第三話・前夜にあるは如何なる心か②
いくつも明りの灯された部屋で寝間着に着替えたイキシアは同じく寝間着姿のプラムに髪を梳いてもらっていた。彼女が選んだ部屋に備え付けられていた鏡台には、淡い光に照らされた二人の姿が映っている。
これは普段王宮のメイドの仕事だが、戦地においては専らプラムの仕事である。
イキシアは騎士として戦場に出ることを選んだ身であるが、女としての生き方を捨てたわけではない。両親から受け継いだ美貌を毎晩磨くことを忘れた日はないし、たとえ戦地に在っても最低限の化粧を絶やした事はない。
彼女がそれだけ自分の身なりを気にするのは一つに彼女自身の満足のためである。イキシアら王子達は先代の王より『王族は私欲を捨て民に尽くすべし』と教え込まれているが、彼女たちは王族である前に一人の人間だ。いくら私欲を捨てろと言われても少しくらい自由が欲しい(例外的に私欲を捨て切っているものや私欲の塊のような者達はいるが)。イキシアとて女性なのだから少しくらいオシャレをしたいと常々思っている。
だが、それだけの理由ではイキシアもオシャレなどはしない。オシャレをするにはもう一つ理由がある。
それは彼女がアリステア王国軍の象徴でもあるからだ。彼女はアリステア王国軍の将軍にして『戦女神』とまで呼ばれている。戦場に彼女があるだけで敵は恐れ味方は奮い立つ、そんな存在なのだ。
それが手入れを怠り醜くなってしまっては、ほとんどが男性で構成されている兵士たちの士気も上がりにくいというものだ。
象徴というのは、それ自体が邪悪などの負をコンセプトにしない限りは、綺麗で美しい方がいい。
だからこそ彼女は、自身に美しくあることを義務として課している。それが自国のためにも、そして自分のためにも良いという考えがあるから。
「……いつ見てもお美しい御髪です」
「そうだろう?私の自慢だからな」
彼女の美しい金の髪はローゼン帝国一の美女と謳われた故エピフィルム・リヒターから受け継いだものである。
当時帝国から和平の証として嫁いできた彼女と先王は互いに愛し合っており、イキシアも祝福されて生まれてきた。そのまま幸福は続くかと思われたが、いかんせんエピフィルムは体が弱かった。彼女はイキシアを生んで間もなく亡くなり、故にイキシアには母親の記憶がない。
そのため、彼女は自分の髪を愛している。父王から「お前は母の面影がある」と言われたこの髪を。
「終わりました」
「ありがとう」
最後に一度撫でるプラムに、感謝の言葉を返すイキシア。その視線は、鏡越しにプラムの瞳を捉えていた。
「……明日、必ず勝利するぞ」
「御意」
そうだ。三日も必要ない。なにしろ私はアリステア王国の誇る『戦女神』なのだ。その名に恥じないよう鮮やかに勝利を決めてみせる。
ライナス兄上には悪いが、やはりアルベルト兄上が王となるべきだ。人望はライナス兄上が上かもしれないが、やはり実力がなければ何もできはしない。
自分はそれを戦場で嫌というほど見てきた。国同士の小競り合いといえど、そこにも確かに悲劇が存在する。勢いだけの指揮官、兵士に慕われているだけの指揮官。そんな無能を、そんな者に率いられる哀れな者達を打ち砕いてきた。
率いる者が無能ならば、どれだけ兵が優秀でも意味はないのだ。それは国も同じこと。
だから自分は、明日彼らを容赦なく打ち砕く。それがこの国の未来につながると信じて。
クロノスもまたアルベルトと同様に書類とにらめっこをしていた。
アリステア王国の第三王子であり外務大臣でもある彼は、今回の国王陛下崩御による諸国との関係の変化に対応するため、今後の予測と対応策を紙に記入、チェックしていた。
「う~ん……面倒だなぁ」
クロノスは首をコキコキとならし、大きく背筋を伸ばした。
アリステア王国を囲むような形で存在する三国はそれぞれ一癖も二癖もある国家ばかりである。
その内の一つ、ローゼン帝国は現在女帝が国を支配している。
その女帝の名は『ペオーニエ・V・ローゼンブルート』。若干19歳にして巨大な帝国を一つにまとめ上げる圧倒的なカリスマ、持ち前の豪快な性格、そして自国の民に対する慈愛に満ちた政策で国民の熱い支持を受けて君臨している。
一方で自分には歯向かう者には容赦なく、反抗の意思を少しでも見せた途端に迅速果断、数日とかからず攻め滅ぼしてしまうほどの獰猛さと決断力を持ち合わせていることでも知られている。
かといって理解がないわけではなく、アリステア王国の完全中立の姿勢を特に非難することもなく、むしろ認めている節さえある。
だが、アリステア王国が少しでも他国に傾く姿勢を見せれば、一切の躊躇なく瞬時に攻め滅ぼされてしまうだろう。彼我の戦力差はそれほどまでに大きいのである。
リーベル共和国は他の三国とは違って一人の君主が国を支配するのではなく、国民によって選ばれた議員が議会を開いて国を動かしている。
その選出方法から他者を貶め、自身をアピールする術が磨かれており、武力よりも権謀術数に長けた国である。
先代のアリステア国王が生きていた時代にも幾度か多数の間者が送り込まれ、国を乱されたことがある。
一番危うかったのは、帝国に送り込まれたスパイにより、アリステア王国が共和国側に靡きつつあるという噂が流されたときであった。そのときはクロノスと父王が必死に弁明して事なきを得たが、もう少しで共和国と帝国の全面戦争に突入するところであった。アリステア王国が共和国の尖兵として見なされ巻き込まれる戦争に。
そう言った意味で帝国と同様に油断ならない国である。
最後の八神皇国は宗教国家である。国教である『八神教』を信仰し、教皇である『八神 御白』の元にまとまっている。
ここは特に謀略や軍事力に長けているわけではないが、敵に回すと一番厄介な国である。
八神教という宗教によって意思の統一が図りやすく、教義によって簡単に命を捨てることもある。だからこそかの国は恐ろしい。決死の覚悟で向かってくる敵ほど面倒なものはないからだ。
その上、他国にも少なからず八神教の信者が居る。ということは、敵国を内から崩すことも容易であるということだ。
オマケに、宗教にはそれを信望しないものには理解しがたい戒律が存在することがよくある。迂闊にそれを犯そうものなら、たちまち相手の機嫌を損ねてしまう。
おかげでクロノスは、対して興味もないのに宗教というものや八神教自体について学ばなければならなかった。
今までも外務大臣として外交を任されては居たが、少なからず優秀な父の助力があったので比較的楽をできた。しかし、このように一筋縄ではいかない国達を相手に、これからは父抜きで渡り合っていかなければならないのだ。もとより怠け者の嫌いがあるクロノスには辛い仕事であった。
「でもまぁ、文句も言ってられないかぁ」
もしここで対策を怠ろうものなら、後々さらに面倒なことになるのは火を見るより明らかである。
クロノスは後で楽をするためだと自分に言い聞かせ、夜遅くまで仕事を続けるのであった。