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第三楽章 罪人の呻き

 夜の中を、彼は彷徨(さまよ)っていた。

 暗然とした道の上には明かりもなくて、他に人の気配も感じられない。夜空を見上げても、月の姿はおろか、星屑(ほしくず)の影さえもそこにはない。静かで、空虚な、漆黒だけが、彼の前を埋め尽くしていた。

 ――何で歩いているんだろう。

 彼の脳裏に(かす)かな疑問が浮かんだ。

 彼は、何故自分が夜の世界を歩いているのかを知らない。どうして自分がこの場所に存在しているのかを知らない。

 どのくらい前からここにいて、どのくらいここにいて、これからどのくらいここにいるのか、彼にはわからなかった。

 意識が生まれたときにはそこにいて、無意識のうちに彼はその世界を、あてもなく進んでいた。

 行く先があるわけでもない。彼が向かっている先に何があるのかなど、そもそもどこへ向かっているのか、本当に目的の場所があるのか、彼は自分がこの世界に存在している理由を知らなかった。

 ――確か、さっきまで……。

 夜の世界を彷徨いながら、彼は自分の記憶をたどっていく。そこに全ての答えがあるような気がした。その直感を、漠然と信じていた。

 彼は思い出そうとした。

 理由を知ろうとした。

 けれど。

 ――……忘れた。

 思い出せなかった。

 何度も何度も思い返して、必死に思い出そうとしたのだが、記憶の断片すら見えてこなかった。

 何も思い出せない。

 何もない。

 彼の中に記憶はなかった。

 頭には、(もや)がかかっているどころか、彼の頭の中は全くの無に等しい。夜の闇と同じ形をしていた。

 ――ま、いっか。

 記憶がないことはなんとなく悲しかったが、それと同時に、彼はなんとなく安堵を感じていた。

 どう表現すればいいだろうか。

 何も思い出せない。

 何もわからない。

 覚えていない。

 記憶がない。

 その事実が、不思議と嬉しく思えた。

 解放された気分。

 今まで彼の中に重く(よど)み、拘束して、(いばら)の縄のように自分の身体(からだ)に食い込んでいた痛みから解き放たれたような、許されたような、甘い香りが体中に満ちてくるような、幸福な、本当に幸福な感情。

 割れた窓は、見ているだけで心の中を不安にしていくけれど、亀裂から吹き込んでくる風は清涼(せいりょう)としていて、閑散(かんさん)とした部屋の中をそっと満たしてくれる。そんな情景と似ていると、彼は思った。

 ――何でここにいるんだろう。

 彼の脳裏に再び疑問が浮かんだ。

 彼は、何故自分が夜の世界を歩いているのかを知らない。どうして自分がこの場所に存在しているのかを知らない。

 どのくらい前からここにいて、どのくらいここにいて、これからどのくらいここにいるのか、彼にはわからなかった。

 意識が生まれたときにはそこにいて、無意識のうちに彼はその世界を、あてもなく進んでいた。

 ――少し前までは……。

 彷徨いながら、彼は自分の記憶をたどっていく。そこに全ての答えがあるような気がした。その直感を、漠然と信じていた。

 彼は思い出そうとした。

 理由を知ろうとした。

 けれど。

 ――……何してたんだっけ。

 思い出せなかった。

 何度も何度も思い返して、必死に思い出そうとしたのだが、記憶の断片すら見えてこなかった。

 何も思い出せない。

 何もない。

 彼の中に記憶はなかった。

 神経伝達素子(ニューロン)刺激(エネルギー)を感じない彼の精神には、ただただ、深海の色をした暗黒の湖が広がっているだけだった。

 ――ま、いっか。

 記憶がないことはなんとなく悲しかったが、それと同時に、彼はなんとなく安堵を感じていた。

 その直後に、彼の頭の中に何度目かの疑問の泡が浮かび上がって、脳髄の中で無数に弾けて細かい気泡を放つ。

 ――何で歩いているんだっけ。

 記憶する能力を失った彼の頭は、何度も同じ迷宮に迷い込んで、同じ思考を繰り返す。そんなことにも気付かずに、彼は永遠と迷宮の中を彷徨い続ける。

 その行為は、閉塞的な檻の中で、いつまでも、いつまでも、歯車の上を走り続ける、ハムスターの姿に似ていた。

 ――ザイニンハジゴクヘオチル。

 彼の頭の中に言葉が浮かんだ。

 ひどく懐かしい響きを持つ言葉だった。

 ――どういう意味だっけ?

 どこかで聴いたことがあることは確かだった。

 彼は思い出そうとしたけれど、やはり思い出すことができなかった。何度も何度も彼は記憶の中をたどろうとしたのだが、結局記憶の端すら見えてこない

 彼が考えている間に、再び同じ言葉が、同じ声が、彼の頭の中に響き渡る。

 ――ザイニンハジゴクヘオチル。

 その美しい音が、彼の頭を優しく揺する。

 意味はわからない。

 しかしこの音と、何より響きがとても美しく、気持ちよいもののように彼は感じた。そう思えてならなかった。

 ――きれいだなぁ…………。

 美しい旋律(ハーモニー)

 その歌声(トーン)

 言葉なんかに意味はない。

 どんな歌詞であろうと、素晴らしい歌詞でも、普段では言えないようなひどい内容の歌詞であったとしても、曲の中では全く関係ない。

 その音色やリズムだけが、歌全体の良し悪しを決定している。

 ――何だろう。

 美しいということだけで十分なはずだった。音だけに、この音の存在意義がすべて含まれているのだと彼は思う。

 思うのだけれど、やはり気になった。

 言葉の意味を。

 歌は音と言葉で構成されている。音の美しさはもちろんだが、歌詞を当てるときに、その音と感情を表現しなくてはならない。

 だから存在しているはずだ。

 言葉の意味が。

 けれど、わからない。

 どんなに考えても、どれだけ聴いても、どれだけ感じても、どんなにわかろうとしても、その美しい旋律だけに陶酔(とうすい)してしまって、うまく思考が回らない。

 ――ま、いっか。

 全てがどうでもいいような気がしてきた。

 過去を思い出そうとしても、思い出せない。どんなに考えても、自分には何もわからない。理解ができない。理解が及ばない。

 そもそも、過去を思い出したところで、今の自分に一体どんな利益があるのだろうか。過去を知ったところで、今の状況を理解したところで、自分自身の、一体何が変わるというのだろうか。

 ――そんなこと。

 思い出すことに意味がないように思えてきた。

 彼は静かに夜の中を歩いて行く。

 それと同時に、彼は静かに意識を闇の中へと沈めていく。

 ――いらない。

 過去は、過ぎ去ってしまったものだ。

 終わってしまったことなのだ。

 終わったことを知ったところで、何の意味があるのだろうか。

 昔を思い出すことに、何の利益があるのだろうか。

 良い思い出は、今はもうないものではないだろうか。

 悪い思い出は、ただ自分を苦しめるだけのものではないだろうか。

 ――もう、いらない。

 記憶なんて、なくていい。

 今の辛い現実を見て、良かった過去を懐かしみ、欲して、嫌な今に絶望することも、嘆くこともない。

 悪い記憶を思い出して、泣くことも、八つ当たりすることも、他人を呪うことも、自分を憎む必要もない。

 ――な、に、も……。

 夜の世界は、暗黒と静寂に包まれている。

 街の中では煌々(こうこう)と輝く光に満ち溢れていて、天空に散りばめられた星々は、そんな賑やかな人工の灯りに()き消され、行き交う人々は互いに無関心で、光の中に埋もれて見えなくなっている。

