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42話:サヴォク平野の戦い・後編

「ロトゥンハーシャさん! (よう)(てつ)の消火はすべて終わりました。草原の各地で新たに火災が起こっていますが、塔より東のこちら側には被害がないようです」


「ありがとうございます、ルーイエ。ついでで申し訳ないのですが、この袋にも少し氷を出してください。彼の火傷を冷やしたいので」


「はいっ!」


 誰かが周りでさかんに話しているのが、ぼんやりと聞こえる。目は見えない。手にも、足にも、感覚がない。苦しみだけが、痛みや、熱や、麻痺となり、さまざまに形を変えて全身を襲っていた。


 唇に何か柔らかいものが触れた。濡れた綿だった。そっとしぼられ、綿が含んだ液体が口の中に垂れ落ちるのを感じて、ジョサムは、自分が看護を受けていることを知った。

 煙で()けた喉をうるおす甘さがあった。苦痛がわずかに引く。言葉を話したかったが、舌の動きが不自由で、声がうまく出なかった。


「……ちの、たい、こう」


 両目は腫れふさがり、相手の顔などろくに見えない。それでも、聞き慣れた涼やかな声で、返事は上から降ってきた。


「三日ぶりですね、ジョサム。生きていて何より」


「……なぜ……」


「私は医者です。負傷者を助けるのは当然でしょう」


「……おれは、陛下に、そむいた、敵、です」


 言葉にして改めて、おのれのみじめさを思い知る。


 オルヴェステルに背いて、炎の大公軍に下ったジョサムたちを、バーンソルドは冷ややかな目で品定めしたのだ。

 ジョサムが兵ではなく料理人で、発作のせいでまともに戦えもしないと聞いて、バーンソルドはあからさまに軽蔑した態度をとった。そして、純血魔族であるにもかかわらず、混血兵と同じ部隊に編成した。


 策の全貌など、騎兵隊は誰も聞かされていなかった。ただ、真っ先に突撃して、敵部隊を横から襲えと指示されただけだ。無理そうなら下がれと。

 まさか、敵を誘い出す生き餌の役目だとは知らなかったし、バーンソルドが自分たちを敵もろとも焼き殺すつもりだとは思わなかった。


 ジョサムは、あの混乱の中で落馬して、逃げ惑う内に、溶鉄に足を焼かれた。なんとか生き残ったのは、単に彼がダースラーンの秘術に守られた純血魔族だったからだ。同じ部隊の混血たちは、ほとんど死んでしまったに違いなかった。

 兵士として、一番の役立たずは、自分だったのに。


「おれなんか……このまましんだ、ほうが……」


 ジョサムの声は震えた。喉が詰まるのは、身体に負った怪我のせいだけではなかった。


 誰かの手が、ゆっくり髪をなでた。ため息らしき吐息が聞こえた。「やれやれ」というお馴染みの口癖で、見えずとも、相手が肩をすくめているのがわかった。


「たった三日で、もうお忘れですか。シシルエーネ様の大好物は、あなたの作るリンゴのパイなのですよ。あなた以外の誰が作るというのです」


 リンゴのパイ。それは何だろうと考えて、ジョサムは、この殺伐とした三日間が、本当にそれらを忘却の淵に追いやっていたことを知った。


 そうだ。俺は、料理人だ。

 剣じゃなくて、包丁を持っていた。

 戦えなかったけど、人を喜ばせていた。


 王太子様は、目覚めるたびに、おやつにパイをねだってくれた。

 王妃様は、城に来たばかりのとき、わざわざ伝言を頼んでまで、感謝の言葉を届けてくれた。


(俺が、本当にすべきことは、戦うことなんかじゃなかった。本当の俺を必要として、待っている人は、炎の大公軍なんかじゃなくて――)


 心が、熱くぐずぐずに融けた。ジョサムは、かすれきった吐息のような声で、あえいだ。


「すみません、血の大公。すみませんでした」


 身動きできないジョサムの代わりに、ロトゥンハーシャの指が、流れる涙をすくった。「お大事に」という優しい声が、心に深く沁み通った。止まらない嗚咽(おえつ)の合間に、何度も何度も、ジョサムは繰り返し謝り続けた。




 オルヴェステルが影から姿を現すなり、待ち構えていたバーンソルドは、嘲笑を浴びせてきた。


「お友達は連れてこなくてよかったのかよ? 臆病者のオルヴィ」


 剣を肩にかつぎ、岩に腰掛けて、バーンソルドはにたりと笑った。


「ひとりぼっちじゃ、怖くて戦えねえだろ? だから()(ぞく)どもと組んだんだもんな?」


 オルヴェステルは、冷静にバーンソルドを観察した。彼の軍装は、ところどころ鎧が壊れ、血の染みや焼け焦げた跡が残っている。高塔から爆発で叩き落とされた折、負傷したのだろう。

