第一章
第一章
1
落日の中、黒煙が天を突いていた。
地上には細雨が降り始め、肩を濡らしたが、燃えさかる楼閣の火を消し去るほどではない。陶雄元将軍は太い眉を寄せ、低い地響きのような声で訊ねた。
「あれはなんだ!」
十万の敵兵にも臆さない巨漢の臣、雷震が小さくなった。
「失火のようです……」
「失火? 後宮の方角ではないか!」
「もうしわけありません……。将軍。女どもは避難させて無事なようです」
雄元は鼻を鳴らした。たった今、彼は寧国の城を陥落し、財宝の没収中なのだ。規則正しく、統率をもって梁の金の飾りから、死体の宮女の耳飾り、妃嬪の翡翠の枕まですべてを国へと運ばなければならない。そんな時に火事? あってはならないことではないか。だれが責任を取るというのか。
「延焼しないように食い止めろ。そして作業を急がせるのだ」
後宮の贅の宝庫だ。金や銀、玉は小さく、国に持ち返りやすい。いつもそれを口を酸っぱく言っているというのに、この軍の兵士は女を戦利品と考えているのか、それとも人を焼死させては気の毒だと考えているのか分からないが、女たちを守るという合理的でない思考を持っている。それは別段、雄元を腹立たせなかったが、不機嫌を装うのは将軍として当然の立場だった。
「将軍!」
財宝が詰まった木箱で埋め尽くされている廊下を縫うように、一人の兵士が駆けてくる。
よくない報告だろう。髭がない顎から雄元は手を離す。
「大変です、将軍」
「また、どうした?」
「大王がお探しの女が見つかりました!」
よい話だ。だが、兵士の目がそうではないと言っている。雄元は剣のタコができた大きな左手を剣の柄に置いて、さらに続きを威圧的に促す。
「それで?」
「それが……まだ抵抗中です。このままでは怪我をさせるのではと――」
雄元の顔から血の気が引いた。
大王は「丁重に」その女を故国、興国に迎えろと命じた。傷一つつけてはならなかった。投降を腰を低くしてでもお願いしてしかるべきところ、女は「抵抗中」とは。雄元は兵士の後に続いて走り出した。
そしてたどり着いたのは、寧の君主、寧公の玉座のある広間だった。故国、興国のそれの半分ほどしかない広さだが、朱色の柱は立派で玉座には鳳凰が優雅に木彫りされている。そしてそこに一人の女が立っていた。
――あれは確かに大王の言っていた女だ。
その女が、大王が探しいた人であると、説明されなくてもすぐに分かった。二十二歳くらいか。卵のような整った顔に艶やかな肌、紅潮した頬はふっくらとしている。唇は接吻を求めるように赤く甘そうだ。全体的に均等が取れ、気品があるが、その瞳は鷹のように気高く、そして切れ長。人並み外れた白面の美人だ。間違いない。
そんな彼女が、肩で息をしながら、血の海の真ん中に立っていて、殺された公族たちの死体を跨ぎながら、囲っている兵士たちの方へと歩んでくる。
途中、腰を曲げて、黄金の衣を纏う寧公が最期まで握っていた宝剣を拾い上げると、その死体をも跨ぐと、兵士たち、一人一人に切っ先を突きつけた。半円に彼女に取り巻く男たちに緊張が走った。
「殺せるものなら、殺してみよ!」
彼女の声はその容姿に似合わず、腹の底から出るような低いものだった。
「投降せよ」
誰かが言った。
「投降するくらいなら、自ら命を絶つ」
女は首に剣を置いた。
――まずい!
その場の兵士たちも雄元と同じことを思ったのだろう。慌てて一歩、一人の男が前に出た。すると、女は自分ではなくその男の首をかっ斬った。血が女の顔を赤く染め、兵士たちはなにか分からない女の瞳の力に怯んだ。
「つぎはだれか」
女は皮肉な笑みを浮かべる。
おそるおそる、功を焦る男が前に出る。手には剣ではなく木刀だ。それで頭を打って捕らえようという算段だろう。しかし、女はそれも笑った。かと思うと、長い裾の深衣を払って、走り出す。
「生きるか死ぬか。なまやさしいことを考えればそれは死ではないか」
その言葉はまるで神託のようだった。
女はもともとは若草色であったであろう、血に染まった袖を翻して剣を振るう。
剣と木刀の当たる高い音がした。男同士ならば、木刀は折れていただろう。それでも、女は剣の心得があると見え、兵士の攻撃を軽々とかわしてみせる。
――美しい。
言葉は拙いが、そうとしか形容がつかない女の動きだった。祭祀で行われる剣舞を見ているような神がかった動きだった。木刀はもう一度、頭上高く振り上げられた。女の剣は男の右胸を狙ってそれに気づかない。いや、気づいていても、自分のことよりも目の前の男を殺すことで一杯一杯なのだ。
――このままではまずい!
