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第十三章『錯綜ミステリアス』

第十三章『錯綜ミステリアス』

said:かのサディスト指揮官


 与愚はルージュの楽曲提供、ゲーム、アニメのBGM作成等を中心に活動している作曲家。彼の本名を知る者は極僅かで、彼の昔の友人や同級生が与愚が嘗ての自身の友人だと気づかない者も少なくない。何故なら彼は此処数年で余りにも激しい変貌を遂げているからだ。容姿も、性格も、趣味や価値観さえも。

 与愚が何よりも好むのは不協和音。聞く者に戦慄を誘い狂気や殺戮を煽る程の、人間の精神に異常を来す程の不協和音は三度の飯より好きだ。『暗い日曜日』然り『トミノの地獄』然り、不協和音を重ねれば重ねる程更なる重苦しいくも心地よい不協和音は産まれる。不協和音の数ほど人間の憂鬱は誘われる。時には死さえも誘う。しかし与愚はそれが心地よいと思う。繋がる不協和音の美しさも、悲哀に染められた人間の泪の美しさも、全く同じだ。

 だから彼は探し続ける。美しい不協和音を、そして違う不協和音に繋げる。それを結びつける役目は与愚しか居ない。


「よお彼女、一人?」

 深夜のヴァンパイア・バーの前に少女が一人立っていた。ヴァンパイア・バーは未成年の入店は全面的に禁止している。その少女は見るからに未成年だった。入りたくても入れて貰えなかったのか。呆然と店の前に立ちつくす少女の後ろ姿に与愚は軽い調子で声をかけた。

「御免なさい。待ち合わせしている人が居るので。」

 ナンパを断るのによく使う言い訳だ。少女は小柄で華奢な体格から想像出来ない程気の強く、はっきりとした口調で云った。

「待っているって、誰を?」

 与愚は少女の隣に立ち、顔をのぞき込む。少女は明らかに迷惑そうにしながら鞄から携帯電話を取りだして開いては時間を見た。可愛らしい顔立ちだと判断すると与愚は益々しつこく詰め寄る。

「貴方には関係ありませんわ。」

「お、お嬢様口調じゃん。まぁ待っている間くらい俺とお喋りして時間潰そうぜ。」

「わたくし初対面の男性と二人きりでお話する趣味なんて・・・あら?」

 少女は与愚の顔を見るなり驚いたように目を見開いた。与愚は得意げに嗤う。

「与・・・愚・・・様?」

「ぴんぽーっん。」

「与愚様、何で此処に?」

 やっぱり、と与愚は確信したように微笑んだ。ヴァンパイア・バーに居るロリィタファッションの少女なんて九割九分九里ルージュのファンである。ルージュのファンであるなら、彼の担当作曲家の顔だって解る筈だ。この少女も、同じクチだったようだ。

「何で此処に居るかって?君が一体誰を待っているか教えてくれたら教えてあげても良いよ。」

「な、何でわたくしが誰を待っているのかそんなに知りたがるのですの?」

「単刀直入に云えば、君に興味があるのさ。あとは、君に彼氏が居るのか否かって事もな。」

「やっぱりナンパですわね。貴方、相当色んなお方に手を出しているみたいだけれど、一般人にまで手を出すおつもりですの?」

 与愚は少女の白くて細い顎に人差し指を当てる。すると少女は達者だった口を思わず閉じる。辺りに深夜の静けさが舞い戻り、空間の支配者は与愚になる。

「俺、君が待っている人当てちゃっても良いか?ルージュ様なんだろ?」

「えっ・・・」

 少女は彼に心を読まれたのかと錯覚した。しかし勿論彼の予測に過ぎない。

「やっぱりな。酒も飲めないし興味も無い君がこんなバーに来る理由なんてそれしか無いだろ?ルージュがよく通うバーでルージュを待ち伏せしてるって訳だ。随分ストーカー気質なファンだぜ。」

「す、ストーカーですって?」

「気にすんなよ。君みたいなファンは結構居るからさ。まぁストーカーすんのは程々にしとけよ。精々ご両親に心配されない程度にストーカーしろよ。」

 何処までも人を馬鹿にしたような言い草の与愚に限りない怒りを感じた少女は、小さな肩を震わせ、平手打ちをしようと大きく掌を開いて振りかざしたが、呆気なく手首を掴まれ止められた。

「それにしても、かなーり執念深いストーカーだな。どうせルージュがデビューしたての時からよく待ち伏せとかしてんだろ?一途っつーかなんつーか、その一途さをもっと別の使い道出来ないのか?まぁ、こんなに熱狂的なファンが居るならルージュも本望なんじゃねぇの?」

「貴方に何が解るって云うのよ!」

「いーや解るよ。君みたいな子は沢山見てきたからな。君みたいに、眩暈がしそうな程の怨念、憎悪、悔恨を抱え込みながら必死に生きている人間はな、山ほど居るんだぜ。」

 途端に与愚は掴んだ手首を一気に引き寄せ、もう片方の腕を少女の腰に回す。すると少女を抱き寄せるような体勢になった。少女は驚きやときめきを感じる事も無く、ただ呆然と与愚の瞳の朱に魅入られていた。禁忌だと解っていながらも、引き寄せられずにはいられなかった。そんな思考はとうに腐り落ちていた。

「君は、誰かを殺したい程憎んだ事はある?」

「・・・・ええ。」

「それはもしかして今、現在進行形だったりする?」

「・・・・・・・・ええ。」

 少女は少し沈黙した。しかしすぐに口を開いた。誰かに頼まれたわけでも促されたわけでも無いのに、少女は自らの胸中を全て言葉にした。自覚のある行動では無いのは確かなのだけれど、其処には果てのない憎悪が籠もっていた。

