第一章『頽廃ナイトメア』
『デカダンス・ローズ』は現代日本を舞台に人間とゾンビと、それから妖魔、その他諸々怪人たちのバトル劇を中心としたカオスファンタジー小説です。
グロテスクな表現が多々含まれますので苦手な方は予め御了承下さい。
また、ほんの微量にBL表現も含まれています。気にならない程度だとは思っていますが、苦手な方はこちらも御了承下さい。
感想、意見は気軽に申しつけ下さい。
それでは、少しでもお楽しみいただけますように・・・
ロリヰカ
デカダンス・ローズ
第一章『頽廃ナイトメア』
said:かの逆説弄する少年
1
他人と同じ事が嫌いだった。自分は自分という確執を常に持っていた。他人が敷いた線路の上をただ歩く事程屈辱的な事は無い。仕来りが何だ、伝統が何だ。そんな古ぼけた道理で俺の人生を決められては困る。俺は俺だ。一人の人間なんだ。新しい道くらい自分で作れる。
だけど、俺が最も嫌いなのは、自分の意志を公言出来ない、実行にうつせない、矮小な自分自身。
だからこそ俺は、「20010年 住んでみたい街ランキング ワースト1」に選ばれたこの街を上京先に決めたんだろう。初めて他人の意思とは真反対の事をしてみた。予想以上に今の気分は清々しい。しかし不思議と心には虚無感があった。塗り残しのある絵画の様に、無機質な自分が見えた。電車の窓硝子に映る自分の顔は曇天の元の木陰。俺は何を畏れ戦き、不安でいるのか、解らないまま電車は原宿駅に到着した。俺は、これから東京で一人暮らしするには余りにも簡素な荷物を手に取り、背中に沢山の不可解な視線を感じながら下車をした。
2
少年の鼓膜を震わすのは原宿駅に響き渡る軽快な音楽、アナウンス、機械音、お喋りな住人達。自分の知る顔が何処にも無い事に微量の不安を覚えつつも、駅の出口に繋がる階段へと足を踏み出した。時刻は午後六時。腕時計の針がそう教えてくれた。恐らく次来るのが原宿駅の終電だろう。駅には帰路へ急ぐ人で溢れかえっていた。知らない人間の匂いに噎せ返りそうになる度に肩をぶつけた。それはまるで一種の挨拶のよう。
原宿は買い物施設がかなり充実しているということは知っている。だけどどんな店がどれくらい存在しているか何て、田舎村から村人全員の反対を強引にも押し切って此処までやってきた少年が知る筈も無い。中には少年の荷物よりも沢山の買い物袋を持った人にもすれ違った。
少年はもしかしたらとんでも場違いな世界に来てしまったのかも知れないと言う得体の知れない無形状の不安に包まれた。原宿を新しい住処に選んだ理由は「住んでみたい街 ワースト1位だったから」つまり「他人とは真逆のことをしてみたかったから」。それだけに過ぎない。
今なら引き返せる。今ならまだやり直しが効く。少年は今更自分自身の掌の氷度に気付いた。そして自身の爪で氷を砕くと、真っ新だった心に機心が浮かんだ。考えてみれば、自分に畏れる物は何も無かった。少年にとってに喪うものはもう何も無い。少年は既に全てを喪ったあとで、今からそれを取り戻しにいく。ただそれだけの事。思えば少年は、自分の居場所なんてものは持っていなかった。自分の故郷だって、あんな場所自分の居場所だ何て思っていない。「常に懐かしみ愛おしい存在」が故郷だとするなら、あの村は少年の故郷では無いのかも知れない。だからと言って、原宿(この街)が自分の新たな故郷になるとは、今は到底思えないのだ。いや、そんな後ろ向きの発言をしている場合では無い。これからしていくのだ。沢山の出逢いと思い出が待っているであろう、この街を。
