第四話・『ゲーム』開始~スティレ川を渡る~⑤
「なんとか誤魔化せましたか」
二重城壁の内の城壁に無事辿り着いたアルベルトは、ほっと溜息をついた。
実はこの落とし穴群、時間がなかったためにイキシアが警戒したほど用意できた数は多くなく、外の城壁に近い方にしか存在しない。つまり、内の城壁付近はまっさらな平地である。
アルベルトはそれをあえて落とし穴が存在するかのように撤退することで、虚像の落とし穴を作ったのだ。
「うまくいったみたいだね」
「兄上」
先に撤退していたライナスが、疲労の上になんとか張り付けた笑顔で彼を迎えた。
「あちらはどうやら体勢を立て直すみたいだ。追いかけられなくてよかったよ」
「全くですねぇ」
負傷したクロノスが後ろから声をかけてきた。
「傷はいいのかい?」
「僕はかすり傷ですよぉ。でもぉ、僕の親衛隊がちょっとねぇ……いきなり矢が飛んできて怯んだところに突撃されたんだからたまったもんじゃありませんよぉ。それにもともと僕の親衛隊は直接戦闘には向きませんしぃ」
城壁上でキースの部隊に強襲されたクロノスの部隊は、その半数以上が戦闘不能に陥っていた。
他、ライナスやアルベルトの部隊にもかなりの被害が出ている。再編と立て直しには多少時間がかかりそうだ。
「向こうが来る前に間に合えばいいのですが……」
アルベルトはそう漏らし、早急に内の城壁の防備を固めるように指示を飛ばした。
イキシアが悠然と進軍を進めている間、キースは自分の親衛隊に命じて外の城壁の扉を開放させた。無論、これは内の城壁を攻略するために必要な梯子等を中に運び入れるためである。
外の城壁で使用されていた梯子が次々と運び込まれる中、キースは難しい顔で辺りを見回した。
(もう罠は……見落としはないか……?)
キースは自問する。今こちらは浮かれている。相手の罠によって少しそれが冷まされたとはいえ、第一の城壁を突破したのだ。攻略は半分完了し、まだその勢いと高揚が残っている。
今のこの状態は非常に危うい。勢いに乗った軍は確かに強いが、それだけ周りが見えにくくなる。つまり、罠や策にはまりやすくなる。
しかし一方で、その勢いで押し切れることもあるのも確かだ。緒戦の勝利によって生まれた波は、そのまま津波となって敵を押し流すこともある。
(その流れが、相手によって意図的に作られたものでなければ、な)
そうであったなら間違いなく罠なのだが、そんなことはおいそれとわかる物ではない。敵だって必死に隠すのだから、ほとんどの違和感は消されてしまうだろう。
流動する戦場において、残った違和感を意識的に捉えるのはほぼ不可能だ。結局、それらの違和感を頭ではなく感覚で捉えることが必要になる。
(さて、どうする)
波に乗るか、否か。
そこまで考え、やはりここはイキシアに判断を委ねようと思った。自分は諫言を成す役であり、その自分が迷っている以上、指揮官であり経験豊富なイキシアに任せた方がいいだろう。自分は機の読み方でイキシアに及ぶところではないのだから。
(姉上の判断は……?)
キースの親衛隊によって城壁に上るための梯子の運搬が完了したとの報告を、イキシアは内の城壁の少し手前で受けていた。
まだ敵は体勢を立て直せていないらしく、慌しく城壁を駆けまわっている。
「どう見る、姉上。罠があると思うか?」
傍に来ていたキースの問いかけに、イキシアは首を横に振った。
「あの慌しさ、あちらとしてもこちらの進撃速度は予想外だったのだろうな」
何度となく戦場を経験した彼女はそう判断を下した。
「演技の可能性は?」
「あれは真に迫っている。十中八九本当に焦っているさ」
イキシアはキースの不安を消し飛ばすように、あるいは自分達の兵士を安心させるように大声で笑った。が、
キースの疑念は晴れない。
それを知ってか知らずか、舞台が整ったことを確認したイキシアは右手を水平に上げて、更に肘から先を直角に曲げた。
振り下ろされればそれはすなわち進撃の合図。
「……大丈夫か?」
それは、このまま勢いに乗っても大丈夫か、という意を含んだ問いだった。それにイキシアは、
「戦場に絶対はない。戦は、いや何事も最後には運勝負となるのだ。ならば分のある方に賭けるのは当然だろう!」
そう言い放ち、その手を振り下ろした。
「くっ……早い!」
普段よりあまり感情を発露しないアルベルトにしては珍しく焦った声を上げた。敵が彼の予想よりも早く攻勢をかけてきたのだ。
(イキシア……戦乙女の称号は伊達ではないということですか)
敵にまわして初めて分かる恐ろしさ。
落とし穴による実像と虚像の罠は、もう少し時間を稼いでくれる予定だった。しかし現実として、自分達は未だ迎撃の準備が整わず、敵は既に梯子を内の城壁に建てかけている。
「戦場とはままならぬものですね」
いや、それは政治においても、いわんや人生においてもそうなのだろう。自分がその方面に苦労しなかったというだけで。
(運命は、全くままならぬものです!)
アルベルトは城壁の上を指さす。そこには昨日の内に用意させた武器の類がずらりと並べられている。
「矢は必要ありません。陣形を整える必要もありません。一刻も早く城壁に上り、その場の槍を取り次第迎撃に入りなさい!」
両軍が再度ぶつかるまで、あと数瞬。
「……遅ぇ」
「……殿下。恐れながら申し上げますと、イキシア殿下らが出発してからまだ一日どころか、二時間も経っておりません」
砦の奥、司令室として扱われる場所でカイトはイライラと指で机を叩いていた。その傍らには、アルベルト派の心臓ともいえるフラッグと苦笑を滲ませているフランシスがいる。
「俺は待つのが嫌いなんだよ。ちなみに付け加えるなら他の奴らが遊んでやがるのに自分だけ除け者にされるのはもっと嫌いだ。ったく、どうしてイキシアは俺を前線に参加させなかったんだ?」
ともすると机を蹴り飛ばしてしまいそうなカイトを、フランシスが横からワイングラスを差し出しながら宥める。
「イキシア殿下は殿下のことを信用なさっているのですよ。あなたならばたとえ敵が全部隊でこちらを攻めても守りきれると」
「そうは言うけどよぉ……」
フランシスが自分を刺激しまいとオブラートに包んだ表現で諫めているのはわかっている。自分は確かに堪え性がないが、バカではないと自負している。そして、堪え性がないことで攻城組から外されたことも理解している。
しかし、感情は理性とは度々相反する物だ。
守るのは苦手であり、嫌いである。敵の動きに合わせて動かなければならないのは、じれったい以外の何物でもない。守るというのは消極的な弱者の行いだという意識がどうしても自分の中に浮かんでくる。
それに比べれば、攻めることのなんと気楽なことか。なんと楽しい事か。守る側の対応を考え、実際に突破し、叩き潰す。そこに自分が圧される恐怖はなく、相手を圧す快感だけがあると思う。
この思考を自分で分析するに、自分は根っからのサディストなのだろう。ワイングラスを目の前に持ちあげ、そこからイキシアの書きおいた作戦書を透かし見た。
「……いいこと思いついたぞ」
悪戯を思いついた子どものような笑みを浮かべて、カイトは立ちあがった。