第四章『郷愁モノクローム』
第四章『郷愁モノクローム』
said:かの屍に魅入られし男
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人間核兵器についての情報は国家レベルの機密情報。部外者にホロノイドの名前だけでも漏れたとしたらその者は即刻社会的にも人間的にも抹消される。恐らく真実を知るのはこの研究所内の人間と、ホロノイド本人と、ホロノイドに関係する極一部の人間のみ。しかし今回の件で全く部外者である筈の天正射光に情報が漏れてしまった。漏れてしまったと云うより、全てを見られてしまった。本来ならこのホロノイドの姿を見た時点で即刻排除されるべき立場なのだが、所長の気まぐれで彼には日本の闇に肩まで浸かって貰おうと思う。全ては所長の気まぐれとほんの直感に過ぎない。
紀伊悠夢という名前を聞いて、人間核兵器発案者だと気づく者はそうそう居ない。しかし彼をよく知る人物は口を揃えてこう云うのだ。変人、奇人、狂気の人。人間の死体から核兵器を作る事を容易くやってみせる彼は嗜虐趣味の残酷主義者というより、本当にただの変態に過ぎないのだ。悠夢はいつだって人間の出来る限りの発想からずば抜けている。良い意味でも悪い意味でも。余りにも何処か抜けているから、悠夢がどんな偉業を成し遂げたって、彼の真似をしたい、見習いたいと思う人間は一人も居ない。というか、出来ないのだ。彼の持っている頭は尋常な人間の頭では無いのだから。
学生時代から成績は良かった。考査の結果が学年五位以内なのはどんなに体調が悪くたって当たり前だった。でも悠夢は誰かにそれを自慢する事は無かった。誇る事も無かった。寧ろくだらない自分のミスを嘆く事が多かった。親が特別成績に煩かった訳では無い。でも両親はどちらも学歴は高かった。両親が立ち上げたこの『紀伊解剖学研究所』の跡を継ぐのは自分しか居ないと、幼い頃から無意識に悟っていたんだと思う。誰かに特別脅迫された訳では無く、誰かに描いて貰った道しるべを辿るのが一番楽だと考えていたから。だけどその考えは中学生の終わり頃から変わり始めていた。人並みに学生生活を楽しんでいる内にやりたい事が増えてきたのだ。それは何も珍しい事では無い。学生生活を体験する者は全員が通る道。悠夢は元から好奇心が人一倍旺盛な性格だった。だから両親の目を盗んでは研究所の研究材料を触ったり書類を勝手に読んだりしてよく怒られていた。その他の事象も悠夢の底なし沼の好奇心の餌食となった。生物学、医学、物理学、化学、語学、スポーツ学、文学、音楽、美術、その好奇心の餌は全く節操が無かった。放って置いたら悠夢はこの世の全ての知識を得てしまうのでは無いかとさえ云われていた。そんな彼が特に興味を持って調べていたのはファッションの事だった。元々原宿住まいだった悠夢にとってファッションはとても身近な存在だった。学校帰りの道を歩くだけでもかなり奇抜な服装の人はよく見る。調べていく内に、自分の手で新しい物を生み出したい、自分が新しい歴史を築きたい、そう願う事は若者の感性ではよくある事。
やがて悠夢が研究所を継ぐという意志が完全消失する事は誰もが想像出来た事だろう。
しかし、悠夢がわずか十八才にして結婚するから家を出て行くと云い出した事は、誰が想像した事だろうか。
「全く、いきなり何を言い出すんだお前は・・・」
「悠夢、どうしたの?あなた少し高校に入ってから変よ。やっぱり少し低めの高校に入っちゃった所為よ、今からでも何処か編入し直す?」
「別にそういう訳じゃ無いから。俺が自分で決めた事だから。じゃあ、そういう事で、アデュー。」
「こら、悠夢、ふざけるんじゃないっ。悠夢!」
親の立場からすればたまったもんじゃ無いだろう。しかし悠夢は大真面目だった。子供なりに大真面目に自分の将来を考えた結果がこれだった。百歩譲って、家を出て行く事はやめてあげても良かった。でも結婚だけはどうしても譲れなかった。何故なら相手のお腹には、既に自分の子供が宿っていたから。
