第七章『金輪メレンス』
第七章『金輪メレンス』
said:かの逆説弄する少年
1
気づいたらベッドの中に居た。何時に帰って来て、一体何時間眠れたのかは解らない。ただ、体を起こして時計を見てみたら朝の七時半を過ぎていた。だから射光は慌ててベッドから降りて着替えをした。今日は特別な朝なのだ。
「おはよう、いるみん。初登校日に遅刻とか笑えないよ。」
「だったら起こしてくださいよっ。」
「大丈夫だよそんなに慌て無くても、ナツメグ高校ならここから歩いて十分もしないからさ。」
「そ、そうなんですか。」
それを聞いたら慌てていた自分が莫迦らしく思えて、思わず急ぐ足を止めた。今日は月曜日。全国で今週初出勤、初登校でばたついている朝。しかしこの研究所には特に曜日感覚は無く、殆どの研究員が不定休で働かされている。特に所長である悠夢は、休みの日だとしても此処が自宅なので何処に居たって曜日感覚が無い。それに彼はホロノイド研究所の所長でもあると同時に、ゴシック系列ファッションブランドのKey-dreamのデザイナーでもある。きっと死ぬ程忙しいんだろうなとは思うけれど、どちらも彼は趣味感覚でやっている事だから恐らく全く苦では無いのだろう。
「ところで、憂は?」
射光は未だに開かない隣の憂の部屋の扉を見て云う。
「まだ寝ているんじゃ無いかな。小さい頃からあの子は早起きが苦手だから。」
苦笑を浮かべながら悠夢は云った。憂の事を話す時の表情は本当に父親そのものだ。
「でもそろそろ起きないとやばいかな。起こして来るね。」
そう云って悠夢は憂の部屋の扉を開け入室する。射光も一緒に入ろうとすると射光の目の前で勢いよく扉を閉めた。
「憂くーん、そろそろ起きないと遅刻するよ?」
殺風景な憂の部屋に響くまだ若い父親の声。良く云えば片付いている部屋とも云えるけれど本当に物が無い部屋だ。しかしそれでも壁にはルージュの新曲のポスターが貼ってある。今週末はルージュのカレンダーの予約開始日だ。何が何でも予約しに行くんだろうなとかそんな事を考えつつ悠夢はベッドの布団にくるまったままの憂に近付く。
「憂くん、聞こえてる?」
枕に顔を埋める憂の耳元で吐息混じりに囁く。憂は心底鬱陶しそうに悠夢の顔にビンタを食らわせようとする、が、悠夢はそれすらも予想していたと云うようにひらりとかわす。
「もー、こうなったら最終手段だね。」
と、憂に聞こえないように呟く。妖しいく唇を歪ませる。何をしでかすのか解らないが兎に角静かに眠っていたい憂は尚も無視し続け安らかに寝息をたてる。悠夢は憂の耳元に顔を近づけ、舌先で憂の耳に癒着するカフスを撫でた。途端、眠りに落ちようとしていた憂の背筋には不快な戦慄が走った。
「どう?目ぇ覚めたで――」
刹那、悠夢の視界は憂の拳で覆いつくされた。部屋の中で激しい打音を聞いた射光が驚いて、いけないと解っていながらも部屋の扉を開けた。
「憂、悠夢さん、大丈夫っ?」
「全っ然大丈夫じゃない・・・」
「わああっ悠夢さんどうしたんですかぁっ?」
ベッドからずり落ちた憂、その傍らで床に倒れ伏して鼻を押さえる悠夢。一見すると明らかに悠夢の方が重傷に見えるが、精神的には圧倒的に憂の方が重傷である。良心的な射光は勿論重傷そうな悠夢の方へ駆けつける。悠夢の両鼻の穴からはおびただしい血液が流れ出ていた。でも憂からしてみれば、彼はそれだけの事をやったと思う。そして射光も真実を知れば、そう思うだろう。
2
ナツメグ高校は原宿にある都立高校。都立と云えば古い校舎のイメージが何となくあるが、ナツメグ高校は最近改築したばかりで何処も新校舎のように綺麗なのだ。改築の理由は他でも無い、忌まわしい五年前のゾンビ襲来事件の影響なのだが。あの事件の所為で原宿は長い間閉鎖空間として扱われ、無論ナツメグ高校自体も閉鎖された。ゾンビウイルスは少しでも触れるとその者もゾンビ化してしまうという非常に危険な物。ナツメグ高校は原宿の中心部にある故、ゾンビウイルスが無数に付着している事が予想され、改築というか殆ど建て直しされた。ナツメグ高校が完全に復活して、生徒も通常通り生活出来るようになったのはつい最近の事。