 彼が一人で待ち構えていたのは、傷が重くて兵たちと合流できなかったためである可能性がある。この挑発も、こちらを怒らせて調子を乱すためだ。我を忘れたオルヴェステル一人であれば、なんとか倒せると踏んだのだろう。

 ならば、同じ手を、こちらも使うまで。


「昔、母上に尋ねたことがある」


 オルヴェステルは口を開いた。バーンソルドの長耳が、ぴくりと揺れた。


「なぜバーンソルドと結婚しないのかと。俺はあなたを、父上と呼びたかった。母上を陰でそしる者から、守ってやってほしかった。七歳か、八歳の頃だった」


 バーンソルドは、表情から笑みを消し、ゆらりと立ち上がった。両目はわずかに細められ、オルヴェステルの言葉に耳を傾けている。


「母上はおっしゃった。『君の父上は、一人だけだ。いなくなってしまったけれど、とても素敵な人だったんだよ。なんといっても、この私が愛した人なんだからね』と、誇らしげにほほえんで」


 腰の剣を抜き放ち、オルヴェステルは構えた。

 もう恐れない。

 立ち向かうと、決めたのだ。

 銀の切っ先をバーンソルドに向け、オルヴェステルは言い放った。


「バーンソルド。母上は、お前を選ばなかった。今ならば、その理由がわかる」


 バーンソルドの目が怒りに見開かれた。途端、目にも止まらぬ踏み込みで、剣が眼前に迫る。防いだ。尋常ならざる(りょ)(りょく)同士の(つば)()()いに、互いの武器がきしむ。


「殺してやるよ、オルヴェステル!」


「やってみろ、バーンソルド!」


 力任せに押し返すと、敵はすばやく飛び退いた。そして、雌雄を決するために、二人は互いに剣を構えて斬りかかった。


 その決闘は、人間同士が成し得る中で、まさしく至上の死合であった。余人の目には捉えることもできない速度で、刃の応酬がなされ、激突のたびに互いの血が細かく舞って血煙となった。


 しかし、何十合と打ち合う内に、次第に、オルヴェステルは押されていった。

 そもそも、バーンソルドのほうが、(はく)(へい)(せん)に長けているのだ。かつて獣族(ガルー)たちと戦争していたときも、オルヴェステルは(かげ)()いによる妨害や支援がほとんどだった。技巧も経験も、相手に分がある。

 異能力で対抗しようにも、周りは一面火に巻かれ、影は互いの足元で薄く揺れるばかりだ。


 何度めかの血を口から吐いて、オルヴェステルは、最悪の想像をした。


(刺し違えるほかないのか……?)


 先に逝った者たちの顔が、次々と心に浮かんでは消えた。亡霊たちの恨み言が、耳の奥でこだまする。


 それでも、オルヴェステルは首を横に振った。

 いいや、死ねない。負けられない。


 視界をさえぎる額の流血をぬぐって、オルヴェステルは再び剣を構えた。


(アマリア。俺は必ず、君のもとへ帰る)




「オルヴェステル様は、勝てるでしょうか……?」


 アマリアは、この合戦が始まる前のときのように、スコルフスに問うた。


 周辺の消火や負傷者の救助、捕虜の移送があらかた済んだいま、連合軍の本隊は、炎の中で戦い続ける二人の魔族たちの決着を、息を詰めて待ちわびていた。

 バーンソルド討伐のために、兵たちは助力できない。炎の大公の身体能力に敵うものは一人もおらず、却って利用され、オルヴェステルを不利にさせるだけだ。


 遠眼鏡で状況をうかがうスコルフスは、「む……」と難しい顔で黙り込み、アマリアに返事ができなかった。

 苦戦しているのだ。

 アマリアは不安げに衣服の胸元を掴んだ。その隣のネノシエンテが、悔しそうに地団駄を踏んだ。


「夜になれば……、影さえあれば、陛下は絶対に負けないのに……!」


 本隊に合流していたゼノは、「それ、どういう意味だ?」と尋ねた。彼らは、鉄の大公討伐の折、その能力を目撃してはいたのだが、何も説明しないままオルヴェステルは去ってしまったので、理屈はわからず終いだった。


