序曲
赤い世界。
空は朱の絵の具で塗りつぶしたように鮮やかで、空に漂ういくつかの雲も血の色に染まっている。目の前には紅のススキが広がり、二拍子のテンポで揺れる紅は幻想的な調べを奏でていて、美しい。
赤い世界の中で、あたしは一人で立っていた。
「……」
音は、ない。
ススキの揺れる音も、風の流れる音も聞こえない。ただ、赤い世界が静かにあたしを覆いつくしている。それだけだった。
「……」
あたしは、この世界が好きにはなれなかった。
何もせず、ただ立っているだけなのに、あたしはとても居心地が悪くて、音のない鼓動が激しく胸を締め付ける。
赤い色が嫌いなわけではない。
空の朱は濃い夕焼けのようで、雲は夕日に照らされたようにきれいだった。変わった色をしたススキも、その珍しい紅の色合いは、とても美しいものだと、それだけ見れば、そう思えたかもしれない。
「……」
でも無理だった。
違和感があった。
この場所は何か違っていた。いつも見ている景色とは明らかに違っていて、その不自然さが異常に受け入れられなかった。この場所そのものが場違いなような、静かで穏やかなこの景色からはどことなく戦慄じみたものを感じ取っていた。
血のように赤い世界。
あたしは言いようのない恐怖を覚えた。
「…………」
ぼんやりと周りの赤い景色を眺めていると、いつの間にかあたしの耳元で音が聞こえ始めていた。
最初は小さすぎて気のせいかと思ったが、耳元に神経を集中しているうちに、次第に大きくなっていくのがわかる。
――パチパチ…………。
その音は拍手に似ていた。
何百人、何千人、いや、もしかしたら何万人もの群集が、賛美を表して演奏される拍手が、どこかはわからないけれど、遥か彼方から、ゆっくりと、だが確実に、こちらに向かって近づいてくる。
――パパパパパ…………。
巨大な拍手は波になることを、あたしは知っていた。
幼稚園のお遊戯会で園児たちが行うような拍手は、周囲の騒音に過敏に反応して、互いに音の大小を競うために、荒々しく、激しく、太鼓を連打しているように聞こえるが、本物の喝采はその質を異にする。
――アアアアアアアアアア…………。
それは、海の音に似ている。
砂浜に押し寄せてくる、押し寄せては引いていくさざ波のようだった。海の上を走る、穏やかな波のようにも聞こえた。
今よりもずっと小さい頃に、「オペラ座の怪人」を両親に連れられて見に行ったとき、大勢の観客が手を叩いた。ホールを埋め尽くす拍手の潮騒は、あたしの体に勢いよく押し寄せてきた。
――恐い。
あたしは耳を両手で塞ぎ、目を必死で閉じて自分の席の中で体を丸くしていた。劇が終わった後も、両親がいくら体を揺さぶっても、腕を引っ張ろうとしても、しばらく席から動けなかったのを今でも覚えている。
――アアアアアアアアアア…………。
あたしは駆け出した。
紅のススキの中を、無我夢中で走った。感触のないススキの穂が頬をくすぐる。あたしの背丈ほどある紅のススキの原は、血で濡れた無数の人の腕があたしに向かってくるような気がして、目眩がする。
あたしは必死で走った。
どこまでも、どこまでも…………。
でも、どこまで走っても赤い世界が途切れることはない。どれだけ駆けても、押し寄せる潮騒が遠ざかることはない。
――ゴオン…………。
そのうち、轟音があたしの背中を押し始めた。
大砲のような轟音が撃たれるたびに、あたしの心臓が止まりそうなくらい収縮して、胸の痛みに倒れそうになる。
――ゴオン…………。
巨人の足音のようだとあたしは思った。
空に届きそうなほどの巨大な足が、とてもゆっくり、ゆっくりと歩いていて、一歩一歩を踏み出している、その大地を揺さぶるほどの大きな足音。
――アアアアアアアアアア…………。
――ゴオン…………。
次第に大きくなる波の音と、徐々に近づいてくる巨人の足音は、先を争うようにあたしの後ろから追いかけてくる。
――いや。
あたしは必死になって走った。
けれど、どんなにあたしが一生懸命に走っても、あたしを追ってくる音が遠ざかることはない。むしろどんどんと近づいてくる。あたしよりも足の速い音たちが、遅いあたしをからかうように、後ろから追いかけてくる、そんな感じだった。
あたしはまるで「ジャックと豆の木」の主人公になった気分になった。雲の上に住む巨人の家から、宝物を盗んだジャックが、巨人に追われるシーンそのもの、のように思えてならなかった。
――早く逃げなきゃ。
巨人の家から宝物を奪ったことがばれて、後ろから追ってくる巨人から、ジャックは必死になって雲の上を駆けていき、最初に上ってきた豆の木を伝って、雲の世界から抜け出して、巨人が自分の後をついてこれないように豆の木を切り倒す。そうやって、お話の中の主人公は助かった。
「…………」
でも、自分は助かるのだろうか。本当に、あの音から逃げられるのだろうか。この赤い世界に、終わりはあるのだろうか。この、きれいすぎるほど気味の悪い世界から抜けだすことができるのだろうか。
「…………」
わからない。
わからないけれど、走り続けることしかできなかった。
――助けて。
体が熱い。荒い呼吸で、喉が灼ける。熱を帯びた息にむせ返りそうになる。鼓動は加速しすぎて軋んでいる。
「………………」
体から大量の汗が流れていた。
それに気付いた次の瞬間、無色の汗が赤に滲み始めた。
体に粘りつく深紅の汗は、体中から溢れ出てくる血のようだった。手も、足も、顔にまで、赤い液体が体の表面に広がって、あたしの体を世界の色に塗り替えていく。
――恐い。
あたしは無我夢中で走った。暴れるように走り続けて、必死になって、あたしの体を埋め尽くそうとする赤い世界を振り払おうとした。
でも、どんなに振り払おうとしても赤い汗は血糊のようにへばりついたまま離れずに、あたしの体を徐々に赤い世界の一部に変えていく。
「……っ!」
あたしは息が止まりそうになった。
――アアアアアアアアアア…………。
悲鳴とともに夢から覚めた。
「……」
あたしは起きた。
耳の裏からはプレストのテンポで血液の流れる音が聞こえてきて、酸素に飢えた心臓は必死に呼吸を荒げようとする。灼熱の体からは汗が沸騰する勢いで溢れ出し、瞼の裏にあった目に針で刺したような痛みが走る。
あたしはすぐに目を閉じた。
「……………………」
目の裏側には何もない。
光の届かない真っ暗な場所。
それでも、肌の周りにまとまりついた汗だけはとても鮮明に理解できて、水気を含んだ服が地肌に直接触れる感触が、妙に重たくて、とても気持ちが悪い。
――……夢?
あたしは一度息を吐いた。
――悪い夢。
そしてゆっくりと目を開ける。
夢から覚めたんだ。あの悪い夢は、もう終わったんだ。いつもの生活の続きが、また始まるんだ。
「……」
あたしが悪夢から抜け出したことを理解するよりも前に、あたしの瞳に悪夢が映し出されていた。
――パチパチ…………。
――パパパパパ…………。
――アアアアアアアアアア…………。
――ゴオン…………。
「…………」
声は出なかった。
そして見た。
――アアアアアアアアアアアアアアアアアアアア…………。
紅蓮の炎が世界を灼いていた。