揺らめく血色の太陽は西方に半分顔を沈め、静寂に嗜虐の舞台を彩る。その不気味さに身震いしながら、人々は駅へと急ぐ。制服姿の学生カップル、カジュアルな春服の女性、一段と目を引く残酷趣味なドレスの少女。つい数時間前まで楽しい時間を過ごしていただろう人々も、一様に焦燥の表情を浮かべて駅の改札口を抜ける。沢山の人工風で身を切らせながら、交差点を渡る。車も通らない、信号も動かない、無愛想な交差点を渡り、『頽廃の街』の中心部へと足を踏み入れた。
さて、果たして原宿に宿泊ホテルがあるのだろうか。驚かれるかも知れないけれど、少年は原宿に訪れる今の今まで一度たりとも原宿について調べたことが無い。原宿が今まで大変な目にあっていた、それだけは新聞で見たことがある。しかしそれまで「原宿」という街の名前すら知らなかったのだ。行き方だって、駅員さんに何度も繰り返し教えて貰いながら知った。辺鄙の田舎村で育った俺に携帯電話なんて見たことも触ったことも無い。勿論今だって、持っているわけも無い。少年は当たり前と思っていたが、テレビ何て、村長の家に小さいの一つしか無い国宝級に貴重な物なんだと思っていた。だけど違った。少年の育った村はそうまでして、村と外界の情報網を遮断したかっただけだったんだ。どんだけ寂れた村なんだ、と思われるかも知れない。それほどまでに閉ざされた世界で我慢して生活してきたんだ。これからは若者らしいまっとうな人生を送ろうじゃ無いか。少年は真新しいスニーカーで一歩一歩噛みしめるように原宿のアスファルトの上を歩む。行き交う人々と全く逆の方向を。
3
原宿は昔まで、日本を代表する人気の観光街だった。いや、勿論今でもだ。しかしそれは表の顔に過ぎない。この街は昼の顔、そして持ってはならないもう一つの夜の顔がある。きっかけとなる事件は五年前。「2005年最悪の事件」と呼ばれるその事件は負傷者数名、死亡者約五万人という多大な被害者を出した。数値を見て解る通り、明らかに負傷者より死亡者の方が人数が多い。それは「ゾンビ化」と言う現象を理解して貰えれば直ぐに理解して貰えるだろう。
それは5月4日の夕暮れ時の原宿にて起きた悲劇。ゴールデンウィーク真っ直中の竹下通りはいつも以上に沢山の人で賑わっていた。学生服のカップル、買い物中の家族、春先の風を楽しむロリィタ姫、彼らは何も予想していなかった。だからこそこんなに単純な休日を事を楽しんでいた。まさかこの瞬間が己の幸福論の最終章になるとも知らずに。
とある男性の頭頂部にひらりと舞い降りた白い粉。重量はほんの1グラムにも満たない。だから男性は自分の頭に恐ろしい殺人兵器が仕掛けられた事など微塵も気づいちゃいなかった。やがて男性が、ただの人間が些細な殺人兵器によっておぞましい殺人兵器になる事になろうとも。男性は数分後、聞く者を恐怖の底に落とすような呻き声をあげながらその場で蹲ったかと思うと、皮膚に真っ赤な発疹が現れた。その発疹は瞬く間に体中の皮膚に広がり始める。その頃には男性は歯を食いしばりながら、更なる苦しみに悶え始める。一体何が、何処が痛いのか、苦しいのか、見ている者には何も解らない。その男性と共に行動していた女性は、突然過ぎる彼の変化に驚きを隠せず、震える指先で携帯電話で救急車を呼ぼうとした。その時、彼女は足首に強烈な痛みを感じた。何か刃物で突き刺されたかの様な鋭い痛み。ふと視線を足下にやると、地面で苦しみに悶えていた男性が自分の右足首に歯をたて噛み付いているでは無いか。その時の男性の形相は、人間と呼ぶには余りにも野蛮で奇天烈だった。既に眼球は血液に染まりきっていて、発疹だらけの頬には赤黒い泪が伝っていた。発疹が余りにも皮膚の上に無数にあるものだから、皮膚が赤に染まったかのように見える。否、実際に真っ赤に染まっているのかも知れない。真っ赤に染まりきった部分の皮膚は濃塩酸がかけられたかの様に、いとも簡単にずるりと溶けて地面に落ちた。其処から見える肉のグロテスクさと言ったら無い。