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第一楽章 流浪の民

 ――人は死んだらどこへ行くのだろうか。

 薄れゆく意識の中で彼は思った。

「……」

 彼は直立した体勢で、うっすらと瞼を開けていた。力なく開いた瞼の下に、二つの瞳が朧気(おぼろげ)な光を放っている。

 すぐにでも消え入りそうなか細い光、それでも彼は眠たそうな瞳を(わず)かに開けていた。そこにはまだ、(かす)かな精気があった。

「……」

 彼の目に映るのは、漆黒の闇だった。

 闇の中に浮かぶ僅かな輪郭(りんかく)を、彼は頭の中に思い浮かべることができたが、光の見えない空間では、彼の網膜に実際の物体は像を結ばない。

 加えて、彼自身が周囲の景色を見ようとはしない。思い描こうとはしない。感じ取ろうとしない。

 故に、そこには何もない。闇に包まれた虚無(きょむ)の場所、それが今の彼のいる場所であり、彼が存在できる空間であった。

 ――人は死んだらどこへ行くのだろうか。

 彼は考える。

 死というものを。

「…………」

 全ての生き物に平等に訪れる、死の瞬間。

 病気で死のうと、事故で死のうと、そこにある死という事実は何も変わらない。どう足掻(あが)こうとしても、変えることのできない絶対的存在。

 それが、死だ。

 ――人は死んだらどこへ行くのだろうか。

 死後の世界については、様々な話が語られている。

 多くの話の中には、死んだ後でも世界が存在していて、死後の世界でのその人の地位は、生前のときの位や行いによって決まってくる。

 古代エジプトでは、王様は死んだ後も、王様の地位が約束されていて、いつかは現世に復活するために、死した王様の肉体をミイラとして保存しておく。

 中国の始皇帝は、不老不死を求めて、死後の世界でも自分の権力を保持するために、地下に巨大な楽園を建設して、自分の命を不滅のものにしようとした。

 宗教の中では、神の教えに従うこと、つまり戒律に奉仕することが、死後の世界でのよりよい生活を保障してくれる。

 科学者の中には、死後の世界など存在しなくて、全ての命は死んだらそこで終わりだと言う人もいる。

 ――人は死んだらどこへ行くのだろうか。

 しかし彼は、死がすなわちこの世の終わりだとは思っていない。死んだ瞬間に全てがなくなってしまうなんて、信じたくなかった。

 命は死後も、向かう場所があるのだと、彼は考えている。それを来世というのか、あの世というのかは定かではないが、何らかの形で自分の新しい世界が存在しているのだと彼は信じている。

 しかし、そこがどこなのか、彼の中にまだ明確な答えはなかった。

「……」

 天国と地獄の話を聞いたことがある。

 生前、善い行いをした人は天国へ行って、悪い行いをした人は地獄へ堕ちる。

 人は死後、閻魔大王(えんまだいおう)に謁見して、自分の生前の善悪を裁かれる。聖者はそのまま天国へ、悪人は地獄へ送られる。

 人の善し悪しは死後にまで巡り巡って、行いの業はこの世の末まで付きまとい、だから人は生きている間に善い行いをしなければならない。

 善い行いをしなければ、天国には行けない。

 善い行いをしないと、地獄に堕とされる。

 だから悪人は天国に行けない。盗み、放火、強姦、人さらい、数々の悪行を尽くした人間には天国に行く資格などない。

 罪人は地獄へ堕ちるというのが、世の常である。

 しかし、いくつかの昔話には、悪人にも天国へ行く機会が与えられる。

 例えば「蜘蛛(くも)の糸」という話は、地獄に堕とされた男が、生前に、一匹の蜘蛛を助けたことから、仏様の深い慈悲によって、蜘蛛の糸で地獄から救われそうになる話だ。

 他にも、生きている間に悪行を尽くした人間が、人生のうちに一度だけ善行を働いたことによって、地獄から救われそうになる話はいくらもある。

 ところが、そういう種類の話では、罪人が救われた例は一つもない。

 先の例に挙げた「蜘蛛の糸」の話では、主人公の男以外にも、蜘蛛の糸に無数の亡者(もうじゃ)(すが)りつき、このままでは糸が切れてしまうと思った罪人の男が、他の亡者を蹴落とそうとした、その瞬間に、蜘蛛の糸がぷつりと切れてしまい、結局主人公の男は、地獄から抜け出すことができなかった。

 これと同種類の他の話でも、自分だけ助かろうと思った瞬間に全ての悪人が地獄に堕ちてしまう。

 これらの昔話の言わんとすることは、所詮悪人は悪人で、それ相応の報いを受けるということなのだろうか。

「……」

 三途の河原に()む鬼の話を聞いたことがある。

 親よりも早く死んだ子どもには、天国も地獄も行くことを許されない。親よりも早く死んだ子どもに与えられるのは、その罰として三途の河原で石を積み上げることを命じられる。その石の塔を、天まで積み上げることができた子どもは、ようやく罪を許されて天国へ行くことができる。

 しかし、三途の河原には意地悪で恐ろしい鬼が棲んでいて、子どもが石を積み上げる端から手に持った大きな金棒で石の塔を崩していってしまう。

 だから、子どもたちはいつまで経っても石を積みきることができなくて、いつまでも石を積み上げ続けなければならないのだそうだ。

 死んでから、何年、何十年、何百年と月日が流れても、親よりも早く死んだ子どもたちは、死後永遠に、三途の河原で石を積み上げなければならない。

 親よりも先に命を絶つことは悪いことなのだ、という昔の人の考え方が染み付いている話だった。

 孔子の教えにも親を敬えというものがある。親の死に顔を看ずに、子どもが先に死ぬことは、親を悲しませることであり、罪なのだ。

「……」

 輪廻の話を聞いたことがある。

 この世には六つの世界、六道が存在する。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道が、それに相当する。

 地獄道は、針の山の刑、釜茹での刑、血の池の刑、舌抜きの刑などがあり、罪人が罰を受ける最も劣悪な世界。

 餓鬼道は、食べるものがなくて、互いの体や糞尿などを喰い合っていなければならない飢餓の世界。

 畜生道は、犬や猫、鼠や蛇などの動物の姿になり下がって、野性のままに生きていかなければならない獣の世界。

 修羅道は、鬼に姿を変えて、剣を持って、お互いに争い、戦い、殺生を快楽とする、鬼たちの住まう修羅の世界。

 人間道は、我々人間が暮らしている、知性と欲望、助け合いと裏切りを伴う、混沌とした世界。

 天道は、天上の、神々の暮らしている、音楽と舞踊に満ちた、苦しみから解き放たれた最も幸福な世界。

 全ての命は生前の行いに応じて、次の道が、世界が決められる。

 善き行いをした者は、より良い世界へ行くことを許されて、悪しき行いをした者は、より悪い世界へ行くことを運命付けられる。

 それが六道輪廻。

 だから全ての生き物は、幸福な世界を求めて、より善い世界に生きられるように、いつも善いことをしなければならない。

 優等生は、日ごろから優等生であり続けなければならないし、親切な人は、決して親切を怠けてはいけない。

「……」

 では、邪悪な生は、永遠に邪悪な世界にしか生きられないのか。

 ――人は死んだらどこへ行くのだろうか。

 彼は思う。

 今の世界に存在していることが嫌で、人間の暮らしから決別しようとしても、今まで生きていた間に悪いことばかりしていれば、あるいは自分を生んで、今まで育ててくれた両親よりも先に命を絶ったとしたら、その罪のために、肉体という器を離れた魂は、結局さらに劣悪な世界へと埋葬される。

