余命一ヵ月を宣告された公爵夫人は家出することにしました
公爵家とは比べ物にならない粗末なベッドの上にアデラインは押し倒されていた。
やや黄ばんだシーツの上にアデラインの柔らかな赤みがかった栗毛が広がる。抵抗したくとも両手は男の大きな手によって拘束されている。
せめて文句の一つでも言ってやろうと睨みつけたアデラインは、驚きで琥珀色の目を丸くした。
男……アデラインの夫であるロイドが、今にも泣きそうな顔をしていたのだ。
結婚してからかれこれ五年は経つが、こんな彼の表情を見るのはこれが初めてだった。彼の母が亡くなった時だってこんな顔はしていなかったはずだ。
普段は起伏の少ない彼のバリトンボイスが掠れ、切なげにアデラインの名を呼ぶ。
「アデライン。そんなに嫌だったのか? 公爵家が……俺が……」
彼の言動の意味が理解できず、アデラインは「はい?」と質問に質問で返したのだった。
◇
ことの始まりは数週間前。
アデラインは侍女を一人だけ連れ、こっそり屋敷を抜け出し、公爵家に長年仕えてくれている老医師のもとを訪ねた。どうして老医師を屋敷に呼ばずに、己から訪ねて行ったかというと……そこには少々複雑な事情があった。
アデラインが嫁いだアルスター公爵家は前公爵夫妻の次男ロイドが爵位を継いだにもかかわらず、未だ継承争いの火が完全には消え切っていなかった。隙あらばロイドの地位を奪おうとする兄弟や従兄弟たち。彼の妻の地位を狙う親戚も多くいた。ロイドが住む屋敷の中にも彼らの息の掛かった使用人たちが素知らぬ顔で働いている。
そんな危険な状態の中、どうしてアデラインがアルスター公爵家に嫁いだかというと……それだけロイドに惚れていたから、ではなく完全に政略的な理由だった。
アデラインの生家は大層お金に困っていた。歴史はあるがそれだけ、伯爵家とは名ばかり。まともな社交をするお金もない。まともに学園に通うお金すらない。しかし、そんな中でもアデラインは腐らず、それならばお金のかからない特待生になればいいじゃない! と数少ないその枠を勝ち取り学園に通った。それを見た他の学生たちは貴族の恥さらしだなんだ言っていたが、アデラインは全く気にしなかった。それどころか、学力テストは常に首位、教員の覚えもめでたく、卒業後も貴族の子供向け家庭教師としてひっぱりだこだった。ただ、残念ながら働く女性として名を挙げすぎたアデラインに婚約を申し込むような男性は少なかった。いても、何かしら問題を抱えている人物ばかり。しかし、そんな彼女に目を付けた者がいた。それが、前アルスター公爵夫妻だった。
前公爵は早くロイドに爵位を譲りたかった。余命宣告された前公爵夫人をゆっくりと心休める場所で看取りたい、というのが前公爵の望みだったのだ。ロイドへの引継ぎはすでに終えていた。しかし、如何せん彼はまだ若かった。いくら実力があるとはいえ経験不足は否めず、納得しない親族も多くいた。そんな周りが敵だらけの中、ロイドに公爵家を任せるというのは親としては心苦しかった。そこで、前公爵夫妻はロイドを支えることができ、かつ彼の力がなくても自力で有象無象を退けることができるくらいの才能と強靭なメンタルを持ち合わせた女性――アデライン――をロイドにあてがうことにしたのだ。
公爵家に嫁いだアデラインは、前公爵夫人であるロイドの母親に生前かなりお世話になった。社交界での振舞い方から、敵のあしらい方、味方を作る方法まで。そして、公爵夫人とはどうあるべきか。そういったすべてを、アデラインは彼女から学んだのだ。
アデラインは前公爵夫人を心の中で師として仰いでいた。しかし、そんな素晴らしい師も数年前、とうとう他界してしまった。
今ではすっかり公爵夫人としての立ち居振る舞いをマスターしたアデライン。だが、そんな完璧な公爵夫人の仮面は老医師の一言で割れた。
「先生、今なんとおっしゃいました?」
「えー……余命一ヵ月、というところですな」
年老いてはいるが、腕は間違いない公爵家お抱えの医師がそう告げる。
「はい? え? ちょ、ちょっとお待ちになって。今、余命……余命とおっしゃいました? 妊娠ではなく?」