相手は当時悠夢の家庭教師をしていた女子大学生の村崎沙羅。家庭教師と言えど年の差は二つだけだった。悠夢は昔から女友達も多く、付き合って来た女の子も多かった。しかし沙羅は悠夢が今まで見てきた女の中でもトップクラスに入る美人で、顔合わせたその瞬間から一目惚れだった。某有名大学出身のかなりの秀才娘だったが、髪の毛は脱色されているし服装も思い切り現代娘な雰囲気漂う服装で、秀才というイメージは少し与えられない。それでもやはり博識で、教育熱心で、悠夢の成績向上に精一杯協力してくれた。一目惚れから始まった恋だったけど、彼女と過ごしている内に悠夢は何度も何度でも沙羅に恋に落ちた。恋愛には誠実な悠夢は真っ正面から彼女にアタックをし続けた。最初は吃驚して誤魔化していた沙羅も、回数を重ねられていく内にその気迫に押されまくった沙羅は交際を許可した。
交際が始まっても悠夢の想いが冷める事は無かった。寧ろ、今まで抑圧されていた想いまで弾けその熱は毎日熱量を増していった。飽き性な彼にとってみればこれは凄い事である。悠夢の熱過ぎるラブコールにつられ、沙羅も毎日のように悠夢への想いを燃やしていた。やがて二人の間に形ある愛の証が出来上がったのは、二人が付き合い始めて一ヶ月後の事だった。
悠夢が家庭教師と結婚して家を出て行ったという噂は瞬く間に学校中のスクープとなった。というか、昔から悠夢が家庭教師と付き合っているという事は彼自身が友達全員に自慢した事なので、直ぐさま広まるには訳無かった。しかしその事に関して悠夢は嫌だと思った事は無い。それよりさっさと働ける身になって沙羅とそれからこれから生まれてくるであろう我が子の為に生活を支えてあげたい、其処が一番の問題だった。当時の彼の夢はファッションデザイナーだった。しかしそれは余りにも不安定な夢。とりあえず学校を中退し、アルバイトの毎日が続いた。沙羅は相変わらず家庭教師のアルバイトをし続けていた。二人分のアルバイトの給料で住める家なんてそれは粗末な物でしか無かったけれど、そんな事はどうでも良かった。ただ、これだけは言える。この日々が悠夢の人生の中で一番幸せな日々だったと。幸福過ぎて夢心地だった。いつでも足下がふわふわしているようで、不思議と一番幸せだった記憶は、今の悠夢には曖昧な記憶でしか無い。暖かな小春風の生ぬるいぬくもりだったと。
時が過ぎ、沙羅がとうとう妊娠九ヶ月を迎えた。出っ張った腹から伝わる鼓動や温かみに新たな幸せを感じている頃だった。
「人間って凄いなー。お腹の中にこんな大きな子供が入ってるもん。」
「あら、哺乳類はみんな同じよ。犬だってライオンだって同じ。」
「そりゃそうだけどさ、これから生まれてくる子供と同じ躯でに生活している事って凄く素敵な事だと思うよ。これはもう生まれてきちゃったらもう味わえない事だからちゃんと覚えておかなきゃね。って、俺男だからよく解らないけどさ。」
腕を組み、自らの感動を朗々と語る悠夢を見て沙羅は思慮深く笑った。
「あらあら、悠夢くんもいつの間にかそんな大人な考えを持つようになったのね。」
沙羅は自分と違う命を宿す腹部を優しく撫でながら云った。
「その、さ、悠夢くんっていう呼び方そろそろやめない?」
「どうして?」
「俺は「沙羅」って呼べるように頑張ったのに、沙羅はそのまんまじゃん。もう夫婦になって長いんだから「悠夢」って呼んで良いんだよ。あ、それとも「あなた」にする?」
「長いって云ってもまだ一年も経って無いわよ。私からしたら「悠夢くん」って呼ばないと落ち着かないの。悠夢くんだって「先生」ってたまに間違えて呼んじゃう癖に。そんな事で無理して頑張らなくたって良いのよ。」
悠夢は思わず皿を洗う手を止めた。水道水が出しっぱなしな事に気づくと慌てて手を動かし始める。
「うえ、え、わざわざ俺の恥ずかしい失態を掘り下げなくても良いじゃん。優が生まれてきたらもう間違えないよ。」
「そうね。そういえば私は「優くん」か「優ちゃん」、どちらで呼べばいいのかしら。」
「生まれてくれば解るよ。ていうか、やっぱり「くん」「ちゃん」つけるの癖なの?」
「ふふ、そうなの。だから周りからもずっと「沙羅ちゃん」って呼ばれてたから「沙羅」なんて呼ぶの悠夢くんくらいなのよ。」
「へぇ、そうなんだ。」
全ての食器を洗い終えた悠夢は入念に蛇口を閉め、手をタオルで拭き沙羅の隣に座る。
「でも本当に男の子か女の子か楽しみだね。」
「そうねぇ。私にも早く名前を呼ばせて欲しいわ。」
「呼べば良いじゃん。」
「駄目よ。例えば男の子なのに「優ちゃん」なんて呼ばれたら可哀想でしょ。」