 ――…………い、ら……な。

 彼の心が消えかける。

 ちょうどそのときだった。

 彼の瞳に、一人の男の姿が映った。

 少年の姿を認めたのは、ほとんど偶然に等しい。街灯の少ない寂しい路地を、その少年は一人で歩いていた。

 何もない、虚無の漆黒の中で、その少年の存在が異様なまでにはっきりと、彼の視界には映っていた。

 周囲の景色は次第に薄れていくのに、彼の意識すら消えようとしているのに、その少年の気配だけはどこまでも色()せることなく、むしろ光を増していくような、強烈な像が、黒ずんだ世界の中に浮かび上がっていた。

「……」

 遠ざかる少年の姿を、彼は追う。できるだけ音を立てずに、できるだけ早く、彼は少年に近づく。

 彼の体がそうさせる。

 彼の意識とは関係なく、無意識のうちに、自然と自分の体が動いていく。夢の中にいるように、ただ意味もなく、わけもわからず、目の前の状況だけが提供される。自分では変えられない世界。

 それとも、本当に夢なのだろうか。

 彼がいる場所は、漆黒の夜の世界も、彼が一人で歩いているという状況も、その世界に一人の少年が現れるという現象も。

 何故、という言葉すら浮かばない。

 受け入れているわけではない。ただ、思考の中に疑問が出てこない。それが、夢であることの証明なのだろうか。

 少年が何かを言っているのが聴こえた。

「ったく、郡内(ぐんない)のヤロー」

 夜道の上で、少年は独り言を呟く。二人だけの空間の中で、その音は不思議なくらい鋭利に彼の体を震わせる。

 ――どういう意味だろう。

 その音が何を意味するのか、彼は理解できなかった。

 彼にとって、目の前を歩く少年から発せられた言葉は、音でしかなかった。外国の言葉だとか、早すぎて聞き取れないとか、そういう概念がない。

 音なのだ。

 純粋な音。

 手を叩いたり、歩くときの音だったり、風の(うな)り声だったり、車の走るエンジン音だったり、彼にとって、聴こえるものは音という概念であって、擬音でしか表現できない。

 意味などわからない。

 それでも彼は、少年の言葉を黙って聴いていた。

「余計なことしてくれやがって」

 その音を聴いた、直後だった気がする。

 ――ォォォォ…………。

 彼の体の中を、何かが駆け巡る。

 何かはわからない。それは彼の中で加速して、熱を帯び、彼の体に満ちたそれは、彼の体を麻痺(まひ)させる。

 体の感覚がなくなる。

 暑いとか、寒いとか、固いとか、柔らかいとか、明るいとか、暗いとか、疲れたとか、(しび)れているとか。

 どこにいるのか。

 歩いているのか。

 意識が褪せていく。

 何故ここにいるのか、何故少年がいるのか、何故少年だけが見えるのか、何故少年を追うのか。

 何故。

 なぜ…………。

 ………………………………。

「折角のいじめキャラだったのに」

 その言葉が引き金となった。

 ――オオオオ…………。

 彼の口から音が漏れる。彼の意思とは関係なく吐き出されたその音は、低い地鳴りのように空気を震わす。

 目の前の少年が立ち止まった。

 おそらく、気付かれた。

 きっと、音が聴こえてしまった。

「?」

 少年は振り向いた。

 彼は少年の顔を見た。

 少年の目に彼の姿が映る。

 見た瞬間に、少年の体が硬直する。少年の顔から、(はた)から見ていてわかるくらいに、血の気が引いていく。

 先程までの怪訝(けげん)そうな、鋭い目つきから、次第に表情が薄れていって、闇夜の中で、蒼白に近い色だけがぼんやりと浮かび上がる。

 彼も黙って少年を見つめていた。

 いや、見えていると言ったほうが適切だろうか。彼の中には、別段その少年を見ようという意識はない。勝手に焦点が合うのだ。まるで自分の眼が自分のものではないような、まるで自分の体が最初から誰かの意思によって決定された動きをするような、目の前で実際起こっている出来事のはずなのに、液晶画面を通して画像野が理解している。

「…………」

 彼は気付いた。

 彼の体に満ちていたもの、それは音だった。彼以外には聞こえない、彼の中で充満し、音は彼の体を支配した。

 ――オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――ッ!

 彼の口から音が溢れ出した。

 それは咆哮(ほうこう)に似ていた。

 獣のものより数段高い、そして大音量の超音波。

「……っ!」

 少年は彼に背中を向けて駆け出した。

 ――オオオオオオオオオオッ!

 彼の体は、走る少年の後を追いかける。

 少年は一生懸命走っているように見える。しかし彼の体は、少年の速度に合わせるように移動している。

 彼の目は、進む先に信号を捉えた。

 信号の色は赤だった。

 ――オオオオオッ!

 信号まで残り十メートルのところで、彼の体が速度を上げる。彼の体はそのまま前方を走る少年の体にぶつかり、少年の体はその勢いで前に押し出された。

 …………………………………………。

 その後で何が起こったのか、彼は覚えていない。

 彼の最後の記憶は、数台の車とそれを囲う何人かの人間、そしてその中央で横になったまま動かない、一人の少年、という構図の光景だった。

 ……………………。

 それを見たとき、彼は悲しくなった。

 ――どうして。

 同時にうれしくもあった。

 ……………………。

 どこかで頭が麻痺したような、暖かい幸福感が彼の中に満ちていた。

 麻薬を体内に取り込むと、幻を見たり、空を飛んでいるような感覚になるらしいのだが、そんなものかなと、彼はおっとりとした気持ちで思っていた。その感覚すら、麻薬に浸っているのではないかと、彼はぼんやりと考えていたが、だからといって、彼の中で特に焦る気持ちも、心配する気持ちもない。

 …………………………………………。

 ただ純粋な幸福。

 次第に満たされていく解放感。

 そんな(ゆが)んだ幸福を感じている自分は、どこかおかしくなってしまったのではないかと、彼はすでに気付いていた。

 気付いている自分に、やはり安堵していた。

 ……………………………………………………………………。

 しかし、そんなことはどうでもいい。

 周囲のことなんて。

 彼の記憶なんて。

 気持ちなんて。

 そんな感情など、もう彼の記憶からはなくなる。音が彼の体を浸食して、彼の意識はその音の中に埋没していった。

 ――ザイニンハジゴクヘオチル。



 その日はとても暑かった。

 六月も中旬に入り、夏用の制服にもだいぶ慣れてきた時期にはなってきたのだが、さすがにこの日の天気はあまりにも凶悪的な気温を含んでいる。

 朝の天気予報では、一日を通してぽかぽかとした暖かい日になる、と言っていたのだが、そんな生易しい表現ではこの日の気候の全てを正確には表せていない。

「暑いねー」

「うん…………」

「暑いよねぇ……」

 どこかでそんな言葉が上がる。

 その表現は的確に現在の事実を表しているのだが、その単語を口にすることに何の意味もないことをほとんどの生徒が理解している。その単語の一つ一つに何の効力もないことをほぼ全ての生徒が知っている。

「あちー…………」

 教室の中にいる男子生徒の一人が、誰にともなく呟いた。

 だが、その言葉に対する返答はどこからも聞こえない。

「………………」

 周囲の無反応には何も言わずに、その生徒は開き切った窓の近くに行って、自分の手を使って必死になって扇いでいる。実に非効率な行動だが、そうでもしていないとこの暑さを誤魔化す(すべ)がない。

