切り札
ようやく対桐原戦に動きが?
その音は鈍い響きを残しながらも、結界内から発生し、そして消えていった。
およそ人体から発せられる音とは思えない、鈍器がぶつかったような音にユーリエは目を瞠る。
結界の中央には、顔面を押さえて蹲る桐原と、仁王立ちしているラウラ。
ラウラの額からは一筋の赤い液体が流れた跡がある。
対して桐原は、顔面を覆う手の隙間からだくだくと出血している。
「なんだ、神もどきでも人間みたいな血の色してるんだな」
大した感慨も見せずに、冷静に言葉を紡ぐラウラ。
覆った手の指の間からラウラを見る桐原の目は驚愕の色がはっきりと浮かんでいた。
目の前のエルフの少女がこんな暴挙に出るとは思ってもいなかったのだ。
「頭突き………ですか」
ユーリエの半ば呆れたような声が聞こえたのか、ラウラは出血もそのままに得意げに微笑み返した。
桐原としては、ラウラを掴んだことで勝利を確信したのかもしれない。
さらに、目の前の少女をまだ見た目のままに判断していたのかもしれない。
しかも、だ。
ラウラの狙いが桐原の想定を超えていたということもあるだろう。
一番わかりやすいのはその場所だ。
よくプロレスなどで、相手の額に自分の頭をぶつけているのを見かけるが、それは大して脅威ではない。
人間の額部分は全身の骨の中でもかなり頑丈な部類に入る。
大事な脳を護るのだから当然だろう。
そんな場所を狙ったところで、決定打に欠けるのは自明の理である。
それ故、喧嘩慣れした者は違う場所を狙う。
それは………鼻だ。
ラウラは桐原の鼻めがけて頭突きを放ったのだ。
その一撃は確実に鼻骨を粉砕し、肉体的なダメージはもちろん、相当な精神的なダメージを与えていた。
その結果が、今の状況だ。
無様に転げまわる桐原に全く躊躇することなく、さらなる追い討ちをかけるべく距離を詰める。
無防備な鳩尾に前蹴りを叩き込み、爪先をめり込ませる。
腹を押さえて蹲る桐原のがら空きの鼻に膝蹴りを入れる。
仰向けに倒れたところを、喉を踵で踏み潰す。
常人であれば確実に即死できる威力の攻撃だが、桐原はすぐに回復してしまう。
回復しなければ楽になれるのかもしれないし、回復に浪費する魔力を攻撃に使うこともできたはずだ。
だが、桐原の身体は自動回復してしまう。
これが死線を何度も越えたことのある歴戦の勇者であれば、そのような駆け引きもできただろう。
だが、桐原は死線を彷徨うような戦いをしたことがない。
日本にいた頃は、何かまずいことがあれば金と権力で揉消してきた。
その力も桐原本人のものではなく、桐原の祖父や両親のものだ。
アステールに召喚されてからは、神に貰った過分なほどの勇者の力と、取り込んだ神の力で好き放題してきた。
誰かに肉迫されることなど経験がなかったのだ。
混乱した精神状態のまま、いたずらに魔力が消費されていく恐怖。
もしこのまま魔力が尽きてしまえば、その先にあるのは完全なる敗北だ。
何故自分が敗北する?
何故選ばれた存在である自分がこのような目に遭う?
こんな理不尽が許されていいのか?
自分自身の理不尽さを棚に上げて、一方的な理論が桐原の脳内で展開される。
その結論は、予想通りのものだった。
許さない。
自分の愉しみを奪った者を。
自分に苦しみを与える者を。
自分に恐怖を感じさせる者を。
目の前にいる矮小であるはずのエルフを。
精神の恐慌状態は思考を短絡させる。
判断力など欠片もない。
ただ己の前に存在する、己に危害を加える者を排除する、ただそれだけの命令を短絡した脳内回路が発令する。
出された指令に、桐原の身体は抗う術を持たない。
既に底を尽きつつある魔力を無理矢理搾り出し、動きの鈍った体に鞭を入れる。
『うがああぁぁぁぁぁ!』
「!!!」
突然息を吹き返したように、ラウラの目の前を桐原の腕が薙ぐ。
距離感の全く感じられない一撃は簡単に避けられてしまう。
だが、その攻撃は完全に無駄ということではなかった。
『あはははははははは!』
「………やってくれるじゃないか」
ラウラの頬が大きく切り裂かれ、これまでにはないほどの出血があった。
完全に避けたはずの攻撃で傷を負う。
すなわち、今の攻撃が想像以上の攻撃力を秘めているということ。
攻撃の余波だけでこの有様だ。
『死ね! 死ね! 死ね!』
最早スタミナ配分など関係ない攻撃。
技術も何もない力任せの攻撃を、距離を取りながら避け続けるラウラ。
ぎりぎりで避けて懐に入り込もうとするも、余波が邪魔で行動に移せない。
このままではジリ貧であるにも拘らず……………ラウラはその口元に笑みを絶やさなかった。
『何故笑っているぅぅぅ! 俺を怖れろぉぉぉ!』
「………お前の姿があまりにも無様で笑いを堪えるのが大変なんだよ」
如何にも面倒臭いという雰囲気を撒き散らしながら、仕方なく応える。
応えるつもりは全くなかったのだが、ラウラの想定外の方向に暴走されても困るからだが、桐原にはそのようなことも理解する余裕は無かった。
だが、余裕が無いのは実はラウラもだった。
