第二楽章 迷界の輪廻
無数の星々が輝いていた。都会では見ることのできない満天の星空が闇夜に広がっている。乾いた空気は冷たく、晩秋の夜は肌寒さを感じる。
そこは木々がうっそうと茂る森だった。人里離れた山奥のこの場所では、都会の騒々しさを微塵も感じさせない。獣の鳴き声と、虫の音と、木々のざわめきしか聞こえない。美しい静寂に覆われている。
「はぁはぁ…………」
少年は、たった一人で大きな木に凭れ掛けていた。少年の口からは、絶え間なく荒い呼吸が吐き出されて、首筋には幾重にも滴が溜まり、汗を含んで濡れた髪は風呂上りのように湿っている。
「くそっ」
少年の口から悪態が漏れる。吐き出された白い息は、すぐに闇の景色の中へ溶け込んで見えなくなる。
少年の虚ろな視線が手元に落ちる。
「重いんだよ」
少年の右手には銃器が握られていた。少年の体には不釣合いな、大きなサブマシンガン。大人が扱うには調度良いのかもしれないが、小学生か中学生ほどの年頃の少年には、持っているだけで精一杯に見える。
「……」
そのとき、少年の目に生気が戻り、荒げていた呼吸を止めて、少年は手にした銃を素早く右側の闇に向ける。
――どどどどどどどどどどッ!
轟音と共に、無数の弾丸が闇に消えていく。弾丸は闇の中で弾けて、そのたびに凍てついた空気を震わす。
――アアアアア―ッ!
銃声と呼応するように、奇声じみた悲鳴が闇の中で溢れ出す。声と呼ぶにはあまりにも奇怪な高周波は、夜の森の中を駆け抜けて、漆黒の闇を劈いた。
――どッ!
少年は引き金から力を抜いた。銃声が止んで、騒音に等しい残響が夜の森に吸い込まれていく。
「…………」
少年は、細い白煙を上げる銃口の先を睨みつける。月明かりに照らされた闇が、歪に砕けて消えていく。そこにはもう、森の影しか見えない。
「…………」
銃口を闇に向けたまま、しばらく少年は動かない。夜の森の中に、静かな緊張がゆっくりと満ちていく。
その光景を、少年の顔の右側面に張り付いた仮面が楽しそうに見ている。
それは奇妙な仮面だった。
人の顔を模した、右目だけ異様に膨らみ、派手派手しい、太陽か花のような、三角形を幾つも右目の輪郭にあしらった奇怪な仮面だった。
三角形の飾りは赤、黄色、オレンジで構成されていて、非常にけばけばしい色合いをしている。
その中央に居座った瞳は、黒か灰色の円を何重にも巻いており、目の中で渦を巻いているように見える。
仮面は少年の顔に、本当にくっついているように、そこに居座っている。
「……」
少年は銃を下ろした。力なく垂れた銃は、少年の凭れかかっている木にぶつかって、小さな音を吐く。
――ガサッ!
少年の真後ろで闇が動いた。
「……!」
その気配を察知した少年は、背にしていた木から離れて、素早く銃を持ち上げると、銃口を闇に向ける。
――ボゴッ。
少年がトリガーに指を掛けたところで、闇の形が歪に膨らんだ。
「……」
少年はその場で硬直した。
少年の持っているサブマシンガンからは弾丸が出ていない。指を引っかけたトリガーは、まだ完全には引いていない。
急激に膨らんだ闇は膨張に耐えられず、破裂した。発泡スチロールのような闇が、ボロボロと崩れていく。
少年は警戒を解かずに、銃口を突きつけたまま静止している。
「…………」
闇が消えると、その向こうに人影があった。
こちらも少年だった。
銃を持った少年よりも、ずっと年上に見える。
寒々とした森の中で、少年は袖のない黒いシャツを見につけて、右手には指の部分に穴の開いた黒い手袋をはめている。
下半身はちゃんと足首まで覆うジーンズを履いていたが、袖のない黒シャツ一枚だけという恰好は、冬の到来まであと少しとなったこの時期では、ましてや標高の高くて冷えやすい山奥で、致命傷なくらい寒々しい。
「…………」
彼の姿を認めて、銃を持った少年はすぐさま口元を歪めて、銃口を下げる。
「テメーか」
少年は軽く舌打ちした。
「……」
彼は黙ったまま少年のほうを見る。
「何でテメーがここにいる?俺の狩場だぞ」
少年が睨みつけても、彼の表情は変わらない。
「誰がお前の狩場だと決めた?」
彼の声は、凍てついた空気に混じって白く濁る。
少年は自分の左手の親指を立てて、その指で自分の胸を指す。
「俺が先に見つけたんだから俺の狩場に決まってんだろ」
少年の口調が荒くなる。
「そんな決まりはない。とっとと失せろ」
彼は平然とした様子だった。
少年が叫び返す。
「んだと!」
「雑魚はそこらへんで隠れていろ。俺が残りを始末しといてやる」
少年は怒りを露にした表情で睨みつける。
「雑魚はテメーだろうが!」
彼は嘲るような笑みを浮かべる。
「隙を見せるような奴に言われる筋合いはない」
「はっ」
少年は顔を緩めて、意地の悪い笑みを彼に向ける。
「どうせ今までこそこそ隠れてたんだろ?」
その言葉を聞いて、彼の顔が初めて崩れる。
「何だと」
彼が睨みつけるのを無視して、少年は言葉を続ける。
「一匹くらい倒したぐらいで、調子乗ってんじゃねーよ。いつもビビッて、逃げ回ってるくせに」
彼の顔に怒気が滲む。
「貴様、言わせておけば……!」
「ホンとのことだろ」
少年が彼に向かって侮蔑の言葉をぶつける。
彼は、少年のほうを鋭い眼光で睨みつける。対する少年も、彼に向かって明らかな殺意を投げつけて睨みつける。
「………………」
「………………」
二人の間を冷たい風が吹き抜けていく。両者は互いに黙したまま、動かない。暗黒の森の中に、重たい沈黙がのしかかる。
最初に沈黙を破ったのは、袖のないシャツを着た、彼だった。
「玉数ばかりで芸のない『跳馬』の分際で」
「一人じゃ何にもできねー『鉄槌』が」
小柄な少年が応える。
彼は手袋をはめた右手に力を込める。
少年はサブマシンガンを強く握り締める。
次いで、少年が口を開く。
「決着つけてやらー」
「望むところだ」
彼が応じて、両者は身構える。
「………………」
「………………」
数間の沈黙。
二人は身構えたまま、動かない。硬直した空気が、周囲を寄せ付けない、張りつめた気配を放っている。
直後。
――どどどどどどどどどどどッ!