 しかし、その非効率的な運動によって、自身の体温が下がるよりも上がることのほうに加担しているという事実も否定できない。

 ただ暑い。

 そして、何をしてもこの残酷な気温から逃れる方法など、この教室には存在しない。

 一切冷房が設置されていない、ここ松風(まつかぜ)高校の中にいては、自然の猛威(もうい)を防ぐことなどできるわけがなかった。

 それでもほとんどの生徒が下敷きかノートの(たぐい)団扇(うちわ)代わりにして、何とかこの異常な暑さを少しでも和らげようと、ささやかな努力を続けている。教室に冷房がないことが、本当に恨めしい。

「暑いねー」

「うん…………」

「暑いよねぇ……」

 昼食の時間、食事の済んだ咲希(さき)たちはそんなことを話していた。そうでなければ教師への不平不満や愚痴をこぼして笑っている。

 そんなごく普通な、ありふれた会話をしているところに、早沙音(ささね)が勢いよく教室の中に飛び込んできた。

「ちょっと聞いて聞いて!」

 慌てたように駆け寄ってくる早沙音を、少女たちが見つめる。

「どうしたの早沙音」

「そんなに慌てて」

「何か特ダネ?」

 少女たちは各々(おのおの)に早沙音に向かって声をかけたが、一方の早沙音にはその声は聞こえていない様子だった。

 少女たちの輪の中に入ってきた早沙音は、息を切らして、何度も激しい呼吸を繰り返していた。

「聞いて!」

 そう言いながらも、早沙音の言葉は自分の荒い呼吸に邪魔されて、なかなか次が出てこなかった。

 少女たちは何とか早沙音をなだめようとする。

「聞くって」

「聞くからちょっと落ち着いて」

「そうそう」

 そう言われて、早沙音は大きく深呼吸をする。

「…………」

 しばらく息を整えてから、ようやく落ち着いてきたのか、早沙音は汗だくになっていることを気にする様子もなく、話し始める。

「今さっき、二年生の教室で聞いてきたことなんだけど」

 早沙音が少し声量を抑えた声を出す。

「……」

 周囲は(わず)かに早沙音のほうへ身を寄せる。密集した空間の温度が悪戯(いたずら)に上昇する。それでも早沙音の貴重な話を聞かないわけにはいかなかった。

 早沙音は言葉を続ける。

「昨日の夜、車に()かれた先輩がいるんだって」

 周囲の女子の間でどよめきが起きる。

「それ本当?」

 早沙音は頷く。

「ホントホント。しかも、自殺しちゃった郡内(ぐんない)先輩をいじめていた、バスケ部の山本(やまもと)先輩だって」

 少女たちの中から叫び声があがった。

「嘘っ!」

「マジで?」

 早沙音は何度も頷く。

「私も、二年生の教室に行ってこの話を聞いたときびっくりしちゃった。いじめを苦にして自殺した人がいて、そのすぐ後に、いじめていた人が交通事故に遭うなんてさ」

 周囲の女子たちは無意識のうちに頷いていた。

「恐いねー」

「また何か起きそうだよねー」

「ちょっと、止めてよ」

「そうだよ。気色悪い」

「ゴメンー」

 一人の女子生徒が口を開く。

「でも自殺があって、次に事故でしょ。しかもいじめをしていた人なんでしょ?」

 早沙音は頷く。

「そうなのよ。まさに特ダネ、って感じでしょ」

 早沙音は近くにあった他人の下敷きを団扇代わりに使いながら弾んだ声を上げる。

 流れるくらいの汗が噴き出しているのに、軽く扇ぐぐらいで、早沙音はそれ以上気にする様子を見せない。どうやら今の早沙音の関心事は、自分が新しく聞き出した新鮮な話題を話すことしかないようだ。

 他の女子が呟いた。

「何か運命的なものを感じちゃうよね」

 その言葉に、早沙音が食いついた。

「そう、それ!私も感じた」

 早沙音が大きな声を出すものだから周囲を囲んでいた女子たちはもちろん、クラスの何人かの生徒たちも気になったのか、こちらの集団のほうに視線を向ける。

「みんなも変だと思わない?」

 早沙音は下敷きで扇ぐのを止めた。

 先程までの、いつもの楽しそうな表情が消えて、早沙音からは滅多に見られない真剣な顔がそこに浮かんだ。

「変、って?」

 一人が訊ねる。

 しかし早沙音はすぐには答えない。

「――こんな偶然って、あると思う?」

 早沙音はそう言って周囲を見る。

 怪訝そうな視線が早沙音に集中する。

「それ、どういう意味?」

 一人の女子生徒が早沙音に訊ねる。

 早沙音は口を開く。

「私思うんだけど」

 早沙音は普段よりもさらに声量を下げる。それに合わせて周囲の女子は耳を欹てて体をさらに乗り出す。

 早沙音は次の言葉を続ける。

「これって、自殺した郡内先輩の霊の仕業じゃない?」

「…………………………」

 一瞬の沈黙。

 時間が凍結したような僅かな間。

「…………………………え………………」

 その直後。

 少女たちの輪の中から驚いたような声が上がった。

「霊の仕業?」

 女子の一人が呟いた。

「そうよ」

 早沙音は頷いた。

「いじめられていたことを怨んだ郡内先輩の魂が、生きている間に酷いことをしてきた人たちに復讐を始めたのよ」

 少女たちの中からどよめきが起こる。

「こわー」

 一人の生徒がおどけた調子で言った。

 周囲の中には真剣に驚いて、怖がって、(おび)えている生徒の姿があったが、少女たちの中には悪ふざけの入った笑みを浮かべる生徒の姿もあった。

 早沙音の発言を真に受けている人と、早沙音の意見をあまり信用してない生徒はほぼ半分ほどのようだ。

 そんな周囲の中から、一人の生徒が口を開いた。

「でもさー」

 周囲の視線が、僅かに話し手のほうへと向かう。

「やっぱ偶然っしょ。幽霊なんているわけないんだし」

「そんなことない!」

 その言葉に対して真っ先に反論したのは、早沙音だった。

「幽霊はいるのよ。世界中で、幽霊が出たってテレビでやってるもん。心霊写真だって残ってるし」

「そのほとんどが作り物でしょ」

 早沙音が熱弁するのに対して、幽霊説を信じない生徒は真っ向から早沙音の意見を受け入れようとはしない。

 早沙音の真剣な表情は睨むようにその女子生徒に向かっていた。

「いるったらいるっ!」

「いないったらいない」

 対する女子生徒は早沙音の意見を流すように反論する。

 早沙音は執拗(しつよう)に訴える。

「いるったらいるのぉ!」

「いないったらいないの」

 早沙音の意見を受け入れない生徒は、あしらうように応答する。

 早沙音の顔が朱に染まる。

「いるってばぁ……」

「いないってば」

 早沙音が真剣に訴えるのに対して、向かっている女子生徒のほうはオウム返しのようでやる気が見られない。

 それは早沙音に幽霊を否定する類の話をしても無駄だと考えているというよりは、(はな)から霊的な存在など信じていなくて、それが至極当然のように思っているからだ。

「…………」

 周囲の少女たちは心配そうに二人の様子を見守っている。

 それは討論の勝敗がどちらに上がるのかということではなかった。

「ちょっと…………」

 一人の生徒が早沙音に反論している女子に向かって小声で(ささや)く。

「……?」

 呼ばれた生徒が不思議そうに首を(かし)げる。

 他の生徒が、やはり小声で話しかける。

「もうそのくらいにしときなって」

「そろそろヤバいって」

 言われて、その女子生徒は目の前の早沙音を見た。

 不自然なほど堅く結ばれた口元には無理な負荷がかかって(いびつ)な形をしていて、一目見てわかるくらい紅潮した頬は顔全体を朱の色に染めている。

 そして、最も印象的なのが、ピンク色の縁の眼鏡の奥に見える赤く()れた瞳と、目から(こぼ)れ落ちそうなほど溜まった涙。

「……!」

 女子生徒は気付いた。

 だがそのときには遅かった。

「いるのっ!」

 早沙音の口から出た正常な言葉は、これが最後だった。

 ――ああああああああああ――っ!