動揺を隠せない。
ここ最近感じていた体の不調。微熱と倦怠感という症状は妊娠初期の症状と似ていることをアデラインは知っていた。そのため、すっかり己が子を宿したものだと思い込んでいたのだ。
義母が存命中には叶わなかった妊娠。ようやく義父に、義母の墓前に、生家に報告できると内心ワクワクしていたのに、医師の診断で分かったのは妊娠――どころかアデラインの命はあと一ヵ月しか持たないという非情な現実だった。
「う、うそでしょう」
グラリと視界が揺れる。倒れそうになるアデラインの体を、公爵家に嫁いでからずっと専属侍女として付いているエマが支える。そのエマの顔色も悪かった。彼女の表情を見て、アデラインは今聞いた内容は現実なのだと実感した。
「コホッ」
「奥様っ!」
乾いた咳が出た。咄嗟に口を覆った手には血が付着している。その血を見たのを最後にアデラインは意識を失った。
目が覚めると、そこはアデラインの寝室だった。いつの間にか屋敷に戻って来ていたらしい。
(どうやって戻って来たのかしら……抜け出したのがバレていないといいけれど……)
ゆっくりと上半身を起こし、己の体を見下ろす。どうやらエマが着替えさせてくれたらしい。夜着になっている。窓の外は真っ暗だ。ということは、夫ももう帰宅しているはず。
(エマのことだから適当に言い訳してくれていると思うけれど……)
間違っても医師から聞いた言葉をそのまま夫に伝えてはいないだろう。それは公爵家の、ひいてはロイドの隙となるのだから。今頃、エマは倒れたアデラインの尻拭いに奔走していることだろう。
「エマには申し訳ないけれど……都合がいいわね」
(余命一ヵ月と聞いて、公爵夫人の仮面をかぶってお行儀よく死を待つなんてまっぴらごめんだわ。残りの時間くらい、本来の私に戻って好き勝手に生きてやる!)
アデラインは急いで荷物をまとめた。
(カバンは一つ。換金できそうな宝石は何点か。着替えは……この際諦めましょう。どうせ、持って行っても着られないわ)
手際よく準備を済ませるとアデラインはバルコニーに出た。そして、手すりに結び付けたシーツをロープがわりに屋敷を脱出したのだった。
◇
余命一ヵ月と宣告されたアデライン。
彼女は今――人生初の競馬場にいた。
「いいぞ! そこだ! いけえええええええ!」
公爵夫人どころか、貴族女性としてもらしからぬ大声を上げる。けれど、かまわない。誰もまさかこんな場所に昼間から公爵夫人がいるとは思わないだろう。それに、普段のアデラインを知る者ならなおのこと同一人物とは気づかないはずだ。それくらい、いつもの彼女とはかけ離れていた。
普段きっちりとシニヨンスタイルで固めている髪を雑にポニーテールにし、今はハンチング帽にしまい込んでいる。服装は市井の店で、そこらへんを歩いていた男の子を参考に買ったもの。公爵夫人としてのアデラインは背の高いロイドの横に並んでも見劣りしないようにヒールの高い靴を履いていたが、今は気にせずぺったんこ靴だ。背の小ささも相まってきっと声変わり前の少年にしか見えないだろう。
アデラインの手には最近不調らしい馬の番号が記されている。なんとなく親近感を覚え、アデラインはその馬にそこそこの額を賭けたのだ。しかも、その馬がなんと……一位を取った!
(私の目に狂いはなかったわ! いったい、何倍かしらっ)
拳を握りしめ、アデラインは体をブルブルと震わせた。歓喜で全身が震えるなんて初めてだ。社交界で嫌味な夫人を相手に言い負かした時よりもよほど興奮している。大金を手にし、アデラインはホクホク顔で競馬場を後にした。まさか、その後を人に付けられているとも気づかずに。
(これなら、もっとグレードの高い宿に移れるわね! とりあえず、まずは祝杯を上げようかしら!)
近場の酒場に入ろうとした時、不意に二の腕を掴まれた。引きずられるように路地裏に連れていかれる。
「な、なんだよ! おまえらっ!」
壁を背にしたアデラインを囲うように男が三人立つ。見るからに素行が悪そうな男たちだ。
(こ、これはまずいわ!)