暗い森の中を荒々しい銃声が駆け抜ける。
無数の弾丸が彼に向かって放たれた。
彼は右に逸れながら走り出した。彼は弾丸から逃れるように、木々の間を駆け抜ける。躱された弾丸が闇の中へと消えていく。
「……っ」
少年はサブマシンガンを乱射させながら、銃口の先で彼の姿を追う。森の中を疾走する彼に、少年の放つ弾丸は少しも当たらない。
「…………」
少年と彼との距離が少しずつ縮まっていく。互いの距離は残り三メートルほど。同時に、彼と弾丸との間隔は三十センチメートルまでに迫っている。
「…………」
あと少しで弾丸が命中するところで、彼は大きく跳躍した。
彼の体は、天高く伸びた木々と同じほどの高さまで跳ね上がった。サブマシンガンから放たれた弾丸は、標的を失って闇に消える。
「ヤロー……!」
少年は空に向かって銃口を振り上げる。
――どどどどどどどどどどどどどどどどどどどどッ!
しかし乱暴に向けられた弾丸の軌道は、空中を舞う彼を捉えられない。星空の中を無数の弾丸が駆け抜ける。
「…………」
着地した彼は、地面を一蹴りして少年との間合いを詰める。両者の間にあった五メートルほどの間隔が、一瞬でなくなる。
「……!」
彼の右手が、少年の銃を持っている右腕を掴んだ。彼の左側面に垂れた仮面が、少年の瞳に映る。
悲鳴を上げながら雨宮は飛び起きた。
「はぁはぁ……」
体温の上昇した体は何度も激しい呼吸を繰り返して、水蒸気を含んだ息が荒く口から吐き出される。
身に着けた衣服には大量の汗が染み込んでいて、枕に押しつぶされていた後ろ髪は汗のせいで濡れている。
「…………」
荒い呼吸を繰り返しながら、雨宮は唾を飲み込んだ。粘質性を増した唾液は、喉にまとわり付きながら、空っぽの胃の中に落ちる。
大分息を整えながら雨宮は呟く。
「……夢、か」
雨宮の呟いた言葉はそれだけだった。真っ暗な空間の中で、その言葉が妙に強く木霊するような錯覚を覚える。
雨宮の目を覚ました場所は、真っ暗な、闇の中だった。
本当に何も見えない。
何もない。
しばらくして闇に慣れてきた瞳に映るものは、漆黒に染まった壁と、腕も広げられないくらいに壁に圧縮された狭い部屋、普通に座っていてもあと少しで頭をぶつけそうな低い天井、当然だが立ち上がることなどできない。
雨宮が横になっていても、頭と壁の間隔、足先と壁との距離は一〇センチメートルほどしかない。
とても窮屈で、身動きの取れない、閉塞的な場所。普通の人間ならば、好んでこんな場所には入らない。
しかし、雨宮はこの狭い部屋の中にいることに、特別な違和感を感じているようには見えない。
少し大きめに息を吸おうとして、雨宮は腕を伸ばす。
「……っ!」
雨宮は右手を上げようとして、反射的に顔を顰めて動きを止めた。苦痛の表情を浮かべて、しばらくじっとしたまま動かない。
「………………」
咄嗟に閉じた右目をゆっくりと開きながら、雨宮は自分の右腕に目を向ける。
二週間ほど前、雨宮はフラストとの戦いで大きな深手を負った。特に、右腕は肩の根元付近を貫かれた。
――もう治ったと思ったんだけど……。
MASKSの一員である雨宮は、通常の人間よりも遥かに丈夫で、身体の回復力は普通の人よりもズバ抜けている。
体中の傷はほとんど癒えて、貫かれた右肩も包帯を巻いてはいるが、穴のように開いた傷は完全に塞がり、貫通痕はほとんど目立たなくなっている。
――痛みもなくなっていたのに……。
違和感がないわけではなかったが、ここ最近になって雨宮が右肩の痛みを感じたことはなかった。
他の部位の傷も痛みも引いてきて、戦いの傷が順調に癒えて、雨宮は安堵を感じていた頃だった。
――それなのに…………。
雨宮は左手で額に浮かぶ汗を拭った。左の甲に付着した汗が腕の上を伝い、その感触が雨宮には不快に感じられた。
「しかもあんな夢」
夢の終わりは残像のように、いつまでも雨宮の頭の中にこびり付いていた。腕の痛みはもうそれほどひどくはないのだが、右腕を動かすことに抵抗があった。変な違和感だけが雨宮の右肩を薄く覆っていた。
「……」
雨宮は左手を伸ばして枕元にある時計を掴んだ。天辺のボタンを押すと、暗闇の中でデジタル時計が怪しい光を放つ。
起きるには少し早い時間だった。普段ならば、もう少し横になって、学校が始まるギリギリの時間に着けるまで寝ている。
「…………」
雨宮はしばらく考えた。
いつもならば、迷うことなく蒲団に包まっているのだが、今回は珍しく起きることも選択の中にあった。
「……はぁ」
雨宮は小さく息を吐いた。
真っ暗な闇の中でその振動が妙に響いていた。
「起きるか」
雨宮は起きることを選んだ。
普段ならばありえないような、朝早い時間である。
――あんな夢の後だもんな。
雨宮は左手に持った目覚まし時計を元の位置に戻すと、そのまま左手でゆっくりと襖を開ける。
「……」
三センチメートルほど開いた僅かな隙間に右目を押し付けて、雨宮は外の様子を静かに窺った。
そこは雨宮の部屋だった。部屋と呼ぶには、あまりにも生活感のない、閑散としたところだった。
何もない。
テレビや本棚の類は当然のように存在していなくて、テーブルやベッドも、そこにはなかった。
床の木目がそのまま露出していて、そこには塵一つ見当たらなかったが、同時に生活に必要なもの、必要最低限のものすらそこにはなかった。
この場所が、雨宮の住まいなのである。
本当に何もなくて、モノがなさすぎる空間が雨宮の私生活の全てだった。雨宮は、極力自分の家にモノを置かないようにしている。
その徹底ぶりは、もはや異常の域にまで達している。
「…………」
何もない。
そんな日常。
そんな当たり前。
――よかった。
何も変わった様子がないことを確認すると、そろそろと襖を開けて、何もない部屋の中に音を立てないように足を落とす。
小さな窓からは、外の光が少ししか入ってこない。窓の周りだけが異常に明るくて、それ以外の空間は温度差を感じるほど暗かった。
「スクープ、スクープ!」
朝の教室に早沙音の明るい声が響き渡る。
早沙音の声を聞きつけて、何人かの女子が早沙音の周りに集まってきた。みんな興味ありげに早沙音の顔を窺う。
「何々?」
「何の話?」
「例の自殺した先輩のこと?」
集まってきった女子生徒たちが、早沙音の周りに輪を作る。その生徒たちの輪の中に、咲希も混じった。
