06話:シシルエーネ
「ごめんなさい、このお部屋、使ってたんだね」
小さな闖入者は、そう言ってぺこりと頭を下げた。
「こんにちは。ぼく、シシルエーネ。よろしくね!」
どうやら、それが名前らしい。身なりや仕草に気品の片鱗をまとわせながらも、屈託のない素直なようすが愛らしい。利発そうな金の瞳は、好奇心にきらきらとかがやき、この陰鬱な魔王城をここだけ明るく照らし出すようだ。
良い子そうだ。アマリアもつられて笑顔になった。
「アマリアです。こんにちは、シシルエーネ」
「アマリアお姉さん、このお部屋で何してるの?」
「わたくしは、ここで暮らしています。一週間前、お城に来たばかりなのです」
「そうだったんだ! ごめんね、ぼく久しぶりだから、ここ空き部屋だと思って……、あっ」
シシルエーネは言いさして、つんととがった耳を小さく震わせた。
「……いけない、もう来た。お願い、隠して!」
「ええっ?」
「かくれんぼなの! 早くしないと、ハーシャが来ちゃう」
なるほど、それで空き部屋を探していたのか。
いたずらっぽい笑顔を見れば、協力せずにはいられない。アマリアは衣装棚に少年を匿った。戸を閉める間際、シシルエーネはにこにこして念を押した。
「誰が来ても、ぼくはいないよって答えてね」
「ふふ、分かりました。お任せください」
一連の出来事を見ていたラヤは、おろおろした様子で、「あの、アマリア様……」とつぶやいた。
しかし、それに問い返す間もなく、部屋の扉が強く叩かれた。飛び込んできたのは、血の大公ロトゥンハーシャだった。見るからに焦っている。彼は挨拶もそこそこに、早口で尋ねた。
「失礼。小さな男の子がここへ来ませんでしたか?」
「さあ、存じません。ねえ、ラヤ」
「え、ええ」
「……そうですか。いったいどこへ……」
と、そこへ「へくちっ」と、くしゃみの音が棚から響いた。
室内の全員が固まった。
ロトゥンハーシャは表情を変え、無言でつかつかと歩み寄ってきた。アマリアはむきになってそっぽを向いた。
「……存じません!」
おそろしい力がアマリアの両肩を掴んだ。
びくりとおののく彼女を、ロトゥンハーシャはものすごい形相で怒鳴りつけた。
「嘘をつくな! ふざけていないで白状しろ、どこに閉じ込めた!」
「は、ハーシャ、やめて! 違うんだよ、そのお姉さんは何もしてないよ!」
剣幕におびえ、衣装棚からシシルエーネがおおあわてで飛び出してきた。彼はロトゥンハーシャの足元に駆け寄り、その服の裾をぎゅっと握った。
「ごめんねハーシャ、ぼく、ハーシャをびっくりさせたかったの。このお部屋は使ってるって知らなくて、ここに隠れようと思っただけなの。怒らないであげて、ハーシャ。ぼくが勝手に入ったの」
「………………そうでしたか」
深い安堵のため息とともに、ロトゥンハーシャはアマリアから手を離した。そして、ずるずると崩れ落ちるようにして、シシルエーネの前にひざまずいた。
「お怪我はありませんか、シシルエーネ様。体に触れられたり、妙な真似をされたりは?」
「何にもないよ、平気」
「それはようございました。ここへは、もう来てはなりませんよ」
「え……、うん、分かった……」
シシルエーネは、ロトゥンハーシャとアマリアを、ちらちらと遠慮がちに見比べた。そして、アマリアにはにかんだ。
「それじゃ、アマリアお姉さんの方から、ぼくに会いに来てね。ぼくのお部屋、この近くだから」
ロトゥンハーシャは遮るように言った。
「なりません、シシルエーネ様。この方は、部屋から出られません」
「どうして?」
「どうしてもです。陛下が決めたことなのです」
「やだよ、ぼく、お姉さんと仲良くなりたい!」
「できないのですよ、シシルエーネ様。陛下の言うことが聞けませんか?」
「でも……!」
アマリアは目をぱちぱちとしばたたかせた。
軟禁解除のために、思わぬ加勢が入ってくれた。ロトゥンハーシャは、ならぬならぬと説教しているが、シシルエーネにはそれほど強く出られないらしい。
しかし、大公にかしずかれて、さらにわがままを通そうとできるこの子は、いったいどういう立場の人物なのだろう?
アマリアは戸惑いながら、なりゆきを見守った。シシルエーネは頑として主張を曲げず、ロトゥンハーシャはなんとかそれをなだめようとしている。ラヤはすっかり困り果て、早くこの状況が収束するのを祈るかのように、胸元でぎゅっと手を組んでいた。
そんな中、示し合わせたかのように、その場の全員が、ふと一斉に、同じ場所を振り向いた。
部屋の入り口。開け放されたままの扉。
戸口に現れたその人影は、物音ひとつ立てなかったが、無視できない圧倒的な気配をまとっていた。
地を這うような低い声。
「何を騒いでいる」
闇色にうねる髪、氷色の鋭い眼差し。
仰ぎ見ることを強いる威圧的な長身。
魔王、オルヴェステルがそこにいた。
みながすばやく立ち上がり、深々と頭を下げた。アマリアも急いでそれに倣った。
シシルエーネだけが、特段畏まることもせず、オルヴェステルに駆け寄った。
「にいさま! このお姉さんをお部屋に閉じ込めてるって、本当なの?
