない。

 ただの噂話として、聞き流しているのは胸が痛い。

 かわいそうだから悲しんだり、仕様がないからと諦めたり、無関係だからと知らない振りをしたり、そのまま何もしないことが、咲希にはできなかった。

 ――ほっとくのは、いや。

 咲希は知ってしまった、人の心の世界を。

 叫びたいほどの心の悲鳴は、心の中を満たしていく。

 限界を超えた辛苦(しんく)は、人を破滅させる。

 吐き出された苦悩は周囲を飲み込み、行き場を失った苦懐(くかい)は自己を破壊する。フラストと出会った、フラスとを生み出してしまった咲希は、そう理解していた。

 ――何かしたい。

 フラストは、作りたくない。

 生まれてしまったら、救ってあげたい。

「決めたことだから」

 咲希は、自殺した群内の苦しみを聞いてあげたいと思った。少しでも群内を戒めていた苦境を、受け止めてあげたいと思った。

 少しでも、心が楽になってくれればと思うから。

 微力でも、助けになりたいと思うから。

「私が行くと決めたから」

 咲希は再び走り出した。疲れが残るのか、それほど速い速度は出ない。それでも、咲希は走ることを止めなかった。空気が風となる微かな音が、咲希の耳元をまとわりつくように駆けて行った。



 ――ィィィィ……。

 音は、微かで、小さい。

 静かな夜の中で、その音が僅かに空気を震わせる。

「…………」

 拓也は硬直したまま、その音を聴いていた。体中の神経を研ぎ澄ませて、その音を感じようとした。

――ィィィィ……。

 不思議な音だった。

 野生の犬の遠吠えのようにも聞こえるが、犬が発する声よりは、一オクターブ高い音域だった。

 黒板をむやみに引っかく音のようにも聞こえるが、あの痛ましい音よりも繊細な響きがあった。

 ガラスのコップを濡れた指で擦るような音にも聞こえるが、あの澄んだ音よりも旋律がバラバラだった。

 誰かが互いに囁き合っている声のようにも聞こえたが、拓也の周囲には人の姿は見えなかった。

 ――キイイィィィィ……。

 音は風の中を駆け巡り、風は新たな音を誘う。水面を(たわむ)れる波紋のように、音は拡散していく。

 音は次から次へと湧いて出てきて、降り始めた雨が水面に緩やかに波紋を作るように、音の連鎖が拓也の周りを取り囲んでいく。

 ――キイイィィィィイイイイィィィィ……………………。

 川岸の上で奏でられる「幻想交響曲終楽章(スクリーム)」。

 小さな音は、大きな音になっていた。

 ――キイイィィィィキイイィィィィキイイィィィィイイイイィィィィ……!

 耳を澄ませなければ聞こえなかった音も、今では耳を塞いでも鼓膜を貫いて脳の奥まで届きそうだ。

 ――キャアキャアキャアキャアキャアァキャアァキャアァキャアァ……!

 その音は、バイオリンの音に似ていた。大勢のバイオリン奏者が、激しく弦を擦りつけて、狂ったように腕を振るい続ける。

 身を切るような音の風が空間を締め付ける。

「…………」

 拓也は動かなかった。

 じっと静止したまま、音を感じていた。

 危険が迫っているということは理解できていた。しかしその危険が何なのかということはまだ理解していなかった。

 ここから逃げ出したいという気持ちはあった。しかし音はすべての方向から拓也に向かって吹き抜けていた。

「……」

 音に囲まれて、拓也は身動きが取れなかった。

 ――アアッ!

 そのとき、背後で声が聞こえた。

「……!」

 拓也は咄嗟に振り向いた。

 拓也の髪にまとわり付いていた大量の汗が、その勢いに振り回されて何もない夜の空間に投げ出される。

 夜の闇が、永遠と続いている。そこには何もない、ただ漆黒の景色が広がっているだけだった。

 気配を感じた背後には、何もいなかった。

 誰もいない。

 何もいない。

 存在はないし、存在は見受けられない。

 永遠の無。

「…………」

 気付けば音も止んでいた。

 ――しん……。

 何もない、静まり返った空間。

 不可思議で、気味の悪い、異常な音は嘘のように消え失せて、今ここに広がっている静けさは先程までの怪異とはあまりにもかけ離れていて、そのあまりにも大きな欠落は(かえ)って人の心を不安にさせる。