早沙音は頷いた。
「その通り」
そしていつものように、声の音量を下げて、口元に手を当てて、ここだけの、秘密の話をするような格好になる。
早沙音に倣って、周りの女子たちも僅かに耳を早沙音のほうに向ける。
早沙音が話し始める。
「いじめの話、やっぱり本当だったみたい」
女子の中でざわめきが起きる。
「へー」
「そうなんだ」
「やっぱねー」
「だと思った」
女子たちの反応を見ながら、早沙音は話を続ける。
「結構有名だったらしいよ。二年生の男バス内でのいじめの話。先生たちは知らなかったみたいだけどね」
周囲は頷きながら早沙音の話を聞いていた。
「職員室に行ったら、二年の担任の先生たちが集まって、何か話し込んでるの。どうやら、いじめが本当にあったかどうか、二年生全員に訊くみたいよ」
周りは適当な相槌を打つ。
「本当?」
「よくやるねー」
「でも先生たちにできることって、そんなもんじゃない?」
「まーね」
「そんなとこだろうねー」
「お決まりだよね」
「ていうか、それしかできないの?」
そんな無責任な言葉が飛び交う。
「でもさー」
そんな中で、一人の女子が口を開いた。
「正直に、いじめがありました、って言う人いるのかなー?」
周りの女子たちは難しい顔をして首を傾げる。
「きっといないんじゃない」
早沙音が即答する。
「えー。何でわかるの?」
女子生徒の一人が不思議そうな顔をする。
早沙音は当然のように答える。
「二年の男バスって、クラスでも中心的なグループみたい。先輩の話だと、ちょっと危ない感じの人たちなんだって。だから、その人たちからの仕返しが怖くて、先生にちくるような真似する人なんていないと思うよ」
周囲からは淡白な声が漏れる。
「ふーん」
「ま、そんなところでしょ」
「普通そうだろうね」
周りのざわめきに対して、咲希は黙ったまま、早沙音の話を聞いていた。
明るい声が聞こえたのはちょうどそのときだった。
「おっはよー!」
教室に入ってきた真奈は、咲希たちのほうに近づいてくる。
「何の話?」
話をしていた女子たちは笑って真奈を迎えたが、その表情はどれも、どことなくよそよそしかった。
一人の女生徒が口を開いた。
「真奈には教えられない話ー」
「えー。何それ」
真奈が口元を曲げる。
「教えてよー」
真奈が脹れっ面を向ける。
もう一人の女子が意地悪っぽく笑う。
「ダーメ」
「けちー!」
真奈は顔を真っ赤にする。
それを見て、周りの女子たちは笑い声を上げる。真奈の顔はいっそうの赤みを帯びていく。いつもの、無邪気な子どもの顔がそこにあった。
周りに釣られて、咲希も笑っていた。しかし、笑いながらも、咲希の頭の中は周囲の喧騒から離れていた。
咲希は考える。
――自殺するって、どんな気分なんだろう。
自殺、それは即ち、自ら自分の命を絶つこと。
周りとの衝突、あるいは他者とともに暮らしている中で、居心地の悪さを感じてしまう。このまま己の命を、この世で生きていくことに耐え切れなくて、この世界から進んで縁を切ることだ。
――怖くはないのだろうか。
咲希自身、自殺したことがないから、自殺という行為がどれほど恐ろしいものなのか、想像もつかない。
死ぬ直前までは、自殺した人にも意識があるのだから、死ぬ間際の痛みや苦しみを感じないはずがない。
早沙音の話では、確か自殺した郡内という生徒は、自分の部屋で首を吊って死んでいたという。
――痛くはないのだろうか。
首を絞めた瞬間は、痛くなかったのだろうか。息ができなくて、苦しくはなかったのだろうか。
――辛くはなかったのだろうか。
どんなに咲希が考えても答えは出てこない。
自ら命を絶つことのほうが辛いことなのか。それとも、生き続けることのほうが苦しいことなのか。
それは誰にもわからない。
もしも真奈に、咲希たちが今まで自殺した郡内のという生徒話をしていたことを告げたら、きっと真奈は悲しむだろう。
しかし、真奈がどんなに悲しんだところで、死んだ郡内が報われることはない。そのことは、生きている者にはわからない。
――死ぬって、どんな気分なんだろう。
死とは、即ち、終わりなのだ。
人生の終焉。
たとえ自殺という手段を使って己の苦難を訴えても、いじめをしていた本人たちに裁きが及ばなければ何の意味もないし、自殺という情報は、無関係を装う人間たちへの、退屈な日常を潤す話題提供に過ぎない。
ちょうどそのとき、チャイムの音がスピーカーから流れてきた。休息の終わりを告げる鐘の音が学校中にひびきわたる。
その音を聞いて、生徒たちは日常に戻っていく。
「ここか?」
その男子生徒は「一年二組」と書かれた札のある扉の前で足を止めた。男子生徒の喋り方には、関西風の訛があった。
隣の男子が頷く。
「そうだけど」
男子生徒は破顔する。
「おおきに」
隣の男子が首を傾げる。
「一年の教室に何のよう?」
それを見て男子生徒は再び破顔する。
「知り合いがおんねん。案内ご苦労さん」
男子生徒は相手に手を振ってから、目の前の教室の中へ入っていった。
男子生徒がその教室に入ると、そこにいた生徒たちが物珍しそうに男子生徒のほうに目を向ける。
「こんちは」
男子生徒は、そんな生徒たちに会釈しながら周囲を見渡す。
窓側の奥の席に座っている人物を見つけて、男子生徒は楽しそうな笑みを浮かべる。
「おったおった」
男子生徒はその席へと近づいていく。
昼食を食べ終えた雨宮は、人が近づいてくる足音が聞こえて顔を上げた。その人物の顔を見て、雨宮は目を丸くする。
男子生徒が気さくそうに片手を上げる。
「よっ、海斗!元気か?」
雨宮は黙ったまま、その男子生徒を凝視していた。
「…………」
そんな雨宮を見て、男子生徒は不服そうな顔をする。
「おいおい、何や。せっかく会いに来たんやから、何かゆーたらどうや。それとも、忘れたんやないやろな?」
雨宮の口から自然と言葉が漏れる。
「……倉橋……くん?」
「お、やっと思い出したか」
倉橋は破顔する。
それに釣られて、雨宮も柔らかな笑みを浮かべる。
「久しぶりだね」
「そやな」
倉橋は雨宮の前の席に腰を下ろして、雨宮の机に肘をつく。
「三年振りくらいか」
「そうだね」
雨宮が答える。
二人の席に一人の女子生徒が近寄ってきた。倉橋は顔を上げて会釈すると、真奈も同じように笑顔で応じる。
真奈は雨宮のほうを見て訊いた。
