決戦前
いよいよ始まります…
その日は朝から、どことなく不穏な空気が『森』を包んでいた。
まるで嵐の前の静けさのようでもあった。
通常ならば、弱肉強食の冷酷な現実が至る所で繰り広げられているはずだった。
だが、今は何も感じられない。
全ての生き物が、何かに怯えるかのようにその行動を止めているのだ。
息を潜めて必死にやりすごそうとしているその姿は、まるで弱者のそれである。
それは『森』に生きる魔物達にとっては屈辱的な行動なのだが、それを糾弾する者は存在していなかった。
何故なら、『森』に棲むほとんどの魔物が息を潜めて隠れていたのだから…
朝靄が立ち込める『森』も最奥、12本の精霊樹に囲まれた空間。
精霊樹の力により、如何なる外敵からの侵略も防いできた『聖地』であり、『森』の頂点に立つ覇者のみがそこに立つことを許される場所。
その中心部にラウラは一人佇む。
いつもならば、自らの魔力を極限まで精霊樹に吸わせるのだが、今日に限ってはその行動をとらなかった。
結界が十二分に発動していることを何度も確認し、精霊樹から魔力を吸出し始める。
精霊樹から光の粒子が放たれ、ラウラの小さな身体へと吸い込まれていく。
「これでよし…結界の強度も問題ないみたいだ」
長い金髪を項の所で一括りにし、身体の動きを妨げないように背中に流す。
精霊樹で囲まれた空間に薄らと光の幕が張られている。
それに軽く触れると、満足げに頷く。
「こっちの準備は完了した。あとはこっちの思惑通りに進めるだけだな」
「…こちらの準備も整いました。いつでもいけます」
ラウラの問いかけに、精霊樹のうちの1本に出来た洞穴から声がする。
そこからひょっこりと顔を出したのはユーリエだった。
その背後には、目深に若草色のローブのフードを被った人物が控えていた。
「それにしても、シャーリーさんは大丈夫なのでしょうか?」
「その為にここを決戦の場に選んだんだ。ここの結界に屋敷の結界、さらに地下牢の結界の三重の護りだ。そう簡単には突破できないはずだ」
「だといいんですが…」
ラウラとユーリエは先日のシャーリーの様子を思い返していた…
ラウラがシャーリーを見つけたのは、屋敷の地下牢の一番奥、これまで使われたことのない、最も厳重な結界が施された牢だった。
牢の奥で膝を抱えて座り込むシャーリーは、その大きなブルーの瞳から大粒の涙を零していた。
「ラウラ様………こちらに来てはいけません………」
「何があった? どうしてこんな場所にいる?」
ラウラの問いかけにも、ただ涙を流して首を横に振るだけで話が進まない。
そもそも、シャーリーには屋敷の警護を任せている。
決してこんな場所で閉じ篭っていてはいけないのだ。
だが、それはシャーリー自身が十分に理解しているだろう。
「申し訳ありません………申し訳ありません………」
涙声でひたすら繰り返すシャーリー。
「シャーリー? 何があったのかを教えてくれないと、私もどう対処していいのかわからない。頼むから話してくれ。さぁ、書斎で茶でも飲みながら話そう」
「………申し訳ありません………私は……ここから………出られません………」
シャーリーは牢から出ることを拒否した。
いくらラウラが宥めても、その考えを変えることは無かった。
「仕方ない、お前が落ち着いた頃にまた来る。その時はきちんと話してくれよ?」
そう言い残して、ラウラは自分の書斎に戻っていく。
シャーリーは無言でその背中を眺めていた。