 風もなく、静寂と闇だけが世界を包んでいた。

「ふー……」

 拓也は静かに息を吐いた。

 肺の中に蓄積されていた(よど)んだガスが、横隔膜に押されて空気中に押し出される。外の空気に触れて、重量感のある水気を含んだ吐息が、黒だけの世界の中に透き通っていくように消えて見えなくなる。

「……」

 拓也は安堵を覚えて、背後に向けていた顔を正面に戻す。

 目の前が闇に覆われていた。

 闇の姿をした、一つの影。

 大きさは定かではないが、自分の背丈を遥かに超えていることは理解できた。その影に(さえぎ)られて、星の姿は見えない。

「…………」

 拓也はじっとしたまま影を見つめていた。

 拓也の頬を一筋の汗が伝う。

 影の中に、さらに深い闇が開いていた。その穴のように開いた闇から生暖かい風が吹き付けてくる。

 それはまるで、口のようだった。得体の知れない何かが口を開けて、そこから息が漏れ出てくる。

「……あっ」

 拓也の口から僅かに声が漏れる。

 たったそれだけ。

 だがその一言が、全ての静寂を打ち砕いた。脆く、崩れそうな均衡をあまりにも容易(たやす)く破壊してしまった。

 ――アアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――ッ!

 闇が咆哮する。

 尋常でない高音の雄叫び。一筋の叫びが夜の世界へと駆け巡る。人間が聴き取れるギリギリの高周波が、脳の中に侵入して神経を切り刻む。

「……っ!」

 拓也はその場から逃げ出した。その行為は、彼の意識よりも反射に近い。全速力でその場から離れる。

 ランニングの後で、拓也の体は多少の疲労を蓄積していた。息を切らさない程度に、自分のペースで走っていたとは言え、疲れを感じていないことはなかった。自分の家に帰るまでは、体を休める意味で、夜風に浸りながら、ゆっくり歩いて帰るつもりだった。

「はぁ、はぁ……」

 拓也は無我夢中で走る。

 あれは危険だと本能が伝える。

 その信号に体が応じる。

 自分が走っていることは認識していた。しかしそれが彼の限界を超えた速度であるということを、彼は理解していなかった。

 音が聴こえているという認識は、拓也自身の中にもあった。しかし、高周波からもたらされる脳へのダメージは、全く把握できていなかった。

 ただ逃げなければならない、ということだけが拓也の思考の全てだった。

「…………はっ……」

 逃げる拓也の背中に強い衝撃が走る。そのエネルギーに従って、拓也は小石の転がる中へ投げ出された。

「っ!」

 痛み、という単語はすぐに出てこなかった。

 小石の上は冷感で気持ちがいい。汗が砂利の中に吸い込まれて、湿った土の臭いが返ってくる。

「……」

 背中が温かい、そう拓也は感じた。仄かな温かみが拓也を包んで、安らかな眠気が瞼を重くする。

「……あ…………」

 再び拓也の体が投げ飛ばされた。

 拓也はくるくると地面の上を転がされて、そのたびに幾つもの小石が拓也の体に衝突する。下を向いていた状態から、拓也の体は仰向けにさせられた。

 背中の皮膚から直接地面の冷たさが感じられた。ごつごつとした不規則な凹凸感が、拓也の背中に食い込んでいる。

「…………」

 だが、不思議と痛いとは感じなかった。

 不快に思うこともない。

 何かを考えるという工程が、拓也の中でひどく億劫(おっくう)になっていた。

「……」

 拓也の虚ろな目は外気を見ていた。意識はぼんやりとしていて、体を動かす気力もない。目の前には何もない闇が広がっているだけだった。

 ――アアアアアア…………。

 音が聴こえた。

 同時に生暖かい風が吹いてくる。

 深い深い深淵(しんえん)の底から自分に向かって吹きつけてくる風は、地の底に眠る地獄の熱気を思わせる。

 罪人が死後に()くと()われている地獄。地獄には、現世にも見られるように、幾つもの刑罰が存在している。

 そのうちの一つに、釜茹(かまゆ)で地獄というものがある。

 熱く熱せられた大釜の中に無数の罪人が放り投げられて、生身の人間たちをぐつぐつと煮ていく。

 肉体を失った魂だけの亡者たちは、どれだけ痛めつけられても死ぬことはない。どれだけ苦しめられても意識を失うことはない。

 故に罪人は永遠の苦行を味わい続ける。

 一生をかけて背負った罪は、一生をもって償わなければならない。罪を生んで安寧(あんねい)を得られる(こころ)などどこにもない。いつかは裁かれるのだ。現世か、来世か、地獄でか。いづれ裁きは訪れる。