「雨宮くんの知り合い?」
うん、と言って雨宮は頷く。
次いで口を開いたのは倉橋だった。
「昨日転校してきました、倉橋駿いいます。よろしゅう」
倉橋は左手を差し出した。
真奈は少し驚いてから、ゆっくりと左手を出した。その手を掴んで軽く上下に動かして、倉橋は笑う。
最初は戸惑いを見せていたが、いつものように真奈も笑い返す。
次第に三人の周りには人が集まってきた。
「何組ですか?」
握手が終わると真奈が訊いた。
「二年二組。せやからこの上や」
倉橋の返事を聞いて、真奈は大声を上げる。
「倉橋さんって二年生なんですか?」
倉橋は頷く。
そこに別の声が飛び込んできた。
「先輩っ」
いつの間にか、三人の周りには女子生徒たちが集まって輪ができていた。その輪の中から早沙音が顔を出してきた。
「今日の朝、何かありませんでしたか?」
倉橋は首を傾げる。
「何もあらへんで」
「嘘っ!」
早沙音が即座に否定する。
その声を聞いて、倉橋は驚きの表情を作る。
早沙音はなおも言葉を続ける。
「先生から自殺した人の話が出たはずです」
それを聞いて、倉橋は微妙な表情を作る。
「ああ、あれか」
周囲の生徒たちの顔が一瞬強張る。そんな周囲の様子を気にする素振りも見せずに、早沙音は言葉を続ける。
「やっぱりあったんじゃないですか」
倉橋が苦笑する。
「忘れとったわ。でもよく知ってんな、自殺の話」
早沙音は勝ち誇ったような顔をする。
「もちろんです。情報収集は私の特技ですから」
早沙音が得意そうに語る。
「さよか」
倉橋は苦笑いを浮かべる。
満面の笑みを浮かべる早沙音とは対照的に、周囲の女子たちの空気は限りなく淀んでいて、彼女たちの表情もどこか誠実性に欠けている。
早沙音はすぐに口を開く。
「話って、どんな感じだったんですか」
その問いに、倉橋が答える。
「今朝ホームルームで担任が、今日休んどる奴は自殺したんや、っちゅーてな。ビックリしたで、ホンマに。俺はこっち来たばかりやし、まだそいつとは顔も合わせとらんし。ホント、残念やわー」
倉橋の周囲にいた女子生徒たちは、それぞれに暗い表情で小さく頷く。席に座っていた雨宮も、俯き加減に倉橋の話を聞いていた。
しかし早沙音は違っていた。
その表情はとても楽しそうで、笑顔すら浮かんでいた。弾んだ調子で頷いて、倉橋を見つめる瞳には輝きが映っているような気がした。
「それから?」
早沙音の口元には確かな笑みがあった。
早沙音は言葉を続ける。
「他には?まだ何かありませんでしたか?」
早沙音の弾んだ声とは対照的に、周囲の空気は重たかった。
周りの女子たちにはもう笑顔はなくて、あからさまによそよそしい空気が流れてはいるが、話の中心にいる早沙音は、そんな周囲の状況には気付いていない様子だった。
倉橋の口元がわずかに歪む。
「せやな…………」
そう言って、しばらくおいてから、倉橋は意地悪そうな笑顔を早沙音に向ける。
「何があったと思う?」
そう言って、倉橋としてはこの話題から何とか逃れようとしたかったのだろうか。早沙音が答えられなかったら、そのまま話を終わらせようと、倉橋の頭の中では考えていた。
しかしその期待は見事に裏切られた。
「アンケート調査みたいなことがあったんでしょう?」
倉橋の笑顔が、見事に崩れる。
「……よう知っとるなー」
最後のほうは、もう溜め息に近かった。
早沙音は勝ち誇ったような顔をする。
「もちろんです。情報収集は私の特技ですから」
早沙音が得意そうに語る。
「さよか」
倉橋は苦笑いを浮かべる。
こういう生徒なのだ、早沙音という女子生徒は。
どうも周りの空気を読むのが下手なのだ。言って良いことと、悪いことの区別が、どうしてもつかない。
何でも包み隠さず話してくれるということは、貴重な話が聞けるという点では良いことなのだが、自分が他人には知られたくないようなことを、学年中に話して回られるというのは、やっぱり困る。
加えて、さらに悪質なところが、早沙音本人が、早沙音の行動によって、誰かが被害を受けているということに気付いていないことだ。
今回は、自殺の話だ。
同じ学校の先輩が、自殺したという話。
本来ならば、人前で話すにはあまりにも不謹慎な内容である。休み時間ごとに話すにはあまりにも重い内容だった。
こういう話題は、話をするなら本当に近しい人と、知り合い程度ではまず話さないし、友達の中でも割と限定されてしまう。
だが、早沙音は話す。
話してしまうのだ。
周りに人がいるだとか、話す相手が知らない人だとか、そんなことは早沙音には全く関係ない。
どんな相手でも関係なく話してしまうし、どんな場所であろうと、周りがどういう状況下などと、全然考慮に入らない。
早沙音の発言への衝動には、節度がない。
早沙音はすかさず口を開く。
「それで、どういうふうにやったんですか?」
ああ、と言って倉橋は改めて話を始める。
「そんでな、センセーたちにはようわからへんってことで、ホンマはどないなんやって、教えてくれっちゅーて、クラスの全員に紙配ったんや」
「本当のこと書いた人っているんですか?」
早沙音は、本当に楽しそうな顔をして訊ねる。
誰かに秘密を話すときと、人から秘密の話を聞くときの早沙音は、純粋に楽しそうな表情を見せる。
倉橋は渋い顔をして笑った。
「俺こっち来たばっかやさかい。細かいことはわからへんわ」
早沙音は少しがっかりした様子だった。
「そうですか……」
会話に少し間ができたところで、真奈が早沙音を睨みつける。
「早沙音」
自分の名前を呼ばれて、早沙音は真奈のほうを見る。
「何?」
純朴そうな顔で早沙音は首を傾げる。
真奈はなおも鋭い目を早沙音に向ける。
「そのくらいにしなさいよ」
早沙音はきょとんとした顔で真奈の顔を見ていた。
それと同時に、ようやく気が付いた。
周囲の女子たちの会話が全くない。
全員、黙っている。
その表情には薄らと影がかかり、あまり気分の良くない視線が沈黙の中で静かに早沙音のほうを向いていた。
「…………」
真奈に睨まれて、早沙音は首を竦めて静かになった。
その後で、真奈はいつもの笑顔を倉橋と雨宮に向ける。
「雨宮くんと倉橋さんって、どういう関係なんですか?」
雨宮の笑顔が一瞬固まった気がした。
真奈の言葉は続く。
「同じ学校だったとか」
倉橋は曖昧に答える。
「ま、そんなとこやな」
