第二章『血色チェイン』
第二章「血色チェイン」
said:かの逆説弄する少年
1
東京都会のど真ん中の朝は、思っていたより静かな物だった。しかしそれは現在の原宿に限られた事かも知れないと、射光は硝子窓から差す太陽光を頭に浴びながら思った。あれから精々何時間眠れただろう。昨晩、余りにも日常から逸脱した体験をした所為で眠っている最中の記憶が曖昧だ。近くに時刻を確認出来るものも無い。だけど恐らく今朝の九時くらいだろう。外に人間が出始めている。漸くありのままの原宿を取り戻したところか。
ふと、射光は隣に誰も居ない事に疑問を抱いた。そういえば昨晩此処に誰か居た筈。その人物を思い出すのに時間はそう要さなかった。
「憂・・・?」
彼の名前を呟くも返答は聞こえない。もう一度確認するように呟いた。
「憂?」
その場で立ち上がり扉の外を覗く。其処には紫頭の少年の後ろ姿があった。もしかしたら置いて行かれたのかと思っていた射光は心底安心して、扉の外の彼へもう一度名前を呼びかけた。
「憂、良かった、もう体調は大丈夫なんだな」
憂は振り返り射光の顔を見た。しかし何も言わずに再びそっぽを向かれた。相変わらず無愛想な憂な態度にも、射光は何一つ不満を抱いていない様子で変わらぬ明るい笑顔を称えていた。
「別に元から体調悪くねぇし。」
「でも昨日道のど真ん中で倒れてたじゃん。」
「あれは・・・お前には関係無いだろ。」
昨日から感じていた事だが、憂は何か自分に大きな隠し事をしているように思える。しかし昨日逢ったばかりの相手だ、隠し事があって当然の事かも知れない。しかし射光の素直な性分からして隠し事をされるという事ほど悲しくて寂しい事は無い。憂の人間味の無い無機質で、だからこそ美しい横顔には眩暈がする程の影が背負われている。
「じゃあ、俺もう行くから。」
「え、何処に?」
射光の問いかけにも答えず憂は更に奥の裏路地へと足を向ける。思わず射光は離れていく憂の腕を掴んで彼の歩みを止めた。憂は鬱陶しそうに射光の手を振り払い振り返る。
「何?」
「ちょっと待ってって、昨日と約束違うじゃん」
「約束なんてしたっけか」
「明日は原宿案内して欲しいって俺云っただろ?」
「それはお前が一方的に言っただけだ。俺はそんな約束取り付けた覚えねぇ。」
そういえばそうだったかも知れない。射光はそれから何も言えずただ固く口を閉ざした。折角新しい土地の新しい友達に出会えたかも知れないのに、と射光は突如胸を突き刺すような孤独感を覚えた。挨拶も無く憂は冷たく背中を向け、射光の目の前から立ち去ろうとする。
そんな二人の静寂を突き破る幾許の人間の突出など響動めき。振り返ると、道路脇にいつの間にか大きな人集りが出来ていた。誰かの死体でも転がっていたのだろうか、射光はそんな不謹慎な憶測をたてる。しかし人々の表情を見るにそんな物騒な出来事では無い事が伺える。どちらかと云うと、もっと幸運で楽観的な事、人々は何かを心待ちにしているようなそんな無邪気な笑顔を浮かべているのだ。しかも集りを作っている人々はみな射光が初めて見る人種だった。憂を初めて見た時も、とても日本人がする格好とは思えなかった。髪の毛は日本人離れした鮮やかな色彩、そして服装も普通なら日本人には不釣り合いな中世ヨーロッパの貴族のするようなヴィクトリアン朝なドレス、もしくはスーツ。かと思えば、かなり奇抜で金属的な所謂パンキッシュなファッションの者も居る。憂は後者だ。鮮烈な紫色の髪に十字架、髑髏などのアメリカンホラー的な柄のパーカーにダメージジーンズ。原宿に居る若者のファッションは個性的な物が多いとは噂に聞いていたが、どれもこれも射光の予想を越えるものばかりだ。中には顔を真っ白に塗りつぶし目の周りを真っ黒に塗った食ったピエロの様なメイクを施している者も居る。こうされてはもう、この世の人間なのかすら解らなくなる。彼らとは真反対に、呆れるほど極普通なファッションの射光は、寧ろ普通すぎる自分の方が目立つような気がしてきた。