内心焦りながらもアデラインは意識して低い声色を出した。
「俺になんのようだ」
しかし、アデラインの演技なんてすでに見透かされているのか男たちの顔はニヤニヤしている。
男の一人が片手をアデラインに差し出した。
「痛い目見たくないなら。その懐に入っている金すべてよこしな?」
「隠しても無駄だぜ。俺らは競馬場の時からおまえに目をつけていたんだからな」
(バレてない! って、なんですって! こいつら、私が競馬で勝ったのを知って後をつけてきたのっ⁉)
「なんて、卑怯なっ」
絶対、渡したくない。けれど、渡さなければ何をされるかわからない。怪我ですめばいいが、もしアデラインが女性だとバレたら……それどころか、公爵夫人だとバレたら公爵家や生家に迷惑をかけることになる。それだけは避けなければならなかった。
(悔しいけど、仕方ないわね)
「分かった……。やるよ」
「なんだ。やけに聞き分けがいいじゃねえか」
そう言いながらも男たちはご機嫌だ。アデラインは懐から袋を取り出すと、一番奥の男に差し出した。そして、彼の胸に袋を押し付け、男たちの間をすり抜け、走って大通りへと飛び出した。
「おいこらっ! 待ちやがれ!」
後ろから男の声が追いかけてくる。
アデラインは振り向くことなく走る。
(ちょっと! せっかく勝った大金を丸ごとくれてやったのに、なんでまだ追いかけてくるのよ! まさか、まだ手持ちのお金があるってバレているのかしらっ)
しかし、それはアデラインの生活費だ。それまで取られては暮らせなくなる。必死に逃げた。
アデラインは貴族女性にしてはかなり足が速い方だ。だが、残念ながら追いかけてきている男はそれよりももっと速かったらしい。
現在の住処となっている宿まで後少し、というところで捕まってしまった。
「は、はなせ!」
「誰が放すか!」
「もう金ならやっただろう!」
「はっ。それだけが目的なわけあるかっ。あいつらは気づいていなかったみたいだが、おまえ……女だろう」
「なっ」
下卑た笑みを浮かべ、抱きしめるように体に手を回される。耳に生ぬるい息がかかり、肌がぞわぁっと粟立った。
「や、やめっ……」
(気持ち悪い! 誰か助けて!)
そう心から願った時、「ぐあっ!」という男の悲鳴と共に手が離れた。慌てて振り向けば、あの気持ち悪い男は妙に仕立ての良い服を着た男性にねじ伏せられていた。
見覚えのある濡れ羽色の髪に、感情が読めない冷たい紫色の瞳、そして同じ人間とは思えない長い手足。ここにいるはずのない人間がなぜかいる。
「ロッ」
アデラインは夫の名前を叫びそうになって慌てて自分の口を掌で塞いだ。ロイドが男の耳もとで何かを呟くと、男は青ざめた顔で足をもつれさせながら逃げて行く。ロイドがゆっくりとこちらを見る。目と目が合った。
アデラインの脳内で警報が鳴った。
(お、怒ってる⁉ え、ちょちょっと待って、私も逃げたいんだけど。私だとバレてないのならこのままっ!)
しかし、そんな甘い考えはロイドには通用しなかった。名前こそ呼ばれなかったが、ロイドに背中を押され、半強制的に宿の中へと促された。
空気を読んだアデラインは誤魔化すことを諦め、黙って彼に従った。
アデラインが借りている部屋に入ってすぐにロイドが顔を顰めた。どんな時だって顔色が変わらない彼にしては珍しいことだ。しかし、彼がどんな生活を日常的に送っているのかを知っているアデラインからしてみれば納得ではあった。
(まあ、驚くのも仕方ないわよね。公爵家で育ったロイドはこんな粗末な部屋使ったことがないでしょうから。私としては特に貧乏だった頃とさほど変わらない環境だから特に気にはならないけど。というか、そんなことよりなんでロイドは昼間からこんなところを歩いていたのかしら……まさか私を探して? それはないか。ってことは偶然?)
どちらにしても、見つかってしまったことに変わりはない。アデラインなりに理由があったとはいえ、公爵夫人の仕事を放棄して出てきたのは事実。ロイドからしてみれば、その理由さえも知らないはずなのだから。
(ひとまず、何か言われる前に謝罪よ!)