 もしも神と呼ばれる絶対的存在がいたとして、神が認めてくれる、僅かなチャンスに相当する善行を、過去の世界の間に働いたとしても、結局その魂は、その意識に染みついた地獄の世界を選んでしまう。

「……」

 地獄に生まれた命は、生き残るために罪を重ねていく。そうすることでしか、生きる術がないのだから。

 そうすることでしか、生きる術を知らないのだから。

 そして再び地獄に生まれ変わる。

 ――人は死んだらどこへ行くのだろうか。

 それが(ことわり)とでも言うのか。

「……」

 罪人が悪い。

 確かに悪は悪い。罪には、それに相当するだけの罰が与えられなければならない。罪人が罪を償うために、世界に罪を許してもらうために、等しい対価を、何らかの形で支払わなければならない。

「……」

 では、ならば罪人の世界で生まれた者はどうすれば良いのだろうか。

 劣悪な空気に曝され続けた肉体は、どうやって磨かれれば良いのか。

 悪いことしか知らない魂は、悪行でしか自分を表現できない心は、どうすれば天国へ行くことができるのだろうか。

 どれほどの対価を支払えば、その罪を許されるのだろうか。

 欠片の誠意では、罪は拭えないのだろうか。

 ――人は死んだらどこへ行くのだろうか。

 彼は思った。

 そして彼を取り巻く世界を見た。

 彼の目に映るのは、漆黒の闇だった。

 闇の中に浮かぶ僅かな輪郭も光の見えないこの空間では、彼の網膜に実際の物体は像を結ぶことができない。

 ――人は…………。

 彼は静かに目を閉じる。力を失った瞼は音もなく垂れ落ちて、彼の瞳に映る微かな光さえも消してしまう。

 彼の目に完全な闇が覆い被さる。

 何も見えない。

 彼の周囲を取り囲んでいる景色も、彼が目を開けていた間に取り込んでいた無数の色も、何もない。

 彼の瞳から、光が薄れていき、(かす)れていき、小さくなって、細かくなって、散り散りになって、泡のように、消えてなくなる。

 彼の意識までも、闇の景色に埋没していく。

「…………」

 彼の体の中を輪廻が駆け巡る。



「おっはよー、咲希(さき)ぃー!」

 突然背中を叩かれて、咲希は反射的に背中を仰け反る。咲希が振り返ると、そこには満面の笑みを浮かべて真奈(まな)が立っていた。

 真奈の笑顔を見て、自然と咲希の顔もほころぶ。

「もう真奈、驚かさないでよ。びっくりするじゃない」

 悪びれた様子もない笑顔が答える。

「ゴメーン」

 真奈に釣られて咲希も笑う。

 六月も、もう中旬に入り、夏用の制服にも少しずつ慣れてきた、そんな時期。

 松風(まつかぜ)高校では、ズボンとスカートは年間を通してほとんど同じ色、黒一色で埋め尽くされている。

 ただ、夏用とそれ以外の季節で着用するズボンとスカートでは、通気性の面で若干の違いがあるらしいのだが、その効能のほどは、ほとんどの生徒が実感できていない。

 衣替えに入って変わったところと言えば、男子は学ランを身に付けずに、薄く縦じまの入った白い半袖のワイシャツを着ている。男子の中には、衣替えを迎えたのにもかかわらず、長袖の、五月と変わらないワイシャツを着用している生徒もいたが、教師たちが特に注意をしないので、別段問題はないらしい。

 女子のほうは、真っ黒な上着が取り除かれて、白地に長袖の合服になっていた。胸元に掲げられた臙脂(えんじ)のリボンだけは変わらずに、けれど白色の布に浮かぶその色はとても鮮やかに光っている。

 自分の机に座っている咲希は、白地に長袖で胸元に臙脂のリボンをつけるといった、基本的な校則通りの、最も簡素な恰好をしている。

 けれど、呼びかけてきた真奈のほうは、その上にクリーム色をした夏用のセーターを着用していて、学校で指定されている臙脂のリボンはセーターの下に隠れていて見えない。

 真奈はとても楽しげな笑みを向ける。

「あ、そうだ。真奈、英語の予習やった?」

 咲希が訊ねると、真奈は即座に頷いた。

「うん、やった」

「それじゃ、一校時の間に貸してくれない?」

 真奈が頷く。

「いいよ。あってるかどうかわからないけど」

 真奈が照れたような顔をする。

 咲希が軽く手を振る。

「大丈夫。真っ白で授業に出るよりはまし」

 真奈は手に持ったままの鞄を咲希の机の上に置いてから鞄を開けて、中から英語のノートを取り出した。

 真奈の鞄は咲希の机の横に掛けられているショルダーバッグとは違って、片手でも持てるようなハンドバッグだった。鞄自体は明るい茶色をしているのだが、ストラップや飾り物があちらこちらについていて、派手と言うよりはかわいらしい印象を受ける。

「あっ、そうだ!」

 真奈は咲希のほうを見る。

「じゃあ咲希、数学のノート貸して」

 咲希に英語のノートを差し出しながら、真奈は自分の顔の前で片手を立ててウインクをしてみせる。

「いいよ」

 咲希は頷いて、ノートを受け取りながら自分の机から数学のノートを取り出した。ノートを受け取った真奈が笑う。

「サンキュー」

「こっちもね。でもすぐに返してよ、数学二校時なんだから」

 真奈の声のトーンが僅かに変わった。

「大丈夫。心配しなさんなって」

 咲希は疑うような目で真奈を見る。

「本当?真奈から返しに来てくれたことってあったっけ?」

 真奈が慌ててそれに答える。

「大丈夫だよ。今日は絶対忘れないから」

 (きょ)を突かれて内心ぎくりとしている様子がわかる。咲希はまじまじと真奈を見つめて意地悪そうに微笑(ほほえ)む。

「本当?」

「本当だってばー。信じてよー」

 真奈が懇願するように言った。それと一緒に、真奈の頭で左右二つに縛られた髪が慌てたように揺れる。

 真奈はいつも、人から物を借りてもそれを自分から返しに来ない。悪意があってやっているわけではなくて、純粋に忘れてしまうのだ。

 そのことは、咲希だけではなく、クラスのほとんどの人間が知っていることだ。実際、真奈のところに貸したものの返却を求めに行くと、慌てて借りていたものを取り出して、顔を真っ赤にして、何度も何度も頭を縦に振って謝ってくる。

 そんな子どものような真奈を、誰も嫌いになれない。普段から明るい笑顔を振りまく真奈に、誰もが好意を抱いているし、どれだけ失敗をしても、その純粋な姿勢に誰も怒ることができない。

