精霊樹
――― 本当に自分はこんなところにいていいのだろうか ―――
当初はそんな戸惑いがあった。
目の前で繰り広げられているのは遥か高みにいる存在の戦い。
こんなものに自分が介入する余地などあるのだろうか。
【私が奴の動きを確実に止める。あとはお前が頼りだ】
親愛なる主は自分にそう言ってくれた。
それが………嬉しかった。
護られるだけではなく、共に戦うことが許された………
主の言葉を心の内で反芻するたび、不安が一つずつ消えてゆく。
心の奥底から勇気が湧いてくる。
たくさんの勇気で心が満たされたとき、主から待ち望んだ声がかけられる。
【今だ! 行け! メアリ!】
樹妖精の少女の瞳には一片の迷いもなかった。
今この場において、場違いなほどに弱い存在。
桐原もそれを感覚で理解していたが故に、全く意にも介さなかった。
その油断を狙うべく、ラウラは動いていた。
メアリは樹妖精としては異質の部類に入るであろう、植物の成長を促進させることに特化した能力のみを持っていた。
対象の植物のどこを刺激すれば成長が早まるかを本能的に理解していた。
それが『森』の守護者たる精霊樹であっても、例外なく理解できていた。
細く、どこまでも細く紡がれた魔力が土中を進む。
まるで迷路の如く絡み合う精霊樹の根をかわしつつ、12本の魔力の糸が伸びていく。
目標が精霊樹の根幹、最も大きな根だ。
「見つけた! 後はタイミングだけ!」
狙うは12本同時に成長促進させられるタイミングだ。
だがそれは至難の業だ。
精霊樹は魔力を糧として成長する。
もしほんの少しでもタイミングがずれれば、メアリの放った魔力の糸が精霊樹の根に絡め取られてしまう。
ラウラやユーリエならば、多少吸い取られても何とか脱出できるだろうが、メアリの魔力量では瞬時に吸い尽くされてしまうだろう。
一歩間違えればそこには確実に死が待ち受けている。
「この程度………何の問題もないです!」
不思議な高揚感がメアリを包んでいた。
これまで戦いなどとは遠く無縁だった少女にとって、分不相応な戦いの場においてその真価を発揮できるなど、これからどれ程生き永らえてもあることではない。
主と共に戦い、任され、それに応える場があるという歓喜は少女の力を格段上のものへと進化させたのだ。
進化した能力は、タイミングを待つ間も蠢き続ける精霊樹の根を難なく避け続け、ついにその時を迎えることとなった。
「いきます!【成長促進】!」
メアリの紡ぐ言葉と同じくして、メアリの強い意志が精霊樹に流し込まれた。
精霊樹は心を持っていると言われている。
事実、単純な思考は行っており、自身を護る行動を取ることが知られていた。
さらに知られていない事実として、自身が認めた存在により使役されることもあった。
精霊樹たちは空腹だった。
攻め込んでくる敵から自身を護るため、結界を張り続けた。
敵の力は強力で、何度も結界の修復に魔力を費やさねばならなかった。
しかも、普段なら魔力を寄越すはずのエルフが魔力を流さない。
空腹、襲撃、そして苛立ち。
精霊樹たちはどうにかして魔力を貪ろうと考える。
目の前にはいつものエルフと、強大な魔力を秘めた敵がいる。
こんなチャンスをみすみす逃してはならない。
そんな折、心の奥底に湧き上がってくる何かがあった。
【成長せよ】
簡潔なその指示は、精霊樹の渇望を解き放つには十分すぎる効果があった。
喰いたい。
魔力を喰いたい。
目の前の獲物を喰らい尽くしたい。
自分達をここまで消耗させた張本人を許さない。
彼らは己の渇きを潤すべく、その根を解き放った。
腹部を貫かれ、激痛に悶えながらも桐原はその場を脱出しようとした。
『何だ? 身体が言う事を聞かない!』
桐原の思いとは裏腹に、その身体は己の意志に応えない。
それもそのはずで、精霊樹たちは魔力を凄まじい勢いで吸い上げている。
ほぼ純然たる魔力で構成された桐原の身体はその制御が出来なくなっていた。
混乱しながらももがくが、その間にも土中から現れたモノが次々とその身体を地面に繋ぎとめる。
何とか首だけを動かしてそれを視認した桐原の口から声が漏れる。
『これは………根だと?』
「ああ、精霊樹はこれから食事の時間らしい。お前はあいつらにとってはご馳走なんだろう」
目の前でそう言うラウラ。
それを見て桐原が声を荒げる。
『それは貴様も同じだろう! 死にたくなければさっさとこれを外せ!』
「悪いが………同じじゃないんだよ」
ラウラが自分と同じ目に遭うことを想定しているのか、桐原はどこか安心したような表情を浮かべている。
だがラウラの言葉は、予想に反してあっさりとした否定だった。
『どこが違うんだ! お前だって魔力があるだろう!』
「………なぁ、今の私を見て何とも思わないのか?」
『………根が………お前を………避けている………」
周囲では土中から現れた無数の根が暴れ狂っている。
だが、ラウラの側には一本も近寄ってこない。
稀にラウラの足元から現れる根もあるのだが、その身体に触れる直前で止まり、その方向を変えていく。
「私の魔力は喰い飽きたらしい」
呆然とする桐原に向かって、無数の根が容赦なく突き刺さる。
精霊樹は劇的な変化を見せていた。
いくら【神もどき】とはいえ、その魔力はこの世界で最強レベルである。
それを喰らった精霊樹に変化が起こるのも当然だった。
枝葉に魔力が送られ、次々に若葉が芽吹いてゆく。