真奈はなおも質問を投げかける。
「同じ部活だったんですか?」
「そんなとこやね」
倉橋の返答は曖昧だった。
「何部だったんですか?」
真奈と同様に、周囲の女子たちの視線が倉橋と雨宮に集中する。
「……………………」
雨宮は押し黙ったまま硬直している。
倉橋は顔を綻ばせる。
「ヒ・ミ・ツ」
「えー!何でですか?」
真奈が不服そうに声を上げる。
倉橋は意地悪っぽく笑う。
「男には、人に言えないことがあるもんや。なー、海斗」
「え?……う……うん」
突然呼びかけられて、雨宮は慌てて頷いた。
そんな二人に対して、真奈は不服そうな顔をする。
「えー。何それー」
周囲の女子たちの反応も、真奈と似たようなものだった。
「隠さないで下さいよー」
「そうですよー」
「それくらい、教えてくれたっていいじゃないですか」
「教えてー」
「教えてくださーい」
せがむような声を投げかけられても、倉橋の応対に進展はなかった。
「当ててみーや」
意地の悪い口調で倉橋は言う。
倉橋を囲む輪の中から、幾つもの声が中央にいる倉橋に向かって放たれる。
「サッカー部?」
「ブッブー」
倉橋は口をすぼめる。
他の生徒が口を開く。
「野球?」
「ブッブー」
「じゃあ、バスケ部ですか?」
「ブッブー」
痺れを切らした女子生徒が不平の声を上げる。
「もー、いい加減教えてくださいよー」
「じゃあ、じゃあ……」
別の生徒が口を開く。
「ヒントください」
倉橋は口元を曲げる。
「えー、ヒントかー……」
周囲の女子の目に期待の色が浮かぶ。
「もちっと考えーや」
倉橋の言葉は実に投げやりだった。
周囲からは不満の声が上がる。
「考えましたよー」
「全然わかりませーん」
「いいじゃないですか、教えてくれたって」
そんな周囲の空気には気にも留めず、倉橋の口から漏れた言葉はあまりにも軽薄な内容だった。
「だって、つまらんやん」
女子たちの声が、一瞬途切れる。
何も言わない少女たちの顔には、動的な表情は一切見られなかった。倉橋の言葉に呆気にとられて、明らかに表情を作るという思考を失っている。
――嫌な人。
周囲の女子たちは、ほとんど全員が、同じ感情を抱いていた。
その中央にいる二年生の、少女たちからすれば先輩にあたる、男子生徒は、悪意のない笑みを称えていた。
一人の女子生徒が口を開いた。
「それじゃ、どんな部活だったか教えてくださいよ」
その言葉に続くように、ほかの生徒が言った。
「屋外ですか?それとも室内ですか?」
倉橋は少し悩んだような表情を作る。
「んー……」
倉橋は、やはり曖昧な表情をしている。
「ってか」
躊躇いもなく口を動かす。
「部活関係あらへんで」
一瞬の静寂。
直後、罵倒に近い声が、倉橋を囲む輪の中から巻き起こる。
「そういうことは先に行ってくださいよっ!」
責めるような視線が、輪の中心にいる男子生徒に向かって、その意識が収束するように浴びせられる。
そんな周囲の空気には気にも留めず、倉橋の口から漏れた言葉はあまりにも軽薄な内容だった。
「何で?おもろないやん」
女子たちの声が、一瞬途切れる。
何も言わない少女たちの顔には、動的な表情は一切見られなかった。倉橋の言葉に呆気にとられて、明らかに表情を作るという思考を失っている。
――嫌な人。
周囲の女子たちは、ほとんど全員が、同じ感情を抱いていた。
その中央にいる二年生の、少女たちからすれば先輩にあたる、男子生徒は、悪意のない笑みを称えていた。
一人の女子生徒が口を開いた。
「それじゃ、学校は同じだったんですか?」
倉橋は、今度はあっさりと頷く。
「それは、当たりや」
その声を聞いて、周囲の女子生徒たちの間からは少しずつ活気が戻ってきた。
「でも倉橋さんと雨宮くんって学年違いますよねぇ?」
「あ、そうだった」
「家が近くだったとか?」
「転校先でよく一緒になるとか?」
倉橋はあっさり否定する。
「おれの転校はこれが初めてやて」
その言葉を聞いて、ただでさえ小さい雨宮の体が、いっそう小さく縮んでいくような気がした。
そこに、今までずっと悩むように考えていた真奈が、ようやく顔を上げた。
「じゃあ、じゃあ……」
真奈が言いかけた、そのときだった。
ちょうどその時チャイムがなった。
「おっ、時間か」
倉橋が席から立ち上がる。
「ほな、さいなら」
倉橋は小走りに教室から出て行った。
「…………」
輪をなしていた女子たちが、その後ろ姿を呆然と見送る。
「んー……」
何か言いたげに倉橋を見つめた後で、真奈は雨宮のほうへと向き直る。
「それで、倉橋さんとはどういう関係?」
真奈はじっと雨宮を見つめたまま動かない。
何人かの女子はチャイムの音とともに輪の中から離れていったが、残った生徒たちの視線もまた真奈と同様に、雨宮へと集中する。
「え、と…………」
雨宮の口からはうまく言葉が出てこなかった。
真奈は笑ったまま、自分の顔を雨宮のほうへと近づける。
「雨宮くんは、教えてくれるよね?」
真奈と雨宮との距離は、あと少しで三十センチメートルを切る。
そこから逃れようと、雨宮は反射的に顔を背けようとしたが、周囲の女子たちの強い視線も雨宮のほうへと集中していて、雨宮には逃れるスペースがなかった。
「………………」
雨宮はこの場から逃れるすべを失って、どうすることもできなくて、しばらくの間、何も言えずに、ただ硬直していることしかできなかった。
「えーと……」
ややあって、雨宮は口を開いた。
「…………秘密?」
即座に雨宮の周りからは不満の声が上がった。
その大音量にあてられて、雨宮の体は、他から見てもわかるくらいに、小さく萎縮していった。
咲希は遠目から雨宮の様子を伺っていた。
雨宮が女子たちの質問攻めにあって、難儀しているだろうことは、自分の席から見ていた咲希にもわかった。
しかし、そんな雨宮を助けに行こうとは、咲希は思わなかった。
――大丈夫だろう。
咲希は自分の机から教科書とノートと筆記用具を取り出して、きれいに机の上に並べて授業の開始を静かに待った。
――きっと……。
授業が開始されるのを待ちながら、咲希はふと思った。
――あのことだ。
思いながら、咲希は意識を抜いていた視線を、再び窓側の、一番後ろの座席のほうへと向けた。
――でも……。
咲希は再度視線を前のほうに戻す。
――喋んないよね。