「ねぇ、本当に来るの?」
「本当だって、私ちゃんと調べたもん。」
「どうしよう、何か緊張してきたー」
耳を澄まさなくても聞こえてきた、ゴシックドレスの女の子達の会話。そんな姿をしていると、今晩のダンスパーティーの打ち合わせとか、欧米の活動写真の話題をお嬢様口調でしそうな雰囲気だが、彼女らの口から出てきた声は拍子抜けするほど普通だった。どうやら彼女達はそこで誰かを待っているようだった。射光には何の事だかさっぱり解らないけれど。
「だってコレ、ルージュ様のマネージャーの車でしょ?絶対此処に来るって事だよ。」
途端、目の前の憂の足が止まった。まるでリモコンでストップモーションをかけられたかの様に綺麗にぴったりと止まった。どうしたのかと思うと、体の向きを180度変え、人集りの方向へ真っ直ぐ歩き出した。先程よりも数段早い足取りで。
「憂?どうした?」
射光の問いかけに耳も傾けない。ただ真っ直ぐに誰かに引き寄せられるようにずんずんと歩いていく。
「憂ってばー」
事態を飲み込みきれない射光は意味も無く憂の背中を追いかける。
黒い人集りの目の前まで辿りついた憂は、漸く背後の射光の存在に気付き振り返ってきた。
「お前、何でまたついてきてんだよ。」
「だって憂が行き成りどっかに行くから・・・」
「だからってついてくる必要は無いだろ」
「んな事云ったってー、俺このあとどうすれば良いか解んないし、誰か一緒に居てくれないと寂しいし恐いし・・・」
面倒臭い奴を拾ってしまった。憂は心の底からそう思った。だからこれから射光が何を言おうと無視し続けようと心に誓った。
「おい、」
「射光って呼んでよ」
「お前、これから余計な事喋るんじゃ無ぇぞ」
「へ、何で?」
「ルージュ様が来るからに決まってんだろ。」
「ルージュ様?」
そう云った憂の瞳は一段と煌めいていた。「ルージュ様」と云った声は、何処までも透き通っていて、その名前の者に対する敬意と愛情が初めて聞く射光にも充分に伝わった。恐らく憂を含めるこの人々は、その「ルージュ」という人物に逢いたいが為にこの場所に集まっているんだろう。そんなに素晴らしい人物なのか、と何も知らない射光もとりあえず楽しみに待っていようと思う。
と、その時、一人の少女が耳をつんざく程の叫び声をあげた。するとどんどん隣へ感染していく。一人、また一人が興奮の頂上へと登る。やがてそれは大きな騒ぎになった。射光の視界の奥の方に二人の黒ずくめの男が見える。どちらもかなりの長身で、その内の一人は遠くから見ても目立つ炎色の髪をしていた。一目で解った、その男が「ルージュ様」と呼ばれる人物だと。二人の男は人集りの方へどんどん近づいてくる。その度に騒ぎは大きくなった。正確に言えば人集りの方では無く、人集りの向こうの車の方だろう。ふと射光は隣に居る憂の方へ視線を移した。意外にも、彼は大人しかった。大人しく声一つあげずただただ二人の男を見詰めていた。というか、余りの感動に声すらあげられないという感じだ。だらしなくぽかんと口は開いたまま、ただ目だけが涙できらきらと輝いている。本当に、見た目と性格が一致しているようで一致していない人だな。射光は横目に憂を見ながらそう思った。
