第十一章『怨念クリスタル』
第十一章『怨念クリスタル』
said:かの世界一美しい核兵器
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梅雨時期の絶えない雨雲にも漸く終わりを迎え、日本列島は夏本番を迎えた。全国各地の大地が焼き付けるような太陽の恩恵を受け、蜃気楼も溶けていきそうな程の猛暑。この時期になると人々は涼を求める。涼の種類は様々だ。一般的にはクーラーや扇風機で涼しい空間を作る。かき氷やアイスクリームを食べて躯を冷やすのも一つの手だ。しかし金銭を一切使わず、もっと手っ取り早く涼を受け取れる方法がある。それが、怪談だ。好みは分かれるが大半の人間は、自分に被害の及ばない範囲ならばその最も手っ取り早い方法を好む。そんな人々の要望に応えるように全国のテレビ局に背筋の凍るようなニュースが飛び込んで来た。
『先日、ファッション雑誌ゴシックロリータバイブルが「大人気ゴシック歌手のルージュさんの手作りペンダントを応募者一名様にプレゼントをする」という抽選を実施したところ、大変な事件に繋がってしまいました。』
深刻な顔のニュースキャスターの一言でそのニュースは幕を開けたそしてVTRが始まる。VTRはまず先月号のゴシックロリータバイブルの表紙を映す。そしてニュースキャスターの声でナレーションが入る。
『抽選が実施されたのは先月号のゴシックロリータバイブルで、ルージュさんが特集された時でした。神父の衣装を着たルージュさんが実際に身につけたクロスのペンダントを応募者一名様にプレゼントをするというサービスを開いたところ、数百枚の応募葉書が会社には届きました。その中の一名だった東京都の山中絵里さんに抽選が当たり、その数日後に山中絵里さんが行方不明になってしまいました。彼女の両親が学校に行ったまま家に帰って来ないと警察に連絡したところ手がかりは掴めず未だに行方不明。
彼女の友人である中井有紀さんが、彼女が最も大切にしていたペンダントを形見として持って行ったその翌日、突然の蒸発。行方をくらませてしまいました。警察は同一犯の連続誘拐事件の可能性があるとして捜索を続けています。』
原宿にある被害者二人の住まいを映し、VTRは終わる。そしてニュースキャスターの顔を中心に映しスタジオ画面に戻る。ニュースキャスターは隣に居るコメンテーターの方を向き話をふる。
『それにしても、恐ろしい事件ですね・・・』
『そうですね。何としても無事に彼女達が見つかる事を願うばかりです。』
『この事件には不可解な点がありまして、一人目の被害者と、二人目の被害者もルージュさんから貰ったペンダントを肌身離さず身につけていたらしいのですが、何故かペンダントだけが地面に落とされたまま行方不明になってしまっているらしいんですね。』
『じゃあ・・・もしかしたらペンダントに何か関係があるのかも知れませんね。ペンダントの制作者のルージュさんに関係があるのかも』
コメンテーターの言葉を遮るようにテレビの電源は唐突に落とされた。愛煌が苛つきをリモコンに向かってぶつけるようにリモコンを柔らかいソファーに叩き付ける。
「何やあのコメンテーター、何でルージュとこの事件が関係あるみたいな言い方しとるん?」
あまり本気で怒る事の無い愛煌の怒声が静かなバー内に響く。マスターである結楽と、彼の身内以外には誰も居ないバーは相変わらず薄暗く不気味な静けさがあった。
「そんな怒る必要も無いでしょう。そう聞こえるのは七瀬先輩がそう思っている証拠じゃ無いですか?」
彼をなだめるように結楽は投げつけられたリモコンを拾う。
「そうそう、ニュース番組側に罪は無いっすよ。それにあのニュースキャスター美人さんで俺好みだからあんま悪く云わないであげて下さい。」
巫山戯ているんだか真面目なんだかよく解らない与愚の言い方は余計に苛立ちを煽る。与愚はテーブルの上にパソコンを置き、その操作に集中しているようだった。