アデラインは内心ビクビクしながらも謝罪の言葉を口にした。
「そ、その……ごめんなさい。突然家を出て、一応引き継ぎ書は作っておいたのだけれど……そういえばどこに置いてあるのかを伝えるのを忘れていたわ」
もともとは己の体調不良を妊娠だと勘違いしていたアデラインが本格的に動けなくなる前に作っていた引き継ぎ書。アレがあれば誰でもアデラインに代わって夫人の仕事ができるはず……と、そういう保険もあってアデラインは即行家を出たのだ。
けれど、そもそもその引き継ぎ書をどこに置いてあるかを誰にも教えていなかったことをまさに今思い出した。
(せめて、エマには教えておくべきだったわね)
反省していると不意にロイドに手首を掴まれた。
「そんなことはどうでもいい。それよりも、まさか本当に男と駆け落ちしていたとはな」
「はい?」
いきなり意味が分からないことを言われ、ぎょっと目を剥く。そして、その男というのが先ほどの男のことを指していることに気づき、カッと頬に熱が集まった。
「そんなわけないでしょうっ! というか、きゃっ!」
ロイドに肩を押され、ベッドに体が沈む。何をするの⁉ と文句を言う前に、両手を彼に拘束された。
普段は起伏の少ない彼のバリトンボイスが掠れ、切なげにアデラインの名を呼ぶ。
「アデライン。そんなに嫌だったのか? 公爵家が……俺が……」
「……はい?」
想像もしていなかった質問を向けられ、アデラインは目を丸くする。
(というか、怒るならともかく、どうして泣きそうなのよ)
そう、ロイドの目は何故か潤んでいた。アデラインは困惑しながらも告げる。
「どうして、そんな話になるのよ。さっきの男とは今日初めて会ったし、お金を盗られた上に無理やり迫られて本当に困っていたんだから。それに、私は公爵家もあなたのことも嫌ってなんかないわよ」
お金や無理やり云々のところでロイドの目が鋭く吊り上がったが、アデラインの心底不快そうな顔を見て落ち着きを取り戻したようだった。ロイドはアデラインをじっと見つめたまま、再び口を開く。
「なら、どうして家を出て行ったんだ」
「それは……」
途端にアデラインの目が泳ぎ始める。
(理由を正直に伝えるのはちょっと……一ヵ月後には死ぬなんて聞いても困らせるだけでしょうし)
ところが、アデラインの反応はロイドの不安を煽ったらしい。
「俺には言えないのか」
「そんなことは…………」
(そうだわ! そう言えばあれがあったわ!)
アデラインの脳裏にとあることが蘇る。アデラインはちらりとロイドの顔を流し見た。本来なら心の中だけにとどめておくつもりだった例の件について話す。
「私……知っちゃったのよ。あなたとエマが本当は想い合っていること。だからその、私がいなくなった方があなたたちのためになるかなあ……って思ってそれで……」
(さあ、『私、あなたたちのために身を引いたのよ! 作戦』はどうよ。これならロイドも罪悪感を覚えて深掘りできないでしょう?)
ところがアデラインの予想に反して、ロイドはまったくもって不可解だという表情を浮かべた。
「俺とエマが想い合っている? なんのことだ?」
本気で言っている様子のロイド。アデラインの眉が吊り上がる。
「ちょっとちょっと! 誤魔化さないでいいのよ⁉ あなたとエマが幼いころから気持ちを通わせた真の恋人同士だっていうことは、私だけでなく、皆知っているんだから!」
思い切ってはっきりそう告げればロイドが「はあ⁉」と声を荒げた。
「俺とエマがなんだって⁉」
「何って、真の恋人同士……私と結婚が決まった時に形式的に別れはしたけど心はいまだに互いを想い合っているんでしょう?」
「そんなわけあるか! 誰だそんなうそを君に吹き込んだ奴は⁉」
ロイドの剣幕にぎょっとする。アデラインは戸惑いながらも答えた。
「だ、誰って……エマ本人から聞いたし、屋敷の使用人たちからもそう聞いたわよ? ロイドも最初にエマを紹介してくれた時に言っていたじゃない『この屋敷内で信用できる数少ない人物だ』って。ロイドの執務室にも入れていたくらいだし」
ロイドが自分の執務室には限られた人物しか入れようとしないのは屋敷にいる全員が知っている。