 甲高い音。

 それが教室の中に充満して、溢れ返る。

 おそらく隣の教室にまで響き渡っているであろう、大音量(ハイボリューム)

 早沙音は泣き出した。子どものように、涙を流して、躊躇(ためら)いもなく、大声を上げて、節度もなく、(わめ)き散らす。

「あーあぁ……」

 誰かが溜め息を()く。

 その場にいた女子もだが、教室の中にいた何人かの生徒たちも、早沙音の泣いている姿を見て同じことを思う。

 ――やっちゃった……。

 早沙音は泣き出すと手がつけられない。

 周囲の女子が気遣(きづか)わしげに早沙音に声をかける。

「ちょっと早沙音……」

「落ち着いてよ」

「なにも泣かなくても」

「みんな早沙音のこと嘘つきだなんて思っていないから」

「そうそう」

「ほら、アヤも謝って」

 先程まで早沙音と言い合いをしていた生徒は、すでに完全に熱が冷めてしまっていた。気まずそうに下を向いている。

「…………ごめん……」

 とても小さな声でそれだけ呟いた。

 それでも、早沙音は泣き止まない。隣の教室にまで響きそうな騒音で泣き喚いているのだから、小声で呟いた程度の女子生徒の謝罪の言葉など、早沙音の耳に届いているはずがない。

 周囲の女子たちがその生徒を()め付ける。

「ちゃんと謝ってよ」

「そうだよ、アヤ」

「何とかしてよねー」

 少女たちから不平の声が上がる。

 早沙音が泣き叫ぶだけでもうるさくて、至極迷惑なのだが、さらに不都合なことがあって、それは早沙音が教師に訴えに自ら足を運ぶのだ。

 早沙音の話を信じてもらえないということで、最初から早沙音といざこざを起こした生徒はその対象になってもおかしくはないのだが、早沙音の場合、話を聞いていた近くの生徒にまでその被害が及んでくる。

 周囲の女子たちが、必死になって早沙音をなだめようとしているのは、単純な(あわれ)みからではない。このままでは、直接の原因になっていない自分たちまで教師からの説教を受けなければならなくなるからである。

 女子たちの視線が、この状況を作ってしまった原因の生徒に集中する。

「…………」

 その女子生徒は困ったように首を(すく)める。

 だが、何人かの生徒はすでに話の輪の中から抜け出していた。

 早沙音が泣き出したとき、被害を受けないで済むための最も効率的な方法は、最初から早沙音の話を聞いていなかったことにすること。できるならば、面倒なことになる前に逃げ出しておく。

 咲希も、その一人だった。

 すでに早沙音のいる集団からは距離を置いて、自分の席に何事もなかったように座って、次の授業の支度をしている。

 ――幽霊、か……。

 咲希は遠くを見るような目で、まだ騒ぎ続けている早沙音のほうを見ていた。そうこうしているうちに、昼休みは終わってしまった。



雨宮(あめみや)くん、ちょっといい?」

 放課後、咲希は教室に入ってきたばかりの雨宮に声をかけた。

 雨宮は不思議そうな顔をする。

「うん。いいけど。何?」

 雨宮は訊ねる。

「訊きたいことがあるから屋上に来て」

 そう言ってすぐに咲希は教室を出る。雨宮の返事を待たずに、咲希はそのまま階段のほうへ行ってしまった。

「……」

 雨宮は状況がうまく理解できなかったが、ただごとではないだろうと感じて、咲希の後を追った。

 咲希は早足で歩いていく。雨宮と咲希にはかなりの身長差があるため、雨宮はどうしても小走りにならないと咲希の後をついていくことができない。

 咲希は速度を緩めることなく、階段を上っていく。咲希に遅れないように、雨宮も階段を上っていく。階段を上るにつれて人の数が少なくなり、屋上の手前の踊り場にはもう誰もいなかった。

 咲希は屋上に出るための扉を開けた。

 ――ギギギギギギィ…………。

 錆びた金属が触れ合う、独特な旋律(ハーモニー)

 好んで聴いていたくない、不協和音(ノイズ)

 しかし、不快な音ほど耳に残りやすくて、離れにくい。いつまでも耳の辺りをくすぐって、聞こえない残響が背筋に不快なものを残す。

 咲希は意識を集中させてその音を聞き流していたが、後ろから付いてきた雨宮は反射的に顔を(ゆが)める。

 咲希が開けた扉は、閉まる方向へゆっくりと倒れていき、扉が閉まらないように雨宮が両手で押さえた。

 ――ギィギィギィ…………。

 重い扉をゆっくりと押し開けて、雨宮は屋上へ降り立った。しばらくして、屋上の扉は派手な音を立てて閉まった。

「…………」

 屋上には、咲希と雨宮の、二人しかいない。元々、屋上に人が来ることは滅多にない。仮に人がいても一人か二人、特にすることもなくて、ただ人と一緒にいたくない時に、こっそりと屋上で(ひま)(つぶ)す。

 咲希が今まで屋上にいて、他の人と一緒になることはほとんどなかった。咲希は頻繁に屋上に来ていた、二週間前より以前になるが。ちょうど、咲希の心には、まだフラストがいた頃になる。

 咲希のフラストは人を拒絶する性質を持っていた。

 誰かと一緒にいることが嫌いだった。人の存在を認めるだけで、咲希は反射的に嫌悪感を抱いていた。

 その声も、存在も。

 他人を異常なまでに意識していて、他人の全てを悪く解釈していて、他人というだけで嫌なものだと決めつけていた。

 だから避けた。

 他人を。

 人のいる場所を。

 フラストがまだ心の中に住みついていた、当時の咲希にとって、屋上は誰も寄り付かない(いこ)いの場だった。

 誰とも関わらなくていい、誰かを意識する必要のない、自分だけでいられる、自分だけに許された、絶対空間(メッカ)

 ――ここへ来るのは、久しぶりだな。

 今は屋上に来ることはない。少なくともここ二週間は、咲希は一度も屋上に来たことがなかった。

 それは、来る必要がなくなったからだ。咲希の心の中からフラストがいなくなって、誰かと一緒にいることを不快に感じることもなくなって、無理に一人でいることを望むことがなくなったからだ。

 自然と誰かの中にいて、その空気の中で他愛(たあい)もないことを語り合う。

 前までは無駄な会話は無意味だと決めつけていて、その話声がただただ苦痛にしか聞こえなかったが、今では人の中にいても不快には感じず、誰かと話しながらまだ若干の抵抗はあるものの、笑顔が生まれ始めている。

 ――何も変わっていない。

 咲希は空を見上げて深呼吸する。

 青い空も、白い雲も、肌に触れる空気も、静かに流れる風の音も、何も変わらない。何もない静寂の景色だけは、今も少し前も、変化するところはない。

 ただ、二週間前よりも、心を()き付けられるものは感じられない。心の奥底から掻き立てられる強い安息はもうなかった。

 咲希の胸をくすぐる(かんば)しい美酒の香りは乾いた風の中に褪せてしまい、静寂の誘いはもう咲希の耳には馴染(なじ)まない。咲希の心は、とって作ったような閑寂(かんじゃく)など、もう求めてはいなかった。

「……」

 咲希は二週間ぶりに屋上に立っている。

「訊きたいことって?」

 後ろから雨宮が訊いてきた。

 咲希は振り返って手招きをする。

「こっち」

 雨宮はゆっくりと咲希に近づく。

 咲希は歩いて、屋上を仕切る手すりにそっと手を乗せる。雨宮はその二メートル手前で足を止める。

 咲希は雨宮のほうへ顔を向ける。

「昨日二年生で車に轢かれた人がいるって聞いた?」

 咲希が訊ねる。

 雨宮は頷く。

「……うん」

 咲希はさらに訊ねる。

「その人がいじめをしていたってことは?」

 雨宮は頷く。

「知ってるよ」

「早沙音は自殺した人の霊の仕業だって言ってたけど」

 咲希は言葉を続ける。

「これって、フラストのせいじゃない?」

 雨宮は困惑した表情をしている。

「その可能性は、あるね」

 咲希は顔色を変える。

「だったら、早くなんとか――」

 しないと、と言いかけたそのときだった。

 ――ギギギギギギイイィィィィ!