「ルージュ様に近付く人間全てが憎いわ。ルージュ様を誰よりも愛し、想っているのはわたくしなのに、どうしてあんなにも下餞な人間がまとわりついてくるの。あんな奴らがルージュ様に触れて良い権利なんて無い。ルージュ様に触れて良いのは世界で一番ルージュ様を愛しているわたくしだけ。あのペンダントだって、何でわたくしの所に来ないの?何でルージュ様に何も関係の無い女の所に行ってしまったの?ルージュ様を誰よりも理解しているのはわたくしなのに。どうして、どうしてなの?憎い、憎いわ・・・何も知らないのにルージュ様の愛を授かったアイツの罪は重い、そうでしょ?ねぇ・・・!」

 与愚に恍惚の戦慄が襲ってきた。此処一番の最高に美しい不協和音だ。どうしようもなく不安定な強弱、読めない音程、時折震え出す音。こんなに美しい不協和音から奏でられる悲劇中歌は、きっと何者にも代え難い快楽を生み出してくれるはず。月さえ出てこない夜に、よく似合った蒼白のドレスに男の影が覆う。

「そいつの事、殺したい?」

「ええ、最も残酷な方法で呪い殺してあげたいわ・・・」

「それなら、」

 与愚はぐいっ、と少女と自分の顔を近づける。唇が重なってしまいそうな程の近さで彼は少女を悲劇の祭典の舞台へ誘う。白いドレスは影に覆い尽くされ街灯からも遮られ黒になっていく。

「すっごく良い提案があるんだけど、紹介してやろうか?」



「あら・・・?」

 亜夢宇は突如、胸の辺りに違和感を覚えた。熱いようなくすぐったいような、何か異物が胸の表面から入り込むような感覚。すると次は躯中の力が抜け落ちていく。へろへろと情けなくその場に座り込む。

「どうした、あむぅたん。」

「何だか急に・・・力が・・・ぬけて・・・」

 その場で座り込んだかと思うと、そのまま地面に倒れ伏してしまった。思わず常零は力なく倒れていく亜夢宇の肩を掴む。

「お、おい、大丈夫か?あむぅたんっ」

「もう・・・だめぽ・・・ねむい・・・」

「あむぅたん、嘘だろ?あむぅたん!いくら服のコーデ決め、髪、メイクに毎朝三時間かけるからって、今更寝不足で倒れるなんて・・・」

 亜夢宇の躯を抱き寄せた時、常零は気づいた。亜夢宇が今朝、首からさげた例の呪いのペンダントが激しく赤光を発していた。こんなオプションついていた何て聞いていないし、今いきなり光り出すのもおかしい。今彼女が倒れてしまったのもまさかこのペンダントが原因なのだろうか。ならば早急にペンダントを外させなければ。常零は慌ててペンダントの十字架の部分を握る。しかし十字架に指を絡めた瞬間思わず手を離した。焼け石のように熱い。こんなに熱いなら首からさげている亜夢宇だって熱がる筈なのに、何故かペンダントが当たっている部分の彼女の衣服には何も異変が無い。持ち主以外が触れると焼け石のように熱くなる。これが呪いの正体なのだろうか。

 激しい光が突然落ち着きを取り戻し、燃え尽きた火のように消えてしまった。光が消えたのを確認し恐る恐るペンダントに手を伸ばす。あと数センチでペンダントに届くという所で、亜夢宇が起き上がった。それも余りにも突然。電源が入れられた絡繰り人形のように。

「あ、あむぅたん、体大丈夫か?」

 しかし応答が無い。顔をのぞき込むと、彼女は起き上がった尚も瞼を閉じたままであった。常零が顔の前で掌をひらひらと動かすと、これもまた突然瞼を開けた。良かったと胸を撫で下ろす常零の安心を裏切るように亜夢宇は理解不能な言葉を呟きながらすくっと立ち上がる。

「主ノ元ニ帰ラナクチャ・・・」

「へ?」

「主ガ呼ンデイルカラ帰ラナクチャ・・・」

「・・・あむぅたん・・・?」

 亜夢宇はまるで常零の事など目に入っていないかのようにするりと彼の傍らをすり抜け、前方遠くで無機質な歩みをする誘拐事件の被害者少女二人と同じ方向へ歩き出す。歩きながら彼女は首からさげているペンダントを床に放り捨てた。何が起きているのかさっぱり解らなかった。しかしぼんやりしている暇は無い事だけは解った。常零は素早く立ち上がり亜夢宇を追いかける。歩いている彼女、走る常零、常零が追いつくのは早かった。追いつくと直ぐに亜夢宇の腕を掴む。

「あむぅたん、待てって、」

 瞬間、亜夢宇の持っていた日傘の先端が常零の眉間に向けられる。常零は反射的にしゃがみ込んだ。常零がしゃがみ込んだと同時に誰も居ない夕方の原宿に発砲音が響く。発砲音は亜夢宇の日傘の先端から。それは日傘と云う名前の一つの大型銃器。亜夢宇が何よりも大切にしているKey-dreamの限定プレミアム日傘。それが彼女の武器。

「ワタシ達ノ邪魔ヲスル者ハタダチニ排除ヲスル。」

 異様な声色で亜夢宇は目線の下に居る常零に云う。すると亜夢宇の背後に居た少女達も常零の方へ歩み寄ってきた。結構遠くに居た筈なのにこの短時間で既に彼女達は常零の直ぐ傍に居た。全く同じ色の無機質な瞳の少女達に囲まれる。流石の常零も尋常で無い恐怖感を覚えた。

「排除」

「排除」

「邪魔者ハ排除ヲスル。」

 少女二人はサバイバルナイフを常零に向け、亜夢宇は引き金の音を鳴らし再び日傘の先端を常零に向ける。もうこれまでか、と常零は全てを諦め固く瞼を閉じる。瞼が閉ざされた永遠の暗闇の世界で、直ぐ近くで硝子が激しく割れた音がする。次に気体が燃えながら爆破した音。常零が瞼を開けると其処には自分の目の前で小さく燃える火と、危険を察知し一気に遠のいた少女三人。

