08話:鉄の大公、涙の大公
「ふむ、なるほど。その丸耳に、その力。イェラの聖女アマリア様ですな」
老騎士……いや老将軍は、鉄の鎧をガチャンガチャンと鳴らしながら、ゆっくりと近づいてきた。その表情に笑みは無い。固く結ばれた白髪、蓄えられた髭、眉間に深く刻まれた皺、そのどれもが、厳しさを帯びて恐ろしい。
ただ者ではないことは確かだった。アマリアは慎重にうなずいた。
「はい、わたくしがアマリアです。失礼ながら、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「わしは『鉄の大公』ギルンザディン。陛下から一軍を預かり、半島の竜族どもと戦っております」
「鉄の……大公どの、でございますか。お初にお目にかかります」
大公。魔族有数の実力者にして、異能力者。
立場上は『血の大公』ロトゥンハーシャと同輩のはずだ。しかし、キーラタのこの怯えようは、どうしたことだろう。ロトゥンハーシャは、侍女のラヤが直訴できる程度には、城の使用人と打ち解けていた。ところが、この老人を前にした園丁キーラタは、黙したまま姿勢を正して微動だにせず、身をこわばらせてうつむいている。
ギルンザディンは、キーラタには目もくれなかった。ぎらついた銀の瞳で、アマリアだけを見据えていた。
「遠巻きに拝見しておりましたが、聞きしに勝るお力ですな。『命を慰め、痛みを癒やす、神の血を引く聖王女』。単なる噂では無かったようです」
「……光栄です」
「魔族以外の傷も、そうして治せるのですかな?」
「治しているのではなく、その手伝いをする力です。瘡蓋が張るのを早めたり、痛みをやわらげたり。彼の怪我がすっかり癒えたのは、むしろ、皆さまが受けられた『ダースラーンの秘術』の力によるものでしょう」
「ふむ。マナと呼ぶのでしたな、そのお力は。マナを与えた場合と、与えなかった場合では、回復にどれだけの差があるのですかな?」
「それは、比べてみないことには……」
「ならば試すとしましょう。キーラタよ、足を出せ」
鉄の大公は、置いてあった荷車から矛を拾い上げると、なめらかな仕草でそれを構えた。その穂先を、癒えたばかりのキーラタの太腿に向けて。
「えっ」とキーラタは立ち竦んだ。
「さあ」とギルンザディンはうながした。
一拍遅れて、アマリアは叫んだ。
「な……何をしているのですか!? まさか、彼に、もう一度怪我を負わせるおつもりですか!?」
「無論。比べてみなければ分からないとおっしゃったのは、あなたですぞ」
「だからって! ふざけないでください、他人の体を、いったい何だと……!」
「そこまでです、ご両人」
涼やかな声が割って入った。
ロトゥンハーシャだった。医者を呼びにいったシシルエーネが、連れてきてくれたのだ。彼はギルンザディンの手に手を被せ、その矛先をゆっくりと押し下げた。
「ギルンザディン。医者の前で乱暴狼藉は許しませんよ」
「必要があってのことなのだがのう。まあ、ここはおぬしの顔を立てよう」
「感謝します。キーラタ、怪我をしたと聞きました。足ですか?」
「あ……あの……はい」
「ふむ」
ロトゥンハーシャは、キーラタの足元についとしゃがんで、その傷跡をじっくり観察した。そして、立ち上がって言った。
「なるほど、きれいに癒えたようです。ですが、一度医務室に来なさい」
「え? でも俺、もう大丈夫ですし、まだ仕事が……」
「傷口は塞がっても、流れた血は失われているのですよ。体が新しい血を作るのを助ける薬を出してあげましょう。それにその服。穴を開けて、血の染みまでつけて、そのままでいるなんてだらしない。きちんと着替えなさい」
「うう、はい」
親に叱られた子のように、キーラタはしゅんと頭を垂れた。ロトゥンハーシャは、アマリアにも言った。
「奥方様もおいでください。彼にどのような処置をしたのか、詳しくうかがいましょう。それと、あなたも着替えが必要ですね」
「……わかりました」
王の命令を破り無断で外出していたことを、咎められるだろうが、仕方がない。アマリアは、固い声で返事をした。
ギルンザディンは、その間も、アマリアをじっと凝視していた。引き結んだ唇は、なにか暗いものを抑え込んでいるような、得体のしれない恐ろしさがあった。
