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第十章『天照サラーティー』

第十章『天照サラーティー』

said:かの世界一美しい核兵器

或いは、虚無空間の住人


 宵闇覆う空に舞う、闇にさえ溶けない堕天使の羽。その和毛さえ皮膚を突き破るナイフの破片となる。それが世界一美しい核兵器の最大の武器。魔は鉄の強度を誇る扇子でナイフの和毛から身を守る。しかし受け身ばかりでは詰まらない。そろそろ自分への先手を貰いたいのだが、奏は容赦無く隙も与えず攻撃を続ける。

「貴様、戦闘の規律がなっておらぬぞ。」

「黙れ。僕をそんなくだらない規律で縛りつけるな。」

 多くの人間から神として崇められている超人気歌手の彼も、こうして見るとただの矮小な子供だ。魔は彼の顔を見るなり鼻で笑った。

「何がおかしい。」

 奏は思わず右翼で魔の背後の壁を叩く。不安定な憎悪で美しい顔を歪ませると、魔の嘲りは骨頂へ増す。

「そんな不安定な精神で儂に勝てると思うたか。なんと浅ましい。」

「・・・黙れ、黙れ黙れっ!」

 透明な声を醜悪色に染めてトンネル中に轟かせる。一枚の羽が魔の首めがけ飛ばされた。羽は不気味な色のトンネルの灯りを赤黒く照り返す。ナイフのような固い羽が自分の首元めがけて飛ばされたというのに、魔は余裕な顔で微動だにしない。本来自分には感覚が無く死ぬ事も無いから、という事では無い。奏の憎悪も殺戮も全て否定して、彼の存在さえ否定しているかのよう。

 ざくり、と刃が人間の肉を突き刺す音がした。彼の守り神である筈の依月は振り返りもしない。それは彼が心から魔を信じ切って信仰しきっている証拠。皇は堕天使ごときに殺される筈が無いと。

「・・・愚かな。憎悪に振り回される程愚かな事は無い。」

 魔は喉に羽が突き刺さっているにも関わらず平然と喋る。そして己の手で喉に刺さった羽を引き抜く。無理矢理引き抜くと一緒に血肉も千切れたが痛みに顔を歪ませる事も無くそれもまた平然と引き抜いた。血で染まった羽は床に落とされる。奏は驚きと焦燥に目を見開いた。

「どう・・・して・・・」

「どうして?ふん、愚問じゃな。」

 言いしれぬ恐怖感に浸る奏に魔は一歩近付く。一歩また一歩と。奏の顔には恐怖が表れていたけれど彼は決してたじろぐ事は無かった。その恐怖を必死に押し殺して、どうすれば魔に一撃を食らわせる事が出来るか考えているようだった。しかし魔はそんな奏の勇敢さを踏みにじるように、扇で一体の妖魔を呼び起こす。

「所詮、人間の器で儂に敵う筈が無いということじゃ。」

 奏は左頬に突然強い疾風を感じた。それはあまりにも唐突な風向き。自然な物では無く人工的な物である事はすぐに解ったけれど、速すぎて何が何だか解らなかった。慌てて左を向いた時はもう遅かった。それよりも腹部が激しい痛みに襲われた。あっと云う間に口には己の血で溢れる。腹をおさえると分厚い衣服がしめっていた。まだ流れて間も無い温かい鮮血で。

「っ・・・かはっ・・・」

 強い眩暈がした。もうそのままの体勢を維持出来ないくらい激しい眩暈に。久しぶりに感じる死の恐怖。魔に出逢った時にしか感じない不快な感情。死期の吐息。それ以外に自分が畏れるものは無い。しかし彼だけが、いまわしい妖魔皇だけが与えてくる言いしれぬ恐怖。痛みと恐怖で全ての神経が震える。奏は口に収まりきらなくなった血液を地面に吐きだしその場で蹲り、とうとう音も無く倒れ込んだ。



「どうして奏さんと魔さんは仲悪いんですか?」

 射光の問いに悠夢はいかにも楽しそうに答えた。悠夢はまるで自分の事のように緻密に答えてきた。

「まぁ一言で教えられる程単純な関係じゃ無いんだよ、あの二人は。あの二人はお互いに様々な感情を持っている。多分俺も知らない事も考えている。だけどあえて一言でまとめちゃうなら『史上最凶の同族嫌悪』かな。」