「…あいつがここまで頑なになるということは、余程の事態なんだろう」
「シャーリーさん………最近まではあんな状態じゃなかったのに…」
書斎のソファに座るラウラと楓。
屋敷にいた楓ですら、シャーリーの異変に関しては何も知らないようだ。
「仕方ないな、ユーリエを呼ぼう。何かわかるかもしれない」
深い溜息をつくと、ラウラはユーリエに念話を飛ばす。
【ユーリエ、悪いがちょっとこっちに来てくれるか? トラブル発生だ】
【分かりました。後ほどそちらにお邪魔いたします】
ユーリエからの了承が得られたラウラは、シャーリーがここまでおかしくなったことに対して、色々と思案を巡らせる。
だが、ラウラの苦労とは裏腹に、解決策が出てくることはなかった。
コンコン………
ラウラの書斎をノックする音がする。
「ユーリエ、参りました」
「ああ、入ってくれ」
書斎に入ってきたユーリエは、ラウラの表情がいつになく沈んでいることに驚愕した。
「何があったのですか?」
「ああ、シャーリーが地下牢に引き篭もって出てこないんだ。何か事情がありそうなんだが、見当もつかん。すまんが力を貸してくれないか? 今は面倒ごとは早急に解決しておきたい」
「それでは、早速シャーリーさんから事情を聞きましょう。理由が分かれば対策もとりやすくなりますから」
「そうだな、地下牢に行こう」
ラウラとユーリエは連れ立って地下牢に向かった。
「シャーリー、そんなところで座ってたら身体を冷やすぞ。それに、何も食べていないだろ? お茶の用意をしたから、少しは寛げ」
「ラウラ様…」
言葉を詰まらせるシャーリーに構わずに、牢の中にクッションやらソファやらを運び込む。
魔法の鞄に入れておいたベッドも取り出すと、そこに腰掛けて柔らかさを確認する。
続いて、ユーリエがお茶のセットを乗せたカートを押しながら入ってきた。
「シャーリーさん、今は少しでも不安要素を取り除いておくべきです。事情を話してください」
特に感情の籠らない口調だったが、その瞳はシャーリーを真っ直ぐに見据えていた。
ラウラの不利になるようなことであれば、この場において排除することも辞さないという強い意志の籠った視線だった。
シャーリーはしばらくの間沈黙していたが、やがて根負けしたかのように、少しずつ何があったのかを話し始めた。
「あれは………ラウラ様がバラムンドへ向かった翌日のことでした…」
ラウラがバラムンドに向かった翌日、シャーリーはいつものように屋敷の周囲を警護していた。
屋敷の周囲にいる魔物はシャーリーの姿を見ると、そそくさとその姿を隠す。
元天使であるシャーリーの力は『森』でも上位に君臨できるほどだった。
「今日も問題ありませんね。ラウラ様の威光を皆理解しているようで何よりです」
周囲に異常が無いことを確認したシャーリーは、ふと考えを巡らせた。
「屋敷の周囲は問題無さそうですが、外周部はどうなんでしょうか………ここに攻め込む理由は特に無いと思いますが…念のために確認しておきましょう」
シャーリーは屋敷に戻らず、『森』の外周部へと向かった。
「やはり………ここまで注意を払う必要は無さそうですね。ラウラ様の為にも、屋敷を死守することを優先しましょう」
シャーリーが見る限り、『森』に異変は見られなかった。
少なくとも、『森』そのものには………
シャーリーが異変に気付いたのは、屋敷の結界に入る直前だった。
「早く屋敷に戻ってラウラ様の帰りを待たなくては………何でしょうか?」
どこからともなく聞こえてくるのは…声だろうか?