射光は、兎に角他人と真逆の事をやってみたくて『住んでみたい街 ワースト1』の原宿に住む事を決心した。それと同時にこのナツメグ高校に編入する事も決心した。年齢的には高校一年生で合っているのだけれど、現在は六月でナツメグ高校の入学式は既に終了している。とは云っても、事件の影響でナツメグ高校の生徒は殆ど退学という形になってしまったし、高校に行き直したい、編入したいという者が続出している為、比較的急な編入にも対応してくれているので射光は急な編入生としてナツメグ高校に通える事になった。憂は、事件当時は十一才、事件さえ起きていなければ普通に中学にも行けて普通に高校にも行ける筈だった。憂みたいな子供も勿論いる。親が死んでしまって中々学校に行ける状態では無くなった子供は意外と居る。しかし、事件当時の原宿に居たのに生き残っている何て人間は憂しか居ないのだが。でも今日から射光と同じナツメグ高校に通える願いが叶ったのだ。とは云っても憂本人は高校に通えるようになった事をさほど嬉しく思っていないように見える。対して射光はこれから始まる新生活に胸を躍らせているようだった。
「なぁなぁ、やっぱり東京の学校って何処も大きいの?」
「さあ、別に普通じゃ無い。」
「でもナツメグ高校って特に綺麗なんだろ?どんな建物なんだろー・・・楽しみだなー・・・やっぱりビルみたいになってんのかな?」
「そんな訳無いだろ。原宿にはビルしか無いと思ってんの?」
「え、違うの。やっぱり普通の校舎なのかな・・・」
あんな面倒臭い事ばっかの処に行けてそんなに嬉しいものなのか。まるで遠足に行く直前の小学生みたいな射光に冷たい視線を向ける。
ナツメグ高校はラフォーレの前の交差点を渡り、ほんの数分真っ直ぐ歩いくと辿り着いた。本当に原宿に学校なんてあったのかと、射光はそれだけで驚いていた。ナツメグ高校は完全私服制で、どれがナツメグ高校生なのか解らないけれど、恐らく此処ら辺を歩いている高校生はみんなそうなのだろう。
3
校舎の中は予想通り、予想以上に綺麗だった。そこらの私立よりよっぽど綺麗なのでは無いかと憂は思った。昨日行ったデパートや店と同じくらい床も綺麗なフローリングで、壁だって研究所よりもよっぽど綺麗だし、一つ一つの硝子窓だって新品同様だ。今日から入学した射光と憂は先ず職員室へ案内された。受付の若い女性に職員室へ繋がる廊下を歩かされる。職員室の扉に辿り着くと、軽く二三回扉を叩き、失礼しますと小声で呟いてから入室する。やはり何処の学校の職員室も入る時は緊張するが、こんなにも綺麗で立派な学校の職員室となると更に緊張する。何人もの教師が射光と憂の方へ顔を向ける。ぴんと張り詰める空気、早く此処から出たい一心で早々に自己紹介を始める。
「えっと、今日から此処でお世話になります、天正射光です。」
あれ、これじゃあ就職活動の挨拶みたいじゃね?と云ったあとに気づく射光。とりあえずはっきり云えていれば何でも良いかと思い綺麗に直角のお辞儀をする。先生達の顔は見えないが少し雰囲気が柔らかくなった気がした。良かった、好印象を持って貰えたみたいだ。射光はほっと胸を撫で降ろした。しかし、明らかに問題なのは憂の方である。いくら都立だからって紫色の髪の毛をしている時点でアウトだろうし、射光は一応Yシャツと普通の黒いズボンと灰色のベストという普通の高校生の制服っぽい服を着てきたが、憂は断固としていつものゴシックパンクのスタイルを崩さなかった。「憂くん、初登校でそれはまずいよ。」と一応父親である悠夢も注意はしたのだが、憂は聞く耳を持たなかった。Key-dreamだから、自分がデザインした服だから良いかと云ってそれ以上注意をしなかった悠夢にも問題はあるのだろうが。
「・・・村崎憂です、宜しく。」
射光よりも比較的小さな声で、そして無愛想に言い放つ憂。勿論頭なんて下げる訳無い。射光の初々しい挨拶で折角和んだ空気もまた少し張り詰まった気がした。
「天正射光と村崎憂だな?」
一番手前の席に座っていた男が立ち上がる。男は出席簿らしき物を持って二人に近付いて来た。え?この人先生だったの?と射光は純粋に驚く。何故ならその男は職員室に居る身にも関わらず赤茶色い髪の毛をしていたからだ。顔を見る限り明らかに新任教師だ。絶対に悠夢や愛煌より若い。まだ大学生のようにも見える。