雄元は戸口から敷居を跳び越えて走る。あの木刀が、女に振り下ろされれば、生きていられるかわからなかった。
雄元は兵士と女の間に入ると、剣を抜いた。木刀は雄元によって切り落とされた。
女はにやりとして、顔の血を袖で拭うと、目の前の雄元に怯むことなく、剣を振り下ろした。雄元はすんでのところでそれを受け止め、強く押し戻して間合いをとる。女は軽々と身を回転させて、雄元の喉元や、左胸を狙う。その度に、絹の靴に鈴が付いているのか、音を立てて、神舞のような軽やかな音色を鳴らした。
「手出しは無用だ!」
正面から見ると、女はさらに美しい。優雅でいて純真な面をしている。
出陣の際、大王は、雄元を呼び止めて一人の女を連れて来るように命じた。命じられた女の特徴は「美しい」だけだった。雄元はもっと知ろうと大王に問うた。
『その女は何者ですか、大王』
『神人だ。太古に天から下りて来たという神人の末裔』
時折、人の中に神人という人ではない存在が生まれるとは聞いたことが雄元にはある。いや、見たことも、雄元にはあった。それは美貌の青年だった。しかし、彼が神人であるかを信じたことは一度もない。人が言うには、かつて太陽は十あり、毎日一つずつが空を駆けていたが、ある日、十個の太陽が空に一斉に昇ったために、地は干上がり、旱魃となった。それ以後、天は九つの太陽を射るように命じ、地上には九人の神人が生まれては死んでいくのだという。女はそんな一人だと大王は言った。
それが今、神らしからぬ狂気に出ている。
戦場には死体が山積みで鬼神も多く、また悪獣、悪神の類いも存在する。雄元はそんなことを信じるほど迷信深くはないが、明らかに女は常人とは違った。
「そなたは泥の上で死ぬであろう!」
女は艶やかな髪を揺らして、剣を水平に薙いだ。雄元はさっと後ろに引き、辛うじてその攻撃から逃げた。なにかに憑かれている――。そうしか考えられなかった。女には腕力がなく、体幹は武術によるものではない。いつの間にか目の色が赤くなり、唇は皮肉に端が上がって、今にも笑い出しそうな様子だ。
――くそ……。
女に一寸の傷もつけずに大人しくさせるのは容易ではない。しかも、相手はなにやらわからぬモノに憑依されている。気をつけなければならなかった。
「お前は苦しみもがいて、泥の上で死ぬであろう」
「武人としては戦場の泥の上こそ、その死にふさわしい!」
雄元はそう言い切ると、相手への恐怖を完全に捨てた。女と剣が合わさった時、片手でそれを受け止め、左手で女の右腕を拳で打った。宝剣は派手に落ちて転がり、二人を囲んでいた兵士たちの方へと飛んだ。女は転倒し、静寂があたりを包んだ。
「ここまでだ。お前は何者だ!」
「わしの名は窮奇。戦の神」
窮奇は戦を起こさせる悪獣で、この寧国の守り神だ。
子どもの頃、祖母は、その姿を恐ろしい虎の体をし、羽を持つと不気味語り、神廟に連れていった。恐ろしくて雄元その晩に寝られなくなった。誠実な者を害し、悪を愛する、恐ろしい生き物なのだと祖母は言った。だが、雄元は三つ国を滅ぼし、半生を戦場で生きて来たが、窮奇など一度も見たことはなかった。だから、今の今までその存在を否定していた。
「おまえを生かしてはおけぬ。だが、今日、余は捕まるわけにはいかぬ」
女はすくりと立ち上がり、キッと雄元を赤い眼で睨んだかと思うと、すうっとその小さな体からなにかが出て来た。ついに本性を現したのだ。
「翼がある虎……窮奇!」
子どものころに祖母が語り、神廟の壁画で見たものと同じだった。背中がひやりとした。だが、窮奇は襲ってはこなかった。こちらをひと睨みしたかと思うと、唖然とする雄元の顔をあざ笑い、翼で一風を起こした。そして眼前から柱を縫うように、外へ飛び出て火事の煙の彼方に消えて行った。しかし、同時に――、
「あっ」