 チャイムの音がスピーカーを通して学校中に響き渡る。真奈は体を上げて振り向こうとして、すぐさま咲希のほうを見る。

「絶対返しに行くから!」

 それだけ言うと、真奈は急いで自分の席へ駆けて行く。

 ――ガラガラガラ…………。

 その少し後に、後ろの扉が開ける音がした。

 その音を聞いて、咲希は振り返る。

「おっ、雨宮(あめみや)っ!」

 (はやし)の快活な声が上がった。

 ホームルーム開始のチャイムが鳴り終わり、普通ならば明らかに遅刻扱いになっているはずの雨宮が教室に入って来た。

「はよっ!」

「おはよう」

 林の挨拶に応えながら、雨宮は自分の机にショルダーバックを下ろす。

 雨宮の前にある自分の席に座っている林が、席に着いた雨宮に渋い顔を向ける。

「お前いつも遅いな」

「あははは……」

 雨宮の応対に、林は明らかに顔をしかめる。

「笑い事か」

「あ、ゴメン」

 林が軽く叱咤すると、雨宮が深刻そうな顔で謝る。

 林は雨宮の表情を見て、林は一瞬(ひる)む。

「いや、別に、そんなつもりは……」

 林が言葉を濁していると、近くの男子が冷やかしの声を上げた。

「林が雨宮泣かした~」

 林はさっと表情を変えて、その男子を睨んだ。

「うっさいな!」

「うわっ!」

 男子が両手を顔の前にかざして、必死に守りの体勢を作った。

 その様子を見ていた近くの女子たちが小さく笑う。それを見た雨宮も、女子たちに釣られて微笑んだ。

 周りの笑っている顔を見て、林は気まずそうな顔をする。

「…………」

 周囲の楽しそうな笑い声はしばらく消えなかった。

 一様に笑った雨宮は、静かになった林の顔を見た。その表情は、居心地の悪そうな色をしていて、目元は少しだけ陰りが入り、頬の色はいつも通りなのだが、耳の先はほんの少しだけ赤みを帯びていた。

 笑ったことに対して罪悪感を感じるよりは、普段から男っぽい林にも恥ずかしがることがあるということを知って、雨宮は物珍しげに林の顔を覗き込む。

「……いいけどさ」

 林が独り言のように呟く。

 その頃には、周囲の笑い声はおおよそに引いていた。笑いが収まったのを見計らってか、林は不服そうな目で雨宮のほうを見る。

「もう少し早く来いよな。時間ギリギリだぞ」

 林の、いつも通りの男っぽい喋り方。

 それに、今度は臆した様子を見せずに、雨宮が頷く。

「うん」

 雨宮の、まだ声変わりを迎えていない、若干の幼さを残した声が対照的な和音のようできれいだった。

 それを見て、林の顔がさらに不服そうな色に崩れていく。

「お前の家って、学校から近いんだろ?」

「……え?」

 不意に林に訊かれて、雨宮は反射的に訊き返した。

 しかし雨宮の頭からすぐにその疑問は消え失せた。

 雨宮の質問攻めは、毎日のように続いていた。転校初日から一向に変わらないその熱気に、しかし雨宮は飽きることはなかった。同じ質問をされても悪い気分にはならなくて、素直にみんなの問いに答える。

 周りの生徒たちも、雨宮に対する質問は尽きることがないらしい。

 雨宮の周りに集まるのは、ほとんどが女子で、男子生徒が寄りつかないわけではないのだが、女子の生徒たちのほうが、雨宮に対する意識というものに決定的な違いがあるように見て取れた。

 訊きたいことが特になくても、女子たちは授業の合間の休み時間やお昼休みの時間、放課後などを利用して、雨宮の席に集まってくる。

 ただ話をする。

 それだけのことが、集まった女子たちの中ではとても楽しそうで、話を聞いたり、質問の受け答えをする雨宮のほうも、とても充実しているように見える。

 ――そう言えば、前に言ったっけ。

 雨宮が松風高校の近くのアパートに住んでいるということは、同学年の女子生徒の間では、ほとんど常識の範囲になっている。

 林の問いに、雨宮は頷く。

「うん。そうだね」

 何も考えてなさそうな雨宮の表情を見て、林は溜め息を吐く。

「だったらもっと早く来いよ」

「えっ、でも……」

 雨宮はすんなり答える。

「この時間でも、学校には間に合うよ」

「ギリギリだろっ!」

 林が叱咤する。

 その気勢に押されて、雨宮は一瞬肩を震わせる。

「…………」

 雨宮はそのまま硬直して何も言わない。

 雨宮が一向に黙っているので、林は慌てた。

「いや、別に、そんなつもりは……」

 また、雨宮を怯えさせてしまったのかもしれない。また、怖がらせてしまったのかもしれない。

 林には、雨宮を責めるつもりなど少しもない。雨宮を怒っているつもりでもない。今目の前にいる男子を悪く言っている気は全くない。

「…………」

 ただ、つい大声を出してしまう。

 ただ、つい本気になって声を上げてしまう。

「…………」

 しかし雨宮は、それ以上の変化はなかった。

「……?」

 怯える様子でもなく、怖がるふうでもなく、幼い子どものように、泣き出しそうな表情も見せない。

 ただ、言った。

「何?」

 拍子抜けしたように、林の意識から力が抜ける。

 雨宮の顔には、どちらかというと疑問符が浮かんでいる。

「どうかしたの?」

 雨宮は無垢(むく)な顔で訊ねる。

「………………」

 どうやら雨宮には、林が慌てている理由がわかってはいないらしい。その同様の原因が自分にあるということに、全く気付いていないようだ。

「…………」

 林はしばらく硬直していた。

 そして周囲の視線に気が付いた。

 いつの間にか二人の周りの女子たちは雨宮と林の会話を盗み聞きしていて、教室の中の他の生徒も、何人かは林の声に気付いたらしく、興味ありげな視線を、一番奥の窓側の席に向けている。

 林はぶつけたい言葉を何とか飲み込んだ。

「何でもねーよ」

 代わりの言葉を口にして、怒鳴る代わりに黒板のほうへ体を向ける。そのまま雨宮から避けるように顔を隠して、林はもう振り返らない。

「?」

 雨宮の顔には頻りに疑問符が浮かんでいる。

 周囲からは聞こえないくらいの、(ささや)くような笑い声が、水面の上を触れずに駆け抜けるように、教室の中に広がっていく。

 ――変わらないなぁ…………。

 咲希はぼんやりと雨宮のほうを見ていた。

 しばらくして、ガラガラと扉の開く音がした。

「早く席に座れー」

 担任の声が教室の中に入ってきた。

 雨宮の机の周りに集まっていた女子たちや、他にもおしゃべりに夢中になって教室の中で立ったままだった生徒たちが、担任がやって来たのを知って、ゆっくりと自分の席へと向かっていく。

 担任の姿を認めて、咲希は真奈から借りたノートを机の中にしまう。席に座ったまま、ぼんやりと周囲の音を聞いていた。楽しそうな話し声がまだ教室中に溢れていた。



「咲希って、最近変わったよねー」

 唐突に真奈が呟いた。

「どこが?」

 咲希を含め、周囲の女子たちが真奈を見つめる。

 放課後になって、教室には多くの生徒が残っていた。ほとんどの生徒は何人かで集団を作って、互いの会話に没頭している。咲希たちのグループも同様に、窓側の席に固まっておしゃべりしていた。