 史上最凶の同族嫌悪。思わず射光と憂は頷いた。魔を初めて見た時も、少し奏に似ている物を感じた。しかしそれを二人に伝えれば危うく自分達も危ない目にあっていただろう。孤高の存在を思わせる端麗な容姿、常に上から目線な物言い、周りの空気さえ従えさせる滲み出る荘厳さ。勿論二人の個性もある。奏は美しさの中に何処か影、そして儚さがある。少しでも下手に触れてしまえば壊れてしまいそうな繊細さ。魔には絢爛な色の牡丹のように欠ける事の無い完全美がある。しかもその完全美は、完全でありながら強固である。どんな災厄が、どんな戦乱が起きても彼の美は頽れる事は無いのだろう。

「同族嫌悪かぁ・・・」

 憂はふと呟く。確かにあの二人が顔を合わせたところを想像して見ても、仲良く談話を交わすような雰囲気になれるとは思えない。勿論憂は奏と魔が喧嘩をしたとしても、断然自分は奏の味方をするつもりだが。

「あとは、云うなれば宗教感の違いみたいなもんかな。あの二人は根本的に物の考え方もとらえ方も価値観も違う。二人の容姿を見て解る通り、奏くんは神髄までゴシック一色さ。対して魔くんは大和のお貴族様のような豪華絢爛な平安文化一色。黄金の国ジパングっていう言葉をそのまんま擬人化したみたいな人だよね。東方キャラで表すならレミリアと輝夜?それくらい、二人が普通に生きていれば関わる事すら無かった筈の人間さ。それくらい価値観が違う人間が仲良く出来ると思う?今や宗教が違うだけで戦争が起きてしまう世の中さ。二人は顔合わせれば喧嘩という名の戦争ばかり。奏くんは専らゴシック信者、妖魔なんていう存在すら信じていないね。魔くんは妖魔皇、今でも古きよ日本家屋に住んでいて外国の物は食べ物すら嫌う超和風主義者。奏くんみたいな日本人は最も彼が嫌う人物だろうね。」

 まるで仲の悪い子供だ。自分達の考え方が異なるだけで相手を嫌悪するなんて。少しポジティブに考えて、自分とは全く違う価値観を持っている面白い人だ、と思えないのだろうか。平和主義の射光は思う。

「馬鹿だなアイツ、ルージュ様の素晴らしさが解らないなんて可哀想だ。」

「あはは、もしかしたら憂くんと魔くんも仲悪いかもね。まーでも、二人が顔合わせたら殺し合いを始めるくらい仲悪い理由はもう一つあるんだけどね。」

「何ですか?」

 悠夢はその場で一回転をし、前が開いたままの白衣をなびかせる。

「魔くんはね、ホロノイドなんだ。」

 悠夢の衝撃的な発言に射光と憂は思わず息を止めた。聞き間違いでは無いだろうか。魔は妖魔皇だ。ホロノイドとは人間の屍から作られるもの。妖魔皇である魔は人間の肉体すら持たないというのに、何故ホロノイドなのだろうか。しかし今悠夢にその事を質問したとしてもはぐらかされるだろう。

「だから魔くんは奏くんを殺せるのさ。その逆も然り、奏くんも魔くんを殺す事が出来る。それが何を意味するか解るかな?」

 悠夢の妖しく輝く銀色の瞳に戦慄を覚える。時々思う、ホロノイドでも妖魔でも無いただの人間の悠夢が一番恐ろしい存在なのでは無いかと。ただの人間が故にこの戦争を一番客観的に見る事が出来る。一番戦況、人々の思惑を理解している彼。

「二人は互いに思っているのさ。『相手は、唯一自分を殺す事が出来る自分に殺意を持った存在』だと。二人はホロノイドと妖魔皇。不老不死の性質を持つ。だから普通の人間が持っている死への恐怖を感じる事は滅多に無い。けれど、二人が顔を合わせた時に初めて感じる、膨大な憎悪の化身である殺意。それが二人を底なしの恐怖に、そして更なる憎悪に突き落とすんだ。」

 同じホロノイドである憂にはさっぱり解らない感情だった。憂は二人と違って生きたいと思って生き返ってホロノイドになったわけでは無い。だから死ぬ事は最大の安楽だと思っている。そして自分を死に陥れる事が出来る存在の少なさに絶望する。奏と魔とは考え方がまるで正反対なのだ。憂は自身の生きてきた軌道の刻まれた両手首を見詰めては握り締めた。