と立っていた女の体が崩れて、地面に頭をぶつける寸前だった。雄元は亡父からの最期の贈り物である剣を投げ捨てて女の頭を左手で、女の体を右手で庇って守った。
「…………」
皆の視線が雄元に集中した。すでに観客は三百は超えている。彼等はまさに人為を超えたものを見て、神々への恐怖に足をすくわれそうになっていた。なにしろ、兵士とは死と常に隣り合わせで生きているので、迷信や神の類いを信じやすい質だからだ。雄元ははっきりした声を上げた。
「大王が欲していた者を捕らえた。もうなにも恐れることはない。各々、自分の仕事に戻れ! 明日には国へと出発だ。金の一粒も忘れるな!」
その強い声に、はっとした兵士たちは、やっとそれぞれの仕事を思い出したのか、慌てて部屋を出ていった。残されたのは雄元と、気を失った女。そして殺された公族たちの死体。安震が敷居を跨いで部屋に入って来た。滑らないように血の海を避けて歩くのは、ひげ面の大男にしては神経質だが、慎重なこの男を雄元は好ましく思っていた。
「将軍『これ』をどうされますか」
安震は女を見下ろして言った。
「手首に打ち身がある。手当してから身動きできないように縛り、今日は一晩、どこかに閉じ込めておけ。警備は忘れるな」
「御意」
「うむ」
雄元は疲れを感じた。
一国を滅亡させたのだから、当たり前だ。しかも、大王から厳命されていた女も捕らえた。一仕事終えたことになる。強奪は、安震や軍師の李政賢が指揮を執るだろう。
雄元は宮殿の裏手に出ると、自ら井戸水を汲む。いつの間にか雨が止み、満月が出ていたのに気がついた。松明が風で揺れ、桶の中の自分の顔が揺れる。
心を映しているように、一、二歳、歳をとったように見えた。故国では美男などともてはやされている顔も、人を何万と殺すと人相が変わる。大きな瞳は落ち込み、唇は乾き、皮がめくれている。頬も額も強い陽射しに連日耐えられなかったのだろう、日焼けし、脚や腕には汗が塩に変わった白いものやら垢がついたままだった。
「まったく、なんて顔だ」
悪態を飲み込んで、雄元の口から吐息が出る。
「将軍、お疲れのご様子ですね」
そこに明るい声がした。軍師の李政賢だ。ひょろりとした体に、学者のような深衣に鎧さえ身につけていない。少し、異国訛りがあるのは、興国出身ではなく、興国に滅ぼされた国の兵法学者だったからだ。心許ないほどの顎鬚があり、目尻が垂れている。軍師でなければ、子どもに文字でも教えていそうな容姿だ。
「なにやら、面白い見世物があったとか。私はつまらない後宮の火災の鎮火で忙しくて見逃してしまいました」
「後宮の女たちを火事から逃がしたのはお前か」
「はい。その通りでございます」
李政賢は悪びれもなく言った。自らも亡国出身であるから、情がある。それはいい時もあれば悪い時もあった。
「女を連れて国へは帰れない。足手まといになるからな」
「後軍に任せましょう。将軍は前軍で大王が求めている娘を連れて、急ぎ都に帰るべきです」
「そのつもりだ」
雄元は李政賢の情が面倒でならなかった。後宮の女たちの未来など、ろくなものではないのに、最善を尽くそうとしている。兵士の凌辱から彼女らを守り、少なくとも重臣たちの妾くらいにはできるように動くつもりだろう。雄元はしかし、それに異を唱えるのも面倒なほど疲れていた。
「好きにせよ」
「御意」
李政賢はそれだけ言うと拝手してそのまま背を向けて消えた。
雄元はもう一度、桶に顔を映すとすぐにかき消すように、冷たい水で顔を洗う。戦の高ぶりから落ち着こうとしたが、まだ剣に残った血を拭くのを忘れているのと同じように、葛藤を胸からすべて消し去ることはできない。脳の覚醒が胸の動悸となって心を高ぶらせ、目を瞑れば戦の光景がちらつく。
「神人か……」
そして、雄元はまだ九天に上り続ける火柱を返り見て、女の赤い眼を思い出した。
――女は確保した。これで任務は完了だ。明日にも国に出発だ。