 真奈は少し難しそうな顔を作る。

「うーん……、はっきりとは言えないんだけど……」

「何よ、それ」

 咲希は笑ったが、真奈はまだ納得できない表情をしていた。

「何かよ。何かが違うのよ」

「だから何が?」

 咲希が訊くと、真奈は空中で必死に手を動かして何とか周りの女子たちに伝えようとしている。

「…………何かこー、すーすーだったのが、さーさーになって、何かこー、それがぴったりで、………………うまく言えない」

「何よ、それ」

 咲希は笑った。

 周囲の女子たちも笑った。

 今の真奈の説明では、何を言いたいのか、そもそも、何の話をしているのかすら理解ができない。

「でもさー」

 笑い声の中から、声が上がった。

「真奈の言っていることも、何となくわかる気するけどねぇ」

 咲希が首を傾げる。

「そう?」

 ほとんどの女子が頷く。

「そうそう」

「何か変わった気がするんだよねー」

 咲希が不思議そうに訊ねる。

「どこが?」

 そう訊き返すと、全員が黙り込んでしまう。

「……何かさー」

「何か今までと違うような」

「そう、何かがねー……」

「うん、何かなのよ」

 出てくる発言はこの程度のものだった。

 咲希は溜め息が出そうになった。

「それじゃ、わかんないって」

 一人の女子生徒が咲希を見る。

「何かいいことでもあったの?」

「別に。何で?」

 咲希は首を傾げて、その生徒を見る。

「最近、楽しそうに見えるからさー」

 何もないよ、と言いながら、咲希は最近の自分を振り返ってみた。

 特別、何かいいことがあったわけではない。今までとなんら変わらない、学校に来て、勉強をして、友達とおしゃべりをして、毎週火曜日には塾へ行く。

 どこまでも続く、平坦な日常。何も変わらない毎日。

 ――何かあったかなー…………。

 しばらく咲希は考えて、しかし、ある記憶にたどり着いたとき、咲希の心臓が僅かに高鳴ったのを感じた。

 心臓が一段と強い鼓動を刻む。

 胸が締め付けられるほど血液が吸い上げられる。

 限界まで収縮された血管に息が詰まりそう。

 ――あれだ……。

 思い出したくない記憶。

 忘れたい出来事。

 いっそのこと、なかったことにできるのならば、どんなに楽だろうか。消えてしまえば、どれほど清々(すがすが)しい気持ちになれるのだろうか。

 ――あれしかない。

 でも忘れられない。

 あの記憶。

 心の世界を垣間見た記憶。

 心の中に潜む化物を見た出来事。

 ――異常な体験。

 咲希が心の世界の化物を目にしてから、すでに二週間の時が経った。

 ――特別なこと。

 この世界は、体の世界と心の世界の二つに分けることができる。

 人間も動物も体の世界に生きていて、その個々の人間や動物の中にそれぞれ心の世界が存在している。

 そして私たち人間のように、体の世界で生きる者がいるように、心の世界にも、そこで生きている者がいる。

 体の世界の住人には心の世界の中は見えず、心の世界の住人も体の世界の様子を知ることはできない。

 二つの世界は互いに交じり合うことはない。

 しかし、心の世界の住人が体の世界に現れることがある。

 心と体の境界を越えて、心の中から体の世界に出てきたものを「フラスト」と呼ぶ。フラストは、その人のストレスが心の許容領域(キャパシティ)を超えたときに体の世界に溢れ出てくる。そして体の世界で暴走して、次第に力をつけていく。

 それがフラストだ。

 咲希は心の中にフラストを宿していた。

 咲希の心に蓄積されたストレス、抱えきることができなくなった欲求不満(フラストレーション)、耐えきれないほどに膨らんだわがまま。

 その集合体が一つになって、一つの感情になって、一つの存在になって、一つの意識になって、世界に溢れた。

 咲希のフラスト。

 咲希のフラストは大きく、咲希を殺そうとしていた。

 心の世界は体の世界と比べてとても小さく、生みの親が生きている限り、フラストはその窮屈な心の中から抜け出すことができない。だから、心の世界から解放されるために生みの親を殺す。

 今はもう咲希の中にフラストはいない。

 跡形もなく、咲希の目の前から、その異形の姿を消してしまった。

 ――それ以来だろうか。

 その前までは、咲希の心はいつも不平に満ちていた。社会を怨んで、人ごみの中を避けていた。学校にいるのがたまらなく不愉快で、クラスメイトと一緒にいることを、どこかで嫌っていた。