 愛煌は直ぐさま奏の命の危機を察知した。主人の命の危機、身の危険を察知出来るのは優れたホロノイドビッチの性質の一つ。愛煌が振り向いたその景色に血を吐きながら腹を抱えて蹲っている奏が居た。

「奏っ!」

 一秒でも早く彼の元へ行きたい。しかしその行動は依月によって遮られた。走りだそうとする愛煌の目の前に依月が現れる。

「目の前の敵より主人の安否の方が大切ですか。」

「当たり前やろ、主人の無事を護るのが俺の最低限の任務やからな。俺を怒らせたくなかったら早くどき。」

「何を馬鹿な事を・・・」

 依月は深く溜息をついた。その顔は純真そうな幼い顔らしからぬ冷めた表情。

「もうとっくに怒っている癖に。」

 冷めた目つきの依月の視界には奏の躯に傷をつけた特定の出来ない存在に無限の怒りを感じている愛煌。譬えそれが義理人情だと謳われても依月は姿の無い感情に身を燃やす彼に冷え切った視線を送る事しか出来ないだろう。愛煌は奏を傷つけたのが誰か見たわけでは無い。しかし十中八九魔の仕業という事は解る。だから今彼が走り出して向かうとしたら奏の元、そして次は魔の元だろう。だから依月は愛煌の行動を遮る。それも彼の最低限の任務なのだ。

「なんやほんまに察しの良い餓鬼やな。解っとるんならどいてくれへんかな。」

「解っているからに決まっているでしょう。一応皇の守り神ですから、皇に危害を加える者は片っ端から潰させて頂きます。」

 途端に響き渡る鋭い銃声二つ三つ。少し突然な出来事だったのでぎりぎりだったが見事に銃弾をかわす依月。依月程では無いが、冷静な性格の愛煌が突然銃弾を乱発させるなんて、明らかに怒りと憎悪に躯を支配されている証拠だ。

「先ずはお前を殺してから行けってか、全く面倒臭い事させやがって・・・」

 声はいつも通り落ち着いている。少し口調が変わっている気もするけれど。しかし彼から醸し出される雰囲気は、既に人外的だった。漸く面白い戦いになってきたと依月は感じる。今の彼の顔はまさにルシファーの番犬。



 静かな研究所の小さなこの部屋には時計は一つしか無い。悠夢の机の上の古びた置き時計。その時計に目をやると、既に朝の四時だった。もうすぐ朝刊の届く音がする頃。此処まで来ると逆に眠ってしまうと辛いような気もするのであえて眠らないでおこう。其処で射光は新たな話題を提供する。

「じゃあ、もしかして愛煌さんと依月も仲悪いんですか?」

「ああ、お互いの相方同士って事?」

 云われてみれば、憂も気になったのか身を乗り出して会話の輪に入る。悠夢は珍しく腰に手を当て真面目に考えている。どうやら悠夢にもはっきりとは解らない事象のようだ。

「さあー・・・どうだろう・・・あの二人が話している所ってあんま見た事無いもんな・・・」

 愛煌と依月が話しているところを想像してみる。どう見てもただの親子だ。三十過ぎの愛煌とまだ十二程の依月。悠夢と憂が親子って云われるよりこちらの方が親子って云われた方がよっぽどしっくり来る。とは云っても依月は自分は見た目より中身はずっと老けていると公言しているが実際はどうなのか射光と憂にはさっぱり解らない。

「だけど、どう何だろうね、あんまり仲悪そうには思えないけど。」

「確かに。」

 依月は結構辛辣なところもあるが一応が常識もあるし相手に気遣いも出来る見た目よりずっと大人びた性格だ。ましてや愛煌なんて、彼が仲良く出来ない相手は居ないのでは無いのだろうかと思う程彼は社交的だ。滅多な理由が無い限り仲悪いとは思えない。しかし其処は悠夢にも判別が出来ないらしい。やはり彼も人間という事で、彼にも解らない事は無いという事が。

「でも二人のご主人様があんなんだからね、自然と敵視しちゃっている可能性もあるかもね。二人ともそういう事には真面目だから。主人が敵だと思っている奴は敵だって平気で思いこんじゃうだろうし。」