ロトゥンハーシャを連れてきてくれたシシルエーネは、そんな彼らのなりゆきを静かに見守っていたが、やがてギルンザディンの足元にぴょんと飛びついた。
「それじゃあ、ギリーおじいさまは、ぼくと遊んで! 従兄さまは、まだお休み中だもん。いいよね、おじいさま」
「……うむ、お相手いたしましょう。して、今日はどんな遊びがよろしいですかな?」
「ちゃんばらごっこ! ね、練兵場まで、肩車!」
「お任せください。さ、どうぞ、シシルエーネ様」
かがんで背を向けたギルンザディンにおぶさる前に、シシルエーネは、アマリアにひとつウインクをしてみせた。
鉄の大公の相手を請け負って、彼女たちを逃がしてくれたのだ。この王太子は、見た目は幼いが、賢く、気が利く。
アマリアは小さな会釈で感謝を伝え、医務室へ向かうキーラタとロトゥンハーシャの後を追った。
後から医務室へやってきた二人の女性は、ほとんど異口同音に叫んだ。
「キーラタッ!」
その一人はラヤだ。彼女は血相を変えて、座らされている青年の肩をゆさぶった。
「もう、あんたってば、何してるのよ、もう! 心配したんだから!」
「ご、ごめんって。治ったから、ほら、治ったんだって」
「ばか! キーラタのばか!」
ラヤはわあわあ泣いてキーラタを困らせた。見たことのない侍女の様子に、アマリアは目を丸くした。
そんなアマリアに、ラヤと共にやってきたもう一人の女性が、すっと寄り添ってささやいた。
「二人は、恋人同士なのですよ。キーラタはいつも抜けているから、ラヤは心配が絶えないんです」
「ああ、なるほど。……ところで、あなたは?」
雰囲気のある女性だった。年齢は、三十代半ばだろうか。美しい黒髪は床につくほど長く、泣きぼくろに彩られた緑の双眸は、艶を含んで色っぽい。長く整えられた爪に黒づくめの礼服、どうみても使用人という身なりではない。誰かの客人だろうか。
淑女はにっこりとほほえんだ。
「私はネノシエンテと申します。キーラタの母ですわ」
アマリアは驚いた。人懐っこくそそっかしいキーラタと、落ち着きがありいかにも大人っぽいネノシエンテは、全然似ていない。見比べる視線があまりにあからさまだったのか、ネノシエンテは含み笑いをした。
「うふふ、よく言われますわ、似ない親子だと」
「し、失礼しました」
「よいのですよ。この子は、亡くした夫にそっくり。それが私の喜びです」
仲の良い若い恋人同士を見つめるほほえみは、哀しみをまとって、もの寂しい。アマリアはかける言葉が見つからず、ただ静かにうなずいた。
横で聞いていたロトゥンハーシャは、はあ、と息をつき、肩をすくめた。
「それだけではないでしょう。きちんと名乗りなさい、ネノシエンテ」
「あら、ごめんなさい。隠したつもりはないのですが、うっかりしていたわ」
ネノシエンテは、改めてアマリアに向き直ると、仰々しく一礼した。
「私は、『涙の大公』ネノシエンテ。海辺にございます鳥どもの巣、『翼の属領』を管理しております。以後お見知りおきくださいませ」
またまた驚いた。彼女もまた、大公だったとは。
アマリアは礼を返した。
「イェラ神国より参りました、アマリアでございます。どうぞよろしくお願いいたします。……ところで、鉄の大公どのも、涙の大公どのも、普段は自領でお過ごしと伺いました。本日は、どのようなご用件で?」
単なる疑問だったのだが、ネノシエンテは意味深な笑みを深め、ロトゥンハーシャは苦々しげにアマリアをにらんだ。
涙の大公は、じっとりした声音で答えた。
「それはもちろん、聖女様にご挨拶するために、はるばるこちらへ伺ったのですわ。まあ、いま一人の同輩『炎の大公』は、急用で来られませんが。
ですが、陛下によれば、聖女様は体調が悪いのでお会いにならない、の一点張りでした」
ネノシエンテは、ぐっと身を乗り出した。美しい笑顔に、いっさいの親しみが含まれていないことに、アマリアはその時気づいた。
「聖女様。お元気そうですね?」
互いの鼻が触れそうなほど詰め寄られ、アマリアは冷や汗をかいた。
(いや、体調不良なんて……まさか、勝手に仮病使われたってこと!?)