 屋上の扉が勢いよく開いた。

「!」

 咲希は咄嗟に言葉を飲み込んだ。

 雨宮も、慌てて振り返る。

「………………」

「………………」

 二人は黙って扉のほうを注視する。

その直後に、人の声が飛び込んできた。

「お、海斗(かいと)。やっと見つけたで」

 倉橋(くらはし)が二人に向かって駆け寄ってくる。

 雨宮の顔から緊張の色が消えた。

「倉橋くん」

 雨宮は小さく呟く。

 その声が聞こえたのか、聞こえていないのかは定かではないが、雨宮の傍まで来た倉橋は、わざとらしく不服そうな声を出す。

「まったく、お前って奴は。すぐどっか行ってまうんやから。お前探すの大変やったんやからな」

 雨宮は困ったような顔をする。

「そんなこと言われても……」

 呆然としている咲希をよそに、倉橋は咲希のほうを見て軽く頭を下げる。

「すんまへんな。ちょっと海斗借りてくで」

 咲希は反射的に叫ぶ。

「ちょっと待って!」

 雨宮の手を掴んだ倉橋は、驚いて足を止めた。

「倉橋さんは、雨宮くんとどういう関係なんですか?」

 咲希はじっと倉橋を見つめる。

 倉橋は意地悪っぽく笑う。

「ヒ・ミ・ツ」

 咲希はまだ倉橋から目を離さなかった。

そして再び口を開いた。

MASKS(マスクス)、ですか?」

 咲希の言葉を聞いた直後に、倉橋は目を大きく開く。その状態で何も言わなかった。腕を掴まれていた雨宮は気まずそうに黙っていた。

「……………………」

 しばらくしてから倉橋は(まゆ)をひそめて雨宮を見る。

「おい、海斗。いくら彼女やからて、喋りすぎやぞ」

「かっ……」

 雨宮と咲希の二人の顔が一気に赤くなる。

「彼女なんかじゃないよ!」

「そうよ!雨宮くんは私を助けてくれた恩人なだけよ!」

 二人の挙動(きょどう)を見ていた倉橋は破顔(はがん)する。

「わーてるって」

 倉橋があまりにも簡単に言ってしまうものだから、咲希は二の次が出てこなかった。咲希は顔を薄ら紅潮させたまま、倉橋のほうを見ていた。

 倉橋は笑っていた。

「あんたが上嶋(うえじま)さんか」

 自分の名前が出てきたことに咲希は戸惑いを感じたが、倉橋はそんな咲希には構わずに、言葉を続ける。

「海斗から聞いてるで。フラスト持ってたんやて。でもすごいな、自分で自分のフラスト散らしたんやろ。――下の名前、何てーの?」

 咲希は、すぐには答えなかった。

「……」

 しばらく、警戒したような目で倉橋のほうを見ている。

 咲希は倉橋と話をしたことは、まだ一度もなかった。真奈の話から、倉橋のことについては多少の知識があったが、咲希自身が直接倉橋と話をしたことがなかったので、倉橋が咲希の名前を知っているはずはなかった。

 しかし、咲希の質問に否定する様子はないし、倉橋の口から「フラスト」という単語も出てきたので、どうやら咲希が考えていたことは(おおむ)ね当たっているらしい。

 咲希はややあってから答えた。

「……咲希」

 倉橋は愛想のいい笑みを浮かべる。

「咲希はんか。ちょっと人けーへんか見ててもらえる?」

 咲希は僅かな戸惑いを感じた。

「……いいの?」

 聞いていて、という意味で言ったのだが、倉橋は即座に頷いた。どうやら咲希が二人の話を聞いていてもいいようだ。

 咲希が扉の傍に着くと、それを確認してから倉橋が話し始めた。

「あの噂好きの嬢ちゃんから話聞いたか?」

 雨宮が訊き返す。

「昨日あったっていう、事故のこと?」

 倉橋は頷く。

「そいつが自殺した郡内をいじめとった奴やっちゅーことは?」

 雨宮は頷く。

「知ってる」

 倉橋が再び質問を投げかける。

「どう思う?」

 雨宮は微笑(わら)う。

「さっき上嶋さんにも同じことを訊かれた」

「さよか」

 倉橋は咲希のほうに目線を向けた。

 咲希は一瞬身構えたが、倉橋はすぐに雨宮のほうへと視線を向ける。

「俺も、これにはフラストが関わっとると思うんや。そんで、今日調べよう思うんやが、ええか?」

 雨宮は頷く。

「うん。もちろん」

 倉橋は派手に手を叩く。

「よしっ!決まりや」

 雨宮が訊ねる。

「場所と時間は?」

 倉橋はすぐに答える。

「場所は学校がええやろ。目的の近くやろうしな。時間は、せやなぁ…………。人がいなくなった後でええや」

 雨宮が不平の声を上げる。

「それ、適当すぎだよ」

「ええやん、そんなん大体で。第一、時間通りに動いてくれるフラストなんて、どこにもおらんて」

「それはそうだけど……」

 雨宮はまだ納得がいかなかった。

 倉橋は気にせず話を完結させる。

「ほな、そういうことで」

 そう言って、倉橋は扉のほうへ向かう。

 咲希と目が合って、倉橋は軽く会釈(えしゃく)する。

「おおきに」

 咲希はじっと倉橋のほうを見つめたままだった。

「ねえ」

 不意に声をかけられて、倉橋は立ち止まった。

 咲希は言葉を続ける。

「私も行っていい?」

 咲希はしっかりと倉橋の姿をその瞳に捉えていた。

「ダーメ」

 倉橋は笑って言った。

「行くから。絶対に」

 咲希は真っ直ぐ倉橋を見ていた。

 倉橋は笑顔を残したまま苦渋の表情を浮かべる。

「あんな、咲希はん」

「なんと言われようと、私は行くから」

 咲希の言葉には強いものが感じられた。

 さらに言葉を続ける。

「怪我人が出たのよ。しかも車に轢かれたなんて、ただごとじゃない。他人事(ひとごと)みたいに振舞っているなんて、私にはできない」

 倉橋は溜め息を吐く。

「そんで」

 倉橋が言った。そこに先ほどまでの笑顔はなくて、倉橋の顔にはどこか冷え冷えとするものがあった。

 倉橋は冷めた目で咲希を見る。

「あんたが来たところでなんになる?」

「…………」

 咲希は黙ってしまった。

 その後を倉橋が続ける。

「心配や、気になる、そんなこと言って、あんたに何ができるの?これは俺らの領分や。あんたが首突っ込んでええことやない。あんたの件はもう終わったんや。自分と同じ目におうてる人がおる思うて気になるんはわかるわ。けど、何もできへんのやったら、噂好きの彼女と同じやぞ」