「俺がお前らのクラス担任の石屋阿佐人だ。まあ一年っぽちの付き合いだろうけど、宜しくな。因みに数学担当だ。みっちりしごいってから今から覚悟してけよクソ餓鬼。」
本当にこの人教師なのだろうか。改めて射光は疑問を抱く。何しろ口が悪過ぎる。そして雰囲気も何となく、何処となくヤンキーだ。憂に負けないくらいヤンキー臭がする。射光の村でも教師は少なかったけれど、東京ではもっと教師の人手が少ないのか。だからこんな人でも教師になれるんだろうな。
「ところで村崎、てめぇ何だその髪は。村崎だからって紫色の髪してんのか?面白くねーからどうせなら敢えて青とか赤とかにしやがれ。それが嫌ならちゃんと色戻してこい。」
「先生にだけは言われたく無いです。」
「・・・うん、俺もちょっと思った。」
いや本当はかなり思った。体育教師と云うと大体生活主任の位置につけられるんだろうけど、この先生が生活主任とか、この学校大丈夫だろうか。楽しみしか無かったこの学校生活だが、思わぬところで不安要素を拾ってしまった。
4
射光と憂は1年F組の教室に導かれる。射光にとってみればクラス名がアルファベットであるだけで驚愕だった。
「え、先生・・・もしかしてこの学校ってもの凄い英才教育流行ってるんですか?」
「あ?馬鹿野郎てめぇそんな事期待してんだったらオーストラリアにでも留学しろ。此処は俺みてぇな落ちこぼれ教師でも働ける馬鹿校だぞ。」
「ああ、自分で落ちこぼれ教師って自覚してんのか。」
「当たり前だ、じゃなかったらわざわざ髪染めてこねーよ。」
ああ、話してみると案外普通の人なのかも知れない。見た目ほど恐く無いのかも知れない。緊張で渇いた喉が少し潤う。石屋が教室の扉を開けると、賑わっていた教室が一気に静まる。恐らく既に今日二人転校生が来ると知らされていたんだろう。みんな興味津々という目で射光と憂の方を見詰める。折角潤った喉がまた渇く。
「てめぇらも知ってる通り、今日は二人みんなの新しいお友達がやって来ましたー。」
「先生がお友達とか云うとキモイー。」
「うるせぇよ、根性焼きにすっぞ。」
途端笑いに包まれる教室。その笑顔は誰もが明るく純粋な物だった。このクラスは、きっとクラスメート持ち前の明るさもあるのだけれど、この先生のお陰で更に楽しいクラスになっているんだろうと、まだこの教室に入って数秒しか経っていない彼らにも解った。
「じゃあどっちからでも良いから自己紹介しろ。きっかり三十秒な。」
と云って石屋はポケットから携帯電話を取り出す。本当にきっかり計るつもりかと、射光はまず何を言えば良いか計画をたてる。
「え、ええと、天正射光ですっ。「天が正しい」って書いて「てんしょう」で、「シャコウ」って書いて「いるみ」です。・・・一昨日栃木県から東京に来たばっかでまだまだ解らない事ばかりですが」
「はい時間切れー。」
「うわっちょ、凄い中途半端なとこで終わっちゃった・・・」
「続きが聞きたい奴はあとで天正に直接聞くように。じゃあ次、紫。」
「紫じゃ無くて村崎なんだけど。」
「どっちでも音は同じなんだから良いんだよ。お前変なとこだけ細けーな。」
今さっき会ったばかりなのに、何だか石屋と憂は気の許し合える友達のように見えた。憂は明らかに教師嫌いな性格だろう。だから石屋みたいな教師が彼にとって一番好ましい教師像なのかも知れない。
「・・・村崎憂です。宜しく。」
「おい、まだ二十秒あるぞ。何か繋げ。」
「は?もう云う事無いし。てか変なとこだけ細かいのあんたもじゃん。」
「あー、俺は・・・って、あ、もう三十秒過ぎてやがる。」
「よっしゃ、勝った。」
今度は先程より一層大きな笑い声に包まれた。初めて石屋を見た時の不安感なんて嘘のように消えていた。今は心から、このクラスで、この先生で良かったと思える。たった数分の間の出来事で何でこんなにはっきりとした確証が持てるのかは不思議だが、今は兎に角そう思う。射光も、憂も。
「天正君に、村崎君?」
一時限目のホームルームが終わり、二時限目の授業の準備でばたつく教室の中、真っ先に射光と憂に話しかけて来た少女。恐らくクラスメートの女子だろう。明るい茶色の髪は頭の上で大きく団子状にまとめられており、顔には控えめのメイクが施されいかにも東京の女子高生と云った風貌。