咲希は自分の体を前方へ向けたまま、もう振り返ることはしなかった。机の上の教材を一瞬見た後は、教室の前に設置された扉のほうばかり見ていた。
しばらくすると、次の授業を担当する教師が入ってきた。
その教師の目に、まだ教室の中を立ち歩いている生徒たちの姿が映った。
「もう休み時間は終わりだぞっ!」
怒気を含んだ声に押されて、雨宮の席を囲んでいた女子生徒たちを含め、教室内の全ての生徒が、自分の席へと駆け足で向かっていく。
放課後になって、雨宮は階段を上がっていた。今週の職員室の掃除当番のために一階に降りていた雨宮は、ちょうどその掃除も終わって、とくに用事のない雨宮は自分の教室に戻る途中だった。
声をかけられたのは、階段を上って二階の廊下に足をかけたときだった。
「よっ、海斗」
突然声をかけられて、雨宮は声のしたほうへと振り向いた。二階と三階との間の踊り場に、倉橋が立っていた。
「やっと見つけたで」
倉橋は階段を下りてくる。
倉橋は左手で鞄を掴んで、自分の背中に載せるような形で持っていた。雨宮は黙ったまま、倉橋を見つめていた。
「ほな、行くで」
階段を下りてすぐに、倉橋は言った。
雨宮は即座に訊ねる。
「行くって、どこに?」
倉橋は大げさに呆れたような顔をする。
「俺ん家に決まっとるやないか。ものは家に置きっぱやさかい」
「?」
雨宮は倉橋の言っている意味がわからずに、そのまま、不思議そうな顔をしたまま突っ立っていた。
倉橋が一回溜息を吐く。
「ええから荷物取って来ーや」
雨宮はわけがわからず、とりあえず教室へ行って鞄を取りに行く。
雨宮が教室に入ると、教室の中にいた林が雨宮に声をかけてきた。
「雨宮っ!」
呼ばれて、雨宮は教室の後ろのほうで固まっている女子たしのほうに顔を向ける。
「何?」
雨宮は足を止めた。
「今日、暇?」
訊かれて、雨宮は申し訳なさそうな表情になる。
「ごめん。今、倉橋くんに呼ばれていて」
その言葉を聞いて、林が不思議そうに首を傾げる。
「倉橋?」
そこに、女子の集団の中にいた真奈が口を開く。
「ほら、さっき話した雨宮くんと知り合いっぽい二年生の転校生」
あー、と言って林は頷く。
「雨宮の知り合いなんだって」
雨宮は内心でギクリとする。
「え、あ……うん」
「前の学校の友達?」
林は軽い気持ちで訊ねる。
雨宮は焦った。
雨宮の鼓動が僅かに高なっているのがわかる。頭の中が真っ白になって、うまく言葉が浮かんでこない。それでも何とか言葉を探そうとはしたけれど、結局言葉は浮かんでこなくて、出てきた言葉は安易なものだった。
「…………うん、そう」
そこに真奈の明るい声が飛び込んできた。
「前の学校って、北海道の?」
訊かれて、雨宮は慌ててそれに答える。
「あ、ううん。それよりも前」
真奈の質問は続く。
「それって、どこの学校?」
「え……」
雨宮の口から出た言葉はそれだけだった。
どういう返答をするべけなのか、雨宮は悩んでいた。悩めば悩むほど、うまく言葉が出てこない。
真奈は喋るのを止めない。
「倉橋さんは、その時の部活の先輩?」
「…………」
雨宮は口を噤んだ。
真奈はそんな雨宮の様子に躊躇することなく話を続ける。
「結局、倉橋さんとはどういう関係なの?」
「…………」
雨宮の背筋を冷たいものが駆け抜ける。その瞬間に体中に言いようのない不快感を覚えたが、雨宮の体は凍りついたように動かない。
ちょうどそのとき、林が口を開いた。
「マーナ」
目を輝かせていた真奈の頭を、林は軽く叩く。
真奈が不平の声を上げる。
「いったーい!何するのよ」
林は真奈の膨れっ面には興味を示さず、真奈をたしなめる。
「そのへんにしとけよ。雨宮も困ってるだろ」
「んー……」
真奈はまだ子どものように顔を膨らませていたが、それ以上何も言わなかった。
林は男っぽい気さくな笑みを雨宮に向ける。
「悪い、雨宮。急いでるとこ呼び止めて」
雨宮は慌てて手を自分の胸の前に翳す。
「あ、別に、そんな…………」
林は言葉を続ける。
「久しぶりに会ったんだろ?なら、早く行けって」
軽やかな、男のような言い方に、雨宮は少しだけ心の中が落ち着いていくのを感じる。それと同時に、体中を覆っていた妙な緊張も大分ほぐれていった。
雨宮は頷く。
「うん」
自分の机にひっかけていた黒のショルダーバッグを左肩に引っ掛けると、雨宮は女子たちに向かって軽く微笑んでから教室を出る。廊下に出た雨宮は、小走りに倉橋のところへと戻って行く。
倉橋は階段付近の二階の廊下で待っていた。
「んじゃ、行くで」
倉橋は雨宮の姿を認めると、階段を下りていく。
「え?……え?」
雨宮も、倉橋に続いて階段に足を落とす。
急に自分を呼びとめた倉橋の、用件も理由もわからない雨宮は、とりあえず倉橋の後を付いていくしかなかった。
二人は一階にある下駄箱まで行って靴を履き替えると、校門のほうへと歩き出した。校門までたどり着くと、一人の少女が道路側の門の傍で突っ立っていた。
少女は二人の姿を認めて、呟くように一言。
「三十分」
味気ない高峰の言葉。
それを聞いて、倉橋は苦笑いをする。
「ワリーワリー。海斗がなかなか見つからんくてな」
雨宮は驚いて倉橋のほうに顔を向ける。
「……!何言って……」
いるの、と言いかけて雨宮は言葉を途切らせた。
高峰と目が合った。
高峰の瞳はいつものように大きく開き、普段と変わらないと考えれば、別段不機嫌だとか、上機嫌だとか、詮索する必要はない。
だが、その瞳に不用意に見つめられると、金縛りにあったかのように動けなくなる。雨宮は高峰と視線を合わせたまま、動けなくなった。
「…………」
雨宮の頭の上に急に力が加わった。
「海斗も謝りーや」
倉橋が雨宮の頭を掴んで無理矢理雨宮にお辞儀をさせる。
「……!」
雨宮は抵抗する間もなく、頭を下げた。上目遣いに目を開けると、高峰の足元しか見えなかった。
頭上の力がなくなって、雨宮は頭を上げる。無表情な高峰の顔がまず目に付いて、素早く頭を振ると悪びれた様子のない倉橋の顔が目に留まった。
「ほな行こか」
倉橋が歩き出した。
「ちょっと待って!どこに行くの?」
雨宮の言葉を聞いて倉橋が首を傾げる。
「さっきゆーたやろ。俺ん家やて」
何で、と言いかけて雨宮はようやく気付いた。
倉橋が雨宮と高峰を家に招き入れる。引っ越してきたばかりなのだから、家の中の整理はまだついていないだろう。人を自分の家に呼ぶ余裕など、普通はない。