「それに、ニュースはまだ良い方っすよ。掲示板とかの方がもっと酷い。」
「え、そうなの?」
与愚の操作するパソコン画面を悠夢が覗き込む。パソコン画面には某大型掲示板サイトが映されていた。スレッド名は『ルージュの呪いのペンダント事件について語るスレ』。書き込み数は九百手前。そして今の間にどんどん書き込みは増えていく。恐らく今一番熱いスレッドなのだろう。そこに連なれた言葉は、どれもこれも犯人が確定しているような言い草だった。
【やっぱりペンダントに呪いかけられてたんだよ。ペンダントをつけた物は蒸発してしまう呪い。】
【いや、多分ルージュがペンダントをつけた奴を片っ端から攫ってんじゃね?】
【部下に?あ、使い魔に?w】
【そこはあのジャーマネでしょ。相当腕っ節強そうだもん。】
【ていうかルージュの事好きなら喜んで誘拐されるんじゃ無いの?今頃ルージュの胃の中かぁ・・・まぁその子にとっては幸せだったんじゃ無いかな。】
【いや、二人目の子は多分ルージュファンじゃ無かったでしょ。だとしたら益々可哀想・・・呪われたペンダントをつけたばっかりに・・・】
更新ボタンを押す度に書き込みは絶えず増えていく。もう既にルージュが今回の事件に真犯人だと決めつけられているようだった。恐らくこの掲示板内だけでは無い。既にこの世間が、ルージュこそが誘拐犯だと決めつけられている。勿論そんなのは偽りでしか無い。一瞬たりとも奏の傍から離れていない愛煌なら解る。
「こいつら・・・全員頭沸いとるわ。ルージュの何を解ってるって云うんや。」
「仕方無いよ。多分この中にルージュファンは居ないもん。だってほら、こいつら全員『ルージュ』って呼び捨てしてる。大体のファンは『ルージュ様』って呼ぶもんね。」
「ルージュファンならまずこのスレ見ないだろ。多分今頃七瀬先輩と同じ反応してる。でも、そろそろルージュ養護派が現れるぜ。だとしたら、このスレ炎上するだろうなー。」
与愚は喉を震わせ嗤う。ネットの向こうの人間達が戦争を始めようとする事を誰よりも楽しく感じている。悠夢も楽しそうに掲示板を眺める。彼らはやはり自分に関係の無い戦乱を眺める事が何よりの快感みたいだ。愛煌はパソコンを見る与愚と悠夢から離れ、隅っこの席で一人カクテルを飲む奏の隣の席へと向かう。
「奏、気にせんでええからな。」
「別に、始めから気にして無い。」
「奏様の所為ではありませんよ。これだけは言えます。」
「だから・・・気にして無いってば。」
愛煌と結楽に優しい言葉を投げかけられる奏は、気にしていないと云いながらもその瞳は憂いに染まっていた。溜息を一つ吐き、アリスの泪色のカクテルに唇を濡らす。
恐らく奏が今一歩でも外に出たら記者達の、そして人々の質問攻めに合うだろう。外の人間だって直接言葉では言わないものの、奏が真犯人だと思っている。というか、そうだったら面白いのにと希望を持っている。最も日本で知られているゴシック芸能人のルージュ。しかしゴシックの意味は底なし沼より奥深く、普通の人間ではその真相まで知る事は無い。だからルージュの一般的なイメージは残酷、気狂い、ドS、はたまたナルシスト。「麻薬をやっていそう」という人だって居る。しかしそんなのは所詮彼の事をよく知らず、上辺だけの印象のみで云っている事でしか無い。本当に彼の生き様を好み彼の音楽を聞いた事のある人間ならそんな事は絶対に云わない。彼は神髄までゴシック美学に染められ、本当の美しさを持っている唯一の人間なのだと、他の人々にそう伝えるだろう。だけれど、彼の音楽を聞いた人間でも、そのおどろおどろしい歌詞と激しいメロディーの与える印象はやっぱり残虐、残酷だった。恐らくルージュなら「人肉を食べた事がある」と云っても百人中百人は信じ込むだろう。だから、譬え今回の失踪事件にペンダントが全く関係無いとしても、どうしても人々は残酷貴神の与えたペンダントと関係づけたくなるのだった。
