第三話・前夜にあるは如何なる心か①
ようやく3話です。
思ったよりも書き溜めててびっくりしています。
時は草木も眠る宵の口、場所はアルハブラ砦の一室。
ライナスは大きめのキャンドルを灯し、一人読書をしていた。
「……ふぅ」
一息つき、パタンと本を閉じた。閉じられたその本は手垢と日焼けで黒ずんでおり、表紙もタイトルがわからないほど擦り切れていた。
そこまで読みこまれたこの本のタイトルを苦心して読み取ってみると、『平和の立役者』と書かれていることがわかる。
はるか昔、その頭脳と口の上手さで世界大戦を未然に防いだといわれている政治家、アーレ・クロイツェフの生涯を描いたものだ。
ライナスはこの本が子供のころから大好きであった。徹底した非戦主義や、時に鮮やかに時に苦心しながらも戦争回避へとひたむきに突き進むその姿勢は、今も昔もライナスの憧れの的だ。
歴代のアリステア国王も戦争の回避には尽力してきたが、それは自国が滅ぼされないための処置でありアーレほど争いを嫌っていた訳ではない。だからこそ、ライナスは自身と同じく争いを嫌うアーレの生涯により惹かれたのである。
そんな愛読書の表紙をライナスはしばらく眺め、ふいにその視線を窓に向けた。東向きのその窓からは煌々と輝く青白い満月が見える。
彼はそれを視界に収め、さりとて見入るでもなく、物思いに耽った。
(……『ゲーム』か)
頭に浮かぶのは明日の『ゲーム』のこと。それは何度も言うように、『ゲーム』と名付けられているがれっきとした戦争である。
(人が、たくさん死ぬだろうな)
剣が振られれば、人が死ぬ。槍で突かれれば、人が死ぬ。矢が放たれれば、人が死ぬ。他にもいろんな原因で、人が死ぬ。
自分たちの命令で、人が死ぬ。
兵士たちにも家族や、待っている人がいるだろう。そんな彼らの命が失われれば、悲しむ者がいる。待っている人がいなくても、共に戦う戦友が悲しむだろう。それだけで、彼らの命には価値があるとはっきり言える。
それが、自分達の争いで、王位継承権争いで散っていく。必要なことだと割り切って尚、ライナスは気持ちが沈んでいくのを止められなかった。
「実際はほとんどアルベルトが指揮することになるんだろうけどね………」
それでも、自分が兵士たちの命を預かっていることに変わりない。
それを思うと、自分の掌に汗が滲んでくるのがわかった。
体は正直だ。心を映す鏡だともいえる。自分が心の中でいくら割り切ったと思い込んでも、それは割り切ったふりをしているだけなのだ。
他者の命を預かるその重さが、ライナスの心に重くのしかかり、精神に極度の緊張を強いていた。
「……こうしていても仕方ないか」
彼は長く息を吐いた。それによって体の力が幾分か抜けていくのがわかった。
体が強張っていては出せる力も出せなくなってしまう。たとえそれが微々たる力であっても、出せないよりはマシなはずだ。
アルベルトは、たとえ世辞であっても、自分が役に立つこともあると言ってくれたのだから。
「もう寝てしまおう」
こんな夜に起きているから余計なことを考えてしまうのだ。
ライナスは蝋燭の明かりを吹き消し、普段より幾分硬いベッドに横になった。
アルベルトは一人書類の山と格闘していた。
決戦を明日に控えた夜ではあるが、だからといって宰相の仕事を休むわけにはいかない。彼は砦に持ってきた仕事を黙々とこなしていた。
とはいっても、緊急を要する仕事はここでやっても間に合わないのでサルビアに任せてある。故に彼が持ってきたのは今すぐ必要というわけではない、しかしいずれは裁可が必要となるものばかりであった。
「……よし」
今、一つの山が消えた。
しかし、彼は休憩も入れずに新しい紙を机の中から取り出す。
真っ白なその紙にアルベルトは一度として止まることなく文字や図を書き込んでいく。その内容を詳しく見てみると、どうやら作戦をしたためた物のようである。
そう、彼は宰相の仕事にかかりきりになっているわけではなく、並行して作戦も考えていたのである。今は、宰相の仕事中に考えていた作戦を書き出しているところであった。
一般的に人はマルチタスク、すなわち仕事の同時進行は不可能とされている。いや、できるにはできるのだが、一つ一つの事項への注意力が散漫になってしまう。結果的に一つずつ仕事に集中したほうが効率はよくなることになる。
しかし、アルベルトにはそれが可能だ。これもまた語弊のある言い方かもしれない。しかしアルベルトの場合、マルチタスクによって一つ一つの仕事の効率は落ちるものの、元々一つ一つの仕事に対する出来は凡人と比べ物にならない。
たとえば、普通の人間が1の仕事しかできないとしよう。その効率が落ちる、ここでは4割ほどしかできないとすると、二つの仕事を同時に完璧にこなすには合計で1.25倍の時間がかかる。それがアルベルトの場合、同じ時間で5の仕事ができるので、4割ほどしか仕事が出なくても完璧に仕事をこなすには時間がかからない。
ここでアルベルトも一つ一つの仕事をしたほうが効率はいいのではないかと考える人もいるだろう。
しかし考えてみてほしい。書類に裁可を下す時も、作戦を立てそれを誰かに説明する時も、それらを紙に書き込む必要がある。たとえ短時間のうちに頭でどれだけのことを考えてしたとしても、それを手で書き出すのにかかる時間はそれよりずっと多いのである。
いわば貯水タンクと蛇口の関係である。いくらタンクに水がたまっても、水を出す最高速度には限界がある。
流石のアルベルトも文字を書き出す速度は普通の人間とそう変わりない。つまり一定時間に1しか出力できないということであり、それ以上に早く思考をまわしたところで仕事をこなせないのである。であれば、少しスピードを落としても二つのことを考えたところでなんの問題もない。むしろ効率がいいというものだ。
そんなわけで、彼は様々なことを考えながら作業しているのである。
「ふむ……これでいいのでしょうか?」
アルベルトは自らが書き上げた作戦書を見て自問する。
どれほど優秀な人間でも最初から万事完璧にこなせる訳ではない。一流のライターでも何度も文章を見直すように。とりわけ宰相職となれば今までにない課題も数多くこなさねばならず、柔軟な対応が求められる。
これでいいのだろうか。そういった不安はいつも付きまとうのだ。故にこそ彼は自問する。作戦に疑問を持ち、穴をみつけ、埋め。それを何度でも何度でも。
結局彼がこの日就寝するのは、深夜を過ぎた頃になるのだった。