さすがに、こんな事故は予想できない。助けを求めて、アマリアは視線をさまよわせた。
そこへ、思わぬ人物が乱入した。おざなりなノック音ののち、医務室の扉が開く。現れたのは、アマリアの体調を詐称した当人、魔王オルヴェステルであった。
彼は、冷え冷えとした声で言った。
「ここにいたか、ネノシエンテ。政務室へ戻れ。息子への面会は済んだだろう。ギルンザディンも待たせている」
ネノシエンテは、姿勢を正して、ほほえんだ。
「まあ。陛下御自らお迎えに来ていただけるなんて、光栄です。すぐに戻りますわ。さあ、聖女様もご一緒に」
「ならぬ」
「なぜですか、陛下? 聖女様は復調なさったご様子。構いませんでしょう?」
オルヴェステルは、目を眇めた。そして、氷色の冷たい視線をアマリアに向けた。アマリアも、負けるものかとにらみ返した。
(あんたのせいでピンチなの! 何とかしなさいよ!)
しばしの沈黙を経て、彼は口を開いた。
「アマリア」
「……はい」
「腰はもういいのか」
この男は何を言っているんだ?
きっかり十秒固まって、ようやく意味を理解したアマリアは、恥ずかしさのあまり、全身真っ赤になった。
ネノシエンテは、らんらんと瞳を輝かせ「まあまあまあ」と口元を押さえている。まるきり誤解である。オルヴェステルが部屋を訪れたのは、後にも先にもシシルエーネの事件のときだけ。アマリアはまだぴかぴかの乙女だ。
陸に打ち上げられた魚のように、アマリアは口をぱくぱくさせた。言い返そうにも、破廉恥すぎる。ラヤとキーラタが目を伏せて照れているのも、いたたまれない。オルヴェステルだけが、しれっとした態度で、嘘に嘘を重ねた。
「今朝は起き上がれなかったので、休ませていた。シシルエーネと遊んでやっていたそうだが、幼子には説明できず、無理をして付き合っていたのだろう。アマリア、部屋で安静にしていろ」
憎きロトゥンハーシャも、主のでたらめに便乗した。
「私が部屋までお送りしましょう。陛下との御子を設けることも、重要なお役目。今は休息こそが、奥方様のなによりの務めでございます」
すっかり茹であがり、言葉を失ったアマリアに、オルヴェステルはとどめの一言を放った。
「アマリア。今宵も私の部屋で待て。いいな」
オルヴェステルは去った。ネノシエンテは、遠ざかる背とアマリアとを何度も見比べて、興奮した様子でぶんぶんとうなずいた。
「そういうことだったのですね! いやだわ私ったら、無粋なことを申しました。聖女様、どうかごゆっくり」
「あの、ちが、あの」
「そうですわよね。陛下も、ご家族のほとんどを失われた、おいたわしい身の上ですもの。新たな愛に夢中になるのも当然ですわ! お邪魔いたしました、私、これにて失礼いたします」
ネノシエンテはすっ飛んでいった。なんとか窮地は切り抜けたが、そういう問題ではない。ラヤたちは真っ赤な顔でささやきあい、ロトゥンハーシャはやれやれとばかりに首を振っている。
アマリアは、混乱して叫び出しそうになった。
(どういうこと、今宵『も』って!? 今まで軟禁してきたやつの言う台詞じゃなくない?
ていうか、ていうか、……あんたの子どもなんか、絶対産みたくないんだけど!?)