しかし真相は、奏と今回の事件は全く関係が無い。奏だって今朝のニュースでこの事件を知ったくらいだ。これからしつこい程報道陣が自分へ取材に来るだろうなとは何となく予想している。暫く仕事どころでは無くなるだろう。憂鬱だ。奏はまた深く溜息をついた。
2
大都会原宿のアスファルトはバーベキューの炭火のような高い熱量を持っていた。真昼の太陽の下でも堂々と誇り高く聳え立つ、原宿警察署。ゾンビ事件を始めとし今回の呪いのペンダント事件など不可解で非化学的な事件が日本一多い原宿の警察は、恐らく日本の何処よりも優秀な人材が揃っている事だろう。しかし意外にも原宿の警察は普通の警察と変わらない。ただ一部を除いては。
原宿の警察署の中には『特別保安警察』という者が存在する。それは警察官としての知識より、秩序より、一際一般人より戦闘能力の高い者を集めた部署である。特別保安警察、原宿ゾンビ襲来事件をきっかけに作られた部署。あの事件以来時が過ぎても住民がゾンビに襲われる被害が多発した。それだけでなく、ゾンビが居る所為で恐くて道が通れない、ゾンビウイルスが壁に付着していて恐ろしい、などという兎に角ゾンビに関する事件は警察といえどそれ故の知識や戦闘能力が無いと対処出来ない。その為に作られたのが原宿特別保安警察。
とは言え、今やゾンビ警戒注意報が解放された元通りの平和な原宿。もう特別保安警察は解散しても良いくらい出動されなくなった。世間は平和の喜びの舞いでもしてやりたいくらい舞い上がっているが、彼らにとっては実に退屈な時代なのだ。
「あー、退屈だぁー・・・」
一人の青年が窓の外の景色を眺めながら溜息混じりに呟いた。半開きにした窓からは生ぬるい風が入ってきて青年の明るい茶色の髪の毛を揺らす。
「退屈なら仕事をしろ。もう俺達は原宿を救う正義のヒーローでも何でも無い。ただの普通の警察だ。」
「やーなこった、普通の警察の仕事なんてつまんないじゃんかっ。もっとこう、凄い事件とか無いのかよ?」
まるで駄々をこねる子供のような青年を見て、冷たい表情の青年は呆れるように溜息をついた。
「不謹慎な奴だ。警察が退屈で何が悪い。というか、退屈なのは俺達特別保安警察だけだ。ゾンビ被害が皆無になっただけで、原宿はまだ完全に平和になった訳じゃ無いんだ。」
「解散ね。」
「は?」
突如青年の背後から降りかかる小さな少女の声。青年は思わず振り返る。其処には金色の髪の、黒いドレスを纏うフランス人形のような少女が立っていた。
「ゾンビ被害が皆無なら、あむぅ達の仕事も皆無って事。だから特別保安警察は解散ね。」
「亜夢宇・・・いつの間に」
フランス人形のような少女、亜夢宇と呼ばれた少女が部屋に入って来た瞬間窓辺に座り憂鬱そうな表情をしていた青年の目はいきなり歓喜に輝き出した。青年は目を輝かせながら窓辺から降り亜夢宇の方へ向かう。
「あむぅたん、解散なんてなったらオレ達離ればなれじゃんかよ、そんなの寂しいじゃんよー、嫌だよオレ。解散してもあむぅたんと同じ部署に行きたいなー。」
「それは無理よ。だってあむぅと常零じゃ頭の出来全然違うもん。」
「ちょっ、高校選びする受験生じゃ無いんだから、大丈夫だって!」
亜夢宇が来た事によって一気にテンションの上がる常零。そして一気に賑やかになる部屋。作業がしにくくなった・・・と眉間に皺を寄せ溜息をつく青年。片手で眼鏡をかけ直しながら書類が大量に入ったクリアファイルを開く。そして一番上に入ってあった一番新しい書類を机に出す。
「常零、数ヶ月ぶりに特別保安警察宛ての事件だぞ。」
「へ?」
常零は間抜けな声を発して彼の机の上に置かれた書類を覗きこむ。一緒になって亜夢宇も覗きこんだ。
「これって・・・ルージュの呪いのペンダントの事件じゃんよ。オレ今朝ニュースで見た。」
「そうだ。」
「・・・何でこれが特別保安警察宛てに?」