「変なところ真面目だねぇ沙羅は。そんなの気にしないよ俺だったら。」
「あらそう?私が始めて来た時、「名前だけ見たら女の子みたいね」って云われて不機嫌そうな顔したのは誰だったかしら?」
「よく覚えてるねそんな話。」
「よく覚えてるわ。忘れたくも無いわ。貴方に始めて逢った日の事だもの。」
本当に沙羅は思慮深く微笑むのだ。彼女の表情は全てにおいて繊細で、何処か静寂に包まれている儚さ。悠夢は何度、自分の心が読まれている錯覚を覚えた事か。脈絡も無い。その割には底なし沼の好奇心を持つ悠夢はこの世の全ての知識の持ち主。しかしそんな悠夢よりもずっと沙羅はこの世の全てを知り得ている様だった。今思えば、彼女は既に感付いていたのでは無いか。だからこそあんな笑い方をしたのだろうか。二人の幸福の崩壊、災厄を訪れ、そして、日本の頽廃が刻一刻と迫っている事に。
2
翌日、沙羅はいつもの病院で健診を受けていた。もうすぐ入院しなくてはいけない事もあり貯金の心配が当時の一番の悩みだった。目の前のバスが出発しょうと扉が閉まりかける。が、運転手は妊婦の躯を気遣い出発せずにその場に留まった。沙羅は無事、家路に向かってくれるバスに乗車した。彼女は今でもその時このバスに乗った事を後悔しているだろうか。いや、もしこの不幸を乗り越えたとしても、その後にも不幸の刺客は用意されていたのだ。そうだとしても、この不幸だけは体験せずに済んだかも知れない。
沙羅の降りる停留所の直前でバスは大型トラックと接触事故を起こした。トラックの運転手は心筋梗塞を起こしていて意識が無かった。バスとトラックは真っ正面同士で衝突した。双方の運転手は即死。バスの乗客も多くの者が怪我を負った。しかし、中でも一番重傷だったのは一番前の席に座っていた沙羅だった。衝突した瞬間、激しく車体は揺れ沙羅の躯は前の壁にぶつかった。その時、大きく膨らんだお腹がふいに壁に衝突した。硝子窓も崩壊し、硝子の破片が沙羅の腕と足の何カ所かに刺さる。しかしそんな痛みは感じなかった。それよりも、太股の裏筋に伝う熱い血液に不吉な思いが脳裏に巡って巡って仕方無かった。
直ぐさま病院に運ばれた。沙羅は病院に運ばれても赤子の心配しかしていなかった。診断の結果、お腹の中の赤ちゃんも即死であった。その診断を告げられてすぐに悠夢が病院に駆けつけた。
「ごめんなさい」
「・・・・・」
「ごめんなさいごめんなさい」
「・・・・・・・」
「ごめんなさい、私の所為で赤ちゃんが、私の犠牲になった所為で、ごめんなさ」
「もう良いよ。もう、良いから。」
ただ悠夢は沙羅を責める事も、自分を責める事も、事故を起こした既に故人である二人の運転手を責める事も出来ず、この災厄を降らせた神を責めた。胸に傷だらけの彼女を抱き上の世界を見上げた。しかし其処は薬品臭い白い天井。神の姿など拝む事は出来なかった。腕や頭に包帯を巻いた彼女は小さく震えていた。
その後直ぐに赤子の摘出手術が行われた。皮肉にも手術は何事も無く終了した。二人の希望で赤子の死体は預かる事になった。腹から出てきたばかりの胎児だというのに、瞼や一本一本の指、足まで既に完成されていた。今にも眠りから醒めて泣き出しそうなのに、その体は悲哀の氷度。
医師の話によると、今回の事故で沙羅の子宮の一部は損傷しており、もう赤子を孕む事は難しいらしい。沙羅の表情は日に日に暗くなる一方だった。悠夢の大好きだった温かな笑顔はもう此処数日見ていない。少しでも一人にすれば、彼女の瞼は赤く腫れ上がっていた。何か励ましの言葉を与えれば同情だと読み取られそうで、だからと云って何も話しかけずにはいられなくて。だけれども悠夢は沙羅の笑顔が見たいという一心で、生ぬるい優しさを見せる事しか出来なかった。
「沙羅は少し悲劇的にとり過ぎだよ。少し考え方を変えてみよう。きっと俺達の子供が、事故から沙羅を守ってくれたのさ。だから沙羅は軽傷で済んだ。その代わり子供は死んじゃったけど、でも子供だったらまた作れるさ。あー・・・・でももう難しいんだっけ?だったらほら、今養子とか流行ってるからさ、それでも充分だって。血は繋がってなくても、俺達が育ててあげれば俺たちの子供だって変わりは無いでしょ?」
それが今悠夢がかけられる最高の言葉だった。陳腐な慰みだと、悠夢は自負していた。それでも沙羅は嬉しそうに微笑んでくれた。約一週間ぶりの笑顔だった。