 ――ああ、そうか。

 あの闇の向こうに地獄がある。

 そこが罪人の向かうべき場所。

 闇がじっと自分を見つめているのがわかる。

「……………………」

 拓也は黙って闇を見返す。

 その目からはすでに生気が抜けて、ただ開いた(まぶた)の奥に眼球が座っているだけの無感情な行程だった。

 思考すら正常に作動しない状況だった。

 その中で拓也は悟る。

 ――やっぱり…………。

 十字架に(はりつけ)にされている気分だった。

 罪人は神の意に縛られて、力なくその審判を待つ。観衆の、自分に対する非難と怨念(おんねん)が、声となって罪人の体に杭を打つ。死刑執行人は静かに罪人の下へ舞い降りて、邪悪な血の染み付いた剣を抱えて立つ。

「……」

 静寂な懺悔(ざんげ)のとき。

 そこには、罪人しかいない。

 そして、罪人の中には己の犯した罪しかない。

「……」

 最期(さいご)の審判が下される。

 ――アアアアア…………。

 拓也は闇の中へ意識を捧げた。

 ――ザイニンハジゴクヘオチル。



 水面の上を炎が走る。

 ――おおおおおおおおおお――ッ!

 炎は闇に向かって猛進する。火気に押されて、闇は身を引いた。闇が振り返って見た先には、三つの人影があった。

「こいつか?」

 影の中の一人が言った。手にしたサブマシンガンをしっかりと握りしめて、その銃口を闇に向ける。

 もう一つの影が、手にした扇子で空気を(あお)ぐ。それに合わせて、闇夜の中で炎が踊る。河原の上で、連なった炎が波打った。炎光に照らされて、夜の世界が明るく照らされる。

 闇の隣で倒れている少年の姿があった。意識はないようだが、特に目立った外傷は見られない。

「間に合ったようねぇ」

 高峰は少年の姿を認めた後で、闇のほうへと目を向ける。残りの二人も同様に、闇のほうを見ていた。

 ヒトのように直立していたが、その黒色の胴体は異様に膨らんでいて、一見して卵のように見える。

 目はなく、口もない。

 どこを見ているのかがわかりにくいが、側面に付いた手の向きから三人のほうを見ていると判断できる。

 その手は、巨大な刃物の指で構成されていて、刃渡りは、隣で横たわる少年の肩幅よりも厚い。

 膨らみのある底面の下にも、同じく尋常でないほどに研ぎ澄まされた黒色の足があった。鋭利な爪が、夜の中で黒い冷たい光を放っている。

「…………」

 三人は、その異形の化物を静かに見つめていた。闇の中に(たたず)む黒い化物も、黙って三人を見返している。

 そこに、何の躊躇いもなく、手にしたサブマシンガンの引き金に指をかける影が、一つあった。

 ――どどどどどどどどどどどどどどどどどどどどッ!

 雨宮の持つサブマシンガンから無数の弾丸が放たれた。

 化物は何発か受けながらも、跳躍して弾丸を(かわ)す。重量感のある体格の割りには、その一跳びで傾斜のついた草地の上のほうにいた三人を軽々と超えていた。

 倉橋は雨宮に向かって怒鳴りつけた。

「何をやっている!」

 雨宮は口元を歪めて倉橋のほうに顔を向ける。

 だがその表情には不快の要素が全く見られなかった。

 ――笑っていた。

 雨宮は笑みを浮かべていたのだ。とても楽しそうな、至福に等しい快楽を得たような、爛々(らんらん)とした笑顔。

「……!」

 倉橋はその表情を見て、一瞬にして言葉を失った、

 いや、正確には思考が止まってしまった。雨宮に対する怒り、先程まで抱いていた激しい衝動は、その笑みの前に完全に凍りついてしまい、その瞬間に自分が何を言ったのかすら忘れてしまった。