 確かに、咲希にできることは何もない。

 咲希には、あんな化物と戦える度胸も力もない。行ったところで、邪魔にしかならないかもしれない。

「でも……」

 咲希は口を開く。

「それでも私は行きたいの。行って、自殺してしまった郡内さんの心に会いたいの。いじめられていたときどんな気持ちだったのか、どんなに辛かったのか。そして、今どんな気持ちでいるのか。もしも、昨日の事故を起こしたのが自殺してしまった郡内さん自身だったのなら、そのとき何を思ったのか、知りたいの。そして、できることなら、郡内さんを助けてあげたい。フラストは人を襲う加害者かもしれないけれど、今まで辛いことを抱えてきた被害者でもあると思うから」

 倉橋は静かに聞いている。

 咲希は言葉を続ける。

「だから、助けたい」

 咲希はそう言って倉橋を見つめた。

「…………」

 倉橋は黙ったまま何も言わなかった。それが肯定とも否定ともとりかねて、咲希は最後に付け足した。

「まだダメだって言うのなら、あなたたちの秘密をみんなにバラすから」

 しばらくしてから、倉橋が深く息を吐いた。そうしてから、倉橋は振り返って後ろに立っている雨宮を見た。

「また厄介な奴に捕まったな」

 雨宮は苦笑するしかなかった。



 辺りはすっかり夜の姿をしていた。それでも、あと少しで夏休みに入るこの時期では、あまり寒さを感じない。もう少しすれば、夜でも蝉の声が聞こえる、今よりもいっそう暑い季節になる。

 校門の前に人の姿があった。生徒はもちろん、学校で働く教職員すら帰ってしまったこの時間に、学校の前には三つの人影があった。

「遅いなぁ……」

 一人が呟いた。

 だが残る二人の女子からは何の返答もない。

「………………」

 少年は仕様がなくて、再び黙ってしまう。

 空気から感じ取れるほどの重い沈黙。息が詰まりそうな静寂。しかし誰も何も言わない。三人とも黙ったままで、動こうとしない。

 そこに向かってもう一人、駆け寄ってくる影があった。

「お待たせ」

 倉橋が三人の輪の中に混じった。

「全員揃ったか?」

 倉橋は笑って訊く。

 それを迎える三人の視線は、どことなく冷ややかなものだった。

「遅い」

 高峰(たかみね)が倉橋のほうを向いて呟いた。

 倉橋には悪びれた様子がない。

「お前らが早すぎるんや。人がおらん、っちゅーたら八時ぐらいやろ」

 高峰は自分の腕時計を見る。

 そしてそのままの格好で一言。

「八時半」

 それ以外の言葉はない。

 責めるわけでも、詰問するわけでもない。たったそれだけの、簡素な言葉。

 しかし、その飾り気のない直接的な言葉は妙に強い威圧感を放っている。周囲の空気が一様に緊張を帯びる。

 倉橋は渋い顔をする。

「まだ八時のうちやろ。細かいこと言わへん」

 雨宮が訊ねる。

「もしかして、倉橋くん、家に帰ってたの?」

 倉橋は素直に頷いた。

「そりゃそうやろ。人がいなくなるまで学校に残ってるわけないやないけ。見回りもおるんやし、それも帰る頃やと学校にはおれへんやろ」

 その言葉に、雨宮は一瞬戸惑う。

「……最後まで学校に残っててもよかったんじゃない?」

「何でそんなメンドイ。まさか、残ってたんか?」

「当然」

 これに答えたのは高峰だった。

 いつものように、平坦で、味気ない言葉。女子特有の明るさはなく、喉の奥でくぐもった、やや低めの声。

 高峰が一言口にするだけで、空間全体が異様に硬直して、その空気に触れて、緊張のためか背筋に力が入る。

 倉橋は苦笑いを浮かべた。

「まあ、ええやないのみんな揃ったんやし」

「余計」

 高峰はそのままの姿勢で言った。

 咲希は、自分のことを言われているのだと思って内心ビクリとする。

 高峰は前を向いたままだった。すぐ隣に立っている咲希には少しも視線を送らずに、かといって来たばかりの倉橋のほうに目を向けるわけでもない。

 ただ自分の正面を、高峰の体が向いているほうをずっと見つめているだけだった。そして、そこには誰もいない。

 倉橋は微妙な表情を作って笑う。

「いちいちツッコまんであげてーな。本人がどうしてもってきかへんのや」

 倉橋が笑いかけても、高峰はもう何も言わなかった。それが肯定なのか否定なのか判断しにくい。

「…………」

 嫌な沈黙が夜の中に落ちる。

 仕方なく、倉橋は口を開いた。

「ほな、行きますか」

 その言葉に対して、雨宮は倉橋に訊ねる。

「事故のあったところ?」

「いんや」

 倉橋はすぐに首を振る。

「そこはさっき見てきたんやけどな、全然気配がせーへんのや。フラストもずっと同じ場所にいるとは限らんし、そうなると郡内にとって縁の深い場所をあたったほうがええやろ。ってーなると…………」

 言いながら、倉橋は視線を三人の背後のほうへと向ける。

「この、学校におる可能性が高いと思うんや。それに、ここに来たときからイヤーな感じするしな」

 雨宮は不思議そうな顔をする。

「そうなの?」

 高峰が簡素に呟く。

「鈍感」

「…………」

 高峰に言われて、雨宮は何も言えずに黙ってしまう。

 追い討ちをかけるように倉橋が言った。

「海斗は相変わらず気配が読めんのか。そんなんやから失敗ばっかするんやぞ」

「…………」

 雨宮はさらに俯いて黙り込んでしまった。

 そこに咲希が口を開いた。

「フラストの気配ってわかるの?」

 咲希がフラストの存在を知る方法は、音だった。

 フラストの発する咆哮は、咆哮というよりは金切り声といったほうがいい。人間の耳にギリギリ聞き取れる高音域で、脳の許容量(キャパシティ)を遥かに超える大音量。フラストが現れる瞬間は、大概この音が聞こえる。

 咲希の質問に倉橋は頷く。

「気配がわからんかったら対処に遅れる。被害は増えるし、俺らの正体がバレやすい。せやからその訓練を受け取るはずなんやけど」

 そう言って倉橋は言葉を(にご)した。

「……………………」

 雨宮の姿がいっそう小さく見える。

「気配、ってどんな感じ?」

「せやなあ…………」

 咲希が訊くと、倉橋は少し考え込む。

「たとえるなら、不機嫌そうな人の傍におると居心地が悪いやろ。おっかない人が近くにおると無性にビクビクしてまう。あんな感じや」

 なるほど、と思って咲希は納得する。

「ほな行きまっか」

 倉橋を先頭にして、四人は校門をくぐって学校の中に入る。ゆっくりとした足取りで校庭の中を歩く。

 ――ジャリ、ジャリ、…………。

 夜の学校は静かだ。

 静かで、不気味だ。

 普段は生徒たちがいるために、騒々しいくらい賑やかになるものなのに、誰もいないとあまりの静けさに落ち着かなくなる。

 ――ジャリ、ジャリ、ジャリ、ジャリ、………………。

 昼間はどこを歩いていても人の姿を認めるのに、人気が全くないと誰かがいるのではないかといらない神経が過敏に働く。

 昼間は光が当たって生徒や教師たちに囲まれている校舎も、夜の中では使われていない廃校と同じ姿をしている。

――ジャリッ!

