逃亡
「お、おい、何の冗談だ? 楓?」
「偽物のくせにずうずうしく私の名前を呼ばないで。私には本物のラウラちゃんがいるんだから」
いつもとは全く雰囲気の違う楓に戸惑うラウラ。
何故自分が楓に殺されなければならないのか、理解できない。
そんな中、騒ぎを聞きつけて他の生徒達も姿を現した。
ラウラはその者たちに救いの手を求めようとしたが……
「偽物め、死ね!」
「よくも騙したな!」
「絶対に許さない!」
口々にラウラへの罵声をあげ、武器を向けてくる者までいた。
「おい、誰が偽物なんだよ! 楓、私のことを忘れたのか? 徹だよ、お前の幼馴染の!」
「よりによって徹くんのことまで持ちだすなんて……絶対に許さない! それに、徹くんはここにいるんだから!」
「はあ? ここにいるだろう?」
「偽物はいい加減に黙って!」
楓が腰に提げた細剣を抜いてラウラの鼻先に突きつける。
もし知らない奴にそんなことをされれば、ラウラは絶対に容赦しないのだが、今は楓が相手であり、迂闊に手を出せなかった。
何より、あれほど大事に想っていた、想いあっていた楓に忘れ去られており、自分はラウラの偽物として憎悪をぶつけられている……それはラウラにとって、いや、楓を護ることを常に第一に考えていた徹にとっては全てを失うに等しいものだった。
「……そうか……私は偽物……か」
「だからさっさと死んでよ!」
呆然自失となりながらも、楓の突き出した剣を避ける。
長年鍛えたことを身体が覚えていたらしく、他の生徒達が繰り出す様々な攻撃も無意識のうちに避けていた。
最も信頼していた者からぶつけられる激しい憎悪は、ラウラの精神を徹底的に破壊した。
視線は定まらず、ぶつぶつと何かを呟きながらも生徒達を避けると、屋敷の裏口から出て行った。
その先にあるのは鬱蒼とした『森』の中でも滅多に人の入らない場所だ。
「逃げたぞ! 追え!」
「逃がすな! 殺せ!」
生徒達は一斉に屋敷から飛び出す。
と、そこには『森』の魔物達が集まっていた。
本来の『森』であれば、生徒達のような無力な者は即座に魔物の餌になるはずだった。
だが、今は違う。
魔物達は自ら進んで生徒達をその背に乗せ、『森』の奥地へと進んでいったのだ。
魔物達はラウラを包囲するべく『森』へ散っていった。
それを確認した楓は、少し遅れてやってきた男女に向かって声をかけた。
「偽物を始末できるのも時間の問題ですよ、シャーリーさん」
「当然です、偽物などのさばらせておく訳にはいきませんから」
女性はシャーリーだった。
その瞳からは自我そのものが欠落しているようにも見えた。
楓はもう一人の男の傍に近寄ると、その肩にしなだれかかった。
「ねぇ、徹くん。あの偽物、自分が徹くんだなんて酷い嘘ついたんだよ? 信じられない!」
「なら思い切り苦しめて殺してやれ」
嫌らしく口元を歪めて残酷なことを言い放つ男を、楓は徹と信じて疑わなかった。
まるで恋人のような………いや、少なくとも楓はその男を恋人だと信じ込まされていた。
当然ながら、その男は徹ではない。
その男は、かつてラウラを狙ってきた生徒の一人であり、この場にいるはずのない男だった。
その男は地下牢にずっと閉じ込められていた生徒、参田だった。
口元を歪ませながら、獣欲に満ちた目で楓を見る。
かつて己の欲望の捌け口にしようとした存在がその手に落ちていた。
ラウラはこの時点で、信じられる全てを奪われようとしていた。
『どうしたの? 避けてばかりじゃ勝てないわよ?』
「………馬鹿正直に攻めるだけが強さじゃありません」
ユーリエは紅玉竜の攻撃を何とか避け続けていた。
放たれる息吹を結界で防ぎ、尻尾や爪での物理攻撃は体術で避ける。
あまりにも一方的な戦いが続く。
純粋な攻撃力で見れば、圧倒的に紅玉竜に有利だ。
だが、ユーリエには柔軟な状況判断から導き出される戦略があった。
ユーリエは散々煽っていたが、この場においての最悪の事態はユーリエが倒されてしまうことだ。
最善はユーリエが紅玉竜に勝利することだが、それはあまりにも分が悪い賭けだった。
だが、この場における最優先事項はその2つの結末以外の選択肢だってある。
最も優先しなければならないのは、ラウラの元へ生きて辿り着くことだ。
となれば、無謀な戦いを挑んで討ち死にすることだけは避けなければならない。
隙を作ってその間に転移すればいい。
そのための布石はしっかりと打っていた。
『もういいかげん飽きたんだけど。そろそろ終わりにしましょう』
紅玉竜が先に痺れを切らし、直接攻撃に来た。
息吹も爪も尾も決定打になっていないとなれば、残る手段は限られてくる。
彼女の行動は、ユーリエの望んだとおりのものだった。
大口を開けて突進してくる紅玉竜。
如何なるものをも噛み千切ると言われている古代竜の牙。
それを全面に押し出した攻撃。近接戦での彼女の切り札なのだろう。