「それはっ! 言葉通りの意味だ! 君だって知っているだろう屋敷内がどういう状態なのか。そんな中で信用できる使用人は限られている。エマはその一人だったというだけでっ、執務室の件も入室を許可していたのは他にもいるし、君にだって許可していただろう! 誓って、エマとはそういう関係になったことも、想ったことも一度もない!」
いつになく必死さを感じさせるロイドの言動。うそをついているようにも、誤魔化そうとしているようにも見えない。まず、ロイドとは政略結婚なのだから、彼がうそをつく必要もない。そういう契約が含まれているのならともかく、そうではないのだから。それに、思い返してみれば二人の話をエマや周りから聞いたことがあっただけで、実際にロイドとエマが怪しい雰囲気になっているところを見たことは一度もなかった。上手く隠しているだけだと思っていたが、この様子だと彼の言い分が正しいのだろう。
(つまりは……エマの片想いだったわけね……)
真実を知ったアデラインはなんとも言えない表情を浮かべながらも、「わかったわ」と頷き返した。
ロイドはあからさまに安堵の表情を浮かべる。
(そんなに勘違いされたくなかったのね)
眉を下げてクスリと笑ったアデラインに、ロイドの雰囲気が和らぐ。
「その……それで、誤解が解けたのなら戻って来てくれるのか?」
真剣な瞳で見つめられる。けれど、それに対しアデラインは「ええ」とは返せなかった。ロイドの表情が陰る。
「どうしてだ。他に不満があるのか? 言ってくれ。俺がなんとかするから」
「そうじゃない。そうじゃないのよ……」
力なく呟くアデライン。
黙って待ち続けるロイドに観念して、アデラインは再び口を開いた。
「私、数週間前に余命一ヵ月と宣告されたの」
ロイドの片眉がピクリと上がる。その薄い反応に、おや? もしかして知っていたのだろうか。と内心思いながらも、アデラインは構わずに話を続ける。
「公爵家に不満はないの。でも、あと一ヵ月しかないのなら残った時間を私は公爵夫人としてではなく『私』として過ごしたい。あなたや公爵家には申し訳ないけれど……お願い、見逃してちょうだい」
うっすらと膜の張った瞳でロイドを見上げる。どうか、こんな自分を見て憐れんで欲しい。それで自由が得られるのならちっぽけなプライドなど安いものだ。
ここ数週間の記憶が蘇ってくる。本当に楽しかった。したいことをして、寝たい時に寝て、食べたい時に食べる。そんなストレスフリーな生活。生家で暮らしていた時はよくしていた。だって、貧乏伯爵家だったから。社交界に出るようなドレスや装飾品を揃えることはできないし、茶会を開く余裕もなかった。
でも、公爵夫人となってからはそんな生活とは完全におさらばとなった。
だから、久しぶりに自分らしい生活が送ることができて本当に楽しかったのだ。――己の寿命が後一ヵ月もない。なんてこと思い出さないくらいに。でも、こうして言葉にすれば嫌でも思い出してしまう。
「死ぬ時はきちんと公爵夫人として死ぬから、それまで……後数日だけでもどうか自由にさせてちょうだい」
瞼を伏せ、ロイドの返事を静かに待つ。
「……それは、公爵夫人としてはダメなのか?」
「え?」と顔を上げる。ロイドの瞳がまた不安定に揺れていた。
「公爵夫人として、自由に振舞うのではダメなのか?」
「そ、そんなことできないでしょう。公爵家の、あなたの隙になるわ」
「それなら大丈夫だ」
きっぱりと否定され驚く。
「全部片づけた」
「全部片づけたって……もしかして、ここ数ヵ月忙しそうにしていたのって」
アデラインが尋ねれば、そのとおりだと返って来る。
「それはおめでとう!」とアデラインは祝いの言葉を述べようとしたが、苦悶の表情のロイドから遮られてしまった。
「ようやく君とゆっくりできる。そう思っていたのに、君は居なくなり、エマは自分が後妻になるとかわけのわからないことを言ってくる始末」
「そ、それはごめんなさい……」
ロイドが言葉を重ねてくる。
「君は謝らなくていい。ただ、俺の隣にずっといてくれ、君の寿命が尽きるまでずっと」
驚いてロイドを見る。彼の瞳の中には熱がこもっているように感じて、アデラインの心臓はドキンと高鳴った。
「ま、まるでプロポーズのようね」
「そう思ってくれてかまわない。俺はアデライン、君が好きだ」
「え、ええ? で、でも私たちの結婚は政略的なもので……」
「政略結婚の相手を愛してはいけないのか?」
「あ、あい⁉」