「そうね、そうよね。いつまでも落ち込んでいる訳にはいかないわよね。」
そうして彼女は囁いた。またいつもの、思慮深く、世界の全てを知っている女神のように鮮麗な声で。
「有難う、悠夢くん。」
3
そうは云っても、悠夢だって全く悲しく無いといえば嘘になる。本当に養子でも良いのか、死んだ子供を諦めきれるのかと云っても嘘になる。本当は悠夢だって泣きたかった。しかしあの時、あの沙羅の痛々しい泪を見てしまってはとても泣ける状況では無かったのだ。あれから沙羅も少しずつ元気を取り戻してきてくれた。もう普通に会話も出来る状態だ。それでも、今でも彼女は瞳の輝きも見せないまま死んでいった我が子の事を想って一人でこっそり泣いているような気がしてならないのだ。もう一度、完全に彼女が悲哀から抜け出せる方法は無いのだろうか。やはり時が悲劇を風化させてくれるのを待つしか無いのだろうか。悠夢はそればかり考えていた。そしてふと、自分の家族の顔が浮かんだ。自分の家族は殆ど毎日仕事と研究ばかりに打ち込んでいて、一人しか居ない我が子である自分には全く構ってはくれなかった。優れた発明家として有名なキュリー夫妻も、子供が出来たあとも研究にばかり構っていて自分の子供の事は全て家政婦に任せきりだったと聞く。偉人だとうたわれる人間も、自分の子供一人育てきれないならそれは偉人と呼べるのかどうか、子供ながらに悠夢少年は疑問を抱いた。だからこそ自分も親孝行する必要は全く無いと思って家を出た。そんな悠夢は子供の時から暇つぶしにはいつも親の研究レポートや資料を読んでいた。その中に特別気になっていた研究課題があった。それが『死者蘇生』。
その時の悠夢には生き返らせたい人間が居た訳では無い。しかしそれが一段と興味を引く研究だった事は確かだ。余りにも気になって親に直接聞いた事もある。しかし母親も父親も「その課題は余りにも難題過ぎて今滞っている。」「死者蘇生はもう諦めた。」と溜息混じりに云ったのだ。それもその筈、死者蘇生に関するレポートや資料は書斎の奥深くに眠っていたのだから。もし今も死者蘇生の研究が進んでいないなら、今の自分なら出来るかも知れない。今の自分なら死んだ我が子の為なら魂を燃やしつくしても構わない。死んだ我が子の為、沙羅の幸せの為なら何だって。赤子の死体はどうしても手放せないと云って沙羅が冷凍保存をしていた。頼み倒して赤子の死体を研究所に持って行く事の許可を受け取る事が出来た。悠夢は始めて目的を持って自宅の研究所に足を踏み入れた。
「いきなり来て何かと思いきや・・・」
始めに父親が呆れた表情で悠夢を見下した。
「お願いだよ父さん。研究所を使わせて。そして、俺に死者蘇生の研究をやらせてくれ。」
「自分の意志で研究所を出て行った癖に、今更何を」
「まぁ良いじゃないですか。初めてですよ、悠夢が私達の意志を継いでくれるのは。」
反対に母親の反応は思った以上に良好だった。とりあえず自分の研究を手伝ってくれる事が嬉しいらしい。父親も母親に促され何とか研究所を使わせてくれる事の許しを得た。
「ところで悠夢、何でいきなり死者蘇生何かを?」
勿論悠夢はありのままを話した。あの痛ましい事故を。尊い命が儚く失われた事を。そして今自分の腕に凍り付いた我が子が居る事を。両親は始めは驚いたが、案外あっさり理解をしてくれた。何より我が子の死体を冷凍保存している事は流石に非常識だと云われるかと思っていたのだが、其処は深くはつっこまれなかった。彼らはそれ以上に非人道的な研究をしているという事だ。悠夢が漸く、この両親に似てきたのかも知れない。
斯くして悠夢の戦いが始まった。研究は難題ばかりだった。しかも普通の人間ならまだしも、悠夢の場合胎児の蘇生だ。成人した人間を蘇生する事よりずっと繊細に扱わなければならない研究だ。しかし悠夢はこの研究が何年続こうと、何年やっても成功しなくても毛頭諦めるつもりはなかった。小さな胎児の躯をやたらいじる訳にもいかず、薬による蘇生を試みる事にした。どんな薬品でも試した何匹ものネズミが犠牲になった。生き物実験は見るだけで嫌だった悠夢にとってこれは驚きの心境の変化だった。けれどもネズミは一匹も息を吹き返す事は無かった。どの薬品も片っ端から試して、どんな組み合わせでも調合した。事態は暗黒化するばかりかと思いきや、案外研究は順調に進んだ。