そんな状況で、倉橋が呼んだのは雨宮と、高峰だ。そういえば、倉橋は昨日転校して来たばかりだと言っていたのを雨宮は思い出した。
――まさか……。
その考えに至った瞬間、雨宮の足が止まった。
「…………」
固まってしまった足を動かすための思考回路も、一緒にフリーズしてしまった。雨宮の背中を嫌な風が吹き抜けて、気化した汗が体温を奪ってひんやりする。
「海斗!何やっとるんや。はよ来んかい」
倉橋に怒鳴られて、ようやく雨宮は我に戻った。そのとき、日が長くなってきているのを、今さらながらに気付いた。
倉橋の今住んでいるアパートは、雨宮たちの通っている学校からかなり離れたところにあった。駅から離れる方向にあるので、電車は使えない。学校から三人が歩いて倉橋の家に着くのに、三十分近くかかった。
一階にある倉橋の部屋の前に立って、倉橋は鍵を開ける。
「いらっしゃい」
倉橋は部屋の中へ入っていく。
次いで雨宮、高峰の順で玄関の中に足を踏み入れる。
「お邪魔します」
雨宮はそう言って家の中に入る。
「…………」
高峰は無言のまま、狭い玄関で靴を脱ぐ。
玄関を上がってすぐ部屋が見えた。その間に扉はない。玄関を開ければ中の部屋が丸見えの状態となる。
そして見えたのは、ダンボールの山だった。
「汚いけど気にせんといて」
頻りに周囲を見渡す雨宮に向かって、倉橋が苦笑した。高峰のほうは相変わらずの表情をしていたが、その無表情はどこか不快そうに見える。
数歩入ると、仕切りのない部屋の中の様子が、全て見えた。
「…………」
「…………」
まず言えることは、床が見えない。
壁に沿って数多くのダンボールが積み上げられて、部屋の角側にまとめられたダンボールは天井近くにまで達している。
床の上には、まだ未開封の箱も置かれていた。
封を解かれたダンボールからはモノが溢れ出て、中には開けてそのままひっくり返しただけの箱が床の上に転がっている。
ダンボールの中にはいろいろなモノが入っている。
衣服や食器、洗剤にハンガーなどが入っていて、床の上にもそれらが無秩序に散らばっている。
衣服や紙類が床を隠して、その上にはまだ液体の入っている飲みかけのペットボトルが、十本以上は散乱している。食べかけの菓子類も、封を開けたままの状態で、そこらへんに放置されていた。
「…………」
「…………」
雨宮と高峰はこの空間に足を踏み入れることに戸惑った。ぎりぎり床が見える辺りに止まったまま動けなくなった。
床が見える範囲と言っても、玄関から僅か一メートル以内のスペースで、普通ならば、とても部屋の中に入ることはできない。
一方の倉橋は、モノの上を平気で歩いていき、部屋の中央と思われる場所に着くとその場に腰を下ろした。
ズボンやシャツが散らばっている上に、倉橋は何の躊躇いもなく胡坐をかいて、まだ玄関付近で固まっている雨宮と高峰に気が付いて、二人に向かって声をかける。
「そんなとこで突っ立っとらんで、こっち来ーや」
倉橋が二人に向かって手招きをする。
それでもまだ雨宮と高峰はその場所から動こうとはしなかった。普通に考えて、動ける状態ではない。
――そんなこと言われても…………。
雨宮はこの部屋に足を踏み入れることにまだ迷いがあった。
「…………」
雨宮は横目で高峰のほうを振り返る。
「……」
無感情な表情は何も言わずに、ただ雨宮を見返すだけだった。
「………………」
雨宮は仕方なく、倉橋の部屋に一歩踏み込んだ。
人が歩くためのスペースがないので、雨宮は仕方なく辺りに散乱する衣服の上を足の踏み場所に選んだ。
服の上なので柔らかいかと雨宮は想像していた。が、直後に、硬い感触が足の裏から返ってきた。
――痛っ……!
おそらく衣服の下に、何かものが隠れているのだろう。
その痛みから逃れようと、雨宮は次の足場を探してみたが、床の見えない空間からは適当な場所が見当たらず、反射的に選んだところではバランスが悪くて、すぐに別の場所に足を移動させて何とか雨宮は自分の体を支えた。
そんなことを繰り返しているうちに、二人はようやく倉橋のいる辺りにたどり着くことができた。
「……」
雨宮が倉橋に何か言おうとした直前に、高峰の声が割り込んできた。
「汚い」
雨宮は言いそうになった言葉を途中で飲み込んだ。
倉橋は苦笑した。
「しゃーないやろ。来たばっかやで」
でも、と言って雨宮は渋い顔をする。
「これはちょっとひどいよ」
倉橋が抑揚のない言葉を返す。
「そーか?」
倉橋は首を動かして辺りを見る。
倉橋にも、雨宮と同じ景色が見えているはずである。
大量のモノに覆われて、床の見えなくなった部屋には足の踏み場というものが全く見当たらない。
部屋のあちらこちらに置かれた山積みのダンボールの中には、ただひっくり返されただけの箱も存在している。
上着やズボンで埋め尽くされた部屋、衣類の上に散乱するモノというモノ。服の下にも、隠れて見えないが、いろいろなモノが散らばっているはずだ。
洗剤、ハンガー、ボールペン、はさみ、セロテープ、手ぬぐい、本、駄菓子、飲みかけのペットボトル、……………………。
きれいだなんて、とても言えない。
汚くないなんて、お世辞でも言えない。
そんな無秩序な部屋。
「……」
倉橋はざっと周囲を見渡して頭をかく。
「これでもきれいなほうやと思うぞ。俺的には」
「…………」
倉橋の言葉に対して、何か反論しようかと思ったが、雨宮は結局何も言わないことを選択した。
雨宮が何を言っても、この部屋の状態をいいほうだと考えている倉橋には言うだけ無駄なような気がしてきたし、そもそも今日は、倉橋の生活についてどうこう言うために、雨宮と高峰は来たわけではない。
「話」
高峰が簡潔にそれだけ言う。
普通の人がこれだけ言われただけでは、高峰が何を言いたいのか、すぐには判断しかねるだろう。
しかし倉橋には、高峰の言いたいことが理解できていた。
倉橋は微笑む。
「せやな。ちゃっちゃと話してまうか」
倉橋は神妙な顔をする。
先程までのふざけた印象はどこにもなくて、少し真面目そうな顔になっただけなのに、今までの倉橋の態度とのギャップを考えると、倉橋の顔がとても真剣な表情になったように思えてくる。
「まー、座りーや」
雨宮と高峰は衣類の上に腰を下ろす。