 雨宮の顔の右側面に掛けられている仮面も、雨宮と同じような笑顔を称えて倉橋のほうを向いていた。

「俺らの使命は迅速なるフラスト抹消、だろ?」

 雨宮は涼しい顔をして答えた。

「今度は俺がぶっ殺す」

 そう言って、雨宮はフラストの後を追っていく。夜の河原の上を、けたたましい銃声が響き渡る。

 雨宮の顔が目の前からなくなって、倉橋はようやく自身の意識を取り戻す。それとともに、身を駆け巡る激しい怒りも蘇った。

 倉橋の顔は明らかに歪んでいた。

「貴様、勝手な……!」

 倉橋が一歩を踏み出そうとしたところで、倉橋の肩を誰かが掴む。

 振り返ると、そこに高峰の姿があった。暗闇の中に、漂白したように白い高峰の肌がぼおっと浮かび上がる。

 そして普通の人より一回り大きな、やや褐色がかった瞳は、つまらなそうな感情を(あらわ)にしているが、どことなく惹かれるものがある。

「放っときなさいよぉ」

 倉橋の前に高峰が立つ。

「いつものことでしょぉ、あの子の〝衝動〟はぁ」

「……」

 倉橋は何も言えなかった。

 それは高峰の言っていることを理解しているためでもあったし、理解はしていながら納得していなかったからだ。

 ――海斗(あいつ)に先を超される。

 頷くことも、反論することもしない。倉橋は黙ったまま、ただ高峰を見返すことしかできなかった。

 高峰が侮蔑を露にして溜め息を吐く。

「それよりもあっちぃ、あっちの子の怪我を診たほうがいいんじゃなぁいぃ?」

 高峰は目で河原に倒れている少年のほうを示す。

「……」

 倉橋は少年の姿を見て、雨宮の後ろ姿を舌打ちしながら一瞥(いちべつ)すると、高峰とともに少年のほうへと駆け寄った。

 銃声が響き渡る空の下で、少年は静かに横たわっていた。倉橋は少年の手首を掴んで脈を取る。

「…………」

 少年の静かな息遣いが僅かに聞こえた。

 倉橋は独り言のように呟く。

「想像以上の恐怖を味わったらしい」

 脈が速い。

 汗の量は尋常でない。

 蒼白の顔が、今まで少年に起こったことの重大さを物語っている。

 ――だが生きている。

 倉橋は内心で安堵の息をついた。

「……」

 倉橋は少年の背中と地面との間に手を入れて、少年の体を持ち上げる。少年が倒れていた場所は、彼の血で赤く濡れていた。

 倉橋は何も言わずに、自分の左手を血塗れの少年の背中に、そっと当てる。

 倉橋の左腕が不思議な光を放ち始めた。弱い光だが、倉橋の左腕の中をまるで生きているように動いている。

 光は倉橋の左の掌まで伝わり、少年の背中に向かって流れ出る。光は倉橋と少年の体を結び、その柔らかなエネルギーが静かにその場を照らす。



 とても長い間そうしていたように思える。

 倉橋は少年の背中に触れていた左手を、そっと離した。それと同時に、二人を繋いでいた光も闇に消える。

「……」

 倉橋は少年の着ている服を一枚剥いで、それで少年の背中に染み付いていた血を拭った。完全とまではいかなかったが、少年の背中に付着していた血液は大分拭き取れた。

 きれいになった少年の背中には、地面に染み付いた量の血から判断すると、相当ひどい怪我をしたはずなのに、特に目立った傷はなかった。

「便利ねぇ」

 高峰は立ったまま倉橋を見つめている。

「収束にこんな付属能力(オプション)がついているなんてぇ」

「見せ掛けだ」

 倉橋は血で汚れた服を少年に着せ直す。

「傷は塞いだが、この程度ではすぐにまた開く。相当出血しているようだから、輸血も必要だ。それに――」

 倉橋は元のように少年を寝かせてゆっくりと立ち上がる。

「俺の光は、光を奪う」

 倉橋は黙って少年を眺めていた。その表情はとても静かだった。

「……」

 高峰も、静かに倉橋を見つめていた。

 ――ドオンッ!