「目が覚めたか、半人前。」

「・・・篠っ・・・」

 背後から待ち望んでいた仲間の声。聞き慣れた篠の呆れ返った声に喜びを隠せない。彼が放ったのは簡易的な水素爆弾。特別保安警察の担当する事件は大抵普通の人間では対処出来ない危険な事件が多い。ゾンビに関する事件、ホロノイドに関する事件がその代表だ。だから彼らは人外の生物と対抗すべく戦う術を心得る。亜夢宇は改造日傘、篠は己の薬物に関する無限に知識をフル活用した化学的兵器。

「篠ぉ、やっぱりお前の爆弾は最強だぜっ」

「云っている場合か。・・・それにしても・・・」

 篠は辺りを見渡し、この場の異様な雰囲気を悟る。

「あれが呪いの効果という事か?」

「多分・・・。ペンダントを身に付けた人間は一日で何者かに洗脳されるって事かな。」

「何者かって誰だ?」

「やっぱり呪いをかけた本人?」

 常零の言葉を聞いて篠は脳裏に一人の人物を思い描く。やはり其処には奏しか出て来なかった。確実な証拠は無いにしても、それほどの事をやり遂げる者は篠の知っている中で彼しか居ないのだ。一刻も早く奏を捕まえ話を聞きたいところだが、先ずは目の前に居る呪術師の使い魔を倒さない事には前に進めない。

「常零、遠慮はいらない。彼女らも目を覚まさせろ。」

「云われなくても、解ってるぜ。」

 篠の凛々しい声が静かに轟く。常零は肩に提げていた鞄から何かを丁重に取り出す。それはたった今生きた人間から切り取られたように綺麗な人間の腕。よほど切れ味の良い刃物で切られたのか、肘の断面には鮮やかな朱の肉と血と白い骨まではっきりと見える。かなり頑丈な筋肉と骨、見るからに男の腕だという事は解る。男の腕は鞄から取り出されたと同時に銀色の鋼鉄へと変化した。それは技巧な鋼鉄の芸術品のよう。常零はいかにも重そうな鋼鉄で出来た腕をしっかりと右手だけで握り、それを少女達に向かって振りかざす。

 常零の武器、それはかつての自分の父親の腕。幼い自分の躯を抱き上げ、頭を撫で、泪を拭いてくれた大好きな優しかった父親の右腕。彼は今それを、不変な自身の正義として、戦場で唯一光照り返し輝く武器として躊躇いなく振るう。

 譬え敵とは云えまだ若い少女達だ。鋼鉄のバッドで頭を叩くわけにもいかないし、下手に体を傷つけたくも無い。だから彼はあくまで慎重に少女の鳩尾辺りに鋼鉄のバッドを埋め込んだ。一人目の少女、二人目の少女と順調に気絶させていく。苦しそうな声をあげる事も無く、倒れていく時まで無機質だった。篠は後方から常零の援護をする。常零に攻撃をしかけようとする少女に目くらましの薬品爆弾を投げ込む。少女が目をくらまし行動出来ない時に常零が攻撃をする。使い魔少女二人はそんなに苦労はしなかった、が、問題は亜夢宇だ。彼女は彼らの仲間でもあり、ああ見えて三人の中では最も戦闘力に長けていた。彼女の使う改造日傘の強さでもある。今までずっと共に戦ってきた彼らですらあの日傘の技の全てを把握出来ていない。つまり、常零と篠ですらあの彼女がどんな技を出してくるか解らないのだ。

 亜夢宇は相変わらず無口なまま彼らの目の前に立つ。すると日傘の先端を篠に向ける。日傘の先端が突如剣のように変化した。思わず篠と常零はたじろいだ。こんな変化は初めて見たからだ。

「あいつ・・・どんだけ改造してんだっ・・・」

「篠っ、危ないっ」

 高いハイヒールの靴を履いた亜夢宇は地面を叩きながら篠へ向かって走り出す。篠は透かさず鞄から薬品の入った小瓶を亜夢宇の足下へ投げる。勢いよく地面に叩き付けられた小瓶は割れて、薬品がこぼれ出す。それは亜夢宇の足下で一瞬にして凍り付いた。亜夢宇はその瞬間走る足を強制的に止められその場で転んだ。常零は鋼鉄のバッドを地面に倒れ伏した亜夢宇に振りかざす。亜夢宇は転んだけれど剣に変化した日傘は握ったままだった。剣の日傘はバッドを振りかざした常零の脇腹めがけて振るわれる。

「っわ?!」

 間抜けな声を出しながらもぎりぎりの所で常零は避ける。慌てて避けた為その場で尻餅をついた。その瞬間隙だらけになった常零にもう一回亜夢宇の日傘が振るわれた。やっぱり亜夢宇には敵わなかった、常零はそんな事を思いながら立ち上がれず、生きていられる僅かな時間を感じていた。しかし、あと数センチで常零の首という所で剣の日傘の軌道は止まった。

「・・・あれ・・・あむぅは一体何を・・・?」

「・・・あむぅたん?」

「亜夢宇・・・」

 亜夢宇は常零の首に斬りかかろうとしながら目を覚ましたようだ。首を傾げながら彼女は日傘を自分の元へ引き寄せ元々の日傘の姿に戻した。

「亜夢宇、お前まさかさっきまでの記憶が無いのか?」

「・・・うーん、何かいきなり凄く眠くなった所から覚えていない。でもどうやらあむぅは皆に凄い迷惑をかけてしまったみたいね。」

 亜夢宇は辺りを見渡しながら切なげに呟いた。どうやら先程の少女二人も意識を取り戻したみたいで、痛そうに脇腹を抑えながら今自分が居る場所と状況を確認するなに驚きの声をあげていた。ペンダントの呪いはとけた、かのように思える。

「良いって良いって。あむぅたんも無事だし、被害者の二人も見つかったんだからこれ以上の事は無ぇよ。なぁ篠?」

「・・・それもそうだが、まだ呪いをかけた犯人が見つかっていないだろう。」

「でもそれはまだ解んないじゃんよー。」

「容疑者は一人居る。」

 ふと、亜夢宇は自身の頭上に雨粒が一つ落ちてきたのを感じた。空を見上げると雲の鉛色が更に暗澹に近付いていた。透かさず彼女は傘を開いた。その瞬間を見計らったように余りにも突然に激しい雨が大地に次々と落とされる。