若葉はすぐに鮮やかな緑色の葉となり、上空を埋め尽くしてゆく。
陽光を存分に浴びた葉の間から、枝に小さな蕾が出来ていくのが見える。
蕾は次第に大きくなり、真の姿を披露する瞬間を待ち望む。
やがて一回り以上大きく成長した精霊樹は、一斉にその花弁を開く。
鮮やかな極彩色の花が咲き乱れ、これまで死闘が繰り広げられていた場所を彩る。
誰もが目を奪われる光景に、この手段を選択したラウラですら呆然となっている。
「………綺麗………」
メアリの呟きがそこにいた者達の心情を表していた。
花の蜜が醸し出す芳醇かつ甘い香りは、ここが魔大陸の最奥であることを忘れさせる。
そんな中、折角の余韻を壊す者がいた。
『お前ら………後悔するぞ………』
最早その身体を構成する魔力のほとんどを吸い取られ、かつ今も残った魔力を吸われている桐原が声をふり絞る。
『お前らは………奴の本当の望みを知らない………俺の元に下ったほうが………まだマシだったと思うだろう』
「………本当の望み?」
訝しげな表情で聞き返すも、桐原はラウラに憐憫ともとれる表情を浮かべるだけだった。
『奴の望みが叶うとき………お前らはこの世界に存在すらできなくなる………』
「おい、それはどういう意味だ!」
『お前らがこの世界を終わらせる引き金を引いたんだ! 思う存分絶望しろ! あはははははははは!』
桐原は高笑いしながら消えていった。
その存在を構成する最後の魔力も吸い取られたということだろう。
「………はぁ………終わったか…」
ラウラは脱力し、その場に座り込む。
桐原の残した言葉が気になるところだったが、それでも今はこの余韻に浸っていたかった。
「…終わりましたね」
「ああ、これで………全て………」
その場に寝転んで重い瞼をゆっくりと閉じる。
魔力は既に枯渇ぎりぎりだった。
もし精霊樹の根が掠りでもすれば、先に終わっていたのはラウラだっただろう。
魔力を回復させるべく、その身体が強制的に睡眠状態に入ろうとしていた。
不意にラウラの頭が優しく持ち上げられ、柔らかな感触が後頭部に生じた。
何とか目を開けると、そこには優しい眼差しで見下ろすユーリエの顔があった。
ラウラはユーリエに膝枕されていた。
「お疲れ様でした………今はゆっくりとお休みください」
「………ああ、すまん………甘えさせてもらおう」
再び瞼を閉じると、静かな寝息を立て始めるラウラ。
メアリと共にその髪を優しく撫でながら、彼女は桐原の最後の言葉を思い返す。
決してただの惑わせるためだけの言葉として捉えてはいけない、そんな直感が働いていた。
一体これから何が起こるのか、存在できなくなるとはどういうことなのか、それを知るには情報が少なすぎる。
不安で押し潰されそうになるのを何とか堪え、膝の上で安らかな寝顔を見せている主のことを想う。
「もしかすると………そろそろお別れの時が近づいているのかもしれませんね」
「………何か仰いましたか?」
ユーリエの呟きに反応したメアリが訊いてくる。
しかし、その呟きの内容までは聞き取れていなかったようだ。
自分の迂闊さを恥じながらも、その内容を知られていないことに安堵したユーリエは、メアリに微笑みかけながら言葉を返した。
「いえ、この時間がこのままずっと続けばいいと思ったんです」
「…それはずるいと思います。後で交代してください」
「いいえ、いくらああなたの頼みでもこれは駄目です。そんなことしたらラウラ様が起きてしまわれます」
「私だってラウラ様を膝枕したり、頭なでなでしたりしたいです!」
「…それなら頭を撫でるのはあなたに任せます。そのかわり、膝枕だけは絶対に譲りませんよ?」
「…それでいいです。思う存分ラウラ様を愛でますから」
美女と美少女にひたすら愛でられるという、ある意味至福の状況を味わうことなく、ラウラは眠り続けた。
この甘美な空間に己の全てを委ねるように………
「うふふふふ………、まさかここまでやってくれるとは………嬉しい誤算ね、流石はイレギュラーね」
暗闇の中、飾り付けられた椅子に座る少女は微笑む。
その声色からも、相当機嫌がいいことが窺える。
「本当は私があのバカにトドメを刺したかったのだけれど………それはここまで働いてくれたことへのご褒美ということにしましょう」
優雅な所作で椅子から立ち上がると、ラウラの姿が映し出されている球体の側に近づく。
愛しい我が子を見るような慈愛に満ちた眼差しでその光景を見つめている。
「貴方達、あの子を傷つけては駄目よ、あの子は私の大事な大事な『器』なのだから」
一瞬だが、球体に映っている光景に影が差す。
それはほんの一瞬のことで、当のラウラ達も気付いた様子は無かった。
「さて、どうやって『器』を手に入れようかしら。それにはあの子の『ココロ』が邪魔だけど………そうだわ、あの子にうってつけの方法があったわ」
面白いことを思いついたかのような口調で一人呟く。
その瞳に見え隠れするのは昏い輝き。
「これだけ力を得たけれど………私が動けば必ず邪魔が入るはず………本当に鬱陶しいわ。器を手に入れたら『彼女』たちも残さず手に入れてやるんだから」
少女は再び椅子に座ると、待ち遠しさを隠し切れない様子で指を組む。
「これでやっと………みんな、やっと私の望みが叶う時が来るわ………」
感慨深げにその瞼を閉じて呟く。
その顔は、球体に映し出されたラウラと全く同じ顔をしていた………
これで終り…なはずありません。
読んでいただいてありがようございます。