5. 高すぎる壁
この前初めて買ったレディースの服は出番が見つからないまま、私の部屋の押し入れの奥底にある。でもまだ買って1週間だ。焦らずに機会を待とうではないか。そんな具合で、私は毎日押し入れを開き、服があることを確認していた。服の入った袋を覗き込み、この服を身に纏っている自分を想像して、また押し入れにしまう。この服を見ると、本当の自分がそこにあるような感覚になり落ち着いた。
そこからさらに1週間経った日。毎日の服の確認は、もはや習慣と化していた。今日もまた押し入れを開く。
「ない……!」
服が消えていた。昨日は確かにここにあったのに。
「なんで?うそでしょ? なんでないの?」
軽いパニックになりながら押し入れの中をかき回す。服の入った袋をひたすら探す。脈が早くなっているのがわかる。見つからなかったらどうしよう。だんだん視界が潤んできた。
「もしかして翔平、これを探してるの?」
不意に部屋の扉のほうから声がした。振り返ると、そこに立っていたのは母だった。母が手に持っているのは紛れもなく、あの服が入った袋。
「それは……なんでそれを……?」
声が震えそうなのをどうにか抑えながら言った。
「どうしてここに女の子の服があるの!」
突然の、怒りとも悲しみともつかぬ母の怒鳴り声。もう、終わった……。私は力が抜けて、その場にへたりこんでしまった。失意に満ちた気分になったが、働かない頭をどうにかぐるぐると働かせて考えた。もしここで感情のままに怒鳴り返したら収拾がつかなくなる。でも冷静に話ができる状況ではない。改めて今ちゃんとしたカムをすればいいの? でもちゃんとしたカムってどうしたらいいの? どうしたら?どうしたら……?
はっと気づいて辺りを見回した。どうやら私は自分の部屋の床に横たわっているようだ。隣に母が座っていて、自分の体の上にタオルケットがかけられている。
「よかったー。あんた急に倒れるから、びっくりしたじゃない。」
ほっとしたように母は言う。倒れ……たのか。倒れるなんて初めてだ。だんだんと倒れるまでの記憶が蘇ってきた。そうだった。とりあえず無事で、母もあの剣幕だった割に隣に居てくれているし、良かった。しかしこの直後、このまま倒れ続けておけばよかったと後悔した。
「結局、この服は何なの? 『この部屋に連れ込んだ女の子の忘れ物』とかとは違うんでしょ? まだよっぽど、女の子連れ込まれたほうが健全で安心するんだけど。」
母の言葉に唖然とした。言っていることが滅茶苦茶だ。
「健全……? 健全って何?」
「男の子らしいってことよ。男が女装なんて気持ち悪いったらありゃしない。」
母はまた、吐き捨てるように言った。当然のように私を男扱いしている。私は今、どこまで言えばいい? どこから反論したらいい?
「あの……さ、頑張ってみたけど、やっぱり男にはなれなかった。確かに、体だけは男だけど、どうしても中身は女でしかない。これは前にも言ったけど。」
言葉を選びながら、ゆっくりと話す。また、恐怖で話す声が震える。
「今その服を着たら、女装に見られても仕方ないかもしれない。でも、女装したくて買ったんじゃないよ。本当の自分になりたいから買ったんだ。」
話を聞いても訳が分からないといった顔をしている母は、おもむろに立ち上がった。そして、目から溢れ出した涙を拭うことも忘れて、叫ぶように言い放った。
「何なのよ! それでまた、体を変えたいとか言い出すわけ? 前にも言ったじゃない! あなたは男なの!男として生きていくのが幸せなの!」
「どうして幸せの形を決めつけられなきゃならないの!」
私はもう、この場にいることに耐えられなくなった。とりあえず、一旦この場を離れよう。母が落ち着く頃を見計らって戻ろう。そう決めて、身一つで家の外へと駆け出した。
「ちょっと翔平!どこ行くの!」
背後から母の声がしたが、こっちもそんなことを気にする余裕はない。もう、何もかもぐちゃぐちゃだ。
「アキラぁぁぁぁ……どうしよう……」
家を飛び出して近所の公園まで走って、我に返ったときには既にアキラに電話をかけていた。
『どうしたの? しーちゃんと電話なんて初めてだ。』
電話ごしの、いつもより少し高めなアキラの声。だけどいつもと変わらない声。ほんの少し、ほっとした。
「服、見つかっちゃった。」
『えっ……!』
「母親がヒステリックになって、収拾つかなくなって、とりあえず家の外に出て公園まで走ってきた。」
『そっか……。』
「ごめん、いきなり電話して。」
『いいよ。ちなみに、いつまでそこにいる?』
「2時間くらいは帰れないだろうなー。」
『じゃあそっち行く! 今こっち家だから、バス乗って30分か40分あれば行ける!』
「え?」
『とりあえずそこで待ってろ!』
言うなり電話が切れた。