「容疑者ってまさか、」

「直ぐに警察署に向かおう。まだそんなに遠くに行っていない筈だ。それに、彼女達もひとまず警察署に行かせないと。」

 不純色な雨が下界へと下界へと墜ちていく。常零と篠は傘も差さずに更なる街の闇へと踏み入れる。亜夢宇は純粋な黒の傘で自身を護りながら、被害者である少女達も傘の中に入れる。何とも生ぬるくて不快な、夏らしい雨。冷えた空気は心地よいと思うより、これからの不気味な残酷劇の予兆を感じさせた。



「奏様、奏様、どうしてそんな暗いお顔をしていらっしゃるの?もっと楽しみましょう。貴方の大好きな夜はまだまだこれからですわよ。ああもしかして、この暑苦しい気候が不快なのですか?大丈夫ですわ、これから雨が降ってくるのできっと涼しくなられますわ。」

 絶える事なく麗奈は喋り続けた。奏は一度も返答はしていないし、反応もしないのにいつまでも麗奈は喋り続ける。彼女はずっと奏の腕を引いたまま、何処に向かって歩いているのかも知らせずに歩き続けた。何て不格好な社交ダンス。

「奏様はもしかして邪魔が入るか心配なのですか?御安心を、嵐が近付いているので街にはもう誰も居ませんし、それに、邪魔者なら全てわたくしの使い魔が排除しておりますわ。」

「・・・使い魔?」

 初めて奏は麗奈の言葉に反応をした。

「そう使い魔。まだ覚えたてですがわたくし、貴方と楽しい時間を過ごす為に頑張ったのですよ。初めての呪術を。」

 奏はぴたりと足を止めた。するとそれに合わせて麗奈も足を止める。

「呪術・・・そうか、ペンダントに呪いをかけたのはお前だったのか。」

「ふふふ・・・案外お察しが遅いですわね。そう、奏様と結ばれる為の最後の努力。それはわたくしと奏様の邪魔をする全ての人間を排除する事。最難関かと思われましたが案外簡単でしたわ。あらゆる呪術を駆使して奏様とわたくしの世界に誰も足を踏み入れられないようにしましたの。でもわたくしはまだ未熟者、まだあの御方のように世界中全ての呪術を使いこなすまでにはいかなかったけれど、もう十分ですの。」

 麗奈の瞳が突如鮮血色に染まる。彼女の瞳を目を合わせた奏の躯は一瞬にして凍り付いたかのように固まった。動くのは呼吸器官と鼓動だけ。視線すら彼女の瞳から離せなくなった。

「怖がる事はありませんわ。これは簡易的な金縛りですの。何かに役立つだろうってわたくしの御師匠様が教えてくれましたの。」

 御師匠様って誰だ。そうやって問い詰めたいのに、口すら動かなくなっていた。麗奈は怯えの表情すら作れない、もう動かない奏を愛惜しそうに見詰める。そしてそっと髪に唇を落とした。

 先程からおかしいと思っていたが、もう自分の躯を疑わずにはいられない。どうしてバトルフォームに変化出来ないのか。彼女の殺意が自分に向けられていないからなのか。しかし今は感じる、彼女の殺意を、自分の命の危険を。その証拠に先程から視界の端でちらついている彼女の片手に握られているサバイバルナイフ。あれは何の為にあるのか、こんな状況以外で何処で使うのか。

「大丈夫ですわ、わたくし貴方の事愛していますの。貴方の顔も、躯も、声も。だから成る可く貴方を傷つけずに、貴方の事をわたくしだけの人形に仕立てあげますの。だけどその為には確実に貴方の命を奪わなければなりませんわ。でも、貴方が悪いですのよ。貴方が、わたくしの近くで産まれてこなかったから。」

 奏の心臓部に突きつけられた雲の鉛色を照り返すナイフ。彼女の瞳の朱から類い希無い殺意を感じる。なのに何故、未だに自分の躯は核兵器に変化しない。まさか、彼女の殺意に、彼女の奏に対する愛情が勝っているというのか。それ故に自分の躯が彼女の殺意を読み取れず核兵器に変化出来ないのか。だとしたら麗奈は今までで一番厄介な敵だ。人間に対する殺意だけで生きているゾンビの集団の方が数段もマシだ。奏は初めて味わう恐怖に躯を震わせる事も出来ない。麗奈は奏の心臓部にナイフを埋め込もうと力を入れた。

 その瞬間、ナイフが突然麗奈の手から離れていった。というより、飛んでいった。まるで誰かが遠くからナイフを念力で飛ばしたみたいに。突然の事態に麗奈も奏も動揺を隠せない。麗奈の意識が奏からナイフの行方に移ったお陰で奏の躯を縛る金縛りが解かれ、漸く胸の底から息が出来た。

「ルシファー様のお人形ねぇ、そりゃ是非とも見てみたいところやけど――」

 革靴の足音が麗奈と奏に近付いてくる。革靴の足音と共に聞こえてきたのは低くも軽い調子の男の声。

「残念ながらそいつの躯は非売品やねん。他を当たってくれへんかな、ヤンデレの嬢ちゃん。」

 其処には黒いスーツに黒いサングラス、黒髪の男が立っていた。黒い拳銃を片手に。

「来るのが遅い。」

 奏は最大のピンチ時にやってきた番犬を褒めもせず、近寄らせる事もせず、ただ一言の挨拶を交わす。愛煌の後を追ってやってきたのは悠夢。悠夢は地面に座り込んだ奏の元へ愛煌よりも先に走り寄った。

「奏くん、大丈夫だった?」

 珍しく焦燥に染まった声で奏へ呼びかける。柄にもなく少しぐったりと躯を脱力させた奏はさぞかし体調悪そうに見えたのだろう。悠夢は奏の肩に手を置いて少し躯を揺らした。大丈夫だよ、と奏は軽く悠夢に応答する。