書類に書いてあったのは事件の概要、被害の報告、そしてペンダントとルージュに関する大まかな情報だった。その扱いは、いかにもルージュ(紅野奏)が事件の真犯人でもあるかのような書き方。
「知らないのかお前ら、ルージュ・・・いや、紅野奏は、ホロノイドだ。」
緩みっぱなしだった常零と亜夢宇の表情が、神経が一気に研ぎ澄まされる。先程まで初夏の生ぬるい気温が鬱陶しかった部屋に冬隣の冷たい空気が流れこんできたかのよう。
「ホロノイド・・・ホロノイドってまさか、」
「ああ、お前の父親と同じだ。」
「・・・あのルージュが?」
その中でも一際深刻そうな顔をしていたのは常零だった。亜夢宇はどちらかと言うと、そんな衝撃的な事実を告げられても一見そんなに表情は変わっていないように見える。が、涼しそうな顔をしていながら結構衝撃を受けているのだ。
「だから此処に宛てられたのね。」
ゾンビ関連の事件を担当している彼らだから、ホロノイドの事を知っていて当然と言えば当然の事。しかし国家機密レベルの情報を新人警察である彼らが知り得るのは早々簡単では無い事。では、何故彼らはホロノイドの情報を持っているのか。それは彼ら自身が大いにホロノイド研究に関わって来たからである。ゾンビに関係のある事ならホロノイドも当然関わって来る。逆も然り。
「ホロノイドの彼なら人間の一人や二人を消すのは容易い事だろう。」
「確かにな。まー、ルージュなら普通の人間だったとしても呪いの一つや二つ簡単にできそうだけどな。」
それは完全にメディア内でのルージュのイメージである。
「あ・・・そういや、あむぅってルージュの事好きだったっけ・・・?だったら御免。オレよくルージュの事知らないからさ・・・」
常零はゴスロリ好きの少女がすぐ傍に居る事を思い出し即座に謝罪した。大抵のゴシック好きの人間はルージュのファンである。特に若い女性は。そして多くのルージュのファンは盲目的に彼を愛し、「ルージュ様」と呼んで崇拝し、全く彼に興味が無い人間が馴れ馴れしく「ルージュ」と呼ぶだけで怒り狂う程だ。ルージュと呼び捨てにしただけで彼女達にとっては罪深い行為なのに、その上根も葉もない噂を流すなんて死刑罪にも等しい。しかし亜夢宇は意外なくらいあっさりとしていた。
「いいわよ別に。あむぅはルージュとか、芸能人とか元々興味無いわ。」
「え、そうなの?」
「ええ。ロックだとかメタルだとか、騒がしい音楽は嫌いよ。音楽はクラシックとかオペラしか聴かないわ。」
もしかしたら、ゴシックロリータを極める少女の答えは、こちらの方が正しいのかも知れない。
「それで、だな」
眼鏡をあげて、青年は二人の会話を思い切り遮る。彼が手に持っていたのは地図と、一枚の資料。資料はどうやら何処かのホームページからプリントしてきたもののようだった。
「失踪した被害者の足取りは別の捜査官が捜査をしている。俺たちは容疑者とその周りの聞き込み調査が担当だ。」
「容疑者って・・・」
「ルージュこと、紅野奏氏。」
青年は言葉を続ける。
「紅野奏の自宅、そして彼が仕事帰りや休日に必ず通うというバーに訪問する。自宅には既に多数のマスコミが押しかけたみたいだが留守だったらしい。恐らく、このバーに避難している可能性が高い。バーにはまだ誰も行っていない。俺達が最初の聞き込みが出来る。」
「お前、相変わらず準備良いなぁー・・・」
感心しながら常零と亜夢宇は彼の持っている資料を受け取り目を通す。其処には奏が一番のお気に入りの店であるヴァンパイア・バーの地図が載ってあった。
「それにしてもよくこんなの調べたわね。彼の常連の店なんて。」
「そんなの、彼の出ているテレビ番組や雑誌記事を見ればすぐに解る。」
「え、そんなにチェックしてたの?実は隠れルージュファン?」
「違う。彼を調べたのは今回の事件の調査がきっかけだ。俺は断じて興味無い。」
「真っ向から否定する辺り怪しいわ。」
「こりゃ図星だな。」
「ち が う 。」