やがてルージュともう一人の男は、信じられないくらい近くまでやって来た。もう腕を伸ばせば体に触れられる距離だ。しかし人々は誰も彼らの体に触れようとしない。そんなに好きなのに何故触ろうとしないんだろう。射光は少し不思議に思った。その微妙な気持ちは実際ならないと解らないんだろう。ルージュが射光のすぐ目の前を通った。彼らの車はもう直ぐ其処だ。ふと、ルージュの横顔に断片的なノルタルジアを感じた。本当に断片的で無秩序な郷愁。だけど凄く強烈な既視感。そのデジャヴは直ぐさま射光を突き動かした。これからの行動は、全て射光の意志に無い物である。
「奏!」
あれ程までの祭り騒ぎが一瞬にして静寂に閉ざされた瞬間。しかし射光は更に声を張り上げ、誰よりも大きな声で、周りの声とは明らかに異なる名前を叫び続ける。赤髪の男もその隣の男も思わず歩みを止めた。射光は何も考えず無意識に、赤髪の男の腕を掴んで体を揺らしていた。
「奏、奏なんだろ?」
奏と呼ばれた赤髪の男は直ぐさま射光の手を軽く振り払い、そして直ぐに歩み始めた。周りの人間は未だに声を出せないまま。二人の男は何も言わずに車に乗り込み、見るからに高級そうな外国車は静寂を打ち破れないまま静かに走り出した。
「・・・何してんのお前」
「・・・え、俺?」
俄に静寂を打ち破ったのは、怒気のこもった憂の囁きだった。
2
「あの子、知り合いなん?」
運転席に座り、慣れた手つきでハンドルを握っている男が云った。
「さあな、記憶に無い。」
「だったら何でお前の本名知ってるんや。」
「記憶に無いって云ってるだろ。」
助手席に座る彼は窓の外の景色を眺めたまま、更なる重い静寂を作る。窓の外を眺める瞳は強くて深い闇の色をしていながら、光より強い視線を相手に感じさせる。彼の声も同じだ。光さえも透かす透明感を持ちながら、囁きだけで相手を圧倒させるような強さも持ち合わせている。しかし第一印象だけで相手に美しいと思わせる、不思議な魅惑感。
「お前の本名、どっかで漏れてるかもしれへんな。『紅野奏』なんてそうそうある名前やないしな。」
「もしそうだとしたら、全部お前の責任だからな。」
「ちょお、何で全部俺の所為なん?」
「僕のボディーガード兼マネージャーなんだろ。僕の個人情報も丁重に守るのは当然の役割だ。」
「ついでに「兼世話係」も付け加えておいてやー。全く、何もかも俺任せな性格そろそろどうにかして欲しいわ。」
渡ろうとした信号が目の前で赤になる。車にブレーキをかけ一旦ハンドルから手を離す。空いた手で男はサングラスをかけ直した。何処までも無駄の無い動きは幽かに男の色香が漂う。
「それは無理な話だ。七瀬愛煌は僕が居ないと生きていけない人間だ。だったら僕も七瀬愛煌が居ないと生きていけない体にならないと、アンフェアだからな。」
「何やその、ツッコミ処満載な名言。」
「だったら何処からツッコミたいのか云ってみろ。」
「いや、もうどうでもええわ・・・」
愛煌が深い溜息をついたと同時に信号が青色に変わる。強くアクセルを踏んで、二人を乗せた高級車は走り出した。時刻は朝九時過ぎ。仕事へ向かう数々の車と擦れ違う。ラフォーレで行われる特別イベントの打ち合わせを終えた二人を乗せた車は、澁谷にある二人の自宅へと目指して走る。もう今日は仕事の予定が入っていない。だから今日は、多忙な二人にとって久しぶりの休日なのだ。
そんな休日の一時を壊す、携帯電話の仕事用着信メロディが車内に響く。愛煌はあからさまに嫌そうな顔をしながら電話を取る。しかもその仕事、普段の仕事とは異なる種類の仕事内容だと画面に映る人物の名前を見て予測した。
「はい、もしもし」
『やあ、久しぶりだね。今大丈夫かな?』
「今運転中や。あとでかけ直すから、」
『ああちょっと待って。直ぐ終わるからとりあえず聞いて。』