「そうなんだ・・・」

 つまりは二人の不毛な争いの一番の被害者という事か。そのせいで変な常識を植え付けられている二人は少し可哀想だなと思いつつ、扉の辺りで朝刊の届く音を聞き届ける。

「それにね、俺は何もかもを知っているって訳じゃ無いんだよ。他者の心を読み取る能力があるわけじゃ無いから、君達の考えている事全てを知っている訳でも無い。俺は君達と違ってホロノイドでも、その契約者でも、皇様でも、はたまた神様でも何でも無い。ただの人間さ。ただの人間に出来る事なんてたかが知れているでしょ。そこんとこ計り間違っちゃ困るよ。」

 そう云って不敵に微笑み、柔らかな銀髪を靡かせる悠夢は確かにただの人間だった。しかし人間は核兵器を、皇を、神を自在に操る能力と権利を持ち合わせている唯一無二の存在である事を彼は知っているみたいだった。何処までも白い衣服に何者にも染められ易い銀色の髪、そして白雉の肌。悠夢は全てを知っている訳じゃ無いと云っているけれど、射光からすれば彼はこの戦争の全てを把握している戦神のように思えた。それに、射光には、憂には、悠夢が何を考えて何を思っているか何て何一つ知り得ないのだから。

「神様よりよっぽどタチ悪ぃよ・・・くそじじい。」

 憂は吐き捨てるように云った。その呟きには何一つ愛嬌は籠もっていなかったけれど、彼の横顔は少し悔しそうに歪んでいた。



 愛煌と依月。ルシファーの番犬と妖魔皇の守り神の戦いは熾烈を極めた。先程から何回も連射されている銃弾を全て避けきっている依月も凄いけれど、愛煌の手際の良さも目を見張るものがあった。依月は正直、避けるのに精一杯で先程から一度も攻撃をしかける事が出来ていない。愛煌はと云うと、ずっとあと一歩で避けられているという状況が続いている。あと少し彼の隙をついてやれば恐らく彼の躯を射抜く事が出来るだろう。普通の人間なら息の根を止める為には心臓部か眉間を狙うだろう。しかしホロノイドビッチ同士の戦いの場合は例外だ。何故なら彼らは契約を交わしたホロノイドにしか息の根を止めれる事が出来ない。だからより効率に戦闘を制するのならば、確実に動きを封じ込める事が出来る、足。特に依月は蹴り技が多い。足に一発でも弾丸を埋める事が出来たら此方の勝利同然だろう。しかし依月は蹴り技を得意としている分、何処の躯の部位よりも足の動きが素早い。まさにそれは疾風の中心部に弾丸を撃つような芸当。心臓や眉間を撃っても良いのだろうけど、恐らく彼の精神力の強さなら譬え胸や腹に風穴をあけられても攻撃を続ける。

幾度か依月と戦闘をしている愛煌なら解る。恐らく五十崎依月は、この世界最強の人間なのでは無いだろうかと。戦闘能力だけ見れば彼は妖魔皇にすら勝る。恐らく、世界一美しい核兵器にも。あまりまともに戦った事は無いのではっきりとは解らないが五十崎依月の強さは未知数だ。戦う度に彼の成長ぶりが解る。とは云ってもこうやってまともに長時間戦うのはこれが初めてだ。一見今のところ愛煌が押しているようにも見えるが、油断は出来ない。愛煌は手に汗を握りながらも拳銃を握り直す。一瞬でも隙を見せれば背後からでも真っ正面からでも彼は攻撃をしかけてくるだろう。少しでも集中力を失えば其処で終わりだ。

ホロノイドビッチは契約者にしか殺せないと云うけれど、五十崎依月の蹴りを脳天にでも食らえば頭蓋骨粉砕はするのでは無いだろうか。だったら、それは最早死に近い現象。寧ろ死ぬ事より苦しい事象。しかし彼の肉体はあくまで子供だ。攻撃力はともかく防御力はさほど高くは無い筈。愛煌は素早く彼の背後に回る。一瞬の出来事だった。依月はまだ自分が背後に居る事に気づいていない。千載一遇のチャンス。愛煌は己の鼓動と共に弾丸を発した。

しかし、依月はまるで後頭部にもう一つ目があったかのように、後ろを向いたままその場でしゃがみ込み弾丸を避けた。そんな馬鹿な、愛煌が驚きで一瞬硬直してる間に、依月は拳銃を持った愛煌の右腕に重い重い一蹴を喰らわせた。