常零と亜夢宇が仲良いのかは微妙なところだが、こうやって意外と息がぴったりなところを見ると割と仲が良いのだろう。三人合わせて仲良いのかは、更に微妙なところだけれど。
3
まだ開店準備もしていない真昼のヴァンパイア・バーに、招かれざる客がやってきた。扉の前で揺れる人影で、マスターである結楽が気づいた。とうとう来たか、それだけを感付く。ルージュが日頃からこの店を賛美し、よく通うと電波や紙片に乗せて言うからマスコミ達がこの店にまで押し寄せて来たのだろう。その時の対応は既に何回か頭の中で行われていた。結楽は静かに扉の前まで歩み寄る。そして扉の向こうの人影に向かって優しく言葉を投げかける。
「申し訳ありません。まだ開店時間じゃ無いので」
「原宿特別保安警察です。」
結楽は思わず言葉を止めた。それは予想だにしない客だった。その声を聞いた店の中の人間も思わず息を止める。
「すいません、そちらに紅野奏さんはいらっしゃいますか。」
扉の向こうの人間は更に言葉を続ける。結楽は少し間を置いて、扉を開けた。部屋に入って来たのは二人の男性、一人の女性。成る程警察らしい威厳ある雰囲気は醸し出されている、が、しかし何か妙だ。
「・・・何?最近の警察はゴスロリでも捜査して良いの?」
与愚がぼそりと小声で隣の椅子に座る愛煌の耳元で囁く。愛煌も同じ事を思ったが、とりあえず今はそれどころじゃ無いので黙っている。いや、ゴスロリよりももっとツッコむべき場所があるような気もする。それは、ゴスロリファッションを纏った少女の首の上からすっぽりと被せられた茶色の紙袋。目と口の部分だけ穴が開いている。そういえばあんな風な紙袋の覆面、映画とかで見た事があるような気がする。一種のファッションのつもりなのだろうか。ゴスロリやV系のファッションを好む人間は異色なファッションを好むのは解るけれど、あれはいくら何でも異色過ぎる。
中央の茶髪の黒いヘアバンドをした青年がまず口を開いた。
「原宿特別保安警察庁の桐生常零です。」
次にその右隣の黒髪に眼鏡の、常零と同じ程の背丈の青年が口を開く。
「同じく、原宿特別保安警察の周防篠です。」
その名前を聞くと、悠夢が吐息のように小さな声で何か呟いた。周防篠と名乗った青年の顔をまじまじと見詰めながら。
「・・・しーの?」
そんな吐息のような小さな声に篠は反応した。驚き目を見開いて、悠夢の顔をまじまじと見詰めながら、口を半開きにしながら、それでも必死に声が漏れるのをこらえる。しかし口の動きだけで悠夢の名前を呼んでいるようにも見えた。
『悠夢・・・さん・・・?』
その声にならない声は悠夢にだけ聞こえているみたいだった。他の人間達には聞こえもしない二人だけの暗号のように。
「そして此方が、オレのよめ」
と常零に言われ紹介をされた亜夢宇は彼の言葉が終える前に素早く彼の腹にエルボーをくらわせてやった。
「ぐはっ!・・・嘘です。彼女は氷見宮亜夢宇です。」
「宜しくお願いしますわ。」
「はぁ・・・どうも・・・」
本当に警察なのだろうか。随分個性的過ぎて、ただのルージュファンのメンバーにしか見えない。結楽は彼らをあっさり通してしまった事に少し後悔をした。
すると、いきなり悠夢が沈黙を破る。彼は三人に向かって指をさし、
「あぁぁっ―――?!」
と必要以上に大きな声で叫ぶ。その声は店中隅から隅まで轟いた。びんびんと天井が撓る。彼の人差し指の向こうには、紙袋を被ったゴスロリ少女、亜夢宇が居た。
「その服・・・ワンピース、ブラウス、ソックス、靴、コルセットまで・・・全部・・・Key-dreamだね・・・?」
「ええ、そうよ。」
「うわぁあ凄い!凄い良い着こなしだよ君、コーデに才能があるよ、可愛い可愛い、パーフェクト!」
悠夢はいきなり椅子から立ち上がり直ぐさま亜夢宇の傍まで駆け寄った。そして彼女の足先から頭まで観察し、そしてしまいには両手を握る。するとすかさず二人の間に常零が割って入った。