受話器から聞こえたのは陽気な男の声。受話器の向こうの声は、不機嫌な愛煌の様子を気にも止めず強引に話を進める。
『今日はもう仕事無いよね?だったらこれからうちの研究所に来て欲しいんだ。急な仕事なんだけど、どうしても君らにしか頼めない仕事なんだ。だから宜しく。じゃ。』
一方的に話しを進められ一方的に電話は切られた。断る暇も与えられずに二人の休日は再び仕事色に塗りつぶされる。愛煌はこの苛立ちの行き場が解らず、携帯電話を閉じ荒々しい手つきで鞄の中に押し込んだ。そして既に全てを感付いた様子の奏の横顔を申し訳無さそうに覗きこむ。
「悪い、急に仕事入ったわ。」
「どうせまたアイツからだろう。解っている。」
「恨むんならアイツを恨めや。俺は知らん。」
「仕方無いよ。この仕事はいつも急だから。」
奏は片方しか無い目を閉じ、妖艶に呟いた。マスカラも何もつけていない筈なのに、綺麗に整った睫は造形のよう。
「何や、珍しくえらい素直やな。」
「僕が素直で何かまずい事でも?」
「いや別に。お前もそうやってすぐに俺に突っ掛かろうとすんなや。」
「お前が僕の気に障るような事云うのが悪い。」
「ちったぁ我慢というのも覚えろっちゅーねん。反抗期の子供やあるまいし。」
言葉のドッヂボールが行いながら走る車は再び信号待ちで止まる。既に車は自宅ルートから外れており、新たな仕事先へと向かっている。仕事は嫌いでは無い。それは奏も愛煌もそうだ。寧ろ互いの希望の職につけた事はこの不景気な世の中で最も栄誉ある事。だけれど、今から行く仕事は少し例外で、二人の希望とは全く異なる仕事であり、しかしそれはどうしても必然的な事態なので逃げる事は許されない。憂鬱だ。憂鬱な気分を紛らわす為に二人はドッヂボールコミュニケーションを続ける。どんなにくだらない内容の会話でも、それは途切れる事が無い。
「反抗期の子供なのはどっちだ。主導権は常に僕にあることを忘れている訳では無いな。だとしたら下に居るのはお前だ。主人の言動に常に反抗しているのはお前だろう。」
「この際主導権がどーのこーのってのはナシにしようや。云っとくけど、お前の生活を全部握ってるのは俺やで。俺がその気になれば十年間休日無しにする事だって簡単なんやからな。」
「さあな。やれるものならやってみろ。最終的には僕の意思が優先されるだろうけどな。」
「いや、案外お前の意見って通らないで。」
「それは三流の場合だ。僕の言葉に逆らう事が出来る人類なんて存在しない。」
「此処におるけど。」
「だったらお前は人類じゃ無い。身の程知らずの屑だ。」
奏の最高レベル罵りを受けた愛煌は思わず運転の最中にも関わらず一瞬だけ隣の奏の方を向く。奏は愛煌になど一瞥も与えずただ窓の外の景色を頬杖つきながら眺めているだけ。腹が立つ程に奏の表情も変化していない。外国製ビスクドールの様に不自然な程綺麗な顔は冷酷な表情をたたえたまま微塵の変化も見せない。勝手に一人でムキになって一人で怒りを感じている気がしてきた愛煌は非常に馬鹿馬鹿しい気分になり、今から彼にぶつけてやろうと思った熱く煮えたぎった憤怒と怒声の存在すら微風と共に何処かへ流れて消えてしまった。そして再び視線を目の前に戻す。
「今日も通常営業みたいで安心したわ。」
「今更何を。僕が違う僕を演じている時なんてあったか?」
「たまにはそんな日があってもええんちゃう。そん時はもう少し俺に対する態度も優しくなっていると嬉しいんやけどな。」
「それは無いな。七瀬は僕に罵られる為に存在しているのだから。」
「ああもう、何やコイツ・・・殴てぇ・・・」
勿論愛煌の言葉はほんの冗談に過ぎない。本当に奏を殴るとしたらそれはこれからの永遠に続く地獄を覚悟しないと出来ない事。