「初めまして。うちこのクラスの学級員の七瀬愛音ゆーねん。よろしくな。」
愛音と名乗った少女は明るく笑いかけた。その明るい声に見合った関西弁は何処かの誰かを彷彿させる。
「えっと、宜しく、七瀬さん。」
「もー、七瀬さん何てそんな小学生みたいな呼び方やめてーな。普通に『愛音』って呼んで。みんなもそう呼んどるから照れんでもええで。」
「えっ、そう?じゃあ・・・愛音。」
射光は控えめに小声でそう呼ぶ。しかしどうも照れ臭い。同年代の女の子を呼び捨てで呼ぶ何て習慣今まで全く無かったから。
「ちょ、ちょい待ち。其処はあっさり呼んで、「ちょっとくらい照れろやアホっ」ってツッコむとこなのに、普通に照れるん?アカンでこれ。男子草食化が此処まで深刻とは思わんかったわ・・・」
「いや俺普通に雑食だけど。」
「おっしゃ、何かツッコミどこ変だけどナイスツッコミ!」
愛音と射光の会話がどんどん盛り上がる中、憂は席に座ったままぽつんと窓の外を見ている。ふと愛音は憂の机の隣まで近付く。
「む、村崎君って、この辺に住んでるんやっけ?」
「まあね。」
「あーそうなんかー・・・う、うちも実はこの学校の直ぐ近くやねん。もしかしたら近所かも知れへんな。」
「あっそ。」
何てそっけない対応。女の子相手なんだからせめてもう少し愛想良くしてあげても良いのに。しかも、恋愛には其処まで詳しく無い射光でも解る。愛音は明らかに憂に気がある。そして今必死にアプローチしている。無理も無い。憂は男の射光から見たってかなりの美形だと思う。一番色恋沙汰に興味のある女子高生が憂に興味を示さない方がおかしいと思う。どうせ射光に話かけたのは憂に近付く為のきっかけだったのだろう。本当は憂に話しかけたくて射光に近付いたのに、憂はこの通りそっけない反応。自分は関係無いと解っているけれど、何だか少し愛音が不憫だ。
「あ、あのさ村崎君っ。村崎君って「ゆう」って名前なんやろ?えらい格好いい名前やん。いかにもイケメン臭する感じの。ゆうってやっぱり「優しい」の「ゆう」?」
「違うよ。」
「え、そうなん?じゃあやっぱ「神田ユウ」っぽくカタカナの「ユウ」?」
「「憂鬱」の「ゆう」。」
この三人の中だけでなく、教室全体が静まり返った。恐らく愛音の憂に対するアプローチ模様を他の女子も面白がって観戦していたのだろう。特に女子群が一気に静かになった。この教室ってこんなに一気に静かになるものかと思う程。ていうか憂、せめて学校では本物の「優」で名乗った方が良いと思うよ。
「え、えー・・・そうなんか・・・もしかして村崎君の親って若い?」
「まあね。今年で34。」
「さっ・・・」
今度は教室中が一気にどよめく。もはやクラス全体で愛音と憂の会話を観戦しているみたいだった。
「ささささ34って、じゃあ村崎君を産んだのって18才って事?」
「そうだよ。」
だったらそんな馬鹿みたいな名前つけて納得だ、みたいな空気が流れる。本当は違うんだけどなぁと訂正したいところだが本当の話をしたところで面倒な事になるだけだ。射光はぐっとこらえる。そしてクラスに異様な空気が充満した処で二時限目開始のチャイムが鳴り響いた。
5
二時限目の数学。いつもは賑やかなクラスも授業中となると静かだ。ひたすらに問題の解説をする先生の声とシャーペンがノートを叩く音だけが響く。そんな繊細な静寂に包まれた教室の中では、小声で話す声ですら目立つ。しかし愛音の前の席に座っている愛音の友人はノートに問題を解き終わった瞬間、椅子に座ったまま愛音の方へ振り向いて話かけてきた。
「ねー、結局どうだったの?」
「何がや。」
愛音はノートを書いている最中にも関わらず愛想良く返答をする。
「あのイケメン編入生、どんな感じ?」
「あれ見とったら解るやろ。見た目通りのお堅いクールステイタスや。うちが話かけただけでブリザラ連射って感じー?」
「えぇ?愛音の例えって相変わらず意味不明―。」
友人は周りに気を遣いながら小さくくすくすと笑う。もうとっくのとうに喋っている事を先生に気づかれているが意にも介さない。
「じゃあやっぱり彼氏には無理?」