 音が聞こえて、二人は素早く音のしたほうに顔を向ける。

 二人の傍を高速で何かが横切り、それが地面と摩擦を生じて砂埃を上げていた。

「…………」

 二人は何も言わずに、斜面に激突したものを見つめていた。土色がかった煙がひどくて、よく見えない。

「かはっ、かはっ……」

 煙の中で咳払(せきばら)いする声が聞こえた。その後で人影が立ち上がり、体に付着した汚れを払っている。

「くそっ!」

 煙が散って、中から雨宮が姿を見せる。血の混じった唾を吐いて上空を睨みつける。倉橋と高峰も、同じように空を仰いだ。

「!」

 天空を揺らめく火輪(かりん)の中に、楕円形のフラストが立っていた。

 その姿を認めて、倉橋は雨宮に向かって怒鳴りつける。

「貴様、まだ片付いていなかったのか!」

 雨宮はフラストを睨みつけながら銃を構え直す。

「うるせーな」

 雨宮は空を睨みつけたまま吐き捨てる。その言葉に覇気が感じられないのは気のせいだろうか。

「消えなさぁいぃ」

 ――おおおおおおおおおおおおおおお――ッ!

 天空の火輪が火気を増す。

 揺らめいて、そして猛火に変わる。炎上した炎が、夜空を()き焦がす。フラストの姿は、熱気の中に消えた。

「…………」

 三人は、夜空の炎をじっと見つめている。炎上の調べが、緩やかに緊迫した空気を広げていく。

「やったか」

 倉橋が呟いた。

 直後だった。

 ――ぼおっ。

 炎火の中からフラストが飛び出した。

 その勢いのまま、雨宮に向かって激突する。あまりの速度に対応が遅れて、雨宮はフラストの攻撃をそのまま受けた。

 ――ドオン!

 重圧感のある衝撃音。

 人が倒れる音にしてはあまりにもインパクトの大きい、痛々しいと感じるよりはそう理解するほうが困難だった。

 雨宮の体は無数の小石が広がる河原の上を何度も何度も転がっていき、そのたびにジャラジャラという摩擦音が耳に届く。

 炎から飛び出してきた漆黒の弾丸は、自身の勢いを抑えきれず、そのまま地面に突っ込んだ。軽くて小さい小石は辺りに飛び散って、小石の下に隠れていた地面はその勢いに押されて空気中に舞い散る。

 土埃の中でフラストが姿を現す。

 その姿を認めて、高峰は扇子を煽ぐ。

 ――おおおおおおおおおおっ!

 扇子の先から炎が生まれて、炎の風がフラストに向かって吹きつける。

 フラストは炎の流れに逆らって高峰に向かって猛進してくる。高峰は素早く扇子を振り上げる。

「焼け落ちろおぉぉおおぉ!」

 高峰が扇子を勢いよく煽ぐと、猛火が視界を()く。火炎は巨大な火柱となって、熱気は壁となる。

 ――ドォン!

 衝突音とともに、倉橋の視界から高峰が消える。フラストは猛火を突き抜けて、先ほどまで高峰が立っていた場所にその姿を現した。

「……!」

 倉橋とフラストとの間の距離は一メートルもない。

 ――おおおおおぉぉぉ…………。

 夜を照らしていた炎が次第に薄れていく。その残り火に照らされて、漆黒の凶器が夜の中に浮かび上がる。

「…………」

 倉橋は動かなかった。あと一歩踏み込めば、十分に攻撃が当たる間合いにある。しかし、倉橋は構えることも忘れて、その場に硬直していた。

 ――ボンッ!

 そのとき、フラストの背後で爆発音が起きた。その衝撃でフラストの体が僅かに押し出される。

 しかしフラストの体には傷一つつかない。

「…………」

 フラストが振り返った。

 その先に、雨宮が銃口を向ける姿があった。地面に片膝をついて、両手ともう片方の膝でサブマシンガンを支えている。雨宮の体は河原の黒い土と、自身が流した赤い鮮血によって、赤黒く汚れている。

 フラストは雨宮に向かって突進する。

 雨宮はトリガーを握る。

 ――どどどどどどどどどどッ!

 荒れ狂う銃声がフラストに向かって吹き付けるが、フラストは避けることなく弾丸の中を突き進む。

 フラストがその鋭利な爪で切りかかる。

 刹那。

 雨宮は空へと跳躍して躱す。

 ――どどどどどどどどどどどどどどどッ!

 空を舞いながら、雨宮はフラストに向かってサブマシンガンを乱射する。その弾丸に誘発して、フラストの周りにセットされた手榴弾(しゅりゅうだん)が爆破の連鎖を起こして、フラストの周りを爆風が包む。

 ――ゴゴゴゴォン!