ドッヂボールコミュニケーションも終盤を迎えた頃、車も目的地に到着した。賑やかな原宿のイメージとはかなりかけ離れた、しかし同じ原宿の街。店舗も住宅すらも近くに見あたらない裏原宿の更なる奥地。何処の街にも過疎地域というのはあるものだ。そんな毎日お祭りの街の影にひっそりと住む、唯一の日本の闇。一番手前の門には『紀伊解剖学研究所』と錆びた文字で書かれていた。
3
歓喜の集いから一変、最終的には微妙な気まずさで終わってしまった原宿表参通り。
「え、その、なんか御免・・・」
「別に謝れなんて一言も言ってネェけど。」
「え、御免・・・」
「じゃあ、俺行くから。」
「ちょ、待って、憂っ」
とりあえず訳が解らないから謝りたい気持ちでいっぱいの射光。だから今憂と一緒に居るのは物凄く気まずいし、とりあえずこの人集りからも抜け出したい。だけれどもやっぱり一人で居る方が寂しいので射光は相変わらず憂に付きまとう。
「煩ぇんだよさっきからテメェは。ついてくんなって面と向かって云わなきゃ解んねぇのか?あ?」
これは酷いヤンキー顔だ。美少年という描写を全て撤回したい程の酷く粗悪な表情。また一言でも下手な事云えば今度こそ殴られそうだ。生粋の田舎少年は純粋に憂に恐怖を感じた。射光は背中に冷や汗が流れているのを感じた。
「で、でも俺・・・本当に知り合い居なくて、何処に何があるのかも解らなくて、てかとりあえず心細くて、だからその、行動を一緒にするくらい駄目かな?」
また睨まれるかと思い射光はきつく目を閉じた。が、意外にも憂は何も言って来なかった。何も言わずただ歩き出した。これはOKサインととっても良いのだろうか。射光は静かに憂の後ろ姿についていく。
「憂、これから何処に行くの?」
「ついてくれば解る。」
これはこれ以上無い「ついてきても良いよ」サイン。射光は嬉しくなってつい隣で歩き出した。
「憂っていつも原宿のどの辺に居んの?」
「お前には関係無いだろ。」
「良いじゃん、教えるくらい。」
其処で一旦会話が途切れる。射光は先程聞きたかった事を思い出し、再び憂に問いただす。
「そういえばさ、ルージュってどんな人なの?」
すると憂は驚き目を見開いて、此方を向いてきた。
「お前、ルージュ様を知らないのか?」
「え、うん・・・」
信じられない、と言いたそうに憂は軽蔑にも似た視線を向ける。そんなに有名な人だったのか。上京したてで、テレビもまともに見た事が無い射光には何も言い返せずただバツが悪そうに黙り込む。憂は一つ大きく溜息を吐くと、歩きながら思いの外丁寧に説明してくれた。彼が何処に向かっているか何て解らないけれど射光は相槌を打ちながらただひたすら彼の斜め後ろを歩き続ける。
ルージュと云うのは、今日本で大人気な歌手の一人。彼の一番の魅力はその歪み無い歌唱力。音域が兎に角広い。甘い低音は勿論の事、女性でも中々出ないような高音も余裕を持って出せるのだから驚き。聞く者の心を鷲掴みにさせるのが彼の歌声。余り最近の歌手に詳しく無い年配の人でも、大体は「ルージュという歌手は歌が上手い」と評価する。それほど彼の歌声は例外無く視聴者を感動させるのだ。ルージュの曲はジャンルがやや幅広い。しかし大体どのバンドや歌手も、ヒットする前は自分の個性を活かした曲が多いが、ヒットしてメディアに出始め沢山の人に聞いて貰うようになると何故だか大衆向けの曲が多くなる傾向にある。ルージュはその真反対だ。昔はポップからバラード、ジャズやロックなど幅広く歌ってきた。歌詞の内容も大衆向け的な、所謂パンピ受けも良さそうな陳腐なラブソングが多かった。