 校庭の中ほどまで歩いたところで、四人は足を止めた。

 ――ウウウウウ…………。

 地面が突然揺れ始めた。



 ――ウウウウウ…………。

 地鳴りがした。

 奇妙な地鳴りだった。

 黒板を爪で引っかくような、不快な音がした。

 手から、足から、爪先に、背筋を、肌を、皮膚を、毛の先にまで、異種の音階が全身を掻き(むし)り、掻き立てる。

 音は風のように体のすぐ傍を駆け抜けていき、空気のように自然に、全身に重くまとわりつく。

 振り払いたくても体が動かない。

 緊張と呼ぶにはあまりにも生易しい、強烈な恐怖。

 その音が、閉塞空間内に反響するように、学校中を埋め尽くすように響いていた。

 ――ウウウウウウウウウ…………。

 そんなふうに、咲希には聞こえた。

 倉橋の口元が緩む。

「来よったな」

 目の前に、夜と同じ色をした霧が立ち込める。闇と同化した霧は、空気の中で揺らめく。揺れる闇は、海の底にいるような気分がする。

「あなたたちぃ、どいてなさぁい」

 その言葉の直後に、雨宮は咲希の腕を掴んで校門のほうまで下がる。倉橋も同様に、校門に向かって駆け出す。

 言ってすぐに、高峰は扇子を取り出して、薄暗い霧に向かって(あお)いだ。

 ――おおおおおおおおおおおおおおおッ!

 夜が炎上する。

 ――ウアアアア……。

 それと同時に不協和音がいっそう強くなる。

 炎光が高峰の姿を照らし出す。高峰が手にした扇子と、彼女の顔の左側面を覆う(あか)い仮面がその光を反射する。

 先程まで存在していなかった仮面。

 それが高峰の顔にかかっている。

 赫い、仮面。

 目や口など、顔の各部位は非常に小さくて、黒い点のような、シミのようにしか見えないほど、存在感がない。

 ただ、赫い。

 どことなく黒ずんだ、重々しい色をしている。

 その赫は、均一に仮面を彩るのではなく、燃えるような、荒く波打つように、仮面全体を侵食している。

 高峰は再び扇子を煽ぐ。

 ――おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!

 炎が火烈を得る。

 ――アアアアアアアアアアアアアアアアアア――ッ!

 高音域の不協和音は次第に悲鳴のように聞こえてきて、それとともに霧が一つの形を成していく。

 最初はただの影だった。何かがいる、何かが現れたのだということしか理解できない程度の薄い存在。

 それが次第に厚みを持つ。具現化が進むにつれて、周囲を囲んでいた闇の霧が徐々に薄れていく。

 霧が姿を現す。

 その様子が異常なくらいはっきりと、正確に、咲希の目に映っていた。

 ――あれは……!

 最初、咲希にはそれが鳥のように見えた。それが完全に姿を現すと、確かにそれは鳥のようにも見える。

 鳥の骨格に。

 蛇のように長い胴を持ち、蛇の骨のように黒色の骨片が連なっている。もたげられた頭の少し下には、鳥類の翼の骨のような腕が左右に伸びている。

 しかし腕の先端には人の手に相当するようなものは見られず、両翼全体が魚の(ひれ)のようにも見える。

 炎の中で暴れ回る化物の全長は、二十メートル以上はあるだろうか。化物の二つの目が炎の中で赤く光る。

「アオオオオッ!」

 化物は高峰に向かって突進する。

 高峰は横に飛んで回避する。一度地面を蹴っただけなのに、高峰の体は五メートルほど跳躍する。

「倉橋くん、上嶋さんをよろしく」

 校門の傍で立っていた雨宮が倉橋に向かって言った。

 倉橋が渋い顔をする。

「俺がお守り役かい」

 雨宮は目を細めて笑う。

「僕が挽回しないと、意味がないでしょ?」

 そう言ってから、雨宮は正面に顔を向ける。

 そして右手で自分の顔を覆い、右にずらす。

 仮面が現れる。

 先程まで存在しなかったはずの仮面。

 奇怪な仮面だった。

 人の顔を模した、右目だけ異様に膨らみ、派手派手しい、太陽か花のような、三角形を幾つも右目の輪郭にあしらった奇抜な仮面だった。

 三角形の飾りは赤、黄色、オレンジで構成された、実にけばけばしい色をしていて、その中央に居座った瞳は、黒か灰色の円を何重にも巻いており、目の中で渦を巻いているように見える。

 南国の、どこかの未開発な部族が装飾に用いそうな、極彩色の仮面が楽しそうな、子どものように正直な笑みを浮かべて、雨宮の顔の右側面で揺れている。

 雨宮は正面を見据えたまま、乱暴に呟く。

「黙ってそこで縮こまってろ」

 雨宮は左肩に提げていたショルダーバックからサブマシンガンを取り出すと、化物に向かって駆け出した。

 咲希は倉橋のほうを見た。

「倉橋さんは、行かなくていいの?」

 倉橋は軽い口調で答える。

「二人もおんねん。大丈夫やろ。それに、普通は一人で相手せにゃならんからな、フラストとはな」

 ふーん、と言って咲希は正面を向く。

 ――どどどどどどどどどどッ!

 雨宮の放った弾丸がフラストに命中する。

 フラストは、そのまま雨宮に向かって突進する。雨宮も高峰同様、人間離れした跳躍を見せて、その攻撃を(かわ)す。

「オオオオオッ!」

 雨宮のほうを見たフラストが、突然消える。

 ――どッ!

 雨宮はトリガーから指を離して辺りを(うかが)う。

「……」

 次の瞬間、雨宮の目の前でフラストの頭部が現れる。

 距離にして、僅か五十センチ。

「!」

 雨宮は銃を構える暇もなく、フラストの突進をそのまま受ける。

 ――ガンッ!

 夜の中に消えていた体が徐々に修復され、フラストは雨宮と一緒に、学校を覆う(へい)に向かって突っ込んだ。

「……っ!」

 フラストが再度襲い掛かろうとして、雨宮の持った銃の先から無数の弾丸が放たれた。フラストは僅かに後退して、再び姿を消した。

 その様子を見ていた倉橋が呟く。

「『(きり)』になれるんか」

 咲希が訊ねる。

「キリ、って?」

 倉橋は答える。

「見ての通り、霧になるんや。そうなると物理系の攻撃が効かんようになる。全てのフラストは普段は人に見つからへんように姿を消しとるんやけど、すぐに姿を消したり、元に戻るのを『霧』っちゅーんや。正式には、『ギネン』っちゅーらしいんやけどな」

 咲希が慌てて訊き返す。

「それじゃあ、銃なんて意味がないじゃない!大丈夫なの?」

 倉橋は笑って答えた。

「大丈夫」

 咲希が(いぶか)しんで倉橋を見つめる。

「……」

 その直後。

 ――おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!

 急に目の前が明るくなった。

 凄まじい炎が夜の闇を明るく照らす。

「あたしを忘れないでくれるぅ?」

 高峰がさらに炎を煽ぐ。

 ――おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!

 炎は、油を()かれたように激しく炎上する。何もなかった炎の中に、闇に消えていたフラストの姿が現れた。

「灯は『霧』相手には強いんや」

 倉橋は言った。

「物理系は確かに効かへんけど、炎なら効く。むしろ密度を薄くしてまうから、燃えやすいねん」

 倉橋は軽く笑う。

 確かに、炎に囲まれている間、フラストは姿を消さない。

 雨宮の放つ弾丸をどんなに受けようと、逃げるように空中を彷徨うだけで、先程のように自分の姿を見えなくしてしまう「霧」にはならない。高峰が炎を煽いでいる限り、霧にはなれないようだ。

 ――アアアアアアアアッ!

 しばらく動き回った後で、フラストは動きを止めた。炎の中に居座るように、とぐろを巻く。その恰好(かっこう)は、蛇のものとよく似ていた。

「……」

 倉橋は不思議に思って身を乗り出した。

 ――おあ。

 炎の流れが変わった。

 それは風に微かに揺らめく程度のものだった。

「…………」

 そう見えた直後。

 炎火が一気に膨らんだ。

 ――ああぁぁおおおおおおおお!