幾年も太陽の下に放置した生肉だってこんなに異様に腐爛するだろうか。言葉ではとても言い表せない奇妙奇天烈な黒で、元々それが人間の何処の部分の肉だったのかも解らなくなるほど無秩序な形に変化するのだ。彼女は驚きと恐怖の余り臭いなど気にする暇は無かったのだが、恐らく彼の腐爛した体からは惨い臭いがしていただろう。真っ赤な発疹は爛れた皮膚の下の肉にまで及んでいた。口の中にも、瞼の裏にも、爪の中にも。最初の方に表れた発疹はもう赤と云うより黒色に変化していた。とうとう彼が本当に元々人間だったのかすら、怪しくなってきた頃、足首に噛み付かれた彼女にも発狂したくなる程の苦しみが襲ってきた。それはとても言葉で形容するには難しい痛み苦しみだった。体の何処とも云えない部分が兎に角痛い。体の内部に膨大な病原菌を持った寄生虫がぐるぐると血液に乗って巡る様で、その場で電気ショックの処刑にかけられているようで、どうにも出来ないから彼女は断末魔の叫びをあげた。ふと彼女はとてつもなく自分の喉が渇いている事に気づいた。しかし自分が欲しいのは清潔な冷水でも、甘い果実のジュースでも無い。今自分の喉を潤す事が出来るのは、自分にもどろどろと駆けめぐっている血液。不衛生でどうしようも無く背徳な味の、他人の血液が、もっと云えば取り立ての人肉が欲しい。勿論彼女は人肉も、他人の血の味だって知らない。だからそれが美味しいのか、自分にとって本当に欲しい物かさえ解らない。だけど兎に角彼女は心から欲した。人間の血が、生きている人間の肉がこの渇欲を満たしてくれる唯一無二の存在なんだと。彼女の思考は既に人間の物では無かった。だから彼女は自分の背後に居た見ず知らずの人間の喉元に噛み付いた。その行動も既に人間の物とは到底思えなかった。その頃には既に彼女の皮膚は、形相はとても人間離れしていた。そうそれは、まさに生きる屍。アンデットとも呼ばれる存在で、一般的には「ゾンビ」とも呼ばれる化け物の一種。そんな化け物が原宿竹下通りを拠点に現れた。理由は誰にも解らなかった。その時は。何も解らない無力の衆は直ぐに生きる屍の衆と化した。
恐怖を前にした人間程無力な存在は無い。無力なだけならまだ良い、更に被害を広める存在になってしまうなら、もうそれから恐怖へ抜け出す出口は見失ってしまう。この原宿ゾンビ襲来事件はそう言う啓示を全世界に届けてくれたかのように思う。恐怖に戦く人、逃げ遅れる人々も全て更なる被害を広める存在になった事は容易に想像出来るだろう。ゾンビは瞬く間に原宿中に広がった。こればかりは警察もお手上げという状態で、事態は暗黒化し続け東京も壊滅かと密かに囁かれた。
しかし唯一の幸いが漸く訪れた。ゾンビは日の光の下では生きられない。朝日が昇る時刻になると、街を放浪していたゾンビは次々と地面の下へ消えていった。原宿に漸く安楽が訪れた瞬間だった。ほんの一握りの生存者達は生まれて初めて、朝日の光に泪したことだろう。痛いくらいの静寂が死臭漂う原宿を包んだ。事件の悲痛さを無言で語る死体の存在はない。ただ其処には誰とも知れぬ悪血の染みがアスファルトに広がるだけ。
4
少年は原宿ゾンビ襲来事件の存在は知っている。しかし其処にどれ程残虐で無慈悲な景色があったのかは知るよしも無い。それは決して彼が田舎村で育っていて情報メディアに欠けていたからという訳では無い。喩え当時東京に居て自宅のテレビをつけていたからと云ってその景色を目に映す事は出来ない。あの時原宿に居た人間は大抵生きる屍、死んだ殺人兵器にされていたんだから。それでも「負傷者数名」という事は少なからず生存者が居たという事だ。その者から話しを聞く事は出来るのかも知れないのだけれど、ただで話を聞けるとは思えない。この世かあの世かの奇怪絵図を目に焼き付けたのであれば、通常な精神状態で居るとも到底思えない。少年も、本当にゾンビがこの街を襲ったのか。一体それはどんな状況だったのか。興味が無い訳では無い。しかし、興味本位だけで探索するような軽い事では無いという事は想像出来るので、これ以上詮索のはよそうと思う。これからこの街で暮らす事になるなら、嫌でも真実に触れられる事が出来る気がするのだ。