「ちょっとちょっと、オレのあむぅたんに何してんっすかおっさん。」
「おっさんとは失礼な。・・・ああいや、申し遅れたね。俺はKey-dreamのデザイナーのKeyです。」
「えっ・・・デザイナー・・・さん?」
途端に静かだった亜夢宇の瞳に光が差し込んだ。それは紙袋越しにも解る。というか、明らかに彼女の声のトーンが上がったから解る。彼女は今かつて無い程感激している。そう、彼女はゴシック歌手には全く興味が無いかわりに何よりも服を愛している。そして彼女がこの世で一番好きなのがゴシックロリータファッションブランドのKey-dream。その最愛ブランドのデザイナーが現れたとするなら、これ以上に彼女にとっての幸せは無い。
「お、お会い出来て光栄ですわ、Key様。」
「いやいや此方こそ、そんなに素敵に俺の服を着こなしてくれて嬉しいよ。」
「いやいやオレの方こそ、あむぅたんにこんな素敵な服を与えてくれて嬉しいよ。」
「常零は関係無い。」
亜夢宇の声のトーンは一気に下がる。
「何言ってんだ、嫁の尊敬する人ならオレも挨拶しないと」
「嫁になった覚えも無いわ。」
「ちょっと、あむぅたん・・・!」
「へこたれるな少年。嫁なんていつでも主人にツンデレなもんだ。」
「何だよおっさんの癖に、嫁について語るな。」
「おっさんだからだよ、おっさんだからこそ君より経験豊富に決まって、」
ばんっ、と激しく机を叩く音が悠夢の言葉を、三人の賑やかな会話を強制終了させた。机を叩いたのは篠だった。彼は眉間に皺をよせ肩を震わせ、いかにも怒りに震えている形相だった。
「お前らな・・・遊びに来たんじゃ無いんだぞ・・・?」
明らかに彼は浮かれている常零と亜夢宇について怒りを覚えている。しかし常零と亜夢宇の顔には反省の色も影も無かった。
「遊んでんじゃない、これは立派な修羅場だ。あむぅたん争奪戦争だ。」
「あむぅモテモテで困っちゃう。」
「そうだ、あむぅたんがモテモテだからオレも守り通すの必死で困っちゃう。」
もういっそ怒鳴ってやろうかと思いおもいきり息を吸ったが、何か怒鳴る気力もなくなってそのまま躯ごと萎む。肺に溜めた息は溜息となって放出された。
「もういい・・・お前らは好きにやってろ。・・・俺の目的は、紅野奏、お前だ。」
篠の視線は奏に移る。篠と奏の視線がぶつかる。氷のように冷たい視線。針先のように鋭い眼光。しかし両者はどちらも一歩も譲らない。
「とりあえず署まで同行願いたい。」
「はぁっ?」
篠の言葉に一番最初に反応を示したのは愛煌だった。愛煌は椅子から立ち上がり篠に詰め寄る。
「おい、ちょい待ち、何で奏が思いきり容疑者みたいな扱いになってるん?」
「そりゃ彼が容疑者だからに決まってる。」
「なっ・・・奏は今回の事件には全く関係あらへん。マネージャーである俺がそう断言しとるんやから間違い無いやろ。」
「そうか。本人はそんな事一言も言って無いけどな。」
「そんなん、本人に聞いたって同じや。なぁ奏。」
愛煌は勢いよく奏の方を振り返る。奏は何か考え込むようにうつむき、やがて顔をあげた。そして椅子から立ち上がる。それはそれは落ちついた声で、誰かに言い聞かせる事も無いような力ない声で呟いた。
「・・・解った。署までついて行こう。」
「奏・・・・っ」
愛煌は奏の腕を掴もうと手を伸ばす。しかし奏はそんな彼の腕を避けるように歩き出した。避けるように、というより逃げるように。奏は愛煌と言葉を交わす事も無く見る事も無く店から出て行った。彼の腕を掴めなかった愛煌の手は、未だに無様に取り残されたまま。
「・・・行っちゃったよ。」
「なんという事でしょう・・・あむぅ達置いてきぼりだわ。」
4