それでも中々完全なる死者蘇生には結びつかなかったけれど、両親は頗る感心をした。やはり悠夢には化学者の才能があるみたいだ。しかしどの薬品もどうも上手く蘇生に結びつかない。考えた結果、悠夢が手を伸ばしたのが規定外の麻薬。勿論禁忌だと解っていたので、それからは研究員、助手、両親、沙羅でさえ自分の研究所に近寄らせなかった。三日三晩殆ど飲まず食わず寝ずの日々だった。すると、やがてゴールが見えてきたのだ。一匹の実験用ラットがある合成薬品を飲ませると息を吹き返したのだ。しかし異変が起きた、ラットはいきなりケージから飛び出し、まるで何かの猛獣みたいに暴れまわるのだ。ラットが机にかじりついた。驚愕した、噛み付いた部分の机の端が綺麗に折れたのだ。ラットがかじったから机が破損した、どうにも受け止めがたい真実だった。そう、これが、後のホロノイド化薬だった。死体にこれを飲ませると蘇生し、そして生前より圧倒的なパワーを持つ事が出来るこの薬。流石に驚いた悠夢だが、蘇生の薬はもうこれ以外に作れないと考えた。勿論違反の麻薬も沢山含まれている薬だ。でも実際に死者を蘇生する事が出来た。これは大きな進歩だ。悠夢は更に開発を重ね、そうして出来上がったのが、第一号のホロノイド化薬。それを飲ませるのは紛れもなく自分の息子。当時の彼はホロノイドという言葉も、この薬がどんなに危険なものか全く気づいていなかった。ただ、息子を生き返らせたい。それだけの願いだったのだ。
4
月日は流れ、紀伊家はいつの間にか仲睦まじい家族と評判になっていた。比較的若い夫婦だが、二人は息子を本当に愛していた。沙羅は高校の教師になり、悠夢は結局研究所を継いだ。息子は二人の愛情を受けながら成長し、名前に見合った性格になっていった。
「優、」
「優くーん、」
「なにー?パパ、ママー」
「今日は俺も沙羅も早く仕事終わったからさ、久しぶりにどっかで美味しい物食べようか。」
「ほんと?やったーっ」
「何が食べたい?優くんの好きな物で良いよ。」
「えーと、えーと・・・コンビーフ」
「・・・あら優くん、いつそんな物食べたの?」
「あー、この前俺が食べてる時食べたそうに見てたから思わず食べさせちゃった。そんなに美味しかった?」
「もう悠夢くん、あまり優くんに変な物食べさせないでよ。」
「いーじゃん、そんな変な物じゃ無いよコンビーフは。」
「こーんびーふー」
「もう仕方無いわね、コンビーフでサラダ作ってあげるから、やっぱり今日は家で食べましょう。」
「そうだね。」
家族三人での時間は余りにも幸福色が眩しくて、それが本当に現実の世界なのか解らなくなる事もあった。此処は自分の理想だけで固めた世界なのでは無いか。腐った机上論の楽園なのでは無いか。でも違う、此処は地に足がついた現実なんだと、両方に繋いだ体温が教えてくれた。
しかし、勿論この楽園時間が永遠なのでは無い。この頃の悠夢の世界は楽園と闇夜の二つしか無かった。理想的な幸せ家族の居る自宅と、張り詰めた氷りの冷度の職場。空気に冷やされた白衣を着るだけで普段とは違う自分が降りてくるようだった。紀伊研究所は研究者の素質のある悠夢が関わって更に大きくなっていった。今や、国家レベルの開発と研究すら任されるようになる程だった。常にその中心に居たのは悠夢の両親だったけれど、悠夢も勿論実験に関わっていた。不思議な事にこの重苦しい天井に包まれた研究所に居ると普通の感覚が麻痺をするらしい。紀伊研究所は平気で生きた人間の躯を実験に使った。その殆どが身よりの無い子供、高額で親に売られた子供、成人の躯が必要になった時は自殺志願者や死刑囚、とりあえずどんな死に方をしたって文句が言われない人間達だった。死ぬ覚悟のある者は大人しく実験台にされた。しかし子供は不憫だった。大半が死の意味を理解していない子供ばかりだった。しかしそんな浅はかな子供でも、この研究所に連れられてきて何をされるかは大方理解しているのだ。泣きわめいて叫んで悲願して、痛いのは嫌だ、痛いのは嫌だと。有り余る体力をフル活用して暴れて抵抗するもんだから実験室に連れていくのだって一苦労。大罪を犯した死刑囚や自殺志願者の人間の躯を生きたまま実験に使う事に関して悠夢は一度も後ろめたく感じた事は無い。しかしこのような子供を見る度に、思わず泪を誘った。こっそりこの牢獄から出してあげたい。いっそうちで代わりに育ててあげたい。だがそれは下らぬ同情の余興に過ぎない。両親に言われるがままにまだ小さな子供の頭を掴んで実験室まで無理矢理引きずりまわす。