 勉強が嫌だ。

 塾が嫌だ。

 やりたくない。

 行きたくない。

 誰も関わらないで。

 誰もかまわないで。

 一人がいい。

 一人にさせて。

 ――消えてしまった心。

 今では、こうして友達に囲まれて、他愛もないおしゃべりをしていることは心地よく、一人でいるほうが珍しくなっていることに、咲希は気付く。

 フラストが消えてから咲希の心は少しずつ変化していって、そのおかげで、生活の中にも僅かなゆとりができていた。

 咲希はそのことに対して、特に実感はしていなかった。

 ――変わったのかなぁ…………。

 別の女子が咲希に声をかける。

「誰か好きな人でもできたんじゃないの?」

 突飛(とっぴ)なことを言われて瞬く咲希より先に、真奈が叫んだ。

「えーっ!好きな人ー!誰々?」

 叫んだ勢いで、真奈は座っている席から立ち上がり、咲希のほうに向かって身を乗り出していた。

「……!」

 咲希の頬は一瞬で赤らむ。

 咲希は慌てて真奈に座るように両手を挙げる。

「ちょっと真奈、声が大きい!」

 咲希は周りには聞こえないように小さな声で叫んだが、真奈の耳には届いていないようだった。

 真奈は再び大きな声を出す。

「誰なのよー」

「誰もいないって、好きな人なんて」

 咲希はすぐに否定したが、真奈はまだ納得しない。

「嘘おっしゃい。この真奈ちゃんは騙されませんよー」

 真奈は立ったまま咲希の顔を正面から見つめる。

「う……」

 咲希は言葉を濁した。

「さー白状なさい」

 真奈はなおも咲希のほうへと近づいていく。不自然なほどに接近した顔が、もう少しで三十センチメートルを切りそうだ。

「うぅ」

 咲希の口からうまく言葉が出てこなかった。

 真奈の視線から逃れようと、咲希は顔を背けようとしたが、周囲の女子の熱い視線に身動きが取れなかった。

「……………………」

 咲希は頭をフル回転させて、この状況から逃れられる言葉を捜した。なかなかうまい言葉が出てこなかったが、今は何でもいいから話を逸らす方法が欲しい。

 そして、やっと見つけた話題をそのまま口にした。

「結局ノートを返しに来なかった人が何言ってるの」

 言われて、真奈の顔が一瞬で(ゆが)む。

 笑い損なった笑顔に朱の色が帯びる。

「だから、ゴメンって言ったじゃん!」

 向きになった顔が面白くて、そこにいる女子全員が笑い声を上げた。



「いらっしゃい」

 雨宮は快く咲希を部屋へと通した。

「お邪魔します」

 そう言いながら、咲希は雨宮の家の中に入った。

「……」

 咲希は雨宮の家の中を一様に見渡す。

 雨宮の部屋には相変わらず何もない。

 テレビも机もテーブルも本棚も、ベッドすらない。

 大人の頭一つがなんとか通るくらいの小さな窓には、カーテンをつける必要はなさそうだが、その分、外の明かりも十分に取り込めそうにない。

 洗濯物は全て部屋干しになるのだろうが、そのための物干し道具はないし、天井には物干し代わりのロープらしきものも見当たらない。

 そもそも、雨宮の部屋に来るまで、玄関から一本道にもかかわらず、洗濯機らしきものは見られなかった。

 洗濯物は、おそらく外のコインランドリーを利用することになるのだろうが、果たしてこの近くにコインランドリーがあるのかどうか、咲希は全く知らなかった。

 キッチンのほうにも、包丁や俎板(まないた)、調味料もなかった。それ以前に、冷蔵庫もなかったことに、今さらながら咲希は驚いた。

「本当にここに住んでいるの?」

 部屋に入りながら咲希が訊いた。

 雨宮はあっさりと頷く。

「うん、そうだよ」

 咲希は物珍しそうな目を辺りに向ける

「その割にはモノがなさ過ぎない?」

 雨宮は苦笑する。

「モノが増えると、片付けとか大変だから」

 咲希には納得できなかった。

「限度があるでしょ」

 これだけモノがないと、生活をするのに不便だろう。殺風景な部屋は、もしかしたらモデルルームよりきれいなのかもしれない。

 苦笑しながら、雨宮は咲希を座らせる。

「何か変わったことはあった?」

 雨宮が訊ねる。

 咲希が雨宮の家を訪れたのは、雨宮が咲希の前に現れたフラストを倒してくれたからだ。そのときに咲希が受けた傷、それは身体的な面はもちろん、精神的な面も含まれる、それら咲希が受けた被害の、その後の回復の様子を診るためだった。

「……」

 咲希はしばらく考えてから、口を開く。

「最近……」

 座りながら咲希が訊いた。

「今日もだけど、変わったって言われるんだけど……」

「僕もそう思う」

 即座に雨宮が頷く。

「……」

 咲希は雨宮のあっけない返答に、後の言葉がすぐには浮かんでこなかった。

 雨宮は笑う。

「フラストが上嶋(うえじま)さんの心から消えたからだね」

「そんなに変わった?」

 咲希は首を傾げる。

 雨宮は頷く。

「フラストはその人の性格の一部でもあるんだ。心から溢れてしまうほどのね。それがなくなったんだから、変わったと思われてもおかしいことじゃないよ」

 でも、と言って雨宮は続ける。

「今の上嶋さんも、上嶋さん自身であることには変わらない。みんなに変わったと思われている上嶋さんも、上嶋さんの性格の一つなんだ」

「ふーん」

 咲希は曖昧に頷く。

「他に何か気付いたことは?体の具合が悪いとか」

 雨宮が訊ねる。

「…………」

 咲希は考える。

 咲希の心の中からフラストが消えてからおよそ五日間、咲希は自分の体に違和感を感じていた。

 体全体が妙に重く感じられ、何をするにもやる気が出なくて、授業中はずっと机に肘を突いていた。

 そのまま何度も居眠りをしてしまった。

 何度か隣の席の人に起こしてもらって、おかげでその間、咲希は授業中に教師から注意されることは一度もなかった。しかし授業それ自体の内容は、咲希の頭の中に全く記憶されていない。

 三日目になって、雨宮が学校に姿を現した。フラストとの戦いで深い傷を負っていた雨宮は、それまで学校を休んでいた。

 雨宮の登校してきたのを見て、咲希は心底驚いた。

 咲希が見た感じの雨宮の傷は重傷だった。学ランから中に着ていたシャツに至るまで、雨宮本人が流した血によって赤く濡れていて、その怪我のせいで、しばらく雨宮が動けなかったのを咲希は覚えている。

 二学期になるまで、雨宮に会うことはないだろうと咲希は思っていた。

 実際、普通ならば全治何か月と呼ばれる部類の怪我であろう。

 しかし、それから三日目になって雨宮は学校に姿を現した。登校したときの雨宮は、いつものように笑っていて、松葉杖をつくこともなく、たどたどしく歩く様子もなくて、健全そのものだった。

 四校時が終わってすぐの人のいないときに、咲希が雨宮の席に行って訊ねると、「MASKS(マスクス)の体は普通の人より丈夫なんだ」と、笑って言った。

 MASKSとは、フラストと戦う集団のことだ。

 フラストは元々、心の世界の住人だから、普通の人にその姿は見えない。だからフラストを駆除するためには、フラストが見えるようにしなければならない。

 また、フラストは通常、人間の心の世界に隠伏しているため、いつ体の世界に現れるのかが把握しきれないところがある。だからフラストが現れる直前の、気配のようなものを察知できる必要がある。

 こういった、フラストのことを中心とした、心と体の世界のことに関して研究している組織があるらしい。

 雨宮の話では、MASKSとはその組織の中の対フラスト集団のことである。直接フラストと交戦できるのは、MASKSしかいない。

 これ以外のことについて、咲希はこの組織については何も知らない。雨宮が秘密だと言って、これ以上のことは教えてくれない。

「…………」

 咲希は一週間ほど前の自分の体調を、頭の中で振り返ってみた。

「今はもう平気かな」

 雨宮は頷く。

「それはよかった」

 ねえ、と言って咲希は雨宮を見つめる。

「私って、どんなふうに変わった?」

「ええっと……」

 雨宮の顔に苦笑が浮かぶ。

「上嶋さんに会ってから一月も経っていないから、何とも言えないんだけど……」

 そう前置きして、雨宮はしばらく考え込む。

 雨宮は頭の中で言葉がまとまらなくて、よく黙る。学校の教室の中で質問攻めにあうと、雨宮はしばらく言葉を切って、返答の言葉を捜そうとする。

「…………」

 そのことを知っていた咲希は、何も言わずに、静かに雨宮の返事を待っていた。

 ようやく雨宮が口を開いた。

「前よりも笑うようになったかな」

 咲希は首を傾げる。

「そうかな……」

 雨宮は大きく頷く。

「最初に会ったときは、強い人なんだなって思ったよ。初対面でいきなり平手打ちを食らったし」

「それは言わないで」

 咲希の頬が、仄かに赤みを帯びる。

 確かに殴った。

 思いっきり。

 そのときが、咲希が初めてフラストを目にしたときであって、咲希がフラストに襲われたときであって、初めて雨宮と口をきいたときであって、そして、雨宮の正体を知ったときでもあった。

 今まで見たことのない得体の知れない化物に襲われて、そのときの咲希は完全に動揺していた。気が動転していて、一刻も早くその化物から、その場世から逃れることしか、咲希は考えられなかった。