真剣な口調で言われ、アデラインの頬が朱に染まる。その反応にロイドは嬉しそうに微笑んだ。
「もっと早く言えばよかったな。どうせ君とはずっと一緒なのだから、身の回りが落ち着いてから言えば良いと後回しにしすぎた」
(ロイドが笑った⁉ というか、なんだか発言もいつもの彼らしくはないわ)
「あ、あなた誰なの⁉ ロイドの偽物⁉」
いきなり頓珍漢なことを言い出したアデラインに、ロイドは面食らい、次いで笑い出した。
「本物だよ。というか、それを言うなら君だっていつもとはかなり印象が違うぞ」
指摘され、アデラインは言葉に詰まる。
(ひ、否定できないわ)
つまり、互いに仮面を被っていたということだ。
「……がっかりしたでしょう。あなたが好意を抱いていた私とは違って」
ロイドは「いいや」と首を横に振る。
「驚きはしたがそれだけだ。根本的なところは変わっていない。俺が惹かれたのは、相手が誰であろうと引こうとしない芯の強さと、どんな困難にも立ち向かおうとする根性を持ち合わせているところだからな。その点は、どちらの君も変わらないだろう?」
「まあ、それはたしかに?」
前公爵夫妻にもその点を買われたのだから間違ってはいないはずだ。
「それに、こうして思ったことを素直に伝えてくれるアデラインとの会話は以前よりも楽しいと思う」
「そ、そう」
「もちろん、公爵夫人然としているアデラインもかっこよくて素敵だが」
「そ、そんな風に思ってくれていたのね」
全く知らなかった。ロイドとは基本的に事務的な話をすることの方が多かった。仕事のことや社交のこと、親戚連中の動向などなど。なんというか、アデラインの中では夫婦というよりは戦友に近い認識だったのだ。まあ、だからこそ余命宣告された時、戦力外になるだろう自分はさっさと戦場から離脱した方が彼のためにもなると判断したのだが。
けれど、彼の方はしっかりアデラインを妻として、ひとりの女性として想ってくれていたらしい。そのことが、嬉しくも気恥ずかしい。そんな自分に驚く。
(なんだ。私もなんだかんだ彼のこと異性としてきちんと意識していたのね)
少なくとも彼からの好意を嬉しいと思う程度には自分も好意を寄せているのだと、自覚する。
と共に、この状況が急に恥ずかしくなってきた。
夫婦の営みが全くなかったわけでもないのに。
今、どうしようもなくアデラインはロイドに男を感じている。
そんなアデラインの気持ちがロイドにも伝わったのだろうか。彼の表情が雄に変わり、アデラインの左手首を拘束していた右手が、今度はアデラインの頬を撫でる。
「んんっ」
アデラインの反応で、ロイドのスイッチは完全にオンになったらしい。顔がゆっくりと近づいてくる。
「しても、いいか?」
「……ええ」
アデラインはゆっくりと彼の首に腕を回した。そして、数ヶ月ぶりに熱を交わしたのだった。
◇
プチ家出を終えたアデライン。ロイドと共に屋敷に戻ると、驚きの連続に襲われた。
まず、エマが居なくなっていた。彼女とロイドの噂をアデラインに吹き込んでいた使用人たちや、ロイドを蹴落とそうとする親族の息がかかった連中も軒並み一掃されていた。後者は彼の「片付けた」発言で予測はしていたが、エマについては驚いた。恋人関係ではなかったとはいえ、ロイドにとって特別な存在だったはずだ。
「他の連中はともかく、エマのことは本当に良かったの?」
しかし、アデラインのそんな心配は杞憂だとロイドはあっさり告げる。
「アデラインは優しいな。まあ、そう言うと思って君を迎えに行く前にさっさと処分を下したんだがな」
「処分⁉ いったいどんな処分を……エマのしたことなんてそんな大したものでは……」
人によっては激怒する案件かもしれないが、アデラインは彼女に対してそのような気持ちは持っていなかった。
一使用人としてはエマがしたことは問題だっただろうが、彼女は長いことロイドの味方だった人だ。その功績を鑑みれば、義父のところに左遷……だろうか。と、アデラインはあたりを付けたのだが、答えは全く違った。
「それがな……以前にちらっと言ったと思うが、エマは君が居なくなった後、君の余命のことをペラペラ喋り、終いには自分が後妻に入るなどと言い出したんだ。その言動があまりに不審だったため即座に身辺を調べさせたんだが……」
ロイドは言いづらそうに、けれどこれはきちんと伝えるべき内容だからと教えてくれた。
