第三話・前夜にあるは如何なる心か③
月明かりの満ちる寝室でキースは一人ワインを飲みながら物思いにふけっていた。
「……」
思い出されるのは昼間、兄であるアルベルトに放った言葉だ。感情の恐ろしさを知らしめるために出した例だが、兄にはつらいことを思い出させてしまったかもしれないという後悔が訪れている。
幼少の頃、というより物心ついた頃からキースはアルベルトと比べられてきた。それは自分より先に生まれたクロノスや後に生まれるカイトも同様であったが、彼らとキースでは違うものがあった。
才能である。
クロノスは今現在において交渉事の第一人者であり、子供の頃においても人付き合いの上手さが周囲の目を引いていた。カイトは軍事、政治の両面において、未だアルベルトやイキシアに及ばないものの、天才と称されるに値する才を持っている。
しかしキースには彼らと比べて、いや凡人と比べてさえもとりわけ抜きん出ているところは無い。それが天才の中の天才とまで言われるアルベルトと比べられるのだからたまったものではなかった。
結果的に彼は凡人の烙印を押され、その心を歪めてしまった。
もしライナスのようにアルベルトより先に生まれ、心身ともにある程度成長していたなら、鬱屈した想いを抱えながらもそれを表に出すことは無かったかもしれない。あるいは周囲の失望の声が聞こえないほどお気楽だったなら。
だが、不幸なことに彼はそのどちらでもなかったのだ。彼は幼く、また周囲の悪意を理解できる程度には聡かった。
故に彼は暴発した。
自分の寝室に兄を呼び、二人きりで話をしたいと護衛を外して万全の態勢を整えた。そして背に隠したナイフのグリップを握り、にこやかな表情を浮かべながら一歩ずつ何も知らぬ兄に近づいていった。後一歩というところまで。
そこでキースは一気に踏み込み、抜き打ちざまに斬りつけた。ここでも彼の不幸は続いた。いや、これが幸か不幸かは人によって評価が分かれるであろうが、少なくともその時点の彼にとっては不幸であった。
身体能力にもその天才性をいかんなく発揮していたアルベルトにとって、いくら不意をつかれたからといって、自分よりかなり年下の、才のない少年の刃で命を落とすことなどあり得ないことであった。かといって無傷という訳にもいかず、浅く胸を切り裂かれる事にはなったが。
ナイフで切り裂かれた傷は動脈に達することもなく、あまり勢いよく血が噴き出すことはなかったが、目の前の人間を赤く染め上げるには十分だった。そう、キースに血の化粧を施すには充分であった。
キースは悲鳴をあげた。胸を裂かれ真っ赤な肉と血を見せる兄を、今まさにその傷を作った自分の手に握られているナイフを、返り血で同じく赤に染まった自分の手を見てしまったから。
パリン、と手に持っていたグラスが砕けた。割れたガラスが手のひらを裂き、零れる酒が手を濡らした。
どうやら過去を思い出しているうちに力が入りすぎていたようだ。何事かと部屋に入り込んでくる護衛の兵士になんでもないと返しつつ、割れたグラスとまるであの時のように赤く濡れた己が手を見つめる。
(あれは私の罪。そして罪には罰を、だ。あの時は温情で見逃してもらったが、罪を犯した人間が罰を受けない訳にはいくまいよ。だが……)
願わくば、私への罰が彼らにとって有益ならんことを。
「チェック」
「あらら……ならばこれで」
「バカめ。チェックメイト」
「……もう勘弁して下さい」
砦の一室、最上階に近いこの部屋でカイトとフランシスの二人はチェスをしていた。
カイトが勝負の結果に満足げな笑みを浮かべる。一方でフランシスは諸手を上げて降参の意を示している。
「これでもう10敗目ですよ」
「つまらねぇな。アルベルトならもっとやりごたえがあるのによ」
そう言ってカイトは口をとがらせる。フランシスもそれなりに強いのだが、アルベルトや自分と比べるとどうしても劣ってしまう。
(……まぁそれも『仮面』かもしれねぇんだけどな)
彼の後見であり腹心であるフランシスはいくつも『仮面』を持っている。知っているだけでカイトに忠誠を尽くす『仮面』、この王国で成り上がろうとする野心を持った仮面、そして彼の妹に向ける優しくきれいな兄の『仮面』。
他にもまだまだあるのだろうが、とにかくその『仮面』の数はカイトですら把握しきれていない。
自分の知らない一面を持つ彼を扱いづらく、また危険だとカイトは思う。
(だが)
王という者は清濁併せのまなければならない。自分に忠を尽くし、なおかつ能力もあるものとなればその数は両手の指に収まってしまうだろう。大半の重臣はその能力が故に野心を持つ者ばかりである。
フランシスもまたその例に漏れず、非常に優秀で今のところは自分に従っている。ならばそのまま、反逆という言葉が思い浮かびもしないように乗りこなして見せよう。それが出来てこそ、王の器というものだ。
そう思い。そしてカイトは傍らのワインを飲み干した。
オルテンシアは部屋に備え付けられていた簡素な机に向かっていた。
机の上には何冊もの書物が置かれている。その中には新しいものもあれば、ボロボロの物も含まれていた。
そんな書かれた時代もバラバラな本達には一つの共通点があった。
それは、全てが軍略関係の本であるということだった。
とは言っても、軍師が学ぶようなそれではなく、どちらかといえば軍を率いる立場の者が学ぶ物であった。
「う~ん……この場合はどうすればいいんだろ?お姉様に聞きに行こうかしら……?」
彼女が手に持つ紙の束にまとめられた文章の内、いくつかが大きな赤丸で囲われクエスチョンマークが付けられていた。
「いや、お姉様ももう寝てるかもしれないし、もう少し自分で考えてみよう」
持っていた紙の束をもう一度机の上に置き、その内容を理解し応用しようと再度思考し始めた。
オルテンシアは高慢であれども愚かではない。自分が成長するためには、自分より優秀な者に教えを乞うこともやぶさかではない。
ただ、なまじ才能があるため、能力のない者を軽んじる傾向がある。今回彼女がアルベルトのいるライナス派ではなくアルベルト派についたのは、ひとえにそれがあるからだ。アルベルトに賛同するより、ライナスが王になることへの忌避した結果である。
そして自分が末席であり、なおかつ優秀な兄姉がいる以上、自分が王となるチャンスはないに等しいということは理解している。
しかしそのようなこととは関係なく、彼女は王座に就くつもりがなかった。
なぜなら、オルテンシアはアルベルトに並々ならぬ思慕の情を抱いているからである。いや、むしろ崇めていると言った方がいいかもしれない。
将軍としての仕事を学ぶのも、アルベルトに他者の言を必要としないほどの政治家と軍師の才能があると認め、そして自分が彼の役に立つにはどうしたらいいかと考えた結果、彼の駒として動く力を持つためだ。
狂信的とさえ言える想いを持つ彼女は、きっと自らの命を捧げることになっても彼に尽くすことだろう。
「ここをこうすれば……こうなるわよね。フフ、これで一歩成長ね!」
しかし、彼女は自分が狂信者であることに気づかぬまま、彼に忠を尽くし続ける。それはまるで、人に奉仕することを義務付けられた古代の機械のようであった。
こうして、それぞれの夜が更けていった。