しかしルージュ本人も、色んな曲を歌ってきて自分に合う曲合わない曲が解ってきたのだろう。昔は色んな作曲家に作曲を依頼していたが、最近ではずっと「与愚」という作曲家とずっとコンビで曲作りをしている。具体的には去年辺りからルージュの方向性が確定してきたらしい。誰からも好かれるただ純粋で綺麗なだけのラブソングとは縁を断ち切り、ダークでグロテスクなロック、妖艶で官能的なバラード、背徳的なゴシックメタル、良い意味でも悪い意味でも好き嫌いのはっきり分かれる曲がルージュのCDコーナーを占めるようになった。解りやすく云うなら、ルージュの曲はドラマ・映画の主題歌からゲーム・アニメの主題歌の方が多くなった。
彼の方向性の変化は、彼のファッションからも目に見えて解る。前からあまり率先して音楽番組に出る歌手では無かったが、それでもライブ衣装など見ればその違いは一目瞭然だ。出始めの頃からクールな雰囲気のモノクロ衣装が多かったが、段々モノクロームからゴシック色が強くなってきて、今となっては正に『ゴシック』という言葉の生き写しの様。しかし不思議と其処には現代の野蛮で不気味なゴシックのイメージは少なく、どちらかと云えば現来の儚く美しく、しかし何処となく残酷な悲しさもある奥ゆかしい雰囲気の強いゴシック衣装が多い。(それでも稀に吃驚する程過激な衣装もある)ルージュデビュー当時からゴシックファッション系列のブランド「Key-dream」が彼を専属モデルとして扱い、彼の全ての衣装はこのブランドが手がけているらしい。
ルージュのトレードマークと云えば先ず名前の「ルージュ」を象徴する紅蓮色の髪の毛。そして美しき欠落感を感じさせるアシメヘアー。そして眼帯に覆われた左目。普段は医療用眼帯をつけているが、衣装によって海賊風眼帯だったり、前髪で隠されたりもしている。だけど医療用眼帯が一番痛々しくて色っぽくて人気だとか。大体の人は「片目キャラを装っているだけ」と思っているらしいが、「実は片目失明している説」とか「片目はメドューサの瞳説」とか「眼帯を取ると女体化する説」とか「彼の左目を見た者は永遠に彼の下僕として生きていかなければならない説」とか、色々出回っているらしい。
この少々急過ぎる方向性の変化に関して賛否両論あるが、ルージュ本人は「僕は僕のやりたいようにやっているだけだ。それについてとやかく云われる筋合いは無い。それに、最近になって漸く僕の本当にやりたかった事を出来ているというのが今の実感だ。」とコメントしている。このゴシック歌手としてのルージュの方が本来のルージュという事がこのコメントから伺い知れる。
最近の芸能人は大体ブログなりツイッターなりをやっているが、ルージュは全くそれらの類を行っていないし、これから行う予定も無いらしい。(それの所為でかなりの機械音痴という噂も流れている)なので彼の生活や素顔は謎に包まれている。しかしどのインタビュー記事でも、トークショーやその他諸々でも彼の性格ははっきり理解出来る。一言で言えば「帝王」。何処までも気高く冷酷で孤高。自分第一。結構問題発言や非常識なコメントが多く、反感を買う事も多いが、寧ろその方がルージュらしいという印象もあり、「其処が良い」というファンの意見が殆どだ。先程も見て解った通り、ファンの女の子はゴシック・ゴスロリ愛好家が多い。勿論男のファンも多い。憂もその一人だ。ファンの子は全員ルージュを「ルージュ様」と呼び何処までも慕い崇拝する。ファン層は年々広がり、最近ではルージュがきっかけでゴシックやデカダンスの世界に嵌る人も多い。今日本に密かにゴシックブームが訪れているのも、殆どはルージュの影響だろう。
因みに、ルージュのマネージャーも、かなりイケメンだと専らの評判だとか。