 そのとき、咲希を助けたのが雨宮だった。

 雨宮は体を張って咲希を守ってくれた。その際に、雨宮と咲希は互いに接近して、互いの体が触れ合うことがあった。

 倒れた拍子に、抱き合う体勢になった。

 その直後に、咲希は雨宮の頬を力一杯殴った。

 咲希はときのことを思い出して、いっそう頬が熱気を放っているのを感じた。

「ごめん」

 雨宮は笑いながら謝って話を続ける。

「フラストを見た後で、僕に話しかけてきたときには本当に驚いたよ。すごく度胸のある人なんだなって思った」

 雨宮の言葉が続く。

「……でも、違ったんだね」

「……?」

 咲希は首を傾げる。

 雨宮は優しい目をしていた。

「上嶋さんは人と向かい合うと気を張り過ぎちゃうんだ。緊張するというのとは少し違うけど、相手のことを意識し過ぎていた。それがどうしてなのか、何をそんなに意識していたのかはわからないけど、それが原因でフラストが生まれて、その弱みにフラストは付け込んでいたんだろうね、きっと」

「付け込む?」

 咲希は訊き返す。

 雨宮が頷く。

「そう。成長したフラストになると時々その人の心を乗っ取ることがあるんだ。そうすると、その人の意思とは関係なくその人を動かせる。例えば、その人がやりたいことをやらせないようにしたり、その人のしたくないことをさせたりね」

 咲希はしばらく考えて、言った。

「操り人形にされるってこと?」

「そういうこと。そうやってうまくその人を誘導して、自分の栄養を取り入れて成長していくんだ」

 咲希は難しい顔をする。

「普通気付かない?自分の意思とは無関係のことをさせられるんでしょ」

「無関係、とは言えない」

 雨宮の顔に、いつもの笑顔はすでになかった。どことなく暗い感じの声で、雨宮は話を続ける。

「フラストという名前が、フラストレーションという単語からきている、っていうのは覚えている?」

「……うん」

 咲希が頷くのを見て、雨宮も頷く。

「日本語で欲求不満の意味だけど、要するに、人間の本能的性質が具現化したものなんだ、フラストはね。満たされない欲求、あるいは不満の蓄積がフラストの元となる。だから、フラストはその人の性格の一部だと言える」

 咲希は頷く。

「それは、なんとなくわかる」

 咲希にはわかった。

 咲希の心に住み着いていたフラストは、咲希の思いをぴたりと言い当てていた。咲希の思考そのものを語っていた。

 フラストが消える前まで、咲希は人と一緒にいるのが嫌だった。

 クラスの話し声に嫌悪して、教室中に広がる笑い声を憎んでいて、集団の中にいることを(うと)んでいて、誰かが傍にいることを嫌っていた。

 ――みんなが悪い。社会が悪い。みんな、大嫌いだ。社会に縛られるなんて真っ平だ。

 フラストの言っていたことは、確かに咲希自身が感じていたことだった。それは否定することができない。

 雨宮は頷く。

「どういう方法でフラストが人間の行動を操るのかまでは僕にもわからないけれど、元々はその人の性格の一つだから、割と違和感なくその人になりきれるらしいよ。二重人格みたいなものかな」

「うん」

 咲希は頷いた。

 声だ、と咲希は思った。

 フラストが咲希の中にいたとき、咲希の頭の中で声が聞こえていた。それこそが、フラストの声だったんだろうと咲希は納得する。

 咲希とよく似た、いや、咲希と全く等しい声だった。声の質も、喋り方も、その声に含まれる意識までも、咲希のものと同じだった。

 そして、咲希の思いを代弁していた声。咲希の感情を吐露していた声。咲希の意識と重なっていた声。

「そうなんだ」

 咲希は静かに呟いた。

 咲希の心を操っていたのはフラストだった。しかし、フラストを生み出してしまったのは咲希自身の心でもあった。

 人の心の中に巣くう化物は、結局のところ、その人自身の姿でもあることを、認めざるをえない。



 翌日の早朝、朝の学校。ホームルーム前のしばしの生徒たちだけの時間には、クラスの中はささやかな賑わいがあった。

 多くの生徒は互いに集団を作ってその中だけの話に熱中している。残った一部の生徒は、自自分の机に座ってマンガを読んで過ごしている。

 咲希も、話の輪の中に入っていた。

「ねえねえ、知ってる?」

 少女たちのグループに一人の女子生徒が声をかけてきた。

「何よ、早沙音(ささね)

「もしかして新しい特ダネ?」

 少女たちは一斉にその女子生徒の方に顔を向ける。咲希も周りと同じように振り返って彼女を見た。

 早沙音は軽やかに揺れる三つ編みを二本垂らし、雀斑(そばかす)の付いた顔にはピンク色の縁という奇抜な色をした眼鏡をかけている。

 早沙音は、咲希とは同じクラスで、女子の中でも特におしゃべりが好きな子だ。

 自分が見聞きした情報は誰にでも見境なく話してしまい、自分が聞いた話を、誰かに話したくて、それが我慢できなくて、誰にも話せないでいることをたまらなく不快に感じてしまう、そんな性格だ。

 彼女の話を、ただ聞くぶんにはいいのだが、早沙音の前でうっかり大切な話をしてしまうと、後で大変なことになる。

 遅くとも次の日までには、松風高校一年生全員に話が行き渡ってしまう、そんな爆弾をはらんでいる子だ。

 早沙音は楽しそうな顔をして、少女たちの輪の中に入る。

「その通り!」

 早沙音は頷く。

「あまり大きな声じゃ言えないんだけど」

 早沙音が手を口の側面に当てて声量を落とすので、周囲の女子たちは僅かに耳を早沙音に向ける。

 最初に話をするときに声を小さくするのは、早沙音の常套手段だ。それをわかっていながら、やはり誰もが早沙音の新鮮な情報を聴き取ろうとする。

 早沙音の口から出たのは、意外な内容だった。

「二年の先輩で自殺した人がいるらしいよ」

 周囲の女子生徒の間でどよめきが起きる。

「えぇっ!」

「うそー」

 おそらく今の話を聞いた全ての女子生徒が驚いたことであろう。

「それ、マジ?」

 一人の女子が訊いた。

「マジよ、マジ。大マジ」

 早沙音は頷く。

「男子バスケ部の郡内(ぐんない)先輩で、一昨日の夜、家で首吊ってたらしいよ。昨日親が来て、いじめがなかったか校長に訊いてたんだって」

「本当にいじめとかあったの?」

 訊かれて、早沙音は首を傾げる。

「さー、まだそういう情報は入ってないけど」

「あったと思うよ」

 一人の女子がぼそりと呟いた。

「えー、どんな?」

 早沙音が真っ先に口を開いた。

 周囲の視線が、一斉に彼女へと収束していく。その女子生徒は周りの視線を浴びて、おずおずと話し始めた。

「クラブのとき、隣の男バスでボールをぶつけられている人を見たことがあるから、きっとその人だと思う」

 周囲の女子は静かに頷く。

「いじめで自殺かー」

「ニュースとかじゃ聞くよねー」

「そうそう、お金取られたり、殴られたり、変なあだ名つけられたりとかでね」

「でもそういうのって、テレビだけの話だと思ってた」

「だよねー」

「実際に近くであるって言われると、ちょっとびっくり?」

「確かにー」

「マジで、って思うよねー」

「私は未だに信じられないんだけど」

 その言葉が上がった瞬間、その生徒に向かって早沙音が強い視線を送る。

「本当のことに決まっているじゃないですか、お客さん。私の情報に嘘はないんだから。私の情報網は完璧ですよ」

 とぼけた調子で言ってはいるが、これはこれで早沙音は本気にしている。

 早沙音の情報収集力は確かに優れていて、話の信憑性を得るためなら、上級生への聞き込みなどは平気でやってのける。

 そんな早沙音の努力もあってかどうかはわからないが、早沙音の話に間違いがあったことは今まで一度もない。

 早沙音に睨まれた女子はすぐに謝る。

「あっ、うん。そうだね」

 いつだったか、早沙音の話を冗談半分でからかったときがあって、そうしたら早沙音は大声で泣き出して手がつけられなかったことがあった。そんなこともあって、クラスの女子生徒は全員、早沙音の話を信じている。