日が沈みかけている今、週末にも関わらず外に人一人居ないこの状況を見るに、やはりただごとでは無い事は容易に感じられる。
とりあえず明日朝になったら携帯電話を買おうと思っている。東京で一人暮らしするのに携帯電話が無いのでは馬鹿にされるどころの話では無い。自慢では無いが、金だけはある。表参道口の側に携帯ショップがあったような気がした。既にこの時間には閉まっていたけれど。だから明日朝になったら其処へ行こうと思う。なのでこの夜を過ごす為の場所が欲しいのだが、このぶんだと既にホテルも閉まっている気がする。しかも見渡す限り宿泊施設も無さそうだ。とりあえず、何処でも良いから建物の中に入れて欲しい。何やら不気味な空気を感じるのだ。この宵闇に包まれた静寂の街から。もし、本当にゾンビが居て、そのゾンビは人肉を喰らう恐ろしい化け物で、日の光を嫌うとするのなら。だとしたら、日が沈み夜になると再び地面下から現れるのでは無いだろうか。道理で妙だと思っていた。原宿駅だけ十八時で終電だし、みんな一様に夕焼けが空を染めたと同時に家路へ急ぐのだもの。少年はうなじに冷たい空気を感じた。視界がぐらりと歪む、不安と恐怖で。この時ばかりは世間知らずな自分を本当に恨んだ。事前に調べない自分がどんなに浅はかだったかと全力で後悔した。しかし自責の念に押しつぶされている場合では無い。もうどんなに劣悪な環境でも構わない。兎に角自分をかくまってくれる屋根と壁が欲しい。少年は必死に周りを見渡した。右側には大きな道路。車は一つも通る気配も無い。左側は連なるシャッター。日がある内は沢山の店と人で賑わっている場所なんだろう。しかしカラフルな店舗も今は全て同じ鉛色。
少年はふと、一つだけ鉛色に押し潰されていない建物を見つけた。それは路地裏に通じるであろう道の角にぽつんとある廃ビル。こんな華やかな街の華やかな大通りに何故こんな小さな廃ビルが取り壊されていないのか不思議だ。いや、何処かの誰かが契約したあとなのかも知れないけれど。少年はそっと廃ビルの扉に手をかけた。運良く鍵はかかっていない。少年は心の中で小さくガッツポーズをすると、扉を開き中に入る。予想はしていたが、暗くて埃まみれの宿屋にするには余りにも御座なりな建物だった。しかしこちとら命が掛かっているんだ。そんな事気にしている暇は無い。明日こそはちゃんとホテルを探しておこう。というか、さっさと何処か部屋を借りよう。何度も言うけどお金はあるから。少年は小さく膨らんだボストンバックを枕にして、冷たく堅い床に横たわり瞼を閉じた。と、少年は慌てて体を起こし、再び扉に手をかけた。危ない危ない、鍵をかけ忘れるところだった。少年は確認しながら鍵をかけ、今度こそ横たわり瞼を閉じ、眠りの世界に入っていった。
5
何処か遠い世界で誰かと誰かが戦争をしている。寝ぼけ頭の少年はそういう風に聞こえた。しかしそんな事気にも止めず再び眠りに入ろうとした。遠い世界から沢山の軍隊の足音と、断末魔と、何か肉が切れて血が飛び出す音が聞こえてくる。しかしよくよく聞いてみると、それは大して遠い場所から聞こえている訳では無い事に気づく。そしてよく考えてみると、それは大変な事なのでは無いかと気づく。気づくのに遅すぎた。少年は飛び起きて扉の硝子部分から外観を確認してみた。