普段の床の感じとは明らかに異なる感触に、雨宮は僅かな違和感を感じたが、倉橋の表情を見ていると、自然と背筋が伸びる。
倉橋が話し始める。
「察しはついとると思うが、俺は御上の命令でこっちに来た。俺が言われたことは、お前らのサポートをせい、っちゅーこんや」
話の途中で、雨宮が口を開く。
「それで……」
雨宮はおずおずと言葉を続ける。
「僕の処分は?」
倉橋は不思議そうな顔をする。
「は?」
だから、と言って雨宮は言葉を続ける。
「僕は任務で失敗をしたんだ。それに対する罰はどうなるの?」
倉橋は即座に答える。
「ないよ」
倉橋があまりにもあっさりと言うものだから、雨宮は驚いて次の言葉がうまく浮かんでこなかった。
倉橋は続ける。
「罰なんてない。俺はそんなこと、なーんも言われてないで」
雨宮は叫んだ。
「そんなはずない!」
雨宮の表情は、真剣なものだった。顔の筋肉には必要以上の力が加わり、そのせいか口元が歪に硬い印象を与える。
「…………」
倉橋はそんな雨宮の態度に驚いて目を丸くする。
雨宮は言葉を続ける。
「僕は、上嶋さんに僕の正体を知られてしまった。それどころか、フラストやMASKSのことも話しちゃったし」
「おいおい……」
倉橋が口を開きかけたが、雨宮の話は止まらない。
「これで二度目だよ。こんな失態は。このままじゃ、僕は、僕は…………!」
「海斗!」
雨宮の体を何かが掴む。
その感触に雨宮は言葉を途切らせた。
「……」
倉橋の右手が、しっかりと雨宮の右肩を握りしめる。そのことを理解した瞬間、雨宮の肩に痛みが走る。
「痛い痛い!」
雨宮が本当に痛そうにしているので、倉橋は驚いて雨宮の右肩を掴んでいた右手の力を緩める。
力のなくなったその手を、雨宮は素早く振り払う。
「……」
倉橋は口元を曲げる。
「そんな力いれてへんで。大袈裟なやっちゃな」
雨宮は呻いた。
「ここ怪我してるの」
倉橋は笑って謝る。
「さよか。ワリーワリー」
雨宮はまだ痛みに顔を歪ませている。
「……」
そこは、以前に怪我をした場所だった。
肉を貫いて、右肩にはぽっかりと穴が開いていた、ひどい怪我だった。
骨に損傷がなかったおかげで、治りも早くて、その後の生活に支障が出なかったことは不幸中の幸いだったといえるが、それだけの大怪我を負ったのだから、その部位に触られることはあまり好ましい状況とは言えない。
すでに傷は癒えて、丸く穴の開いた右肩にも新しい肉が付いてきて、若干の色の違いはあるものの、大怪我の痕はほとんど見られなくなってきて、痛みもひいてはいた。
しかし、それは無理に右肩を触るようなことをしないで、意味もなく怪我のあった部分を触るということをしないで、いつも通りの生活をしている時の話であって、無理な負荷がそこに加われば、当然痛みを感じる。
「…………」
痛みはしばらくすると弱くなるが、それでも残るズキズキとした痛みを、雨宮は意識を凝らして我慢した。
「あのな、海斗」
倉橋は言葉を続ける。
「ちっと落ち着けって。お前が何やらかしたかっちゅーことは聞いてへんけど、御上は何も言ってへんのやから、それでええんちゃうか?」
雨宮は右肩の痛みを堪えながら聞いている。
「俺がお前のサポートせい言われたときは、何かやらかした思うたで。よくないことが起こったんちゃうか、ってな。でもええやないけ。処分がないっちゅーこんは、大目に見てもらえる、っちゅーこんやないか」
「でも……」
雨宮が呟くのを無視して、倉橋は言葉を続ける。
「次失敗せーへんようにしたらええねん。終わったこといつまでもくよくよ考えてても、しゃーないやろ。次挽回したらええねん。次こそはやったる、っちゅー気合持ったらな。そうすりゃ、うまくいくって」
言って倉橋は笑う。
「…………」
雨宮は呆気にとられて倉橋を見つめていた。
倉橋のように考えられればいいのにと雨宮は思う。
失敗することを恐れずに、失敗しても次のことをがんばれるように、そんなふうに前向きに考えられるようになりたいと雨宮は心から願う。
雨宮は微かに笑みを浮かべて頷く。
「そうだね」
倉橋も頷き返す。
「そんじゃ、これからフラスト退治、一緒にがんばりましょ」
「うん」
雨宮は頷く。
「……」
高峰は一向に黙ったままだった。
「と、いうわけで……」
そう前置きして、倉橋が口を開く。
「メシおごって」
「へ?」
脈絡のない言葉に、雨宮は反射的に意味を持たない言葉を口にする。
雨宮の当惑を無視して、倉橋は言葉を続ける。
「これから仲よーやってくんやろ。親睦会、っちゅーこんで。なー?」
そう言って倉橋は首を傾ける。
雨宮は慌てて不平の言葉を上げる。
「……な…………何でそうなるの……!」
「だって俺、この辺の店何も知らへんもん」
倉橋は当たり前のような顔をする。
だが倉橋の答えは、雨宮には納得しかねる内容だった。
「理由になってない!」
「ええやん。一緒にメシ食いに行くだけやろ」
「だからって、何で僕がおごらなきゃいけないのっ」
倉橋は溜め息を吐く。
「これから協力しよーちゅーこんやないけ。――お前がへませんようにって」
雨宮は出しかけた言葉をそのまま喉の奥へ飲み込んだ。
倉橋は言葉を続ける。
「前いた場所を、お前がミスったばっかりにこんなとこに飛ばされて、かわいそう思うから励ましてやろう思うたのに。さよか、お前は俺の親切をいらん、っちゅーわけかい。さよかさよか……」
わざとらしく、ところどころ語気を強めながら、倉橋は大げさなほどに肩を落とす。そうしながら、倉橋は薄目を開けて雨宮のほうを覗き見る。
雨宮はうまく言葉が出てこなかった。
「…………」
雨宮は返答に困って高峰のほうを見た。
高峰は少しも無表情を崩さずに、正面を向いたままだった。その視線は、倉橋に向けられているものなのか、雨宮に向けられているものなのか、判別できない。
「……………………」
雨宮は思った。
こういうときに自分に自信が持てる人間になりたいと。自分の気持ちをはっきりと人に伝えられる人間になりたいと。
「…………わかったよ」
「え?なに?聞こえん」
倉橋がわざとらしく大きな声を出して、片耳に手を当てて、雨宮のほうへからだを突き出した。
「…………」
雨宮は渋々頷いた。
「おごるよ」
倉橋の大きな歓声と、高峰の冷え切った視線が、小さな雨宮の体に向かって、容赦なく浴びせられた。