 麗奈は遠くへ飛ばされたナイフを拾いに行く。ナイフの刃に穴が開いていた。それは銃弾のような大きさの穴。愛煌がナイフの刃に目掛けて発砲したというのか。それで麗奈の手からナイフを弾き飛ばしたのだろう。麗奈はナイフを拾い奏の方へ目をやる。其処には奏の肩を掴む、見知らぬ男の姿。麗奈の逆鱗に触れるには十分な事象。

「・・・奏様・・・奏様、にっ・・・」

 泣いているみたいに小さく震えた声。しかしそんな声ですらいつも以上に静かな原宿の裏路地には十分過ぎる程響いた。

「奏様に触れないでぇぇぇ――――っ!」

 それは彼女の偏愛の象徴の叫び。不協和音だけで出来た戯曲のクライマックス。一人の少女の心の絶叫は手に取ったナイフの切っ先にまで浸透して、空間中全ての生物に災厄を誘う。麗奈のナイフは悠夢に向けられた、筈だった。麗奈ですら刺すまで気づかなかった。ナイフに刺さったのは奏の左肩。奏は瞬間的に悠夢を庇ったのだ。

「奏くんっ・・・」

「・・・奏!」

 痛みに歯を食いしばりながら奏は肩に刺さったナイフを抜く。抜かれたナイフは根本まで奏の髪色と同じ色彩に染まっていた。

「・・・大丈夫・・・」

 奏は首を振って痛みを誤魔化しているように見える。ナイフの持ち主だった麗奈は驚きと焦燥で、自身の罪の重さに気づかされる。いつの間にか彼女の瞳は元の色の黒色に戻っていた。

「奏様・・・あ、・・・ああっ・・・わたくし、何てことを・・・」

 麗奈は何よりも先に奏の肩の傷に触れようとした。しかしそれよりも先に奏は彼女の手の前に自分の手を差し出した。それによって麗奈の動きが止まる。奏は凛とした声で、歌を奏でる時と全く同じ美しさの声で言い放つ。堕天使に魅入られた天使に。

「折角の服が汚れるよ。」

 麗奈は奏の血で服も手も汚す事無く、嵐の前の風が彼女の純白のドレスを揺らした。

 一瞬この場所は静寂が支配した。静寂が訪れたと同時に空から突然の激しい雨。益々悲哀の静寂を誘った。夏とは思えない涼しい風と神からの恩恵。しかしそれもつかの間で、彼らの背後に三人の人影が現れた。静寂の空間に響いたのは一人の男の声と発砲音。

「居たぞっ――」

 発砲音と云うよりは、もっと大きな音。ミサイルが一発放たれたかのような大きな爆発音。と思ったら本当にミサイルが麗奈の背中に放たれた。

「七瀬、」

 奏は愛煌の名前を発しただけだったが、それは彼を突き動かすのには十分だった。愛煌は麗奈の背後にまわり、両手でミサイルを止める。ミサイルを放った張本人、亜夢宇は驚きよりも先に感動した。傘から出されるミサイルなんてちゃっちいものでしか無いけれどそれでも普通の人間はミサイルを手でなんて止められない。これは中々手強そうな敵だと、それだけの出来事だけで解った。

「ったく・・・本当に警察っちゅーのは空気が読めへんのな。」

 愛煌は止めたミサイルを地面に放り投げる。雨に打たれたミサイルはたった数秒で芯まで濡れ爆破する意欲を失った。

「お前ら、容疑者を庇うのか。という事は全員グルだったという事で判断して良いんだな?」

「ああ説明すんのもめんどいから、もうそういう事でええわ。」

「だったら、俺達のする事は一つ。」

 常零、篠、亜夢宇は各々の武器を構える。それらは全て彼らに向けられたもの。世界最高峰の核兵器と人間という世界初の戦いが今幕を開ける。

「おい、まさか俺が三人全員相手するって事なんか?」

「当たり前だ。僕は彼女を逃がすという役目があるからな。」

「人間相手は気を遣うんやて、勘弁してぇやー・・・」

 彼女を逃がす、という言葉にいち早く反応する篠。常零と亜夢宇にこの男の相手を任せ、自分はあの二人の足を止めるという作戦で行こうと頭の中で確定させた。常零と亜夢宇は一気に愛煌の方へ向かう。それと同時に奏は麗奈の腕を引きながらその場から走り出した。逃がすものか、と篠も二人の後を追い走り出す。しかしいきなり篠の前に一人の人間が立ち塞がる。悠夢だった。

「悠夢、さんっ・・・」

「しーのは相変わらず仕事に一途だね。良い意味でも悪い意味でも。」

 悠夢は大きく両手を広げ走っていく二人の姿さえ隠した。彼の顔には優しい笑顔があったがその言葉は強いものだった。篠は突然の元上司の登場に動揺が隠せずその場で立ち止まった。

「悠夢さんはやっぱり、彼らの味方なんですか。」

「そうだね。一応みんな大切な友達だし。勿論しーのとも未だに友達だと思っているよ。もう仲間では無いけれど。」

 もう仲間では無い。それは残酷だけれど、事実だった。しかし篠はそれを悔やむ事も悲しく思う事も無い。

「ねぇしーの、君は何を思って此処に居るの。」

「何って・・・事件を解決する為に」

「そうじゃ無いよ。何を思って特別保安警察に居るの。」

「・・・それは」

「君なりの正義があって、君なりの想いがあって其処に居るなら俺は何も文句は言わないし咎めもしない。まぁあの研究所事態が来る者も出ていく者も拒まないけれどね。やっぱり君にはあそこの仕事は荷が重すぎたのかな。」