 爆風と土煙が舞い上がる。フラストの周囲を薄茶けた煙が覆って、中の様子が見えない。外からではフラストの影さえ見えない。

 雨宮は空中で一回転して、倉橋の隣に着地した。

「……」

 倉橋は硬直したまま雨宮に目を向けていた。

 倉橋の入り込む余地はない。

 目まぐるしく変わる戦況、フラストの想像を超えた強さ、傷付く高峰と雨宮の姿。

 この中に、自分の体を放り投げる勇気が倉橋にはなかった。それ以前に、倉橋は対峙(たいじ)している敵の戦力差に、明らかに(すく)んでいた。

「何ビビッてんだよ」

 雨宮は倉橋には視線を向けずに、爆発のあった、フラストのほうを睨みつけたまま、倉橋に向かって叱咤(しった)する。

 その言葉でようやく倉橋は我に返った。

「何だと……!」

「腰抜けはそのガキ連れてどっかに隠れてな」

 雨宮は頭で倉橋の横で倒れている少年を示した。

 倉橋の顔が怒気に歪む。

「誰が腰抜けだと?」

「テメーだよ。他に誰がいるんだよ!」

 雨宮は倉橋を睨みつける。

 倉橋は雨宮を睨み返す。

「………………」

「………………」

 両者の眼光は鋭く相手を切りつける。

「『鉄槌(てっつい)』様も品切れですか?」

「弾が効いてないようだが、『跳馬(はねうま)』と言うよりは、驢馬(ろば)だな」

 睨みつけたまま動かない。

 互いに、ありありと見せつけるような、殺意。その視線が、相手に向かって躊躇(ためら)うことなく放たれる。止める者がいなければ、両者は迷いなく死闘の争いを開始するだろう。

 憎しみとは違う。

 純粋な殺意。

 その絶対的な均衡は、突如破られた。

 睨み合う二人の目の前で、土色の煙が渦を巻いて霧散(むさん)する。その中から漆黒の凶器が姿を現す。

「……!」

 フラストはそのまま雨宮に向かって爪を立てる。

「っ!」

 雨宮は反射的に銃を盾にしたが、抑えられない力はそのまま雨宮の体を川のほうまで投げ飛ばした。

 ――バシャッ!

 派手な音を立てて水飛沫(みずしぶき)が飛ぶ。

 浅い川の上を雨宮の体が転がる。

 一方のフラスト自身は体を雨宮のほうに向けたまま、その巨体を倉橋の前に堂々と(さら)している。

 倉橋とフラストとの距離は残り、一メートル。

「っ!」

 倉橋はフラストに駆け寄って右手を黒い体に当てる。

 ――俺は腰抜けではない。

 倉橋の右腕が薄い光を帯びて、掌に収束した光が漆黒の闇に流れ込む。

 ――ボゴッ!

 くぐもったような低い音。

 フラストの体が痙攣(けいれん)を起こした。

 化物の内側に潜む闇が対流を描く。

 卵型のフラストの表面は、ガラスのような透明な物質で構築されているのか、内部の様子がリアルタイムで判別できた。

 夜の闇よりも濃い漆黒が、フラストの体内で大きな波を生みだしている。僅かな粘性を持つ流動性の物質が、化物の体の内部で激しく暴れ回っている。

「……」

 倉橋は睨みつけるようにじっとフラストを見つめていた。そこから寸分違わず目を逸らさない。

――やったか……!

 しかしそれは僅かな変化だった。対流が止むと痙攣も治まり、フラストは変わらぬ姿で倉橋を見つめる。

 ――莫迦な。

 フラストの体内で、二つの光が浮かび上がる。その光の眼球は、倉橋を静かに見下ろしている。

 ――俺の、光が。

 フラストの鋭利な爪が、倉橋に向かって振り下ろされた。漆黒の凶器は、易々と倉橋の体を(えぐ)る。

 ――効かない……!

 倉橋は宙を舞い、落下した体は小石の敷かれた河原の上を転がっていく。夜の闇に赤い道が鮮やかに浮かび上がる。

 二つの(おぼろ)げな光が倉橋の姿をじっと見つめている。

「……ぁ、はぁ…………」

 倉橋のくぐもった息遣いが小さく小石の隙間に染み込んで、額に浮かぶ汗は熱を持った倉橋の体へと流れ落ちる。

 ――ポオォ……。

 倉橋の体を光が包みだした。

 倉橋の体の下敷きになった左手から漏れた光は、弱々しくも、けれど確かに、倉橋の傷を次第に癒していく。

――ミシッ。

 フラストは、倉橋に向かって一歩を踏み出した。

――ミシッ、ミシッ……。

 重々しい足音は、徐々に倉橋の元へと近づいていく。

 しかし倉橋の体は少しも動く様子がない。

 そこに別の人間の声がした。

「消えなさぁい」

 フラストに向かって一筋の炎が衝突する。

 ――おおおおおおおおっ!