ぐしゃっ。人間の内部から出てくるとは思えないグロテスクな音が愛煌の耳にまで届いた。刹那、右腕の組織が全て一気に破裂してしまったような恐ろしい破壊の痛みに襲われた。痛みのあまり喉も麻痺してしまったように声も出なかった。ただただ痺れるような右腕の痛みと破壊の悲哀に躯と頭は支配されその場に倒れ込んだ。勿論拳銃なんて持っていられる筈も無く、拳銃は虚しく地面に落ちた。

「っ・・・う、ぐ・・・ああぁっ・・・」

 漸く声が出たのは地面に倒れ込んだあとの事だった。それでも力のある声を発する事は出来ず、言葉を絞り出す頭も無く、噛み砕いた断末魔がトンネル中に響く。骨が二、三ヶ所折れているとか、そんな生やさしい物では無い。腕の中の筋肉も筋も全て破裂しているのでは無いだろうか。もしくは彼の足が当たった部分の骨は全て粉状に粉砕しているのでは無いだろうか。それ程深刻な痛みだった。それにしてもこんなに細い足の何処にそんな力があるのだろうか。恐らく今のは正真正銘五十崎依月の本気の一蹴だった事には間違い無いのだろうけれど、同じホロノイドビッチである愛煌だって一応は人間核兵器の一種だ。普通の人間の数倍は丈夫に出来ているのに、そんな人間の腕を一蹴でこれほど破壊出来るのだから。恐らく普通の人間の腕を彼が本気で蹴ったら腕だけそのまま何処かに吹っ飛ばせるだろう。愛煌はひたすらに痛みに悶えていて、それでも奏の安否の方が心配で、何とか顔だけはあげて奏の方を向く。しかし愛煌の頭上に、先程腕を蹴り上げた足が現れた。足は愛煌の頭を踏み、彼の顔面を地面に擦りつけさせた。

「今回の僕の仕事は犬の足止めをする事です。とりあえず貴方の動きを封じ込める事は出来たのでこれ以上は何もしません。貴方がこれ以上無駄な動きをしなければ。なので、犬は犬らしく地面に這い蹲って主人の迎えを待っていてください。」

 反論をしようと開けた愛煌の口にはトンネルの中で日の目を見る事が出来ず湿った砂利が入り込む。まだあどけない子供の足なのに、その重さは大きな岩のようで、とても重傷を負った躯では持ち上げる事は出来なかった。彼にとっては少し力を入れている程度でしか無いんだろうけど、何て重量なんだろう。

 こんな状態では今奏がどんな状態なのかすら解らない。せめて顔を上げて奏の状態を知りたい。歯を食いしばって何とか顔をあげて起き上がりたいのだけれど、その度に依月は足に力を入れてくる。更に顔面を地面に埋めようとする。最早腕として機能していない右腕で躯を支えようと躍起になるけれどがくがくと怯えるように無力に震えるだけ。

 くそっ・・・俺は、こういう為の番犬なのに、一番大事な所でどうして・・・・

 怯えている訳では無い。何かに畏れている訳でも無い。自分の無力さが憎らしくて怒りで震えているのだ、自分自身に。

「諦めの悪い犬ですね。まぁあんな幼稚で無能な人間に犬の躾なんか満足に出来る訳も無いですからね。無理も無いか。なんだったら僕が『待て』から教えてあげましょうか?」

 頭上から降りかかる冷たい子供の声。ふいに心に突き刺さる。しかし今は傷心悔恨に嘆いている場合では無い。何とかして主人の元へ駆けつけなければ。どんなに惨めな姿でも、敗戦の記録しか無くても、それが主人への忠誠の証。

「そんな、俺は子供と遊んでやれる程お利口な犬や無いで、悪いな坊ちゃん。あともう一つ云わせて貰うと・・・」

 痛みに、不安に畏れに震えている事の無い真っ直ぐとした声。地面に底深く響く凛々しく低い声。無傷な左手で頭を踏み続けている依月の左足の足首を、強く強く握りしめる。握力だけで小枝を折るように強く強く握りしめると、未発達の足首の間接はみしみしと音をたてて痛んだ。依月は突然の痛みにふいに頭から足を離した。しかし尚も愛煌は依月の足首から手を離さない。寧ろ振り払う為に足を振ると益々握力を強めた。

「俺、自分を悪く云われるのはどうでもええけど、仲間を悪く云われたらほんまに許せない主義やねん。特に奏はな。そこんとこよう覚えておけや。」

 ばきっ。愛煌の右腕を破壊させた依月の左足の関節は案外容易く壊れた。突如の痛みに思わず依月は声を引きつらせその場で座り込む。愛煌が依月の足から手を離す。彼の手の部分だけが見事に青紫に変色していた。