ぼく、お姉さんと仲良くなりたいのに、ハーシャは駄目だって言うんだ。にいさまがそう決めたからって。どうして、このお姉さんと仲良くしてはいけないの?」
オルヴェステルは、シシルエーネをじっと見下ろした。そして、黙したまま、冷たい視線をアマリアへと向けた。
背筋にぞくりと震えが走った。
仮にも夫婦だというのに、こんな目でにらみつけてくるだなんて。暗く険しい目つきは、刃にも似て突きつけられ、一切の親しみを感じさせなかった。
彼は、シシルエーネではなく、アマリアに言を返した。
「……外出は許可しない。たとえ、この子を利用して訴えても無駄だ。ここから出るな」
「利用……!?」
何を言われているのか分からず、アマリアは混乱した。しかるのち、胸のうちにカッと怒りが沸き上がった。
(まさか、私がこの子に入れ知恵して、私の主張を代弁させたと思われているの!?)
アマリアはむきになって言い返した。抑えたつもりだったが、隠しきれない激情が声音からにじみ出た。
「わたくし、シシルエーネとは、つい先ほど出会ったばかりです。利用だなんて心外ですわ」
「お前と関わりの深い他の使用人たちからも、同様の訴えが出ていると聞く。無関係ではあるまい」
「それは、わたくしの扱いが不当であると、誰の目からも明らかだからでしょう! 魔族というのは、夫が妻を、理由もなく軟禁する民族だとでもおっしゃるのですか!?」
我慢の限界だ。ついにアマリアは、目の前の男を怒鳴りつけた。
泣きそうな表情で縮こまるラヤも、血相を変えるロトゥンハーシャも、今は目に入らなかった。今までの鬱憤をまるごとぶつけるようにして、アマリアはオルヴェステルに食ってかかった。
「そもそも、我が祖国イェラと貴国の間には、これまで国交の一つもございません。それをあなたは、武力で脅して、わたくしを無理に呼び寄せた。そして問答無用で軟禁して、そのうえ、わたくしと親しくしてくれる人々にまで、妙な疑いを向けるというのですか!
大層ご立派な身分ですわね、魔族の王というものは! 古くは民と親しく過ごし、助け合って暮らしてきたと聞きましたが、そうした慈愛の精神までは、継承できなかったとお見受けいたします。あなたの横暴ななさりようを見れば、草葉の陰のご先祖様も、さぞかし鼻が高いでしょうね!」
ありったけの罵声を吐き出し終えて、アマリアはぜえぜえと肩で息をした。
残響が去り、部屋に残ったのは、あまりに重苦しい沈黙だ。ラヤは涙目で、ロトゥンハーシャは怒りに震え、シシルエーネは訳も分からずただ固まっていた。
オルヴェステルだけが、眉の一つも動かさず、平然と佇んでいた。
やがて、彼はぽつりと言った。温度のない平坦な声だった。
「なんであろうと、外出の許可はしない。故あってのことだ。部屋にいろ。みだりに他者と話すな」
身を翻して、王は立ち去った。静まり返った部屋で、ロトゥンハーシャは非難がましい目でアマリアをねめつけ、シシルエーネを急かした。
「さあ、シシルエーネ様。我々も戻りましょう」
「うん……。お姉さん、ごめんね。またね」
控えめに手を振るシシルエーネに、苦笑いで手を振り返す。『また』がいつか来れば良いのだが。
招かれざる者たちはすべて帰った。アマリアは、全身の空気をしぼり出すような、深い深いため息をついた。
「……わたくし、大変な国に来てしまったのね」
大公には掴みかかられるわ、王には訳も分からぬ冷遇を受けるわ。おまけに、子どもと話すだけで、妙な言いがかりをつけられるとは。
ラヤはしょんぼりとうつむき、無礼な男たちの代わりに弁明をした。
「陛下のお考えは分かりかねますが、ロトゥンハーシャ様があのように怒鳴ったのは、おそらく、ご不安のためなのかと……」
「不安?」
「ロトゥンハーシャ様は、シシルエーネ様の教育係であり、御典医なのです。お体の弱いシシルエーネ様のお姿が見えず、我を忘れたのだと思います。シシルエーネ様がお生まれになったその時から、ロトゥンハーシャ様はずっと、そのおそば付きですから」
「そう、親子のようなものなのね。……ところで、あの子は何者なの? 陛下の弟君?」
王に『にいさま』と呼びかけていた。ただ者ではあるまい。
ラヤは答えた。
「いえ、それに近いですが、違います。シシルエーネ様は、先王ダースラーン様の唯一の実子であり、王太子様です。
オルヴェステル様とは、従兄弟関係になります。本来は正統な王となるべき方なのですが、まだ幼いため、今はオルヴェステル様が王なのです」
「ダースラーン王の息子……! あの『秘術』の!」
国の最重要人物のひとりではないか。アマリアは両手で口をおおった。
(ロトゥンハーシャも焦るわけだ。私、王太子誘拐犯だと思われてたわけね……。
というか、ラヤが内緒にしようとした『大公様の大切なお役目』って、これか)
自国の王太子が病弱であるなどとは、たしかに侍女の口からは言い難い。
しかし、重臣に幼子の面倒を見させつつ、王妃の世話役まで任せるとは、この国は本当に人手不足らしい。
そこでふと、アマリアは首を傾げた。
(あれ? ダースラーン王が亡くなったのは、たしか十八年前だよね。
あの子、五歳くらいに見えたけど……どういうこと?)