一日の仕事を終え、生臭さを纏う白衣を脱ぎ捨てると、今日自分が犯した罪の重さに潰される。月の顔からさえも身を隠してその一日眼球の裏にためた泪を一気に流す。それだけが自分達の都合だけで死んでいった命達の贖罪になると信じて。
実は、これ程までに多くの生きた人間を使わなければならなくなった理由の大半は悠夢自身の所為とも言える。今この研究所に託された発明が新型の核兵器、人間核兵器の開発なのだ。後にホロノイド・ヒューマノイドと呼ばれる存在。一体何故平和大国日本でそんなものが発明されなければならないのか、理由は明確だった。第三次世界大戦の開幕に備える為。今某国が世界各国を巻き込む大戦争を目論んでいるという報告が関係者のみにされたのだ。既に各国で新たな核兵器の開発が進んでいる。今、静かに開戦のエチュードが奏でられようとしているのだ。日本も何らかの形で開戦に備えなければならない。其処で悠夢が考えたのが、ついこの前我が息子に飲ませた薬を使った核兵器。それは人間の躯そのものを核兵器にしてしまおうという、いかにも悠夢らしい常識から逸脱した提案だった。しかしその提案は大評価され研究所全体が開発に協力してくれた。しかし悠夢は研究を進めるにつれ微塵の恐怖を感じた。その恐怖は日に日に大きくなっていくのだった。自分は息子を蘇生させる為に、とんでも無い薬を飲ませてしまったのだと。勿論その薬からはだいぶ進化をしているが、胎児の躯には余りにも毒性の強い薬を飲ませてしまった。息子は、優はこれから思いもよらない運命を背負う事になるのでは無いか。優の躯に触れる度、優が元気に動き回る姿を見る度に鋭い戦慄に襲われた。
そして、エチュードの第一楽章が流れる事になる。ある朝いつも通り研究所に出勤したら、研究室の一室で悠夢の両親が倒れていた。二人は頭から血を流していた。血は既に酸化して固まっていた。二人は何者かに殺された。朝悠夢が発見した頃には既に死後からかなり時間が流れていた。何か鈍器で頭を強く殴打されたのが死因。明らかなる開戦予告だった。そしてそれは、何処かの国がこの研究所で新型核兵器を開発しているという事を嗅ぎつけたという事だ。調べてみると研究レポートや研究材料がいくつか盗まれていた。何処かの国のスパイの仕業だろうか。そしてその日から必然的に、悠夢は紀伊研究所の所長に任命された。
しかしこれはほんの序章に過ぎなかったのだ。本当の悲劇は余りにも唐突に、余りにも残酷な形で空から降ってきた。それが2005年に起きた原宿ゾンビ襲来事件。ゾンビパウダーと呼ばれる薬品が原宿竹下通りにひとかけらだけ降らされた。それから死者五百人を越える平成史上最悪の事件として歴史に刻まれる。その当時悠夢はいつもの裏原宿の研究所で仕事をしていた。その日は土曜日という事もあり、沙羅と優は丁度原宿で買い物を楽しんでいた。事件当時二人は表参通りを歩いていた。ゾンビの魔の手が直ぐに伸びるところだった。外の異様な騒ぎに疑問を抱き窓の外を覗いた悠夢は唖然とした。いつも見慣れていた原宿の街を舞台に低俗なグロテスクの悲劇が繰り広げられていたのだ。窓を閉めている筈なのに腐爛した肉塊の臭いが、老若男女の断末魔が硝子を打ち破る勢い。悠夢の脳裏にすぐ浮かんだのが沙羅と優の顔だった。悠夢は白衣を脱がずにそのまま研究所を飛び出した。背後で何人かの研究員が「今外に出るのは危険」だと呼び止める声がした。しかしそんなのは今の悠夢には微塵も耳に入っていなかった。研究所の扉が開いた瞬間、夕焼けのグロテスクさに戦慄した。皮膚の殺がれた屍が目の前を通った。一瞬たじろぐ。しかし悠夢にはもう迷いは無く、一直線に表参通りへ向かう。彼は特別足が速い訳でも、体力がある訳でも無い。どんなに足がもつれても息が切れても足の速度を緩める事は無かった。足を止めてしまえば、周辺にいる生きる屍に捕まってしまう。そして何より自分の中での可能性を少しずつ縮めてしまうから。