「あんた・・・大人げ無いですよ・・・」

「何云うてんねん。俺よりずっと年上なんやろ?都合の良い時だけ子供使うなや。」

「それにしたって・・・本気でやらなくても・・・」

「自分やってめっさ本気で蹴ってきた癖に。」

 最早二人は完全に戦意消失していた。愛煌は相変わらず右腕の痛みに悶え、依月は立ち上がる事さえ困難な状況になった。不思議な事に、愛煌と戦う相手はいつもこうなのだ。本気で戦い、互いが戦闘不能になるまで戦い続け、そして戦いが終わったあとは何故か普通の友達同士のように喋り合う。主についさっき繰り広げた戦闘について。まるでバトル物漫画の主人公のよう。

 ふと愛煌は奏と魔の方へ振り返る。しかし既に二人の戦いの決着もついた後のようだった。トンネルの中は普段通りの深夜の静けさを取り戻していた。



 愛煌と依月が絶賛真剣勝負の最中、此方も同じように戦闘の真っ直中だった。しかし奏が魔の攻撃を一発くらった所で、既に勝負はついたようにも見えていた。奏は自分の腹から流れ出てくる止めどない血液の温かさを感じながらも、未だに負けを認めた訳では無かった。奏は独りでに腹を抱えながら立ち上がった。魔はそれで当然のような顔をした。そうでなければ張り合いが無くつまらない。

「お前・・・僕をただの人間の器と云ったな・・・」

 トンネル中に響く美しい透明な声。

「その通り。貴様は儂と違う。譬え人間核兵器と名乗れど、元々はただの人間に変わりは無い。」

「そうか、ではお前は人間では無いと認めるのか。」

「何を当たり前な事を。儂は妖魔の皇だぞ。」

 魔は声を張り自分の地位の高さを知らしめる。それ以上の誉れは無いと自負するように。しかし奏はうつむきながらも嗤っていた。その笑みは嘲りの意味と取れた。

「何がおかしい。」

 魔は閉じた扇を奏の方へ向ける。

「そうか、妖魔の皇か・・・それはそれは、何て弱小な器なんだろうな。」

「何だと・・・」

 奏は何かにつけて妖魔の事を、魔の事を侮辱する。それは魔も同じ事。魔は人間以上に弱い生き物は居ないと考えている。所詮は人間は妖魔の力に勝てる事は無い。人ならざる力を彼らは持っているからだ。しかし、何故ただの人間に過ぎない奏はこんなにも妖魔の皇に余裕を持っているのだろうか。強い屈辱を感じる。

「貴様、皇を侮辱するとは良い度胸をしておる・・・もう本当に息の根を止めてしまおうか。」

「出来るのか。弱小な妖魔ごときに。」

「貴様を殺せるのは儂だけだ。そんな事頭の悪い貴様にだって解っている事だろう。」

 魔の隣には、先程奏の腹を切り裂いた鎌鼬が控えている。皇の命令さえあれば今すぐにでも奏の首を斬ってしまう事も出来る。皇の一つの命令だけで奏の命は直ぐに絶やす事が出来る状態だった。それにも関わらず奏の顔には余裕の笑顔があった。

「お前にだって解っているだろう、妖魔は永遠に人間に敵わない生き物である事。」

「その発言は訂正させて貰うぞ。妖魔が人間に敵わないなど、そんな非常識誰に教え込まれた。」

「僕自身の常識さ。僕は僕が作った常識にしか囚われない。」

「貴様には常識を教えてくれる人材が居ないだけじゃ。全く、哀れな下等生物め・・・」

「妖魔は何で今妖魔界に閉じこもっている?それは人間に住み処を奪われたからだ。神々は何故天から降りて来ない?それは人間達が信仰心を無くしたからだ。人間の行動、そして思考に一番囚われ、縛りつけられ、振り回されているのは愚かな人間ならざる生物だ。所詮妖魔は人間に勝てはしないのだ、そんな事、皇であるお前が一番理解しているだろう。まぁ、理解していても信じたく無いだけかも知れないけどな。」

 奏の背には再び黒銀の翼が生えていた。命の危機と、そして己の信仰心によって作られた下餞で、それでいて何処までも美しい武器。真っ直ぐ天に向かって伸びる両翼。夜の天に恋焦がれて戦い続ける堕天使。