だが、今シャーリーがいるのは『森』の上空数百メートルだ。
周囲に飛行できる魔物の類は見受けられない。
【…従え……従え………】
「こ、これは………まさか………思考制御?」
脳内に直接響いてくるような声を聞くと、何故かその声に従いたくなってくる。
こんな小細工をしてくるのは敵しかいないのだが、敵意が起こらない。
やがて、何かが自分の脳内に入り込んでくるような感覚を覚え始める。
このままではいけない。
すぐさま覚醒しなければ、最悪の事態を招くかもしれない。
咄嗟に懐に手を入れた。
今のシャーリーはごく一般的な冒険者の格好だ。
懐には、当然小型のナイフを忍ばせていた。
ナイフを握ると、シャーリーは躊躇わずに革鎧の隙間に刃を突きたてた。
すぐさま襲う、焼けるような痛み。
痛みによって覚醒した意識は、謎の声による侵食を押し戻す。
「………ちょっと………やりすぎましたか…」
今更になって、シャーリーの持つナイフは、ラウラによってかなりの力が付与されたものだということを思い出す。
それこそ、天使に致命傷を与えることすら可能なナイフだった。
自らつけた傷が、思いのほか重傷だったことに苦笑いするシャーリー。
「それよりも………こんなことをするのは………決まってますね………」
シャーリーは屋敷へ戻るために気力を振り絞る。
先ほどの声が精神干渉を目的とした攻撃ならば、屋敷でも厳重な結界に護られた場所でなければ自分は操られてしまうだろう。
そう考えて、シャーリーは自分の向かうべき場所を見出した。
「地下牢………あそこなら………防げるはずです」
シャーリーは屋敷に戻るなり、誰にも知られないように地下牢に入った。
「なるほど………ところで、傷のほうはもういいのか?」
「はい、もう修復できました」
「ラウラ様………その声というのは……」
「ああ、間違いなく桐原だな。恐らくシャーリーを操って内部崩壊させたかったんだろう。全く、下らない奴だ」
明らかな嫌悪感にその顔を歪めるラウラ。
だが、シャーリーが自傷行為をしてまで逃げ切ったことは大きい。
もしシャーリーが操られてしまえば、全てを無害化させることなどできない。
「前哨戦では後手に回ってしまったな」
「も、申し訳………ありません……」
俯いて涙を零すシャーリー。
ラウラはその肩を掴み、涙で濡れた顔を覗きこんだ。
「心配するな、それよりも、よくここまで戻ってきてくれた。お前のおかげで相手のやり口を1つ潰すことができる。大手柄だ」
「で、ですが…」
「ユーリエ、屋敷の結界を強化するぞ。精神干渉を無効化する効果もつける。それから、結界内にいる者は、出来るだけ屋敷の中央に集まるように指示しておいてくれ」
てきぱきと指示を出すラウラ。
いつの間にか、シャーリーはベッドで眠っていた。
余程精神的に疲弊していたのだろう、ラウラが傍に寄っても反応がなかった。
その頬を一撫ですると、ラウラはユーリエと共に地下牢を後にした。
「シャーリーが操られなかっただけでも、こちらとしてはいい方向に進んでいるのかもしれない。そう考えると、一之瀬は結界内に入れるわけにはいかなかったが…」
「それは止むを得ないでしょう。そう考えると、勇者の力を回収しておいて正解でしたね」
「ああ、内部から攻められたら迂闊に動けなくなる。勇者の力も結果的には桐原と繋がっているんだからな」
ラウラにとって、桐原との戦いに全力で臨むことができなければ既に『負け』が確定してしまう。
屋敷には楓がいるのだ。
楓を失って正気を保てるかどうかも怪しい。
桐原はそれを見越してシャーリーに仕掛けてきたのだろう。
「まあそれもここで奴に引導を渡せば終わるんだ。そっちも手筈どおりに頼むぞ」
「はい、お任せください」
ユーリエと若草色のローブを纏った者は力強く頷く。
それはラウラに全てを委ねるという覚悟の表れでもあった。
2人の力強い視線に背中を押されて、精霊樹の中心に向かう。
既に愛用の濃緑のローブは脱ぎ捨てている。
お気に入りの黄色のトラックスーツに身を包み、入念に全身をほぐす。
身体を流れる魔力も研ぎ澄まされている。
コンディションはかつてないほどに高まっている。
と、不意に空気の流れが変わった。
明らかに『森』とは違う空気が流れ込む。
空気の流れてくる方向に目を向けると、立ち込めていた朝靄が綺麗に分かれた。
いや、空そのものが『割れた』のだ。
割れた空から、光を纏った何者かがゆっくりと降りてくる。
明らかに佐々木とは違った威圧感を纏っている。
端整な顔立ちにすらりと伸びた手足。
見るからに物語に出てくる『勇者』そのものだった。
唯一違うのは、その瞳に宿った獰猛そうな光。
『お前がラウラか。俺が桐原だ。せいぜい楽しませろ』
「派手な登場だが………馬鹿っぽいな。私なら死んでも御免こうむる」
ラウラの冷静な言葉に不快な表情を浮かべる桐原。
どうやら先制口撃はラウラに軍配が上がったようだった。
読んでいただいてありがとうございます。