ごく普通に街を歩くのは腐爛しきった人間の死体。皮膚が黒く澱み歩く度に剥がれている皮膚が揺れ、何より醜悪な顔面。とてもじゃ無いけれど普通の思考の持ち主の少年は目が当てられない産物だった。しかし異様な景色はそれだけでは無かった。ゾンビ達は一様に何処かに向かっているみたいだった。其処は少年の視線の直ぐ其処だった。其処には、少年と変わらない年齢程の人影があった。暗くてよく解らないけれど、後ろ姿からして男だろうか。彼は両手に何か持っているみたいだった。シルエットからして、大きな鎌みたいな物。そんな物持って、まさかゾンビ達と戦うつもりなのだろうか。そのまさかだった。彼は鎌を大きく振ってゾンビ達の体のいたる場所を斬りつけていく。どんなに恐ろしい容姿をしていたって、所詮は一度死んだ身。ゾンビ達は一度体を傷つけられただけでその場で倒れ込んでいく。傷つけられた箇所は様々だ。胸部、腕、腹、中にはうっかり首をはねられた者も居る。大鎌の彼の動きもまた異様だった。それはまるで一種の舞踊のようにも見えた。いかにも重そうな鎌を両手に持っていながらも、素早く走ったり飛んだり、華麗に回ったり。彼が動けば動くほど鎌の届く範囲も広がる。そしてゾンビの群れは忽ち斬られていく。何故近づけば危ないと解っていながらもゾンビ達も彼に近づくのだろう。実に不思議な事態だ。少年は何となく、大鎌の彼に不思議な雰囲気を感じとっていた。やはり暗くて遠くて、扉を隔てている所為でよく解らないけれど、ひどく背徳的なのにひどく美しいと思ってしまうのだ。罪悪を好む少女の様に、棘を持たない黒薔薇の様に。触れてみたいのに、触れてみたら自分か彼が壊れてしまいそうで、とても痛々しい。しかし壊れてしまうのは確実に自分なのだ。屍の血を吸収してきらめくあの鎌がそれを物語っている。月も無い夜に一人踊り狂う大鎌。夜が終わるまで休む事は許されない。大鎌の不協和音につられてどんどん集まる生きる屍達。何処までも無音の世界に、無秩序な足音だけが轟く。
しかし、それもふと途切れてしまう事になる。大鎌の舞踊がぴたりと止まった。止まったというより、消えてしまった。あれほど大きな鎌が目を離した隙にまるっきり何処かに消失してしまったのだ。少年は目を疑った。あんな大きな鎌、何処かに仕舞えるはずが無い。その上、あれほど元気に鎌を操っていた彼も何やら様子がおかしい。先程まで普通に動いていた筈なのにいきなりふらふらし始めた。疲れてしまったのだろか。しかし今こんな状況で倒れてしまったら危ないどころの話では無い。今彼の周りにはゾンビの群れが集まってきている。少年の予感はあろう事か的中してしまった。彼は、踊り疲れた人形のように無機質にその場で倒れ込んでしまった。やばい、あのままでは彼はゾンビの餌食だ。少年は自分の危険を何も顧みず扉を開けて外に飛び出した。
その音を聞きつけたゾンビが此方にずんずんと迫ってくる。顔が半分腐った者、全て腐りきった者様々な醜悪な顔が此方に近づいてくる。恐い。しかし恐いと認識しては動けなくなってしまう。少年はなるべく視界を狭め、倒れ込んだ人間だけを見て全力で走る。息を止めて視界も止めて走る走る。そして辿り着いた。やはり自分と同じ齢ほどの少年だった。自分と同じ大きさほどの体を抱き上げる。信じられないくらい安らかな寝顔。本当にそのまま眠ってしまったみたいだ。息はあるし鼓動もある。安心した。少年は無我夢中で彼の体を引きずりながら廃ビルまで運ぶ。ゾンビ達は二人分の餌を目の前に相当飢えた表情を此方に向ける。今始めて解った事だか、ゾンビは相当動く速度が遅い。スローモーションの人間よりも動きが鈍い。人間一人運んでいる少年でも何とか逃げれているが、少しでも気を抜けば捕まってしまう程近くまで来ている。少年は力を振り絞り、なるべく早い足取りで廃ビルへ急ぐ。肩に乗せた彼からは安らかな呼吸音を感じる。それだけが少年を駆り立てる材料。あと少し、もう少し。すぐ背後まで屍の気配を感じる。あと少し、腕を必死に扉まで伸ばす。届いた、全力で扉を押す。開いた、眠っている彼の体を乱暴に部屋に投げ入れる。そして扉を閉じ、鍵をしっかりかける。扉を叩くゾンビをよそに少年はその場で座り込んだ。