「そうだよ。早沙音が嘘ついたことなんて一度もないし」

「いじめで自殺、っていう線はありだよね」

 誰かが言って、女子たちが相槌(あいづち)を打つ。咲希も同じように頷く。

 それを見て、早沙音が満足げに微笑む。

「絶対そうよ。これだけ状況が揃っているんですもの、これはもう、いじめた人の責任ね。これからどうなっちゃうんだろう。みんな気にならない?」

 早沙音はとても楽しそうだった。

 それとは対照的に、周囲の女子たちの笑顔は軽薄なほど平面的で感情に掛けているようにしか見えなかった。

「……………………」

 全体に重い空気がのしかかる。

 場違いな明るい声がしたのは、そのときだった。

「おっはよー!みんな何話してるの?」

 鞄を持った真奈が、女子たちの輪に駆け寄って声をかけた。

 陰鬱(いんうつ)な少女たちの顔が真奈のほうを向く。

「二年生で自殺した人がいるんだって」

 一人の少女が言うのを聞いて、真奈は大声を上げた。

「えー!本当?」

「本当よ。私の情報に間違いはないんだから」

 早沙音が頷いた。

 真奈が脅えたような顔をして訊いた。

「誰、その人」

 女子の中の一人が答える。

「男子バスケ部の郡内先輩。一昨日の夜、家で首吊ってて、昨日親が学校に来て、いじめがなかったか訊いてたんだって」

 真奈は大きく目を開く。

「いじめがあったの?」

「そうみたい」

 早沙音は頷く。

「かわいそうだね」

 真奈は悲しそうな顔をする。

「…………」

 その言葉にすぐ反応するものはいなかった。みんな、俯きがちに黙っている。咲希も周りと同様、黙っているしかなかった。

 でも、という言葉がしばらくしてから上がった。

「仕様がないんじゃない。あたしらには何もできないんだし」

 もう一人の生徒がその言葉に頷く。

「そうそう、男バス内でのいじめなんて私たちが知るわけないんだし」

「だよねー」

「あたし体育館にあんま行かないし」

「私も~」

「仮に知ってても、どうすることもできないしね」

「うんうん」

 少女たちの首が小さく上下する。咲希も曖昧に頷いていた。

「でも……!」

 真奈は小さく叫んだ。

 しかしその後の言葉がなかなか出てこなかった。

 そのとき、チャイムの音が校内に響き渡った。

「教科書出してこよう」

 誰かがそう言って少女たちの輪から抜けると、その言葉に従うように、少女たちは次々と輪の中から外れていく。

「私も新しい情報探してみるね」

 そう言い残して、早沙音は小走りに廊下にあるロッカーへと向かって行った。

「…………」

 真奈は黙ったまま突っ立っていた。

 登校したばかりで、鞄を持ったままだった。鞄を握る手が僅かに震えている。いつも笑顔の真奈の顔は、下を向いて、今にも泣きそうな顔をしていた。

 咲希はそっと真奈の肩に手を乗せる。

「もう席に着こう。ね?」

 真奈は唇を強く結んだまま頷いた。

 それから真奈は咲希に背を向けて、自分の席に向かって行く。その背中がとてももの悲しげな印象を与える。

「…………」

 真奈を見送った後で、咲希は自分の席に向かう。

 教室の中には、生徒たちの間で交わされるざわめきが未だに残っていて、その音が尾を引いていた。

「……」

 咲希は黙って歩いた。

 歩きながら、咲希は窓の外へと目を向けた。灰色の雲が重たそうに空を覆っている。確か天気予報では雨が降るはずだ。



 ――ザー、ザー……。

 雨が降っていた。

 ――ザー、ザー……。

 空を覆う真っ黒な雲から、水を含んで黒ずんだ灰色のコンクリートに向かって、容赦なく重たい雨粒がたたきつけられる。雨粒がコンクリートに衝突するたびに、痛々しい音が跳ね返ってくる。

「……」

 彼は傘を持っていなかった。

 傘を持ってきたという記憶は、彼の中にはっきりと明記されていた。彼は体育館の前に設置された傘立の中を何度も見た。

「……」

 しかし、置いたはずの透明なビニール傘はどこにも見当たらなかった。それどころか、傘立の中には一本の傘さえなかった。普段なら置き忘れの傘が数本残っているのだが、まるで仕組まれたように、傘はなかった。

「……」

 意味はないのだろうが、体育館の中も、念のために調べてみた。やはり傘はどこにもなかった。

 ――ザー、ザー……。

 彼はしばらくの間、体育館の玄関に突っ立って、外の景色を眺めていた。そこには透過率の非常に悪いトタンの屋根が敷き詰められていて、波打つような凹凸面には長年の間に堆積した黒ずんだ汚れが見て取れた。

「…………」

 彼は雨の当たらないその場所で、少しの間やかましい音を立てる雨粒の群れを、何も言わずに眺めていた。

 ――ザー、ザー……。

 雨は一向に止む気配がなくて、平行的な騒音は一定の降水量を示しているのだろうが、あまりにも激しい雨音に、次第に雨の勢いが増しているような錯覚を覚える。

「……」

 彼は仕方なく、雨の中へ自分の体を投げ出した。雨の中にはいると、彼は可能な限りのスピードを出して駆けていく。汗を含んだシャツの上に冷たい雨がのしかかり、火照(ほて)った彼の体を一気に冷やしていく。

 ――ザー、ザー……。

 彼は部室の前までたどり着いた。

「……」

 彼が所属している部活の部室は、体育館の脇に設置されていて、いつも部活が行われているコート側の扉のすぐ近くにあるのだが、部活の練習時間はとっくに過ぎていて、部室の近くにある扉にはすでに鍵がかかっていたので、彼は遠回りになる、体育館の出入り口から、ここまで雨に打たれながら走ってきた。

 ――ガチャガチャ…………。

 部室の前に立った彼は勢いよくドアノブを(ひね)った。しかしドアは少しも動かなかった。もう一度引っ張ってみたが、結果は同じだった。

 ――ドンドン…………。

 彼はドアを叩いてみた。

 最初は静かにノックをしたが、何の反応もなかった。次第にドアを叩く力を増していったが、やはり反応はなかった。

 ――ドンドンドン…………!