警察署という建物に入る事も、パトカーに乗る事も奏にとっては人生初体験だった。きっとパトカーに乗る瞬間なんかが他の誰かに見られたとしたら、恐らく大変な騒ぎになるだろう。それを見越してか、篠は随分丁重に奏を扱ってくれた。篠の他の仲間は一緒に来なくて良いのかとは思ったけど、それは彼の問題だ。奏には全く関係無いので奏は署に到着するまで一言も喋らなかった。沈黙を突き通したままパトカーは署に到着した。
奏が導かれた部屋は、小さな部屋だった。恐らく容疑者と警察が話し合う用の部屋なのだろう。しかしドラマや映画で見るような薄暗い部屋では無くちゃんとした綺麗な明るい部屋だった事に、少し意外な印象を受けた。部屋に入るまで誰一人として他の警察に出逢う事は無かった。篠は奏を部屋に入れ直ぐに扉に鍵を閉めた。奏は何か言われる前に既に中央の机の椅子に座る。篠は鍵を閉めると直ぐにその向いの椅子に座った。
「何を聞いても無駄だと思うぞ。」
それが沈黙を破る奏の最初の一言だった。
「ということは、お前は無罪を主張するという事だな。」
「無罪も何も、僕はこの事件には一切関与していない。」
「そんな事は無い。今回の事件は明らかにお前が作ったペンダントが関係している。」
「たかが二件の失踪事件だろう。その被害者が偶々僕の作ったペンダントを身に付けていただけだ。」
篠と奏、両者一歩も譲らない言い分。二人の平行線の意志と二重に重なる低い氷度の声。
「・・・質問を変えよう。」
篠は視界から奏を追放した。
「紅野奏、お前は人を殺した事があるか?」
それは奏の予想だにしない質問だった。人を殺した事がある何てもんじゃ無い。彼はホロノイドとなっていくつの命を絶えさせてきた事か。否、ホロノイドになる前も。
「・・・それは、何の為の質問だ?」
「質問に答えろ。」
「ある、と言ったらどうする?」
「ある、と言ったらどうするだと?そんな答えで俺が満足するとでも?」
奏は唇を閉ざしたままぎりりと歯を食いしばる。成る可く篠の顔を見ないようにと視線を下へ下へと移す。篠は、そんな奏の今までに無い程の焦燥の現れを冷静に且つ愉快げに見詰めた。
「安心しろ、俺は全て知っている。だから誤魔化す必要なんて何も無い。」
「・・・全て、知っている・・・?」
刹那に鼓動が高鳴る。奏は思わず顔を上げた。焦燥に苦悶する奏を悦楽に見詰める篠の顔があった。
「俺は、お前を作ったホロノイド研究員なんだよ。」
片方しか無い瞳が映す、揺るぎの無いトラジ。篠の暗澹色の髪が電灯の光を照り返して妖しげに艶めいた。
5
一方、共に聞き込み調査に来た筈なのにナチュラルに置いてけぼりにされた常零と亜夢宇。そして奏を容疑者として連行されてしまった愛煌らは、暫くバーで沈黙を通していた。同じ沈黙でも、彼らはそれぞれ腹の中で全く異なる思考を錯誤していた。
「なぁ、あむぅたん。」
「なぁに?」
最初に沈黙を破ったのは常零だった。
「オレら、普通に置いてけぼりにされたけど、これってこのバーで聞き込み調査をしていろって事なのかな?」
「ああ、そうかもしれないわ。」
「え、自分ら今気づいたん?」
奏の心配をしながらも、こいつら警察なのに調査しなくて良いのか少し思っていた愛煌の鋭いツッコミ。しかし常零と亜夢宇は決して受け狙いではなく本物の天然だ。常零はまず誰に聞こうかと迷う。此処には奏をよく知る人物が四人も居る。とりあえず一番一般人に近いであろうバーの店員に聞くとしよう。
「えーと、少しお話聞いてもよろしいですか?」
「ええ、構いませんよ。」
結楽は快く頷いた。常零は大真面目に真っ直ぐ結楽の方を向いて話かけたが、この場には容疑者の関係者四人が全員存在する。別に結楽だけに話しかけなくても、一気に全員に聞いても良いのに、職場体験中の中学生かこの警察は。
「七月十五日の二十三時、紅野奏さんは何処で何をしていたか知っていますか?」
七月十五日の二十三時。その時間は丁度第一被害者の山中絵里氏が帰って来ないと彼女の両親が警察に連絡をした時だ。
「えっと・・・その日は確か、」