 ネノシエンテは、影にまつわるオルヴェステルの二つの異能力、(かげ)()いと(かげ)(わた)りについて、ゼノに説明してくれた。

 ゼノは、「俺たち、そんな無茶苦茶なやつ相手に、勝とうとしてたのかよ……」と、今さら無謀を思い知った。そして、西の空を見上げた。


「……確かに、まだまだ日は高いな。雲は少し出てきたけど、あんたの話じゃ、曇り空って程度の暗さじゃ、魔王の力はまだ使えなさそうだし……」


 ネノシエンテの横で散々うんうんうなってから、ゼノは突然、ぽんと手を打った。


「あ、そうだ、簡単じゃん。もう一回やればいいんだよ」


 そして、「はあ?」と怪訝(けげん)そうなネノシエンテを置いて、彼は『黄昏(たそがれ)(ともしび)』の仲間たちのもとに駆けていった。


「エディ。俺たち、最後にもうひと仕事しないか」


 鉄の大公との戦いでボロボロになり、その後の消火活動も手伝って、疲れきっているだろうに、エディジェプスは嫌な顔一つ見せずに即答した。


「何をすればいい?」


「耳貸せ。あのな……」


 思いついた策をぼそぼそとささやく。悪友は、にやりと笑って請け負った。


「いいぞ。任せろ」


「よっしゃ!」


 善は急げだ。ゼノは、遠眼鏡をにらみ続けるスコルフスのもとへ行き、その肩を叩いた。


「なあ、司令官さん。あれ借りていいか?」


 ゼノが指さしたのは、投石機だ。黒く煤けたそれを見て、スコルフスは、眉をひそめて教えてくれた。


「投石機はすでに故障しているぞ。縄を焼き切られてしまったので、もう撃てない。直したとて、一対一の戦場に石など撃ち込めば、どちらに当たるか保証できず危険だ。弾となる石も、ずいぶん使ってしまった」


「撃たないよ。登るんだ」


「なに?」


 ゼノは、考えた策を説明した。それは、あまりにも単純で、あまりにも大雑把に過ぎた。理論を重んじるスコルフスは、眉に呆れを帯びさせて、首を傾げた。


「成功……するのか?」


「当たって砕けろだ。それが俺たちのやり方さ!」


「む……いや、わかった、許可する。他に打てる手も無いことだし……。ただし、くれぐれもオルヴェステルには当てないように」


「言っとく! ありがと、司令官さん!」


 ゼノは、スコルフスににかっと笑んで、友のもとへ戻った。そして、エディジェプスにおのれの大盾を託すと、拳を突き出した。


「それじゃ、頼んだ! 一発でバシッと決めろよ!」


「ふん」


 渡された盾を片手で軽々担ぎ、互いの拳を軽くぶつけ合ってから、エディジェプスは走り出した。


 鳥族(ハルピュイア)魔族(ナイトメア)の混血である彼は、見た目より遥かに強靭な筋肉と、遥かに軽量の骨格を有する。本来ならばおのれの体さえ飛翔させるほどの、驚異的な推進力を秘めた肉体は、生まれてすぐに両翼を失ったエディジェプスに、空を飛び舞う自由の代わりに、尋常ならざる力を与えた。


 体重より重い大盾を担いだまま、投石機の骨組みを駆け登り、木製の長い腕の上を疾走する。

 ここが、この陣地で一番高い場所だ。


(魔族なんぞに、命の借りを作ったままなのは、(しゃく)だからな)


 助走をつけて、盾を構えて、エディジェプスは叫んだ。


「――避けろ、魔王ォッ!」


 大盾が、飛んだ。

 渾身の(とう)(てき)によって放たれたゼノの大盾は、二人の魔族が交戦するその場所めがけて、宙を切ってまっすぐに飛んでいった。




 二人が上空からの気配を感じ取ったのは、ほとんど同時だった。


 オルヴェステルは素早く後ろに飛び退(すさ)った。バーンソルドは、わずかに身をかがめてそれを避けた。

 轟音が背後に突き刺さる。

 視線だけで確認し……バーンソルドは、目を見開いた。

 見覚えのある意匠の、常識外の大きさの盾。


(ゼノか。あいつめ、俺を狙ったつもりか? 残念だったな、外れだぜ……)


 鼻で笑う。バーンソルドは正面のオルヴェステルに再び斬りかかり――


 いや、斬りかかろうとした。

 動けない。

 嫌な汗がぶわっと出た。


(な……ばかな、影縫いか? ここは火の海だ、影なんぞどこにも……)


 唯一動く眼球を巡らせ、バーンソルドは息を呑んだ。

 おのれの足元に、影がある。

 背後の大盾が作り出した、黒々とした巨大な影が。


「……ゼノォッ! このッ、クソガキがあァッ!」


 影を振り切ろうと、バーンソルドは渾身の力でもがいた。途端に、がくんとつんのめる。急に影縫いが切れたのだ。体勢を崩したバーンソルドは、半ばひざまずくような形で、再び影に捕らわれた。

 一瞬の隙に詰め寄ったオルヴェステルが、剣を振り上げる。避けられない。魔王は、叫んだ。


「これで、終わりだッ!」


 胴に、鋭い熱と、衝撃が走った。痛みは遅れてやってきた。


 バーンソルドは、その体を、上下真っ二つに断ち切られた。


 地面にどさりと投げ出された上半身は、踏みつけられて取り押さえられた。駄目押しとばかりに、肩から鎖骨にかけて剣で貫かれ、地面に縫い止められる。

 どくどく脈打ってあふれる血潮が、秘術が傷を癒やすより早く、バーンソルドの意識を奪い去っていく。


「くそ、がき、ども、が……」


 恨み言だけを吐き捨てて、バーンソルドは、ついに沈黙した。

 ぽつぽつと降り始めた雨が、二人の周囲に燃え残る火を、ゆっくりと消し止めていった。

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