「・・・そんな事っ」

 篠の口から出てきたのは否定の言葉。の筈なのに彼の顔に浮かんでいる感情は裏腹だった。察しの良い悠夢には全てが理解出来た。

「そんな事無いです。あれ以上俺という人間に適した職場は無いと思っています。それにも関わらず逃げ出したのは、俺の精神の弱さ故です。」

 篠は重く俯いた。彼の艶やかな黒の頭に容赦無く叩き付ける大きな雨粒達。濡れていく冷たさよりも、叩き付けられる激しい痛みの方が大きい。篠は目の前に居る悠夢に目をやる事も出来ず、その場から走り出す事も出来ない。全て全て自分の弱さ故の仕打ち。そんな事厭という程解っているし、十分過ぎる程反省もしてきたけれど、新たな強さを手に入れるまでには未だ至らず。



 大粒の多量の雨は容赦無く二人の躯を叩き付ける。黒色の奥ゆかしいゴシック衣装の奏と、その手を握る白色の華やかなドレスの麗奈を。男女二人は逢魔が時を思わせるこの激しい雷雨の中、初夏の疾風の如く駆け抜ける。不気味な程静まりかえった都心の街を。

「―・・・、奏様・・・っ」

 麗奈が焦燥に塗れた声で奏を呼ぶ。奏は応答もせず振り返りもせず、強く麗奈の腕を引いて雨のカーテンを走り抜けて行く。麗奈の頭上の白薔薇のコサージュも雨水に浸され萎れて来た頃、漸く奏は足を止めた。足を止めた場所は裏原宿に位置する閑散とした神宮公園。普段からこの公園には遊び盛りの子供の声が響くことも無く、虫や野鳥が近付く事も無く、都会らしい寂れた公園だった。しかしこんな嵐の日ともなると、その寂れもより一層増していた。奏と麗奈は公園の中央にある木陰で雨を凌ぐ事にした。二人は重い衣服で長距離走った事により躯はのし掛かるような疲労に襲われ胸で浅い息をする。

「あの・・・奏様・・・?」

「・・・何?」

 何回も呼びかけて、今初めて反応してくれた。麗奈の胸中に安心感が広がる。

「どうして・・・こんな事を。こんな、わたくしを助けるような真似を、わたくしは貴方を陥れようとしたのに」

「別に、お前を助けようとしてやったわけじゃ無い。」

 奏は先端まで雨水に濡れたルージュの髪を手で掻き上げながら云った。髪は掻き上げられ、再び落ちても未だ頬に張り付いたまま。

「僕はお前と話しをしたかった。二人きりで。」

「え・・・」

 余りにも予想外の奏の言葉に麗奈は戸惑いを隠せなかった。更に彼女の戸惑いを誘うかのように奏は自らの手で、彼女の肩を抱き寄せた。麗奈は驚愕も戸惑いも越えて、最早何も反応出来なかった。肩を抱き寄せた彼の手は強くて揺るぎ無くて、あたかも恋人への仕草のように。

「僕は、お前がどうやって僕に会いに来たとか、お前に関する情報だとか、そんなものはどうでも良い。お前の僕への愛の荷重量、お前の胸の内、僕が興味を寄せているのは其処だ。」

 奏の左の透き通った紅玉は曇り無く麗奈の姿を映していた。その姿は麗奈でさえ解る程だった。顔はいつの間にか唇が重なってしまいそうなくらいに近付いていた。麗奈は漸く鼓動の高鳴りを自覚した。鼓動の高鳴り、動脈の速さは奏の手が触れている肩でも感じ取られてしまうのでは無いかと、麗奈はふと緊張を覚え息をひそめた。

「わ、わたくし・・・わたくしは、」

 どうしてかは解らないけれど、彼の瞳が美し過ぎる所為か、彼の手が温か過ぎる所為か、彼女が今までため込んでいた愛の荷重量は全て真白になってしまった。あんなに自身を侵食していたのに、全ての思考回路を遮断する程の強烈な感情だったのに、たったそれだけの事で一瞬にして消え失せてしまうのか。

 麗奈は理解した。漸く自分は、本物の恋をしているのだと。

「わたくしは、奏様を、・・・お慕い申し上げて、おりますわ・・・っ・・・あなたのことしか、考えられない程にっ・・・」

 言葉が進むにつれ速まる鼓動。熱を施す頬。鼓動が速まって呼吸が苦しくなって、思わず泪がこみ上げてきた。泪が出てしまうほどに呼吸が苦しくて、手の指先に力が入らなくて震えて、自分の躯なのに自分の力ではどうにもならない。自分の躯とは思えない程自由が効かない。その時だけは自分の躯は自分の為に存在しているのでは無い。鼓動が、熱が、震えが、全てが目の前に居る愛しい男に送られる。全身全霊の狂愛のメッセージとして。

「麗奈、」

 奏はそう一言だけ言うと、優しく麗奈の躯を自らの胸の中に抱き寄せた。泣きながら震える麗奈の背中は驚く程に小さくて細かった。麗奈にもう言葉は必要無くて、奏がかけるべき言葉は既に決まっていた。

「僕はその言葉が欲しかったんだ。有難う。」

 二人を包んでいた雨のカーテンは少しずつ外界への隙間を作っていくように弱小化していった。彼らの声を遮り続けていた煩らしい音の雷も不可思議にぴたりと大人しくなった。天災の終いに呼び覚まされたように虫達も思い思いに鳴き出す。逢魔が時は終焉を迎えたのだと、彼らが気づくのはもう少し後の事。



 そして、彼らは堕天使と天使の美妙悲劇的な逢瀬とは全く異なる色の逢瀬を演出していた。それは飛び散る血飛沫の鮮やかな紅、燃え上がる闘志の激しい赤、先程のシェークスピア色からすれば何とも粗相で暑苦しく激しい、そんな嵐が丘。

「――、っ・・・・・・」

 絶えず頭上からのし掛かる雨のカーテンの中愛煌は苦し紛れな溜息を漏らした。彼もまた現代日本人では考えられない程多くの戦場を乗り越えて来たが、今回の戦場はまた一味違った。場所はいつもの原宿と変わりは無いのだが、目の前に居る敵の形相が明らかに異なるのだ。頭脳も思慮も無い大量のゾンビでも無い。明らかに自分に殺意を向けてくる人間並外れた戦闘能力の妖魔皇の守り神でも無い。今回の相手は、見たっきり普通の人間なのだ。