(こいつ………いきなり暴走しやがって! おかげで段取りが台無しじゃないか! ここからどうやって修正するか………多少の被弾は覚悟するか…)
ラウラの想定では、頭突きからのたたみかけで桐原の心を完膚なきまでにへし折り、最後の切り札を切るつもりだったのだ。
まさかいきなり暴走するとは思っても見なかった。
周囲を見回せば、悲鳴をあげるかのように軋む結界は所々に綻びが生じていた。
次に広範囲の攻撃を受ければ、防ぎきることは不可能だろう。
こちらの切り札には、直接的な攻撃力が皆無に等しい。
もちろん、防御力も紙同然なので、ユーリエに護衛させている。
彼女が防ぎきれない攻撃を放たれれば、こちらの負けである。
ならば、多少の負傷を覚悟の上で、強引に軌道修正する必要があった。
このままではチャンスが来る前にこちらが消耗してしまう。
その前に、狙ったとおりの攻撃をさせなければならない。
かなり厄介な誘導の上、タイミングも非常にシビアだ。
だが、やるしかない。
冷静にこれからの流れを組み立てたラウラは、その流れに忠実に実行した。
如何なることがあっても、こちらの切り札を先に切るのだという決意と共に………
桐原は次第に冷静さを取り戻していた。
暴走してからある程度の時間が経過したことも多分にあるのだが、それ以上にもっと大きな要因があった。
『ほらほら、さっきまでの威勢はどうした!』
「………くッ!」
桐原の放つ魔力光がラウラの身体に浅いながらも傷をつけ始めたからだ。
自分の攻撃が通じるという安堵は、桐原の精神状態を安定させていた。
それに対してラウラは必死で攻撃を避けようとしているが、完全に避けきれずに攻撃が掠っている。
あともう少し攻め続ければ、致命傷を与えるに至るだろう。
そんな希望も精神の安定に一役買っていた。
だが、人というものは順調に進んでいるときこそ、大事なことを見落としがちだ。
混乱から安定へ、急激に精神を揺さぶられたことで、桐原は思考を完全に誘導されていた。
何故なら、桐原の攻撃自体は先ほどから強くなってはいない。
むしろ若干弱体化しているほどだ。
しかし自分の攻撃が当たり始めていることが、自分の力が強くなっていると誤認させていた。
完全にラウラの掌の上で踊らされていた。
彼女は先ほど以上の攻撃をさせないため、弱体化していることを気付かせないように行動していたのだ。
わざわざ攻撃を掠らせるという危険を冒してまで行った精神誘導は、着実に第一の目論見通りになった。
まずは防御しきれない攻撃をさせないこと。
桐原自身の弱体化に気付いてしまえば、また先ほどのような暴走をしかねない。
ラウラは自分に攻撃が当たり始めたことを強調させることで、ラウラが弱ってきていると認識させたのだ。
そのことにより精神が安定すれば、暴走する危険性も減る。
第二の目論見は、攻撃の単調化を促すことだった。
あともう少しでクリーンヒットさせられると考えれば、態々面倒で隙の多い範囲攻撃を選択することはない。
今までの攻撃を、ほんの僅か力を集中してやればいい。
そう思わせることが目的だった。
ラウラに誘導されていることに気付かない桐原は、より強力な魔力光を放つべく集中する。
ラウラの動きを予測し、その心臓めがけて魔力光を放つ。
それは真っ直ぐに心臓を貫通するはずだった。
外れることなど有り得ない………そう考えていた。
そう思わされていることにも気付かずに、勝利を確信していた。
だが、ラウラの心臓を貫くことはなかった。
放たれた魔力光を姿勢を低くすることで避けたラウラは、その隙に懐に入り込むと、片腕を抱え込んで身体を回転させた。
腕を取られて体勢を崩した桐原の腰を支点とした梃子の原理により、桐原よりも小さな少女によりその身体を簡単に回転させられる。
次の瞬間、桐原は背中から地面に叩きつけられた。
しかしこんなものでは桐原にトドメを刺すまでには遠く至らない。
『こんなもので俺を倒せると思うなよ?』
「ああ、思ってないさ。だからここで………切り札を使わせてもらう!」
自信ありげに言う桐原に対して、ラウラは声を大にする。
一体ここから何ができるのか、理解に苦しむ桐原を他所に、ラウラの持つ最後の切り札がその力を解き放つ。
「今だ! 行け! メアリ!」
ユーリエの背後に隠れていた者がその両手を地面につけた。
一瞬、大地が脈動したような揺れが走る。
突然の揺れに何とか耐えようと四肢に力を籠めると、揺れによって被っていたフードが外れて鮮やかな緑色の髪が露わになる。
ユーリエが護衛していたのは、樹妖精の少女メアリだった。
彼女こそ、ラウラの切るべき切り札だった。
揺れはさらに強まり、まるで生命が宿ったかのような脈動を続けている。
それが収束するよりも早く、その事態は起こった。
柔らかい何かを突き破るような鈍い音が、意外なほどにはっきりと聞こえた。
桐原の腹部から何かが生えていた。
否、背中から何かに貫かれていた。
『ぎゃあああああああああああああ!』
桐原の絶叫が周囲に響き渡った。
ラウラの切り札はメアリさんでした。
読んでいただいてありがとうございます。