少年は焦っていた余り、疲れていた彼の体を床に放り投げてしまったのに気付き、慌てて彼の体の心配をした。しかし、彼は未だに安らかに眠っているまま。目立った外傷も無い。ひとまず安心して、少年は自分のボストンバックから懐中電灯を取り出した。そしてスイッチをつけて、自分と彼の間に置いておく。これで彼が目を醒ました時も怖がらせないで済む。と、思った瞬間、目の前の少年の余りの容姿端麗さに度肝を抜かれた。先程は暗かったしそれどころじゃ無かったから何も気づかなかったけれど、自分が助けてきたのはとんでもない美少年だった。少し日本人離れしている気がする高い鼻、長い睫に整った眉。色も自分より遙かに白い。体型は大体自分と同じくらいなのに顎がシャープで何となく線も彼の方が細い気がする。それに何と言っても一番目をひくのが紫色の髪の毛。恐らく染めた色なんだろうけど、元から日本人離れしている彼にはよく似合っている色。染めた髪の毛にしては余りにも艶やかで鮮やかだ。紫水晶を思わせる妖艶な、それでいて儚い、まさに彼を象徴させる色合いなんだろう。
ずっと彼の顔を見つめていた所為か、視線を感じたのか彼がいきなり目を醒ました。突然の事に少し少年は驚きながらも笑顔を浮かべ優しい声で彼に話しかけた。
「大丈夫か?痛いところ無いか?」
しかし話しかけられた美少年は何も言わず訝しげに少年を睨んだまま。その瞳は余りにも痛くて、美しい赤玉にも関わらず限りない恐怖を生み出す。しかし少年はめげずに明るい笑顔のまま。
「何か欲しいものある?水とかさ。」
「・・・・」
「もしかして、どっか怪我してる?」
「おい、」
漸く返答してくれた。その声もまた恐ろしいものだったけど、少年は純粋に嬉しくて思わず間抜けに明るい笑顔を浮かべた。
「お前、何で助けたんだよ。」
中性的な顔に似合わず、低く男らしい声で彼は云った。綺麗な顔は恐ろしく歪み、下手な事を云えばその場で殴られそうな雰囲気だ。そういえば何となく、ヤンキーっぽいなとは少年も思っていたがこれでは本当にただの柄の悪いヤンキーだ。少年は身を縮こませながらも成る可く彼を怒らせない言葉を探しながら云った。
「何でって・・・助けなきゃいけないかなと思った・・・ので」
「誰が助けろって云ったんだよ?てめぇなんかに助けて欲しいなんて頼んだ覚えはねぇ。余計な事すんじゃねぇよ。」
そんなむちゃくちゃな。本当に助けなきゃいけないと思ったから助けただけなのに。でもそんな事云ったら本当に殺されそうだ。少年は申し訳無さそうに小さくお辞儀をした。ああ何で助けた方が謝らなくちゃいけないんだ。
「あの、でも、無事で良かった・・・」
これは確かに心の底からの少年の言葉だった。また余計な事を、と怒られるかも知れない。それでも良い、本当に彼が無事で一番嬉しいのは少年なのだから。
「お前さ、このへんの人間じゃ無いだろ。」
「あ、うん・・・今日此処に引っ越してきたばっかなんだ。」
「今日?此処に?何でこんな危険地帯に引っ越してきたんだよ。」
「んー、俺物好きなんだ。」
少年は笑いながら云った。すると彼が漸く此方を見てくれた。そのふとした表情で見る彼は、やはり紛れもない美少年だった。恐いくらいに整った顔。平々凡々な少年は、少し彼の美形さに羨ましく思う。
「物好きにも程あるだろ、原宿に引っ越すくらいなら紛争地帯に引っ越す方がまだマシだと思うぞ。さっきのゾンビ集団見て解っただろ。」
「そんな事無いって。普段は原宿って楽しい街なんだろ?」