数分間走り続けた所で、いきなりゾンビの群集が途絶えた。其処だけゾンビが居ない訳では無い。ゾンビが全て地面に顔を伏せているのだ。二度死んだ人間達の中心に、幼い少年が立っていた。少年は掌で顔を覆い、声をあげて泣いていた。すぐに解った。それは優だった。そして優の傍らで倒れ伏しているのが沙羅だと云うことも、すぐに解った。顔は見えなかったが、唯一露出している手の肌が真っ赤に腫れ上がっている事から、既に自分は手遅れだった自責に押し潰されそうになった。
「優・・・」
一歩近寄る。しかしその足はすぐに止まった。優の両腕は誰とも解らない血液で真っ赤に染まっていた。普通なら、ゾンビの血液に触れればその場でその者もゾンビ化してしまう。しかし優はこれだけの血液を浴びても未だに人間のままでいる。何故なのか、それは悠夢だけが解る。それは優はもう人間では無いという事を示していた。
「パパ?パパ・・・」
悠夢の声に気づいた優がふらつく足で父親に近づく。しかし悠夢は同極の磁石のように彼が近づけば後ろに歩んだ。絶望色の憂の顔は更なる絶望に染まった。子を持つ父親とは思えない非情な行動だと自分でも解っている。しかし悠夢はその上をゆく非情を演じる。
「近付かないで。」
それはそれは冷たい声だった。
「君は俺の子供じゃ無いよ。君はもうヒトでは無い。ヒトから生まれた子供では無い。だから近付かないで。」
何を言っているのか自分でも解らなくなってる。兎に角今この子を自分に近づけてはならない。その目的だけで動いている。本当は震えるあの小さな躯を潰すくらいの勢いで抱き締めたい。今すぐ安全な場所に避難させたい。その願望を抑えに抑えて、今自分は非情な男を演じるのだ。
「でも、ヒトは無い君を生んだのも、俺なのかな。だったらそうだね、君がもっと強くなってから俺に会いに来てよ。どうせ君はもう死ねない躯なのだからそんな事は容易い事だろ?君がもう俺に会いたくないならそれまでだけど。でもこれだけは云っておく、君を壊せるのは俺だけだ。だからもう壊されても良いくらい強くなったら会いに来てよ。そしたら壊してあげる。強くない君を壊すのはつまらないからね、だから俺が壊したいと思うくらい強くなってね。」
まだ十一才の子供の頭にこの言葉が理解出来たかは解らない。しかし悠夢が背を向けても彼は追いかけてこなかった。
これで良かった、これで良かったと自分に言い聞かせながら悠夢は再び安全地帯である研究所に戻った。何人もの歩く屍に擦れ違った。しかし悠夢は恐怖で足を止める事は無かった。病原菌をまき散らす肉片よりも、我が子を悲劇の祭典の真ん中に置き去りにしてきた自分の方がよっぽど恐ろしく思えたのだ。あれほど愛しい息子を、必死に蘇生させた命を何故異形だから、ゾンビの病原菌が付着しているという理由だけで置いてきてしまったのか。もしかしたら他にも理由はあるのかも知れない。でもあの子を今自分の側に置いておく訳にはいかないという事は解っていた。愛しい愛しい、こんなにも息子が愛しい気持ちは変わらない。そんな言葉は神に誓えど誰にも信じて貰えないだろう。それでも云う、息子が愛しいと。愛しいからこそ悲劇の祭典の中心にした。悠夢はもう解っていた、彼が世界で一番始めに完成した人間核兵器だと。ホロノイドはその名の通り核兵器、戦争に立ち向かう時のみその力を発揮出来るもの。もうホロノイドになってしまった彼は戦争に赴く以外に生きる道は無いのだ。彼はもうヒトの子では無い。『紀伊悠夢』の子では無い。『人間核兵器発案者』の子なのだ。ならば自分も人間核兵器発案者として接するべきだ。そう考えた結果の行動だったのだ。
このゾンビ襲来事件は人間核兵器発案者に対する宣戦布告。開戦のベル。それなら自分も更なる戦火に身を投じよう。悲劇の祭典の主役を更に増やしていこう。この残酷劇の座長になってやろうでは無いか。
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「じゃあゾンビ襲来事件って」
「どっかの国がこの研究所を潰そうとしてやった事だと思う。だったらこの研究所を爆破するとかすれば良いのにね。結局この研究所は生き残ったし、罪の無い人間ばかりが犠牲になった。まぁ、戦争なんてこんなもんさ。」
射光は初めて悠夢の言葉に割って入った。やっと入れたのだ。今まで全く口を挟んでいい雰囲気では無かったから。悠夢の顔は、陽気の仮面を被った陰気に包まれていた。