「解った?」
「ああうん、大体解った。熱過ぎる解説有難う。」
憂の深過ぎて詳し過ぎて、そして密かに熱過ぎるルージュ語りを延々と聞かされながら随分な距離を歩いて来た。しかし、もうかれこれ何十分かは歩いている。そろそろ原宿を抜け出してしまうんじゃ無いかと射光は思い始めた。というか、此処は本当に原宿なのだろうか。先程からずっと華やかな店舗からかけ離れた路地裏の住宅街を歩いている。あの原宿にもこんな静かな場所があったのかと、少し驚きだ。
「・・・そろそろ到着すると思うんだけど」
「何処に?」
「俺の実家。」
「えっ?」
まさか自宅に向かっているとは思わず、射光は間抜けな声をあげてしまった。
「憂、原宿に住んでんの?」
「まあね。」
「へー、で、憂の家って何処?」
「あった。此処。」
射光と憂の目の前に聳え立つのは、あからさまに陰気な雰囲気しかしない薄汚れた白壁の病院に似た建築物。一番手前の門には『紀伊解剖学研究所』と書かれている。解剖学研究所だ何て、聞いただけで訝しげな表情をしたくなるほど怪しい。まさか、此処が憂の実家だなんて思いたく無い。思いたく無いのに、憂は錆びた門に手をかけた。重々しい不協和音をたてながら門は開いた。
4
門の向こうには薄汚れた白の研究所。中に人間が居るのか不安になったが、窓を覗くと其処には忙しそうに動く白衣の人が見えた。胸をなで下ろす。こんなに古びて見える研究所だけど、入り口は現代的な自動扉だ。自動扉を初めて見た射光は大層興奮したが、憂はそんな彼に冷たい視線を向ける事も無く、研究所の奥へ奥へと進んだ。
「こんな所に、何の用があんの?」
射光の問いかけに憂は答えない。それどころか除除に射光との距離を広げながら歩いた。射光を避けている訳では無く、まるで背中を強く押されているみたいにその歩みは速度を増していく。何を急いでいるのか、何の宿命を背負って歩いているのか完全部外者な射光に解るはずも無い。憂は数々の研究員とすれ違いながら一階の最奥の部屋まで訪れた。其処にはいくつかのエレベーターがあった。三つある内、二つの扉には青い文字で大きく「研究員専用」と、一つの扉には赤い文字で大きく「来客専用」とゴシック体で書かれていた。来客専用のエレベーターは暫く使われていないのか、真新しいまま。対象的に研究員専用のエレベーターは一日に何回も使われる所為か、所々の装飾が剥がれていた。背後から二人の研究員らいき白衣の男が研究員専用エレベーターに乗る。エレベーターは上階へ登る。普通に考えて、射光と憂は来客専用エレベーターに乗るべきなのだろう。射光は勝手に押して良いのか解らないけれど、来客専用エレベーターのボタンを押す。扉は直ぐに開いた。中も真新しいまま、自分たちが初めて乗るのでは無いかと思うほど綺麗だった。射光は直ぐに足を踏み入れたけれど、憂は何かを躊躇っているようにエレベーターの中へ足を踏み出せないまま。
「憂?」
相変わらず憂は射光の声には何も答えない。しかし射光に名前を呼ばれ我に返ったのか、射光の隣へ足を踏み入れた。扉は閉まる。思えば射光はエレベーターに乗るのも人生初体験だった。重苦しい雰囲気とは裏腹に気分を浮き浮きさせながらボタンを押そうと腕を伸ばす。しかし、その腕の行き場所が何処なのか解らない事に気づく。エレベーターの何処を見渡しても乗者が押すべきボタンが何処にも無い。来客用のエレベーターとはこういう物なのかと射光は単純に理解したが、憂は訝しげな表情を浮かべる。ボタンを何も押さないまま、エレベーターは落下していく。下へ下へ、それはそれは長い時間。地下の世界へと導かれる少女の様に。ふわふわとした不思議な浮遊感と共に未知の恐怖と不安が胸中を支配する。