だが、それはユーリエも待っていた。
最大の攻撃力を持つのであれば、必ずどこかで使うはず。
そのタイミングに合わせてカウンターを決めれば、転移する隙が作れるはず。
そう考えてずっと待っていた。
漸く訪れた最大のチャンスだが、戦闘のセンスは天性のクオリティを持つ古代竜に対して、ミスすればそれで全て終わりだ。
ユーリエは冷静にあるモノを召喚する。
それは紅玉竜が突進してくる延長線上に現れた。
黄色がかった透明な液体がふよふよと浮いている。
『ふん、たかが水の塊で私をどうこうしようというの?』
怒りを通り越して嘲りになってしまったようで、全く意に介することなく突進してくる。
全くコースを変える気配がない。
そのまま強引に、その顎にユーリエを捉えるはずだった。
その液体を顔面に浴びるまでは……
『いやあああああああっ! 痛い! 痛い!』
咄嗟にコースをずらしたのは流石といったところだが、それでも彼女が被ったダメージは計り知れなかった。
むしろ精神的な意味で……
『何よこれ! 目が痛い! 何も見えない!』
「そうでしょう、これはラウラ様特製の【酢】ですから」
ユーリエが召喚したのは、ラウラの屋敷の厨房に保管してある甕の中の【酢】そのものだった。
そんなものをまともに目に入れられたら、悶絶するのも当然だろう。
「早く水で洗わないと、ずっと痛いですよ?」
『くっ! 覚えてなさい!』
慌ててその場から飛び立つと、川の方へ飛んでいく紅玉竜。
それを見送ったユーリエは一息つく間もなく、ラウラの屋敷めがけて転移した。
ユーリエが見たものは、到底信じられるものではなかった。
魔物達が矮小な人間をその背に乗せて動いている。
そんなことは『森』の大原則では絶対に有り得ない。
そして、その人間達は皆一様に同じ言葉を繰り返している。
『偽者を殺せ』
『騙した奴を許すな』
「なるほど、そういうシナリオですか………そんなにラウラ様が邪魔ですか?」
ユーリエはこの騒動の黒幕に気付いた。
ラウラを助けて助言したという少女、つまりはオリジナルのラウラだ。
しかしそれでも疑問は残る。
オリジナルは現在、実体を持たない存在のはず。ラウラを殺すことがそのまま彼女の望みにつながるとは思えない。
『ユウコ! 行くぞ!』
「ええ、サファイア! 偽者を殺しましょう!」
どこかで聞いた声が上空から響いた。
そこには透き通った鮮やかな青の竜鱗を持つ古代竜が翼を広げて飛翔していた。
その背中には……前島がいた。
槍を片手に竜に跨るその姿は、御伽話の竜騎士を彷彿させた。
「マエジマまで……これは相当危険な状態かもしれません……あ、あれは!」
ユーリエが目にしたのは、かつてラウラにあっさりと敗れた参田とかいうクズにうっとりとした表情を浮かべて寄り添う楓の姿だった。
それを見たユーリエの胸の内に怒りが込み上げる。
それは楓に対してではない。参田とかいうクズなどは当然後できっちり〆るつもりだ。
だが何よりも、ラウラから全てを奪い取ろうとするオリジナルの陰湿さに、だ。
もしこの光景をラウラが見てしまっていたら……
どれほどの失意に沈むのか想像もできない。
幸いなことに、ラウラはこの場にはいないようだった。
まだ探しているということは、誰にも見つからない場所にいるということだ。
周囲を探ると、ほんの僅かにラウラの魔力を感じ取れた。
それは今にも消え入りそうなほどに弱弱しくなっており、ラウラがどれほど憔悴しているのかを容易に想像できた。
「私のするべきこと……それを優先しましょう」
ユーリエは決意を胸に秘めて歩き出す。
彼女は楓の気持ちを十分に理解していた。
自身もラウラに想いを寄せるからこそ、同じ相手を想う者どうし通じ合うものがあった。
楓は今、あのクズをラウラだと信じ込まされているのだろうと考えた。
でなければ、あのようなクズにそこまで蕩けた笑顔を見せたりしない。
そしてそれは楓にとって、最大の汚点となるだろう。
もしあのクズと一線を越えるようなことがあったなら……
それを見せ付けられたラウラがどうなるか……
ライバルに塩を送るつもりはない。
もしこの光景をラウラに見せれば、その心の隙に自分が入り込むことだってできる。
しかしそれはユーリエのプライドが許さない。
未だに正体を見せないオリジナルの策に乗ってやれるほどバカではないのだ。
「楓さん、ラウラ様の偽者はどうしました?」
心が潰れそうなほどに締め付けられるのを何とか堪え、平静を装って話しかける。
最愛の主を偽者呼ばわりすることの罪悪感がユーリエを蝕む。
(罰なら後でいくらでも受けます! まずは楓さんを救います!)
楓を救い出せれば、ラウラを救う反撃の一手となるはずだ。
ユーリエはゆっくりと、だらしない笑顔を晒している楓に近づいていった。
ユーリエさんが奮起しました!
読んでいただいてありがとうございます。