そして射光はやっと憂の名前の意味が解った。村崎憂は本名ではない。きっと本名は『紀伊優』なのだろう。しかし悠夢を父親だと認められなくなった彼は母親である沙羅の旧名を名乗り、人間では無くなった証拠に「優」から「憂」と名乗るようになった。憂はきっと殺したのだ、ゾンビになった自分の母親を。それは彼の意志では無い。人間核兵器としての本性を抑えられなくなり殺してしまったのだ。母親だけでなく、その周りの人間も。人間核兵器は普段は普通の人間として暮らしている。しかし戦禍が近付くと、自分の命の危険を読み取ると核兵器に躯を変化させる。ある意味では、世界で一番残酷な核兵器なのかも知れない。
「さて、そろそろ俺の事見直してくれたかな?憂くん。」
悠夢は憂が眠っているソファーに目を向けた。憂はソファーに横たわっていたが、瞼を開けて此方の話をずっと聞いていた。
「流石俺の息子だね。盗み聞きしているとは。」
「あんただって、途中から俺にも聞かせるように喋っていただろ。」
悠夢は椅子から立ち上がり憂の方へ歩みよった。ソファーの傍らに座り込む。憂の顔を見上げた。
「本当は、本気で君の事を壊そうとしたんだよ。俺じゃ無くて奏くんに頼んだだけだけど。ホロノイドはホロノイドにしか壊せないって事はあとの研究で解った事だからね。」
「でも壊せなかった。それは俺が思ったより強かったってだけじゃ無いだろ。」
「そうだね。やっぱり俺、君の事大好きだから、これ以上非情にはなれないよ。」
「だったら俺はどうすればいい?俺は何のために此処まで生きて、此処まで来たんだ。あんたが俺を壊してくれるって云うから、もうやっと開放されるんだと思って来たのに、もう誰だって良い・・・・早く、俺を、壊してくれよ。早く死なせてくれよ。」
本当はもうずっと死んでしまいたかったんだろう。あの事件が起きて、母親がゾンビになってしまって、そんな母親を自分の手で殺してしまった時からずっと。不死身の核兵器になってしまったばかりに自分が死ぬべき瞬間を逃してしまった迷子の屍。
彼がひたすらホロノイドの血に操られてしまっているのは、戦闘を終えたあと気を失ってしまうのは、もう彼が人間として生きていく気力が無いという事を示しているのだろう。
「御免ね、でももう俺は君をこれ以上苦しめたく無いよ。俺ももう苦しみたく無い。必ず守ってあげる、幸せにしてあげるって約束するから、俺の側で生きて欲しい。」
「・・・あんた、本当に我が儘だな。自分の幸せしか考えて無い。」
「大丈夫、きっと君の事も幸せにするさ。」
悠夢はソファーに身を乗り出し憂の躯を抱き寄せた。憂は悠夢にされるがまま、抵抗する事も無く抱き締められた。数分間くらいそのままだっただろうが。二人はもう何も声を発する事は無かった。一瞬だけ、悠夢の肩が震えたように見えたけど、あとはずっとそのままだった。射光の目には、二人は紛れもなく人間同士の親子に見えた。
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「ところで、いるみんはどうするの?」
「はい?」
「お上りさんなんでしょ?家とかはもう決まってるの?」
射光は聞き返したのでは其処では無く、「いるみん」という勝手につけられたあだ名の事だ。しかし悠夢はそれに対する返答はしなかった。
「いえ、今日は色々あって疲れたので、その辺は明日探しに行こうかなと。」
「もう此処に住んじゃえば?」
悠夢は白いカップに入った珈琲をすすりながら云った。
「ええぇっ良いですよ悪いですよっ」
「此処なら家賃タダにしてあげるし、食堂あるから食費もタダだし、それに原宿のど真ん中にあるから毎日遊び放題だよ?」
まぁ夜はゾンビが居るから無理だけどね。と皮肉に笑いながら悠夢は云った。確かにこれ以上良い条件は無い。しかし折角家族水入らずで住める事になったのに自分みたいなまるっきり部外者が居て良い物なのか。ちらりと憂を横目に見る。憂は此方を向く事も無く何も言うことも無かった。
「じゃあ決まりだね。良かったね憂くん、弟が出来たよ。」
「別に、欲しい何て云ってねぇし。」
「そう云うなって。これから楽しくなるよ。」
悠夢の楽しそうな声だけが所長室に響く。窓の外は相変わらずの宵闇に包まれた悲劇の祭典。射光はこの地獄の地上のような街で、これから訪れる愉快な新生活を心待ちにしていた。
第四章「郷愁モノクローム」終