なんと――エマはアデラインに長期にわたって避妊薬をこっそり仕込んでいたらしいのだ。しかも、その薬は海外製で我が国では違法薬物だったらしい。裏商人から購入したんだとか。
「ええ⁉」
「アデラインも知っているだろうが、そもそも裏商人との取引は国で禁止されている。即座にエマは解雇し、国に引き渡した。今頃は王城の地下牢だろう。それと、アデラインには一度宮廷医師の診察を受けてもらいたいんだ。どうやら、例の薬には強い副作用があるらしくてね。もしかしたら、君の不調もそのせいかもしれない」
まさかの展開にアデラインはゴクリと喉を鳴らしながらも頷いた。ホッとしたようにロイドが目元を緩め、静かに部屋の隅で控えていた執事に指示を出す。そして、すぐに宮廷医師が入室した。
(ええ⁉ 診るって今なの⁉)
どうやらロイドは最初からそのつもりで宮廷医師を待機させておいたらしい。アデラインは内心動揺しながらも、すぐさま公爵夫人の仮面をつけた。
宮廷医師が眼鏡をかけ直し、診断結果を告げる。
「夫人の不調の原因は例の薬で間違いないですね。長期的に薬を摂取したせいでかなり体が衰弱していたようですが、薬を完全に絶ったことと、しっかり療養生活を送ったおかげですっかり毒素も抜けきっているようです。順調に体も回復していますね。全快にはまだ時間を要しますが、日常生活を送る分には問題はないでしょう。そうですね。とりあえず、一週間後にもう一度見せていただいても? って、どうされました?」
アデラインのきょとんとした顔を見て、宮廷医師が首を傾げる。
「あ、あの……順調に体も回復しているというのはどういう……私、一度余命宣告をされているのですが? 血を吐いたこともありますし、その……」
今度は宮廷医師が目を丸くして、ふむと顎に手をやった。
「それほどまでに体にダメージを負っていたのですね。ですが、安心してください。今はもうそのような様子は見られません」
「ということは、私の寿命は……」
「少なくともあと数日で死ぬなんてことはありませんね。……しかし、なるほど。薬を継続して飲み続けた場合、寿命を縮めることができると……」
余命宣告が覆されたアデラインはしばらくの間呆けていたが、ふと危険な薬を一番近くにいた侍女から知らないうちに飲まされていた事実を思い出し、アデラインの背中を冷たいものが走った。
(気をつけていたつもりだったけど、それでも足りなかったのね)
己の不甲斐なさに苛まれていると、
「エマがそれを知った上で飲ませていたのだとしたら立派な殺人未遂だな」
隣からロイドの低音が聞こえ、アデラインはぎょっとした。
エマは使用人――平民――で、アデラインは公爵夫人だ。もし、それが事実だとしたら彼女は最終的に死罪となるだろう。そこまで考えて、アデラインは慌てて口を開いた。
「そ、それはないと思うわ! 余命宣告された時、エマも一緒にいたけれど、彼女も驚いていたし、酷く顔色が悪かったから。その副作用までは知らなかったのだと思う」
「だが、どちらにしろ、違法薬物を己の仕えるべき女主人に飲ませたことには変わらない」
ロイドの言葉に宮廷医師も頷く。しかし、アデラインの顔色の悪さを見て、ロイドは口調を和らげた。
「まあ、でも今君はこうして生きている。被害者である君が極刑は望んでいないのなら、それを俺からも伝えておこう」
「ええ、ええ! お願いね」
両手を合わせてお願いポーズを取るアデラインに、ロイドは目元を和らげる。
すっかり蚊帳の外になった宮廷医師は興味深げに二人を観察していた。
(社交の場で見かけた時は、政略結婚の見本のような夫婦だなと思っていたが……これはこれは。蓋を開けてみれば、なんとも睦まじいではないか。特に公爵の方は夫人にかなりご執心だ。……エマという使用人は死ぬよりも酷い罰を受けることになるだろうな)
そんなことを考えながらも、執事に促された宮廷医師はそっと立ち上がり、部屋から抜け出したのだった。
◇
こうして日常に戻ったアデラインは、日々完璧な公爵夫人の仮面を被りながらも、時折ロイドと二人屋敷を抜け出しては自由を謳歌していた。
そんなある日、アデラインはロイドと共に遠出し、魚釣りをしていると……
「うぐっ」
不意に吐き気が込み上げてきたアデラインは慌てて口を覆った。すぐさまロイドが異変に気づき、駆け寄ってくる。