「せやなー・・・多分来たばっかでまだ此処に慣れて無いからあんな感じやとは思うけど、いつまでもあんな感じやったらやっぱ彼氏にはほど遠いわな。」
「じゃあ・・・天正君の方にしちゃうの?」
「え?いやあっちは全然眼中に無いわ。あういう草食系はうちちょっと無理やねん。」
「そう・・・良かった。」
「良かったって何?」
「何でも無いっ気にしないで。それに、やっぱり村崎君の方が愛音には似合ってるよ。」
「なして?」
「あんな、いかにもドSな彼氏、ドMな愛音にはぴったりだと思うけど?」
「ちょおぉっ!誰がドMやアホ!」
愛音はとうとう授業中という事も忘れ声を張り上げ、その場で椅子から立ち上がった。無論流石に此処まで煩くすれば先生も注意せざる得ない。黒板に図形を書いていた石屋も手を止め手に持っていたチョークを愛音の机に向かって投げる。今時チョーク投げ?と周りの生徒も思わずどよめく。しかし決して愛音の顔に向けて投げている訳ではなく、机に向かって投げているだけだ。流石に生徒の顔に当てるのはまずいらしい。チョークは机の角に直撃し音をたてて砕け散った。
「てめぇ昼間っからSだのMだの、何盛ってんだ。」
「盛ってなんかいませんー。SMを彷彿させている先生の方が盛ってるとちゃいます?」
「馬鹿野郎俺はSMなんかに興味ねぇよ。良いからさっさと座れ。そして黙ってろ。」
少しこのヤンキー教師にも慣れてきたと思えた射光だが、やはりこうして見ると恐い。初日で慣れるなんて無茶な話だったかも知れない。しかしそんなヤンキー教師に対抗して普通に口論出来ている愛音は結構大物かも知れない。その口論の原因になっている憂本人は初日の初授業にも関わらず板書をノートに写すだけで疲れきって机に顔を伏せて眠っていた。
6
射光にとっては殆ど初めての学校生活、優にとっては久しぶりの学校生活はあっという間に時が流れた。二時限目、三時限目、四時限目と淡々と授業時間は過ぎていき、いつの間にか昼休みを告げるチャイムが鳴った。そういえば昼飯はどうすれば良いんだろう。まさか悠夢が弁当作る程の料理の腕も暇もあるとは思えない。何処かで買って来なければならないのか。射光は憂に相談してみようと振り向いた瞬間、また前方から誰かに話しかけられた。
「いるみーんっ」
声の主は愛音だった。その後ろには先程愛音と話していた友人の姿がある。しかし愛音の声で紡がれているあだ名はとても聞き覚えのある物だった。
「い、いるみん?」
「いるみってゆーんやろ?だったらいるみんや。嫌か?」
別に嫌では無い。しかし案外人間の発想というのは被り易い物なんだと実感する。
「あ、もしかしてお弁当持って来て無いの?」
愛音の後ろに居る女子生徒が二人に問いかける。清楚な黒髪は二つに結われており、スカート丈は愛音より長いもののリボンネクタイは赤のチェックと華やかな物。愛音よりは大人しい雰囲気がある女子生徒だった。
「そうなんだよ・・・何処で食べれば良いかな?」
「お金は持っとる?だったら購買部やろ。早く行かんと人気商品は売り切れてしまうで。」
愛音はそう云って強引に射光の腕を引っぱった。射光は強制的に立ち上がらされる。
「ゆ、憂も行こう。」
射光のその一言で漸く憂は動き出した。
7
男女四人は昼休みで賑わう中庭で昼食を取る事になった。中庭は芝生で覆われていて花壇も沢山あり、都会の真ん中の学校とは思えない程自然が豊富な場所だった。射光達の他にも沢山の生徒が楽しそうに昼食を取っている。昼休みの人気スポットの一つだと愛音は云っていた。射光達は偶々空いていたベンチで一列に並んで座って食べる。憂が一番最初に右端に座る。愛音は透かさずその左隣に座った。本当に解りやすいなぁと苦笑しながらも射光はその隣に座り、愛音の友人が射光の隣に座った。
「あの、」
射光が先程買ってきたばかりの焼きそばパンの袋を開けている最中に、か細い声で愛音の友人が射光に話しかけてきた。
「私、あの子の友達の間宮ゆん。宜しくね。」
「ああ、宜しく。」
ゆんと名乗った少女は小さく微笑みながら軽く頭を下げる。射光も精一杯の笑顔で挨拶をした。ゆんは鞄の中から小さなピンク色の弁当箱を出す。この清楚で愛らしい少女にはぴったりのお弁当箱だなと思った。