 炎色の光はフラストの暗黒の体を明るく照らし出したが、それ以上のことは何も起こらなかった。

「……」

 フラストは正面からその炎を見据える。

 炎の先には、地面に座り込んだ高峰の姿があった。高峰は左腕から血を流し、扇子を持った右手で自分の体を支え上げている。

 フラストは口を開いた。

 黒色の卵が横に裂けて、漆黒の中に炎が飲み込まれる。何もないフラストの体内が明るくなる。

 ――ボオッ!

 そして光が吐き出された。厚みのある閃光は夜の闇を駆け抜けて、細く伸びた炎を貫いていく。

 光の弾丸は尾を引いて高峰の体に衝撃を与える。そのエネルギーに押されて、高峰は向こう岸の河原に激突する。

 ――ドオンッ!

 高峰は草地の中に突き刺さり、動かなくなった。白くて、華奢(きゃしゃ)な手から、派手やかな花柄の扇子が零れ落ちた。

「……」

 高峰の様子を確認して、フラストは倉橋のほうへと向き直る。闇の中にぽっかりと浮かんだ二つの眼球が、地面に伏した倉橋の体を見下ろす。

「……」

 倉橋の眼光は、鋭くフラストに向かって突きつけられていた。フラストの無感情の光は、強烈な静けさを放っているだけだった。

 ――くそっ!

 倉橋の目から不意に戦意が消えた。熱い刃は冷えた鉄に変わり、蛋白(たんぱく)な眼球は鉄屑(てつくず)のように白く、黒い瞳は輝きを失った水晶のように光を感じない。

 ――ここまで、か……。

 駄目だった。

 その意を悟ったのか、フラストはゆっくりと近づいて爪を掲げる。月のない夜だが、鋭利な凶器は漆黒の夜を反射していた。

「…………」

 任務は失敗に終わった。MASKSが三人もいておきながら、一つの敵を抹消することもできなかった。

 雨宮の銃で傷がつかない。

 高峰の炎は少しも身を焦がさない。

 倉橋の光でさえ、敵を砕けない。

 ――三人もいて……。

 二人の強さを、倉橋も良く知っていた。

 だからこそ、認められなかった。

 その力を。

 嫉妬(しっと)、と言うよりは、畏怖(いふ)、に近いその感情。

畏怖、と言うよりも、憧憬(どうけい)、のほうが素直な気持ち。

 高峰の炎を真似て技を磨いていた。

雨宮の覇気を真似て威張っていた。

 ――それがこの様だ。

 己の弱さが身を襲う。

 隠していたものが露呈して、全てに諦めがつく。否定する気力もなくなって、涙を超えて、笑みが零れる。

 ――何が鉄槌だ。

 視界いっぱいに広がる、漆黒の、闇。目の前に広がる世界は、ただ暗黒で、夜よりも深い、暗澹たる闇の色をしている。

 そこに浮かび上がる。

 空洞の眼球。

 狂気の白色光。

 そして下される。

 そのひと振りで全てを終わらせられる。

 禍々(まがまが)しい凶器。

 ――どうせ俺には……。

 凶器が振り下ろされる直前に、闇が二つに引き裂かれた。

「……!」

 倉橋は驚いて目を見張る。

 二つの眼球が緩やかに(くぼ)み、千切れた亀裂からさらに濃い闇が体内を掻き乱す。光は闇に(おぼ)れて押し潰される。

 漆黒が破裂して、夜の中で黒い雪に変わる。粉々になった破片が舞い散る中に、死神(しにがみ)の姿を倉橋は見た。

 ――死神。

 化物の体から引き上げられた、その巨大な鎌は、寒気のするような、殺人的な光を放っている。

顔は闇に埋もれて見えないが、その瞳は、髑髏(どくろ)の眼窩で眠っていたような、怪しい殺意を帯びていた。

「…………」

 倉橋は安堵の息をついて、黒い雪の舞う夜に身を委ねた。

 ――ザイニンハジゴクヘオチル。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