「僕は違う。人間にも、神にも信仰にも囚われない、僕は永遠に僕自身の神であり続ける。」

 いくつものナイフの羽が魔とその隣の鎌鼬へ飛ばされる。鎌鼬は羽を避けきれず躯の二、三カ所に羽が刺さり黒い血液を飛び散らせながら煙のように静かに消失していった。全く軌道の読めなかった今回の奏の攻撃。魔は自分自身の感覚を消す事も、瞬時に結界を張る事も忘れ扇で攻撃を防ぐ事しか出来なかった。しかしそれでも防ぎきれなかった羽が一本、魔の腹部に衣服も突き破り刺さる。

「っ・・・ぐ・・・」

 余り無様な声をあげる事を好まない魔は必死に声を抑えたが、それでも鋭い腹部の痛みに耐えきれず血を口に吐きだしながら噛み砕いた声をあげる。真正面に、同じように口端に血液を垂らし腹を赤く染めた奏が立ちつくす。

「これで同点だ。」

「貴様・・・手を抜いたのでは無いか。本当なら儂の心臓にでも刺せば儂を今此処から消滅する事が出来たでおろう。」

 奏は腕を組み、何かを考えながらぽつりぽつりと呟いた。

「どうせお前を殺すなら、もっと圧倒的な結果で殺したい。」

「は?」

 思わず魔は気の抜けた声を発する。

「僕は無傷のまま、こんな普段着みたいな服じゃ無くてもっと綺麗な服を着て、それでお前を心ゆくまで痛ぶって殺したい。」

「・・・相変わらず貴様は、幼稚だ。」

 呆れて何も云いたくは無かったが、魔は奏の耳に聞こえるように呟いた。するとかちんっと奏の頭の中で何かがはち切れる音がした。

「誰が幼稚だ、これ以上僕を怒らせると本当にお前の息の根を止めるぞ。」

「ほう、やってみろ。もっと綺麗な服で儂の事を殺したいのだろう?」

「気が変わった。今此処でお前を殺す。」

「残念だがもうすぐ日の出の時刻じゃ。儂は退散させて貰う。」

「待て、逃げるのか、今更死ぬのが恐くなったのか?」

「子供は早く帰って寝ていろ。」

「こど・・・僕は子供じゃ無いっ!」

 其処でムキになる辺りが子供なんじゃ無いかなぁ、と腕の回復を待つ愛煌は思った。奏も魔も案外元気そうだ、良かった良かった。

「依月、帰るぞ。」

「はい、皇。」

 依月は左足を引きずりながら魔の元へ歩く。折れているか脱臼しているかだとは思うのだけれど、痛いと一言も言わず引きずりながらでも歩ける彼はやはり相当だ。魔は依月に手をかす事も無くただ隣で歩かせる。奏はそんな二人を横目で追いながら、愛煌の方へ走る。いきなり走ると腹の傷が痛んだ。重く鈍い痛み。その場で蹲りながら、何とか愛煌の元へ行く。

「七瀬、大丈夫・・・」

「待て、それはこっちの台詞や。大丈夫か?血滴ってるで。」

「何てことは無い・・・」

 とは云うが顔色も悪く相当痛そうだ。魔にも同じ傷を負わせたが、あちらは羽一本で腹を少し刺しただけだ。しかし此方は鎌鼬にかなり大きな傷を負わされた。やはり此方の方がダメージは上だ。奏の歩いた後にはいくつもの血痕が染みついている。

「全く・・・無理しおってからに」

「お前もだろ・・・大体、お前が一番重傷だ。」

「俺はええんよ、こういう時の為に俺がおるんやろ?」

「違う。お前は僕に罵られる為に居るんだ。」

「そんなんやったら今すぐにでもホロノイドビッチやめさせて頂きますわ。」

 愛煌は喉を振るわせ笑いながら云った。奏を小馬鹿にしたような笑い方で、奏は思いきり愛煌の右腕を握った。痛みで愛煌の躯は震える。

「いった!何すんねんアホ」

「お前が、」

 奏の様子が変だ。何でかは解らないけど変だと思った愛煌は奏の方を振り返ろうとしたが、それは奏の手によって阻止された。

「お前がそうやって、反抗してこなきゃ、罵っても面白く無いだろう・・・・」

 何を馬鹿な事を心配しているだろう。愛煌はどんなに戦っても、どんな大怪我を負っても死ぬ事は無いし、其処から消える事も無い。愛煌は奏にしか殺せないから。だから何を余計な心配をしているのか、そんならしくない感情を抱いているのか、有り難い半分不思議に面白くて愛煌はまた隠れて笑った。