 膨張した炎はいたるところで小さく渦を巻いて、その一部が雨宮と高峰に向かって襲い掛かる。

「!」

 二人は瞬時に身を引いた。

 間一髪のところで火炎の勢いから逃れる。

 先程まで二人のいた場所は、すでに炎の中に()まれている。

「……」

「……」

 二人は静かに燃え上がる炎を見据える。炎火の中には、蛇の骨のようなとぐろを巻いたフラストが変わらぬ姿でそこにいた。

 ――どどどどどどどどどどッ!

 雨宮は銃口をフラストに向けて発砲した。

 ――カンカンカンッ!

 弾丸は、フラストの手前で全て消えてなくなる。まるで見えない何かに阻まれるように、雨宮の攻撃はフラストのところまでは届かない。銃弾の当たる音だけが、夜の中に掻き消される音だけが、(むな)しく響いている。

「――『(かべ)』」

 倉橋は驚愕(きょうがく)したように呟いた。

 咲希は不思議そうに訊ねる。

「何なの、それ?」

 倉橋は前を向いたまま答える。

「壁を出すんや。バリアー、っちゅーたほうが理解(わかり)やすいか。自分の周りに見えへん壁を出すんや。せやけど――」

 倉橋の口元が僅かに歪む。

「ありえん」

 咲希は不思議そうに訊く。

「そんなに珍しいの?」

 倉橋は静かに頷く。

「『壁』自体はそんな珍しゅーはないんやけどな。『壁』と『霧』の両方が使える、っちゅーことがありえへんのや。『霧』はフラスト自身の存在を希薄にする能力、『壁』は逆に密度を高くして自分を守る能力、性質が真逆の二つの能力を両方使えるはずがない。少なくとも、俺はそう習ったで」

 倉橋はじっと正面のほうを見つめている。

 咲希も目の前の炎に視線を向ける。

 炎の中には、フラストの姿がはっきりと見える。じっと見ていると、フラストまで炎が届いていないことに気が付いた。

 ――おおおおおッ!

 フラストの体は炎の明かりに照らされて、高峰の操る炎は火柱となってフラストに襲い掛かる。しかし何故かその手前で炎は逆流して、フラストに向かう火柱とぶつかって大きなうねりを起こす。

――どどどどどッ!

 雨宮のサブマシンガンからは無数の弾丸が吐き出され続けている。滝のような轟音を響かせて、その銃弾は動かないフラストに向かって注がれる。

しかし、雨宮の攻撃がフラストに命中することはなかった。見えない何かに当たっては、弾丸は潰れ弾かれたような音しか返ってこない。

「……」

 倉橋は歯痒(はがゆ)そうにその光景を見ていた。

「でも――」

 その表情が、突然崩れた。倉橋の口元が、次第に緩み始める。その顔は、笑っているようにも見えた。

 倉橋はズボンのポケットから手袋を取り出すと、それを右手にはめた。

 その手袋は、甲の部分に反射シールがついていて、指の部分に穴が開いているタイプのものだった。右手にはめただけで、左手には何もつけなかった。

「すぐ終わらせたる」

 倉橋は咲希のほうを見て微笑(ほほえ)むと、左手で自分の顔を覆って、手をそのままの位置にかざして、顔だけを正面のほうへと戻した。顔を隠していた左手を離すと、それが咲希の目の前にあった。

 仮面だった。

 色は定かではない。

 夜の闇に飲まれて、仮面の色彩は判別できない。

 それとも、この仮面には色という概念が存在しないのだろうか。炎光に照らされて、咲希の体は少し赤く光っているが、その仮面には何の光も映らない。

 熱を含んで光り輝く炎も反射しない。

 静寂を帯びた漆黒の夜とも異なる色彩をしている。

 ヒトの目と口の部分だけ、ぽっかりと穴が開いている。

 作りものの顔は、顔と呼ぶにはあまりにも簡素で、表情が(とぼ)しい。目と口だけは表現されていて、鼻や頬の膨らみ、またはそれを表す色づけは一切なされていない。

 目と口があるとはいえ、その部位は各々仮面を()()いただけのもので、単純な円形をしている。

 三つの穴は実に平坦で安易な存在でしかなくて、無表情どころか、ヒトの顔と呼ぶにはあまりにも出来が悪い。

「…………」

 倉橋は何も言わずに戦場の中へ駆けて行く。

 なす術のない雨宮と高峰の横を倉橋は通り過ぎていき、燃え盛る炎の中にその身を投げ入れる。

 倉橋の姿を認めたとき、雨宮は何かを言いかけた様子だったが、その頃には倉橋は炎火の中に入っていた

 倉橋の露出した腕の上を、灼熱の炎が()い回る。倉橋は躊躇うことなく火炎の中を突き進んでいく。

「…………」

 高峰は扇子の動きを止めた。烈火と炎の中に身体(からだ)を沈める化物の姿をただじっと見つめている。

「くそっ……!」

 雨宮も倉橋の後ろ姿を見送っていたが、雨宮が手にしているサブマシンガンの銃口はまだ炎の中のフラストに向いていて、トリガーからも指は引いていないし、力を抜く素振りなどは全く感じられない。

 学校の校庭には、なおも非現実的な銃声の音がけたたましいくらいに響き渡っているが、炎に飛び込んでいった銃弾は標的の手前で見えない何かに防がれて、乾いた音が返ってくるだけだった。

「……」

 炎の中で、倉橋は右手を差し出す。

 目に見えない何かに触れて、倉橋の右手は空中で止まる。

「…………」

 倉橋の右腕が、僅かに光を放ち出す。

 倉橋の右腕の中を、光が流れる。

 炎の色に囲まれて、遠目から見ている咲希の目にはその色が判別できなかったが、倉橋の右腕が光り出しているということには気付いた。

 光は倉橋の体中から絞り出されるように右腕のほうに集まって行き、右腕を通じて右の掌に蓄積されていく。

 光が完全に収束するまで、およそ三秒。

 その間、倉橋もフラストも動かない。

 ――パンッ!

 収束した光が、掌から夜の世界に放たれる。

 ドン、と低い音がして空気を震わす。それとともに、ガラスの割れるような音とフラストの甲高い叫び声が上がった。

 ――アアアアアアアアアアアアアアアアアア――ッ!

 フラストは何かに突き飛ばされたようにその身を後退させて、苦しそうに身を縮める。押し殺したような唸り声を上げて、その場から動かなくなる。

「……」

 倉橋は躊躇うことなくフラストに近寄った。

 フラストは僅かに頭を上げて威嚇するように倉橋を睨みつけたが、微かに声を出す以上のことはしなかった。

 倉橋は自分の右手をフラストの胴体に当てる。

「……」

 再び、倉橋の右腕に光が集中する。

 蓄積されていく光が倉橋の右腕を明るく照らし出す。

 ――ドンッ!

 密集した光が倉橋の右手を通して、フラストの中へと流れ込む。

――ピキッ!

 フラストの体に亀裂が入り、骨片のような体は一瞬のうちに塵になった。

「……」

 それを見て、高峰は右手に持った扇子を閉じた。

その動きに従うように、炎の勢いは次第に穏やかになり、フラストの欠片も夜の中に消えていく。

 悲鳴は聞こえなかった。

 そんな暇もなかったのだろうか。

 そのせいかはわからないが、咲希の耳に音は聞こえなかった。夜の校庭に残ったのは、漆黒と同じ、無の静寂だった。


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