 後半のほうでは、彼は激しくドアを叩いて、ドアノブを何度何度も回していた。雨音に負けないくらい、大きな声で叫んで呼びかけをしてみたものの、彼の声に応えてくれる人は一人もいなかった。

「……」

 彼は諦めてドアノブから手を離した。

 そのまましばらく雨に打たれていた。

「…………」

 雨に打たれていた。

 黙ったまま、扉だけを凝視していた。体を動かさず、顔も動かさず、瞳すら動かない、ただその点のような扉だけを見つめていた。

 ――ザー、ザー……。

 そもそも動く体力がないのか、動こうとしていないのか、彼は抜け殻のようにそこにいた。彼の存在が、実に透明で、妙に痛々しい。

 それでも彼は無言でそこに居続けた。

「……」

 そしてゆっくりと歩き出した。

 彼は下を向いたまま、黙ってその場から離れていく。彼の垂れた髪の毛からは、重たい滴が流れ落ちる。

「……」

 部室から五メートルほど歩いたところで、彼は突然走り出した。何かを振り払うように腕を激しく上下に振って、何度も何度も水溜りを踏みつける。そのたびに、彼の周りの水分が薄暗い空気の中に飛び散った。

 ――ザー、ザー……。

 全速力で、校舎を通り過ぎ、校門を抜けて、五分ほど走ったところで彼は足を止めた。そこで道が分かれていた。

「…………」

 いつもなら、彼は学校から近くにある駅に向かって、二駅目で降りて、家まで歩いて帰っていく。

 しかし、今の彼は電車に乗れなかった。傘を持っていないとか、運動着のままだとか、そういう身なりの問題ではなくて、単純にお金がないのだ。

 彼の制服のポケットの中に、財布がある。そして彼の制服は今、鍵のかかった部室の中に置き去りにされているはずだ。

 ――ザー、ザー……。

 彼はしばらくその場に突っ立って、雨に打たれていた。

「……」

 とても長い間、何もしないで、ただ立っているだけだった気がする。

 何もしないで、ただ雨に打たれていた。

 静かに眼前を見据えたまま、それ以外には何もしないで、ただ突っ立って、二手に分かれた道だけを見ていた。

 ――ザー、ザー……。

 彼以外に人の姿はない。

 雨足は先程と一向に変わらない、ひどいどしゃ降りだった。

 その雨粒を、彼は一身に受け止めている。

 雨を遮るものはなく、彼自身が遮る気持ちもなく、その意識すら薄れてきて、まるで心が停止したように、彼の目からは意志というものが感じられない。

「…………」

 彼はようやく歩き始めた。

 彼は仕方なく、薄汚れた体育着のまま、屋内シューズを履いたまま、家まで歩いて帰ることにした。学校から彼の家まで、歩いて二時間以上はかかる。

「……」

 彼は早足に歩き出した。

 ――ザー、ザー……。

 雨は衰退する様子もなく降り続いていて、彼の体のあちらこちらに無色の水滴が染み込んでいく。

 大量の水を含んで濡れた髪は、水の重さの分だけ垂れ下がり、溢れた出た雨粒が、彼の頬を伝って沈んでいく。

 水分を含んだシャツは彼の肉体に重くのしかかり、傷だらけの腕や足に、無数の滴が流れ落ちる。

 ――ザー、ザー……。

 彼は大通りに出た。

 そこは車の流れが激しくて、雨天の影響で車道には車が溢れかえっている。暗い道の上を幾つものライトが駆けていき、そのたびに大量の水気を含んだ彼の姿が夜の町の中にボーッと浮かび上がってくる。

「……」

 そこには人の姿もあった。

 広い道であるぶん、人通りも多い。

 雨のせいで少しは人気も減少する傾向にはあるはずなのだが、人々が手にする傘のせいで何となく膨らんで見えて、人の数が減ったようには見えてこない。

 ――ザー、ザー……。

 道行く人々が、好奇の目で彼を見つめる。

 サラリーマンらしき男性は、傘の下から憐れそうに彼を見て、主婦らしき女性は、怪訝(けげん)そうな目で彼を一瞥(いちべつ)して、カップルであろう男女は、彼の横を通り過ぎた後で遠慮のない笑い声を上げた。

「……」

 しかし彼はそんな周囲の態度に頓着することなく、ひたすら歩き続ける。町の明かりの中で、彼の影が小さく通り過ぎていく。

 ――ザー、ザー……。

 一時間以上歩いたところで、次第に車の数は減っていき、道幅そのものも、徐々に狭くなっているような気がする。目立つ明かりは道路の端に設けられた街灯だけになって、外を歩く人の姿もその数を減らしていき、そのうち人の気配すらなくなっていく。

「……」

 彼が家に着いたのは、おそらくほとんどの家庭で夕飯を終えた頃だろう。周囲の家々には煌々と明かりが灯っている。

 しかし彼の家にだけは電気が点いておらず、家の中に人のいる気配すら感じられない。彼の親にあたる人物がいてもいいのだろうが、仕事か何かの関係なのだろうか、まだ誰も帰宅してはいない様子だ。

「……」

 彼は玄関には向かわずに、裏手のほうへ回った。地面が剥き出しになった狭い庭を彼は歩いていく。

 ――ザー、ザー……。

 彼が歩くたびにヘドロ状になった茶色の土が跳ね上がって、雨や埃で汚れた靴下をさらに黒く汚していく。

「……」

 彼は窓の真下で足を止めた。

 窓は二階ほどの高さにあって、普通にやっては手が届かない。彼は塀によじ登って、家の壁に足をかけて、勢いをつけて自分の体を壁に押し付けた。

「……」

 彼はしばらく壁に押しつけたまま、じっとしたまま静止していた。

 ――ザー、ザー……。

 自分の体が安定したのを確認して、彼は適度な足場を見つけながら、窓のところまでよじ上っていく。

 ――ガラガラガラ…………。

 鍵のかかっていない窓を開けて、彼は部屋の中に入った。雨と泥で濡れた屋内シューズが、床の上を汚してしまう。

 ――ガラガラガラ………………ガラッ。

 窓を閉めて、彼は部屋の中を歩いた。彼が歩くたびに、彼の体に付着した水滴が床の上に垂れていく。

 ――サー、サー……。

 彼は机の前で足を止めた。しばらく黙って突っ立ってから、彼は一つの引き出しを開ける。そして、それを取り出した。

「……」

 引き出しを閉じた後で、彼は別の引き出しを開けた。

 一冊のノートが出てきた。

「……」

 彼は濡れた手でノートを取り出した。紙でできたページに水分が侵入して、ノートの上に灰色の染みができる。

 ――パサッ。

 彼は最後のページを開いて、机に置いた。しげしげと眺めてから、そこに書いてある文字を朗読してみた。

「……………………」

 小さくて無機質な声は、雨の音に消されていった。

 ――サー、サー…………。

 読み終わってから、再び彼は黙り込んだ。明かりのない部屋の中は、どこか心細い気持ちにさせる。

 雨の音だけが、ザーザーとうるさい。

「…………」

 彼の口元が僅かに緩む。それが笑顔に見えたのは気のせいだろうか。

 彼は首にかけたままの濡れたタオルをベッドの上に放り投げると、手にしたロープを天井に引っ掛ける。


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