「心配せんでも、俺はお前にしか殺されへんよ。」

 愛煌は無傷な左手を小さな奏の頭の上に置いた。



「皇、怪我が・・・」

「なに、大した事は無い。」

 魔は感覚を消しているみたいで、腹の部分の着物が赤く染まっているのに少しも痛そうにせずに歩いていた。依月は相変わらず左足を引きずって不安定な足取りで魔の歩みについてきている。

 魔はふと、自分自身の右掌を開いて見詰めた。この掌は何によって作られているのだろう。余りにも精巧な作りで、それは一つの魂の具現によって作られた物とは到底思えない。しかしこの体も、顔も、そして思考さえ、全ては一つの魂によって作られた産物。そして贋作。所詮はこの感情も感覚も、人間として生きていく為の贋作。ふと先程の奏の声が蘇る。腹立たしい程に凜とした声で。


『妖魔は何で今妖魔界に閉じこもっている?それは人間に住み処を奪われたからだ。神々は何故天から降りて来ない?それは人間達が信仰心を無くしたからだ。人間の行動、そして思考に一番囚われ、縛りつけられ、振り回されているのは愚かな人間ならざる生物だ。』


 勿論その事を自覚していなかった訳では無い。寧ろ常日頃から魔が気にかけていた所を奏は何一つ飾らず言葉にしてみせた。一つ前の時代に日本は大きな戦争を起こした。それが一番の、妖魔が住む場所を失うきっかけだった。もっと昔は、人間と自然が共存しあってた頃は妖魔も共に生きていた。この世界で。でなければ妖魔界なんていう世界は元々生まれなかった。妖魔界は住み処を失った妖魔の住み処に過ぎない。仮住まいでしか無いのだ。本当なら妖魔は人間界で産まれ生きてそして死ぬ事が出来た。それが人間の一つ一つの行動に生死を定められるようになったのは何時頃だろう。妖魔に関心を無くし信仰を無くし、そうして妖魔の存在を認めなくなったのは。

 魔は思う。全ての妖魔が消え、そして皇である自分の存在を認められなくなったら、誰にも自分の存在を認知されなくなったら、勿論そうしたら自分は消えるしか無い。だとしたらそれは誰かによって殺傷されるより、ずっと悲しい終わり方。死よりずっと虚しい何か。

「消えませんよ。」

 右隣の依月の声。脈絡の無い発言だった。しかし思わず依月の方を見ずにはいられなかった。

「皇は、消えませんよ。僕にとっての神は貴方しか居ません。僕はもう、この世界では色んな物を失い過ぎた。それでも僕はこの永遠に続く命とずっと共に歩む事が出来ているのは貴方が居るからです。僕は貴方しか信じられないから、貴方の傍から離れられないんです。」

 誰かが云っていた。自分自身の神は自分自身でしか無いと。それは、彼は自分自身しか信じていないという事。だけどそれが、自分とは違う他人であったら、それは何て不安定な幸せだろう。

「・・・聞こえていたのか。」

「ええ。貴方の声を聞いていられる程余裕のある戦闘でしたから。」

「そんな怪我をしておるのにか?」

「これは・・・不意打ちです。」

 魔は視線をおろし、依月の紫に変色した足首を見てくすっと笑う。依月はそんな不敵な魔の笑みを見て悔しそうに舌打ちをした。それでも彼は歩みを止めない。譬え歩みを止めても魔は自分を待ってくれないと解っているから。だからどんなに不安定な足下でも歩みを止める事は無い。でないと、魔の隣には誰も居なくなってしまうから。

「・・・人間の感情は世界で一番信用出来ぬ。」

 魔は溜息のように呟いた。

「僕は人間に部類されるんですか?不老不死ですけど。」

「一応器は人間であろう。」

「でも何百年も貴方の傍から離れていませんよ。これからも離れるつもりはありません。僕の言葉はどれくらい信用出来ませんか?」

 魔は暫く何も返答せず、ゆっくりとした歩みをそれでも止めず依月と合わせるように歩いた。

 もう遠くの東の空は明るかった。目をくらませる程でも無い柔らかく温かい光。二人の背後からついてくる長い影。

「信用させたくば、儂の歩みに付いてこい。」



第十章「天照サラーティー」終


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