「愛音は学級員で私は風紀委員なの。いるみん達は何か委員会入る?」
「えー、でも今更委員会に入られても迷惑じゃない?」
「そんな事あらへんよ。特に男子達はみんなサボリ性で全然仕事してくれへんの。今からでも誰かと変わってくれへん?いるみんならバリバリ仕事してくれそうやもん。」
「ねー本当、風紀委員やってよ。」
「じゃあ憂君は学級員やな?」
「やだ。めんどい。」
憂は空気読めないのか、それとも読んでいないだけなのか。きっぱりとこの和やかな雰囲気をぶち壊してまで自分の意見を突き通す憂をある意味尊敬する射光。
「あはは、憂はそういうの苦手そうだもんなー。」
「せ、せやな。ごめんな何か勝手に話進めちゃって。」
「あ、俺、学級員ってやってみたかったんだ。なぁ、俺学級員やっても良いかな?」
すると再び空気が凍りつく。あれ、今俺変な事云ったかなと射光は一人首を傾げる。特に悪気は無いと解っているものの、やはり憂が学級員、射光が風紀員にならないと色恋沙汰最中の少女二人にとっては意味が無いみたいだ。愛音とゆんは二人顔見合わせ、少し溜息をついた。
それから他愛も無い会話を繋げながら昼飯を頬張る四人。特に射光と愛音の口は止まらず昼飯がずっとほったらかしになっている状態だった。射光はひたすら聞きたい事だらけで、愛音はそれに対して隈無く答える。この学校の内装について先生について生徒達について部活について行事について。その言葉のキャッチボールの巧みさは今日初対面の男女とは思えない物だった。ゆんは二人の会話に口を挟む事も無く、ただずっと小さく笑っていて、憂は二人の会話すら聞いているのか聞いていないのかという状態で、ベンチの右端で一人狼を演じていた。
「へー、本当にそんなにいっぱい部活あんの?」
「あるでー、それにあくまで部活だけの話やからな。同好会を含んだらもっとカオスな事になってるで。」
「同好会?」
「そうそう、例えばー・・・テディベア同好会とか、ワンダーフォーゲル同好会どか、TDL同好会とか。」
「TDLって何?」
「トイザラス・どうか・乱闘しないで下さい同好会や。」
「えっ、マジで?」
「嘘に決まってるやろっ何で自分そんな騙され易いねんっ。東京ドズニーランド同好会や。」
「東京ドズニー・・・ランド?」
あんぱんを口に含みながら射光は首を傾げる。
「・・・なんや自分、ドズニーランドも知らんの?」
「焼きそばパンもあんぱんも無い山村に住んでいたもん、知る訳無いよね。」
「さよかー・・・だったら今度四人で行こうや。」
「えぇっ、本当に?」
「おうっ。うちの座右の銘は有言実行や。どや、来週の日曜日にでも。」
「駄目だよ愛音、その日は普通に部活あるよ。」
ゆんの一言に愛音はがっくりと肩を落とした。文字通り本当にがっくりと肩を降ろし項垂れいかにもショックを受けた様子だった。そんなにきつい部活なのかと射光は二人に尋ねる。
「そういえば二人って何の部活に入ってるの?」
「ああ、私達は軽音部。私はエレキギターで、愛音は一年なのにヴォーカルやってるんだよ。凄いでしょ?」
エレキギターという言葉も、ヴォーカルという言葉も射光にはちんぷんかんぷんだったが、ゆんは人ごとにも関わらずそのヴォーカルという位置に愛音が居る事にかなり誇らしく思っている様だった。
「そうそう、今度の定期ライブでうちらのバンドは『トウキョウトロックシティ』歌うねん。良かったら聞いていってな?」
「へぇー?それって有名な曲なの?」
「うわっやば・・・いるみんまさかのパンピ?・・・まぁええわ、兎に角ええ曲やから。聞いたら絶対嵌るからっ。」
熱弁する愛音の隣でゆんはひたすら頷くのみ。憂は会話を交わす三人を横目に見ながら、今時の高校の軽音部はボカロ曲も大丈夫なのかと密かに感心していた。騒がしい中庭の空に授業開始の予鈴のチャイムが鳴り響く。それを聞いた生徒達は会話を中断し片付けながら教室へ急いだ。愛音達も弁当箱やゴミを片付け、ベンチから立ち上がる。
「次なんやったけ?」
「多分、地理だったと思うよ。」
「うわっマジでかー、絶対眠くなるやん。」
「駄目だよ寝ちゃ、期末二週間前なんだからね。」