「まあな・・・」
少年は今さらになってこのヤンキー美少年にため口きいていた事に気づいたが、相手も何も言わないから良いかなと思い、直すのをやめた。
「そういえばさ、さっき凄かったじゃん。ゾンビを何体も倒してて、何かの漫画の主人公みたいでカッコ良かったぜ。」
すると彼は何も言わなくなった。何かまずい事云っただろうか。やばい、また睨まれる。少年は身を震わせ覚悟をしたが、本当にそれから何も言わなくなった。ただ憂いを含んだ横顔を見せたまま。
「俺、本当はあのまま死にたかったんだ。」
それは何の迷いも無い、悲しい程純粋な声。
「だけど死ねないんだ。そんなの解っている。だけどどうしても死にたいんだ。もうこんな事何回もやり続けて、今も俺は生きている。」
少年には何を言っているのか、その意味がさっぱり解らなかった。だけど彼は酷い悲しみに打ち拉がれていて、その瞳にはこの世の地獄を満遍なく映してきた事だけは解る。紫水晶の髪が懐中電灯の光に照らされ妖しく艶めく。
「だからさっき助けてくれたお前にあたる様な態度したんだ。ちょっと反省している。」
「あ、いや、気にすんなって。」
先程のカツアゲをするヤンキーのような態度から一変してこの態度。案外可愛い奴なのかと思い、少年はおかしくなって笑ってしまった。
「それに、俺だってあるよ、死にたくなる事。」
夜空の雲はいつのまにか全て消えて、奇妙に欠けた月だけが空に残った。奇妙な月光が二人の間を照らす。懐中電灯の光の隣で。
「それでもどうしても神様ってのは、俺達みたいな若い連中を生かしておきたいらしい。だからとりあえず俺達は生きていかなきゃいけないんだよ。どんなに皮肉な運命を背負ってもだ。」
彼には解った。こんな平々凡々な少年も、何かただならぬ事情を抱えこの街にやって来た事が。普遍に見える元気づけの笑顔の裏に少し影が見え隠れしたのを彼は見逃さなかった。少年の癖のある黒髪がふわりと宵風に揺らされる。
「生きていればその内生きる楽しみとか、生き甲斐とか見つけられる。それで良いじゃん。俺達がこうやって出会ったのもきっと、生きる糧の一つになる前兆かも知れない。そう思った方がきっと幸せだよ。」
少年の瞳は宵と同じ黒色。だけど不思議と、相手の気持ちを安らげる優しい宵の色。
「お前ってやっぱ・・・馬鹿だ。」
「はは、やっぱり?」
褒めたつもりは無いのに、少年は自らの頭を掻き上げ恥ずかしそうに微笑んだ。
「そうだ、お前名前は?」
「名前?」
「ほら、折角知り合ったんだから名前くらい知っておこうよ。」
「何でお前なんかと」
「俺は射光。天正射光っていうんだ。」
射光はその名前に見合った明るい笑顔を見せる。相手は少し鬱陶しそうにしながらも、小さな声で自分の名前を言った。
「・・・・憂。」
「憂?憂か、良い名前だな。」
何処がだよ。と憂は不機嫌そうに顔をしかめながらその場で横たわる。そういえばかなり疲れていた気がする。早く寝ようと思っていたら、隣でも射光が同じように横たわる。ああまた五月蠅くなる。
「俺もう疲れてんの。寝かせてくれる。」
「そっか、おやすみ。あああのさ、明日原宿案内してくれない?」
「はぁ、何で俺が」
「だってさ、俺今日初めて東京に来たんだぜ?もう心細くて心細くて・・・」
「知るかそんなの。俺には関係無い。」
「なぁ頼むって憂、」
「はぁ・・・面倒くさい・・・」
それでも断りきらない辺り、憂はやっぱり良い奴なのかも知れない。射光は勝手にそう思いこんで一人でまた笑った。
奇妙な形の月は二人を照らしていたかと思うと、再び雲に顔を隠した。光は遮断された。外の屍達は光があろうと無かろうと、生きる人間を捜し求め外を練り歩く。静かになった廃ビルの前にはもう誰も居ない。
第一章「頽廃ナイトメア」 終