「アデラインどうした⁉」
心配してくれるのは嬉しいが、彼の右手にある魚の匂いにあてられて、さらに吐き気が強くなる。耐えきれず、アデラインは声を荒げた。
「その魚、向こうにやってちょうだい!」
ロイドは釣り上げた魚を慌てて湖に放す。そして、再びアデラインに近づこうとしたが、また拒否され、ショックを受けてその場で固まる。
(ダメだわ。彼の手から魚の匂いがする……)
アデラインは鼻を覆っていない方の手で、ロイドの手を指差す。
「お願いだからその手……洗ってきて頂戴」
「! ああ!」
ロイドは湖に手を突っ込み、洗う。そして、何度も自分の手を嗅いだ。
しかし、何度洗ってもどことなく魚臭さが残っているような気がする。けれど、これ以上は無理そうだ。不安を覚えながらもロイドはアデラインに近づく。極力手を遠ざけて。
「これなら、大丈夫か?」
「え、ええ。なんとか……」
結局、魚釣りはそのまま中止し、二人は屋敷に戻った。
二人掛けのソファーにアデラインはゆったり腰掛けながらロイドの肩を枕に目を閉じる。烏の行水ではあったが、しっかり臭いが取れるようにお風呂に入ってきてくれたおかげでロイドからは何の臭いも感じられない。落ち着く、彼自身の匂いだけだ。次第に吐き気も収まってきた。
「せっかく、時間を取ってくれたのにごめんなさい」
「気にしなくていい。それよりも、君の体の方が心配だ」
ロイドは例の薬の後遺症を心配していた。確かに最近、以前のように微熱や倦怠感を覚えることがままあった。けれど、少し仮眠すればすぐに収まったし、アデラインはただの風邪の初期症状だろうと思っていたのだ。しかし、ここにきての症状の悪化。
(まさか、ここにきてまた余命宣告なんてされないわよね)
すっかり弱気になっている二人のもとに、執事から医師の来訪が告げられる。薬の件で何かとお世話になったあの宮廷医師だ。
診察を受けた後、緊張する二人を前に医師はけろっとした顔で告げた。
「おめでたですね」
想像していなかった言葉に「え」とアデラインとロイドの声が揃う。ロイドなど瞬きひとつせず固まってしまった。その横でアデラインが震えた声で、医師に問う。
「それはつまり、余命宣告ではなく……妊娠ってことであってます?」
宮廷医師はにっこりと笑みを浮かべ、頷く。
「ええ。おめでとうございます」
違法な避妊薬を長期摂取していたアデラインの体はもしかしたら妊娠ができないかもしれない。と、以前宮廷医師から言われていた。しかし、まさかの妊娠!
「ロイド! 妊娠ですって! ちょっと呆けている場合じゃないわよ! 子供よ子供! 私たちの子供がこの中にいるのよ!」
アデラインはロイドの手を取って、己のまだ薄っぺらい腹に押し当てる。我に返ったロイドが瞳を潤ませ、歓喜の声を上げる。
「アディ! ああ、こんなことがあるなんてっ!」
手を取り合って喜ぶ夫婦を前に、宮廷医師も良いデータが採れたとホクホク顔だ。
「いやあ、それにしても奥様の回復力には目を見張るものがありますね。ぜひ、一度体のすみずみまで調べさせていただけないでしょうか。もちろん出産後でかまいませんよ」
その瞬間、ロイドがアデラインを抱き寄せ、宮廷医師を威嚇する。
「ダメに決まっているだろうが」
今にも唸り声を上げそうなロイドを見て、宮廷医師は残念そうに眉尻を下げる。
ロイドの腕の中からひょっこり顔を覗かせたアデラインは、医師に向かってにっこり笑顔を返した。
「先生。やはり、ストレスフリーな環境というのが大事なのですわ! 後はやっぱり、愛かしらね」
そう言って、ロイドの頬にチュッとアデラインが口づければ、ロイドは顔を真っ赤にしてさらにアデラインを抱きしめるのだった。
その後、アルスター公爵家は子宝に恵まれることとなる。かつて優秀な家庭教師として名を馳せていた公爵夫人――アデラインの教育の賜物か、兄弟たちは醜い継承争いを起こすこともなく、各々の役割を全うし生涯仲良く過ごした。
また、若くして爵位を継いだロイドも子供たちの手本となるよう立派に当主を務め上げ、国王をして「王国の柱石」と言わしめるほど、歴代当主の中でも屈指の功績を残したという。――ただし、アデラインの見ていない裏では、アルスター公爵家に仇なす者やアデラインの害となる者たちには、一切容赦のない鉄槌を下していたそうだが……。