何処まで落下したか解らない頃にエレベーターは止まり扉が開いた。無知な射光が地下百階まで行ってしまったのでは無いかと錯覚する程長い時間深い地下の世界まで訪れた。きっと自分達は、死を迎えた人よりも深い地下に居るのだろう。扉が開いた向こうには風音すらしない静かな部屋があった。部屋というより空間。光と闇の合間の灰色の世界だけ。壁も天井も床も気味の悪い灰色だった。射光は思う、まさか本当に自分達は死後の向こうの世界に来てしまったのでは無いかと。ひとまず二人はエレベーターを降りる。すると扉が閉まり、エレベーターだけが地上へ戻る。大体学校の教室程の広さの空間。しかし電気は途中までついて居ないのだろう。十メートル程先が暗くてよく見えない。
「やあ、よく来たね。」
暗闇の中からの声が部屋中に轟いた。思わず躯を強張らせる。それは柔らかい感じの男性の声だった。射光はふと憂の横顔を見詰める。思わず息を飲んだ。普段でも恐いイメージの顔立ちの憂だが、その強面を更に憎悪と云う穢れた感情で塗りたくっていた。彼の今の形相は、正に憎悪の欲望の化身。暗闇の中の声の主が、憂にとってどんな存在なのだろう。射光は興味本位だけで暗闇の中に目を凝らした。しかし声の主は自分から光の方向へ歩んでくれた。
「村崎憂くん、それからええっと、そっちの子は誰かな?」
現れたのは白いシャツ、白いズボンの上に白衣を纏った白装飾の男。声に見合った穏やかそうな顔立ち。そしてその顔には柔らかい印象の笑顔。とても人の恨みなど買いそうに無い雰囲気の男なのだが、憂はその男を見るなり更なる熱い憎悪を燃やす。
「やだなぁそんな恐い顔しないでよ。何も喧嘩する為に呼んだ訳じゃ無いんだよ?」
「そっちが何の目的で俺を呼んだか何て知ったこっちゃ無ぇ。俺は他でも無い、お前を殺す目的で此処に来たんだ。」
突然の憂の殺人宣言にその場の空気が凍り付いた。その地獄の底の亡者の様な殺戮に満ちた声は射光の心臓と一瞬止まらせる程だった。柔らかい笑みを浮かべていた男の顔からも笑顔が消えた。しかしそれは一瞬だけの出来事。射光の心臓は再び動き出し、男もやがて新しい笑顔を浮かべた。
「それは何でかな?君の母親を殺した所為?それとも君の異形の存在にした所為?」
「そんなの、解ってる癖に。どっちもに決まってる。それに、」
憂は一瞬声を詰まらせた。それまで何の迷いも無い憎悪の筈だったのに。しかし直ぐに殺意の言葉を紡ぐ。
「原宿をこんな地獄絵図に仕立てあげたのも、全部お前の仕業なんだろ?」
今まで何の話かさっぱり読めなかった射光だったが、この言葉には純粋に驚きを示した。男は突然真剣な表情になって憂の言葉を遮った。
「おやおや、何処でそんなデマ話を聞いたのかな?悪いけどそれはとんだ濡れ衣さ。そんな理由で此処に来たんだったら帰った方が良い。」
「何馬鹿げた事云ってんだ。」
灰色の世界に飛び交う極彩の思惑。音声は二人の声だけ。しかしそう思っているのは射光だけだった様だ。
「どうせ、帰すつもりなんて無い癖に。」
憂のその言葉と同時に、全く違う二つの足音が暗闇から光へと近づく。片方は革靴、片方はヒールの高いブーツ。その足下はどちらも美しい黒。
「あ・・・っ」
射光は声を抑えるのを忘れていた。しかし抑える事は出来なかった。白衣の男の背後に居たのは、数時間前に出会った二人の人物。紅蓮髪のゴシック人形とそのお付き。
「何?コイツがゾンビ襲来事件の黒幕?そら吃驚やわー」
「警察にバレる前に自首しといたら?」
「ちょっと待って、濡れ衣だって云ってんじゃん。本気にしないでよ。」
第二章「血色チェイン」 終