 彼は苦悩する。自分もまた、人間並みはずれた戦闘能力の持ち主である事を。その気になれば普通の人間を踏み倒せる事を。この場に自分が護るべきルシファー魔王が居るのであれば話しは別なのだ。しかし今回はそんな切羽詰まった戦場なのでは無い。ただ、彼が彼女を、麗奈を何処か遠くに連れさせる為の時間稼ぎでしか無い。相手もまた、自身の任務の為に一つの壁を飛び越える為に愛煌と戦うのであろう。手を抜く事は出来ない。しかし力を入れすぎた結果彼らを壊してしまうわけにもいかず。途方に暮れている間に一人の人間が愛煌の背後に回ってきた。その気配は自分より幾許か年下の青年のものだった。

 刹那、脇腹の辺りに鈍痛が走った。それは並大抵の人間の拳とは思えない程固い拳で、並大抵の人間が出せるとは思えないほど強い力だった。鈍痛はいつまでもその重さを保ったまま愛煌の脇腹奥深くに居座った。思わずその場で崩れ落ちる。背後に目をやると、明るい茶色の髪の青年の片手には見事な人間の腕の鋼鉄像が握られていた。ミロのヴィーナスの失われた片腕、と云うにはあまりにも荒々しくて力強すぎる片腕。しかもそれは人間一人で持つにしては重量オーバー過ぎる。この青年はそれほど重い物を持つのに適しているような体格では無い。ならどうして、この鋼鉄の腕を軽々と片腕で持っているのか。愛煌が単純に思いついた答えはたった一つだった。

「・・・・最近の警察は、ホロノイドも雇ってくれるんか・・・?」

 絶え絶えの呼吸の中で愛煌は呟いた。青年、常零はその言葉に驚いたように目を見開き、そして必死になって首を横に振る。

「ち、違う、オレはホロノイドじゃ無いっ」

「じゃあなんや、その腕はおもちゃの像の腕とでも云うんか?」

「あー・・・だから、」

 常零の言葉を遮るように愛煌の眉間の辺りで引き金の音がした。引き金の音は、傘の先端から。傘の先端から流れる引き金の音は酷く非現実的だった。

「常零は本当にこの仕事に向いて無いのね。直ぐに機密事項を喋ろうとするんだから。」

 言葉の終に合わせるように傘の先端から銃口が飛び出してきた。常零は「待って」と叫び散らすのと同時に亜夢宇の方へ駆け寄る。しかしその時には既に銃口から銃弾が発砲された――より先に傘の先端から不気味な音が発せられた。ぼき、とか、めき、とか人間の骨が人間の力によってへし折られているような不快音。亜夢宇が傘の先端に目をやる。傘の先端、丁度いつも銃口として武器になっている部分が本当に人間の手によってへし折られていた。その手は紛れもなく、目の前に居た愛煌の手。

「わるいな嬢ちゃん。Key-dreamの日傘ならいくらでも注文したるから今回は正当防衛って事で許してな。」

 清々しい程爽やかな笑顔でそう云うと、一気に日傘から手を離した。支えられる力を失った日傘は亜夢宇の足下に落ちた。見事に先端だけ直角に折られて。亜夢宇は悲しむ事も無く、怒る事も無く、ただただ呆然と足下に落ちて、無力に雨に叩かれる日傘を眺めるだけ。

「・・・せや、今度は晴雨兼用傘にしたらどうや?今時日傘のみってのも不便やろ。それだいぶ古いデザインの傘やし、今ならもっと可愛い傘もあるし・・・あ、あの・・・嬢ちゃん?」

 無機質な人形のように呆然と其処に立っているだけのゴスロリ少女の機嫌がそろそろ心配になって愛煌はそろそろ背筋に冷や汗をかいてきた。焦燥に駆られている隙に目の前に現れたのは常零だった。

「てめぇえよくもあむぅたんの日傘をぉぉぉっ!」

「ちょっ御免って、ほんまに、俺が悪かったって!」

 先程とは比べものにならない程常零からも、彼が持つ鋼鉄の腕からも殺意があふれ出ている。自分は殆ど不死身にも関わらず尋常で無いくらいの命の危機を感じる愛煌。常零は両手に鋼鉄の腕を持って愛煌の頭上めがけてそれを振り上げる。今から何処かに逃げられる程俊敏では無い愛煌はとりあえず両腕で頭を隠す。

「やめて。」

 この空間を張り詰めさせる亜夢宇の凛とした声。ストップモーションにかけられたように常零も一瞬にして動きを止めた。そして恐る恐る亜夢宇の方へ向く。

「もう良いの、そのおじさん謝ってくれてるし。」

「で、でもあむぅたん、その傘だいぶお気に入りだったんじゃ・・・」

「ううん、おじさんの云う通り、そろそろ晴雨兼用傘も欲しいと思っていたところなの。」

 常零は一瞬にして愛煌への殺意を白紙にし、鋼鉄の腕も生々しい人間の死体の腕の戻った。そのままの足取りで彼は亜夢宇の元へ歩み寄る。

「御免なさいおじさん、常零が変な事して。」

「いや、ええんやてそんな事。」

 寧ろその「おじさん」呼びをどうにかして欲しいというのが愛煌の本心。彼女の無垢な瞳を見る限り悪気は全く無いらしい。

「それに、吃驚したわ。あむぅの日傘を壊したのっておじさんが初めてよ。」

「当たり前だっ、そんな奴が他に居たらオレが片っ端から懲らしめてやんよ!」

「あむぅに新しい傘も買えって云ってくれたのもおじさんが初めてよ。」

「当たり前だっ、そんな奴が他に居たらオレが片っ端から懲らしめてやんよ!」

「んーと、これ、何処からツッコめばええと思う?」

 愛煌はまた違う戦闘に四苦八苦してる最中に、いつの間にか降りしきる雨粒が途絶えた。そして重い鉛色の雲の間から夏らしい色の太陽が顔を出した。耳障りな雷も、耳障りな虫の鳴き声に変わり、逢魔が時の終焉の迎えに来てくれた。愛煌の視界には常零と亜夢宇の更に後ろの方から悠夢と篠が此方に向かって歩いてくるのが見えた。