この二人の会話を聞く限り、ゆんはかなりの勤勉家で成績が良さそうだ。対照的に愛音は授業中もつい眠ってしまい余り成績が良いという印象は受けない。実際どうなのかは解らないけれど。それに射光と憂も全く人ごとでは無い。射光と憂は購買で買ったパンを食べたから帰り道は手ぶらだけれど、愛音とゆんは弁当だった為行きも帰りも荷物の量は変わらない。中庭から校舎へ繋がる道を並んで歩く四人。歩幅はまるでばらばらだった。ひたすら喋りながら歩く愛音は一番遅かった。それに合わせて歩くゆん。愛音と会話を交わしながら歩く射光は一歩前で歩くものの、歩くスピードはきわめてゆっくりだ。憂は三人から一歩退いているような、遠ざかっているような、誰に歩幅を合わせる事も無く、それでもこの三人と他人とは思えない不思議な位置で速さで歩く。何て居心地が良い空間なんだろう。射光は心から思った。この空間でなら永遠に暮らしていきたい、いければ良いのにと思える。きっと他の三人も同じ事を思っていて欲しい、そんな儚い願いは全く他人格の者には聞こえるのだろうか。
「あれ、」
何の前触れも無く射光が足を止めた。同時に三人も足を止めた。
「此処って何?」
射光が指さした位置には一つの古びた倉庫があった。壁は酸素に触れ錆びきって、扉は曲がっており最後まで閉まらず倉庫との間に細く深い溝を作っている。何が入っているかも解らないけれど、ただ純粋に単純に『不気味だ』という印象を受けた。こんなに清潔で真新しい校舎と中庭と校庭の中に一人だけ生まれ変わる事に取り残されたようなこの倉庫。その周辺の空気すらも、古びた倉庫と同じ運命を辿るように陰鬱な色を残したまま。
「あーこれな・・・」
愛音は先程の明るい表情から一変させた渋い顔になる。
「此処、うちの学校一番の心霊スポット。何処の学校にもあるやろ、七不思議って。うちの学校の場合七つ中五つは此処で不思議が起きているんや。」
「えっ・・・」
「云っとくけどこれはマジやで。なぁ、ゆん。」
ゆんは深く一回だけ頷いた。嘘では無い事は、愛音の表情を見れば一瞬で理解出来る。
「此処で改装工事あったやろ?ほんまによくある話やけど、この倉庫だけどうしても取り壊しが出来なかったみたいなんや。何回壊そうとしても機械が故障したり、誰かが怪我したり、はたまた此処に付着していたゾンビウイルスが何かの拍子に誰かに感染しちゃってあわや大惨事、とかな。兎に角どうやったって此処の取り壊し工事だけが出来へんらしい。何やろな・・・ゾンビ事件で被害にあったもんらの怨念でもあるんとちゃう?このナツメグ高校は一番の避難場所になったらしいからな。勿論その避難も殆ど意味無くて、まぁその所為で一番死亡者が出た場所でもあるらしいけどな。」
あれほど陽気に喋り続けていた愛音が、こんなに真剣な顔して、こんなに丁寧な説明をしてくれる事にまず驚きだ。しかしその話の内容もやはり驚きの連続だった。こんなに賑やかで楽しい学園生活を送らせてくれているこの学校にも、やはり五年前の傷が深く残っているのだ。五年過ぎても、どんなに時が流れてもどうしても風化出来ない傷跡はあるのだ。ふと、愛音の隣に居るゆんの体が小さく震えている事に三人は同時に気づいた。
「ゆんっ・・・ごめんな、もうこの話はやめにしよ。な?」
「だ、大丈夫?」
「うん・・・ごめん、うちもついうっかりしてたわ。この子にゾンビ事件の話は禁句なんや・・・。ほんま、ごめんな、ゆん。」
ゆんはまた小さく、深く頷いた。泣いているのか恐怖で震えているのかは解らない。或いは両方かも知れない。彼女はゾンビ襲来事件で心に深い傷を負った。それだけは彼女の様子で容易に理解出来た。
「あのさ、愛音、」
「なに?」
「七不思議って云ってたじゃん・・・一体何があんの?」
話題を変えようと思って話を振ったのだが、うっかりそれ程話題が変わっていない事に気づく。それでも愛音は必死に明るい雰囲気を作ろうとオーバーアクションで語ってくれた。
「それがな、本当に不思議なんや。普通一つの場所に出てくる幽霊ってのは一パターンって決まってるやろ?それがこの倉庫に現れる幽霊は無数におるんや。」
「って・・・どういう事?」