「その日なら丁度奏はゴシックロリータバイブルの表紙の撮影やった。で、撮影がかなり疲れとったからアイツは飲み物が欲しいって言うとったから俺はスタジオの自販機までひとっ走りしてジュースを買ってやったんや。」
結楽の言葉を遮って愛煌がわざとらしく大きな声で話した。常零はメモ帳に愛煌の言葉をメモしていく。すると次は与愚が口を挟んだ。
「へー成る程。じゃあその時間帯は、七瀬先輩がその日唯一ルージュから目を離した時間帯って事っすか。」
「はっ・・・?」
与愚の一言でこの空間の空気が一気に凍り付いた。
「・・・ちょい待ち、目を離した時間言うたってほんの数分の事やで。そんな短時間で何が出来るっちゅうんや。しかもその時奏は一日の仕事をやっとこさ終わらせたところでかなり疲労困憊状態やった。いくら奏でも、そんな状態で殺人とか、誘拐とかが出来ると思うか?」
「ていうか、七瀬先輩もおかしいっすよ。何でそんな三日も前の事をそんな事細かく覚えているんすか。俺だったら二日前の二十三時何していたって言われてもそんなに素早く、しかもはっきりとは答えられないっすね。」
「そんなん今は関係無いやろ。下手にはぐらかした方が怪しいに決まっとるやないか。お前まさか、奏が犯人だとでも思っとるんか?」
この中で最年長、故に一番冷静な判断力を持っている愛煌の目が今だけは違った。完全に冷静さを失った、番犬とは名ばかりの狂犬の瞳。愛煌は与愚の胸ぐらを掴みにかかる。結楽はカウンター越しから愛煌の肩を掴み止めようとしたが何の効果も無い。悠夢も愛煌の背後から「ちょっと愛煌・・・」と小声で呼びかけるが、やはりそれも何の効果も無かった。常零は調査の事も忘れ一刻も早く亜夢宇をこの修羅場から遠ざけようと思い彼女の肩を掴みつつ後ろに下がる。
しかし当本人の与愚だけが、彼の表情だけが一番落ち着いていてその上其処には笑顔があった。
「あんたは何をそんなに焦っているんすか。何かを隠蔽するように、何かに怯えるように振る舞っているのはあんただけですよ、七瀬先輩。」
「だから俺は、奏が犯人じゃ無いって証明―――」
「あんたが、一番紅野奏が犯人だって疑っているんじゃ無いですか?」
「・・・なっ・・・」
与愚の胸ぐらを掴み愛煌の手が突如震え出した。憤怒の力が弱まり、其処には焦燥色が浸食する。与愚は自ら愛煌の掌を開かせ胸ぐらから手を離させた。
「その時間は確かに、その日唯一自分が紅野奏から目を離した時間帯だ。もしかして、二人目の被害者が出た時刻も丁度自分が紅野奏から目を離していた時間帯じゃ無いんですか?」
「ちが・・・違う、そんな、」
「あんたは相変わらず嘘が下手っすねぇ。図星だってあんたの顔にはっきり書かれてますよ。だから自分も心の何処かで彼を疑っている。だってあんたも、『ルージュは実は人肉嗜好者だ』って言われたら信じるでしょ?」
「与愚・・・ええ加減にせぇへんと・・・」
「あんたは紅野奏の全てを知る人間だ。故に、彼はどんな短時間でも人攫いでも人殺しでもやってのけるだろうって事も解るでしょ。」
「与愚さん、もうやめて下さいっ・・・」
「俺は、アイツが誘拐事件の犯人だって思ってるぜ。」
その瞬間、再び店内には痛い静寂が広がる。静寂、沈黙、混沌、暗い店内にはよく映える。悲劇の祭典の創立者、兼悲劇の祭典の中心人物である悠夢だけは何一つ口を挟めずに居た。何故なら今回彼はこの演目には何一つ関与していないその上、この事件自体が彼の予定に無い出来事だったから。悠夢は思う、今回の悲劇の演目の中心人物は自分では無い事。それなら誰の策略の演目か、彼は一人冷静にこの場に居る人物を見渡した。一際絶望の表情を浮かべる愛煌、耳を塞ぎ何も聞き入れたく無いと喚く結楽、遠目から悲劇に魅入る観客気取りの訪問者常零と亜夢宇、そして一人だけ不釣り合いな笑みを浮かべる与愚。果たして悲劇は何処に向かい、そしてこれから何処に矛先を向けるのか、非常に楽しみそれ以上に、酷い不穏感が悠夢の躯中を包んだ。
第十一章「怨念クリスタル」終