「やー、やっと止んだね。」

「ただの通り雨だったかな。」

「通り雨っていうか通り嵐でしょ。まぁ嵐なんてそんな長く続くもんじゃないさ。」

「お前らは一体何処に居たん?」

 愛煌の問いかけに悠夢は何か誤魔化すように笑い、そして視線を篠へ移す。

「まぁ俺らも色々大変だったのさー。」

「変な言い方しないで下さい。俺達はその、そちらと違って話し合いだけで解決させたんだよ。」

 五人には雨を遮ってくれる物が何一つ無く、衣服も髪の毛も全てにおいて躯にくっついたまま。絶対にこのままでは風邪をひくので早いところ撤退したいのだが、五人はまだ誰一人して退場しようとしない。待つべき人が居ると、無言で告げられているかのように。

「奏、それからあの嬢ちゃん、大丈夫か・・・」

「大丈夫だよ。あの二人なら、もうすぐ戻ってくるって。ていうか、警察の方々はもう追わなくて良いの?」

 悠夢の問いには常零が初めてリーダーらしく直ぐさま答えた。

「うん。被害者の子達も無事だったし、特に誘拐とか傷害とかそういう事実は無いみたいだし、もう良いよ。」

「はっ、ちょっ、お前・・・そんな事勝手に決め」

「何だよー、オレが保安庁なんだぞ。勝手に決めていいだろ?」

 珍しいくらい強い物言いの常零に、最早言い返す言葉も失った篠。ただ何かを込めたような溜息を漏らすだけだった。亜夢宇はぽっきりと折れた日傘を大事そうに抱きかかえる。自分の身内の話なのに全く余所事のようだ。

「だけど結局彼女らに呪いをかけたのは、」

「あっ、帰ってきたーっ」

 常零の一際大きな声を合図にその場の人間全員が彼らの帰還に気づいた。生ぬるい雨粒に濡らされたアスファルトは太陽の粒子に照らされると一つの光の芸術のように見事な色彩を施していて、また一つの悲劇の演目のコーダを演出に、驚く程似合っている。彼らもまた雨露に濡らされた黒と白の衣装を纏い、きらきらと光の粒子の装飾品を身に付けて。互いに白い手を、柔らかく繋ぎ止める。



 澁谷の夏の夜はいつも以上に賑わっていて、それでいて煌びやか。もうすぐ日が変わるというのに街はいつまでも眠らせてくれなくて、各店舗からの極彩色な光は自然と目を冴えさせた。世間一般的に夜の澁谷は日本の何処より危険なイメージがある。幼い少女が一人で行くなんて以ての外。しかしその少女は、いつものように白いレース、白いフリル、白いリボンのドレスを身に纏い、澁谷の一角にあるバーの前でたった一人で立っていた。

「其処のお嬢様、」

 普通こんな場所で男性から声をかけられる何て、ナンパか、はたまた何か危ない企業の勧誘かそれ以外何者でも無い。しかしそんな危険を思わせ無い程その声は優しくて紳士的で、少女も何の警戒も無く振り返った。

「そんな場所で一人で居るのは危険でしょう。店の中に入られては如何ですか?」

「・・・あら、ヴァンパイア・バーは未成年の入店はお断りではありませんの?」

 声の主は少女がいつも待ち合わせ場所にしているヴァンパイア・バーの店主だった。店主の結楽は優しく微笑むと、また一歩白ドレスの少女、麗奈に近付いた。

「しかし、お嬢様はいつもこの店の前で一人で居るから、いつもいつも心配でならなかったんですよ。」

「あらそうなの。お気遣い有難う。でも大丈夫ですの。」

「駄目ですよ。この街は危険が沢山潜んでいますからね。特に貴方のような華やかで美しいお嬢様は下餞な男達の滑降の餌食になり得ません。その上今日は熱帯夜です。店の中の方が数倍も居心地が良いと思いますよ。」

 結楽の言葉に偽りは何一つ無かった。歪み無い真実だった。しかし麗奈の心は変わらない。彼女はこの店に入る為の目的など何も無いからだ。

「本当に大丈夫ですわ。それに、そろそろ待ち合わせ相手も到着する頃ですの。」

「・・・待ち合わせしている相手・・・?」

 結楽は首を傾げる。この場所でルージュの待ち伏せをしている熱烈なファンは結構居る。

勿論彼女もその一人だと思いこんでいた。しかし今ルージュはチェコ旅行の最中。そんな事はファンであるならとっくのとうに知れ渡っている情報だ。ならば彼女はこんな場所で一体誰を待っているというのか。

「お嬢様・・・兎に角店の中に」

「あ、来ましたわっ」

 麗奈は結楽の言葉を遮って、はしゃいだ声でその場から走り出した。走り出したその先には一人の男の影。男の影もどんどん此方に近付いてくる。白いヒールの靴音と、黒い革靴の音が一つのリズム音楽のように軽やかに澁谷の夜に轟く。

「よぉ、麗奈ちゃん、待った?」

「待ちくたびれましたわ、与愚様。」

「悪い悪い、仕事長引いちゃってさ。」

「もう、そんな言い訳聞き飽きましたわ。そんな事より、早く行きましょう。」

 楽しそうな男女の談笑の背景に、街灯りですっかり見衰えた陳腐な色の月光。それより妖艶に輝く、麗奈の首からさがった呪われたペンダント。まるで恋人同士のように握り合う二人の手。結楽は現実離れした目の前の光景に思わず息を飲みながらも、鬱陶しい感情を取り払おうと必死に瞳から色を消す。ただ無機質に目の前の男女を見詰めようとも、やはり反射しあう、呪われたペンダントの妖しい紅、それと同じ色のサディスト指揮官の瞳。




第十三章「錯綜ミステリアス」終


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