「ある奴は放課後に此処でおかっぱ頭の女の子を見た。ある奴は肝試し中に此処で髪の長い女を見た。ある先生は帰りに此処で落ち武者を見た。ある保護者は保護者会の帰りに大人数の子供達を見た。兎に角此処に現れる幽霊は時間も、その姿もはっきりしておらん。そして人数すらも。兎に角此処には無数の幽霊が住み着いておるって事やな。」
聞くだけでゾッとする話だ。もう二度と此処は通りたく無い。そう直感が伝えた。
「ねぇ、」
久しぶりに憂の声を聞いた気がする。しかもその声は深刻色に染まっていた。まさか、憂にも見えているというのか。無数の幽霊が。三人が背筋を震わせながら憂の声に耳を傾ける。
「もう二十分過ぎてるけど。」
授業開始時刻は一時二十分。時計は既に一時二十三分を示していた。三人は各々の悲鳴をあげ一斉にその場から走り出した。憂はその三人のあとをついて少し呑気に走る。
そんな一際騒がしい四人組をずっと倉庫の影から傍観していた人影がある。しかしその人影は決して其処に住み着く幽霊では無い。はっきりとした実体があった。実体はあるけれど、日本人とも人間とも思えない容姿。作り物のように見事に流れるブロンドの髪。ブロンドに見合った白い肌。小学生男子程の小さな背丈、幼い顔立ち。高校生の着用するようなYシャツに黒いベストとネクタイは少し彼には背伸びし過ぎているようにも見える。普通の人間が見れば彼は男か女か区別がつかないだろう。それ程までに愛らしい顔立ちに髪の毛、体つきなのだが、少年は紛れもなく男。少年はナツメグ高校の校章バッチがついたベストをその場で脱ぎ捨て持っている鞄に入れる。そして少年は午後の授業が既に開始しているにも関わらず壁を飛び越え学園から出て行った。
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校章を脱ぎ捨てた少年が向かったのは竹下通り。平日の真昼にも関わらず多くの観光客で賑わう其処を通り過ぎた場所。その場所は竹下通りと比べて比較的静かだった。その場所に、発展都市とは不釣り合いな静寂空気に包まれた神社があった。一番手前の鳥居には『雪柳神社』と云う看板が立てかけられてある。少年は鳥居をくぐり石段を登り竹林を抜け一番奥にある屋敷へと歩む。屋敷の縁側に座る、やはり発展都市東京とは明らかに不釣り合いな、まるで平安京からタイムスリップして来た様な絢爛豪華な着物を纏う男。少年は青年の前に立ちつくした。
「今日は随分、帰って来るのが早いでは無いか。」
男は懐から金箔が貼りめぐらされた扇子を取り出す。扇子の先端で少年の顎を自分の方へ向ける。
「何用で参った?」
低く妖艶な声は、その声に見合った不思議な音色を紡ぐ。
「呑気に人間の生活をしてる場合では無いですよ。僕も、貴方も。」
小学生程の背丈の少年は、やはり声変わりもしていない女児の様な男児の声。しかしその声には見合わない大人顔負けの口調と声色で何倍も年上の男に語りかける。男は扇子の先端を少年の顎から離し、扇子を広げた。扇子を広げれば金箔の輝きは木漏れ日さえも反射させ見事に輝く。
「成る程、やはりあの魔道は人間どもにはどうにも出来なかったか。」
「そんな事は最初から解っていたでしょう。妖魔皇である貴方がいつまでもあの危険地帯を放ったらかしているから・・・」
「故意に放置しておいたに決まっておるだろう。くだらん戦争を続ける下民への罰だ。」
「またそんなくだらない言い訳を・・・そうだとしても、戦争には関係無い人々への被害が殆どなので、やっぱりそろそろ貴方に動いて貰わないと困ります。」
少年は幼い声で辛辣に男に言い放つ。愛らしい声で少し迫力には欠けているが、その声は静寂に包まれた屋敷に何処までも轟く。金色の扇子を持つ男は、重量のある着物を纏ったままゆっくりと立ち上がる。少しでも動くと極彩色の絢爛豪華な着物は美しく微風になびいた。
「妖魔皇の出陣ともなれば、無論守り神の護衛も必須であろう。」
「解っていますよ。」
男は扇子を二三回揺らす。すると金色の扇子の微風が男の群青色の髪を揺らす。木陰に咲く薊。雲は西方へ西方へと動く。雲に顔半分隠されていた太陽は竹林に包まれたこの屋敷の屋根にさえ日光を照らす。金色の少年の髪も一つの太陽のように光輝いた。
第七章「金輪メレンス」終