36話:もう逃げない
オルヴェステルは、ギルンザディンら鉄の大公軍に、引き続き牙の属領でバーンソルドを拘束しておくようにと、取り急ぎ伝えた。
そして、イェラ神国軍の命令に従って、急遽彼らを城へと護送した。その後、各属領へ向かう神国の伝令使たちのために馬を用意し、案内役とともに送り出した。
いま、城内にある政務室で、アマリアは王のための席に堂々と腰掛けていた。オルヴェステルは、その椅子のかたわらに立ったまま控え、次々と現れる兵たちに、彼女が命令を下すさまを見守っていた。
慣れない様子で、魔族の兵が報告する。
「ご命令に従い、婢族――」
「その呼び方を改めなさい。今後、婢族などという呼称を使用することは許しません。『獣族、鳥族、竜族』と呼びなさい」
「し、失礼しました。獣族、鳥族、竜族の、代表者を召喚する目処が立ちましてございます。早馬の報によれば、到着は明後日の早朝になる見込みです」
「わかりました。では、明後日の午前より、それら全員を参加者とする会議を開催します。会場は城の大広間です。用意してください。
それから、他の民族と接触すると心身に不調をきたす者がいる場合、会議の時間は安全な部屋に待機するよう、あらかじめ手配してください」
「かしこまりました。各員に申し伝えます」
魔族は、アマリアに礼をしたあと、オルヴェステルをちらりと見て、気まずそうに頭を下げた。小さくうなずき返して見送る。扉がぱたりと閉ざされてから、オルヴェステルは、おそるおそる口を開いた。
「……アマリア様。そろそろ、貴国の真意を、お聞かせ願えますか」
アマリアは、オルヴェステルをじろっとにらんだ。そして、バンと机を叩いて立ち上がると、ずいずいと無遠慮に近寄ってきた。気迫に負けて、後ずさりしていたら、あっという間に壁まで追い詰められた。
たっぷり十秒以上、オルヴェステルをにらみあげてから、アマリアは大声で叫んだ。
「ばか!」
面食らった。
ぽかんとしていると、アマリアは、両手を拳に握って、オルヴェステルの胸を強く殴った。痛くはないが、殴るたびに、まったく同じ罵声を繰り返し浴びせかけてきた。
「ばか、ばか、ばか、ばか!」
「……申し訳、」
「オルヴェステル様のばかっ!」
アマリアは、オルヴェステルの胸に顔をうずめたまま、怒りに震え、泣きだしてしまった。オルヴェステルはおずおずとその肩を抱いた。
「……すまない、アマリア」
以前のように呼びかけても怒らないのを確かめてから、オルヴェステルは、ためらいがちに問いかけた。
「教えてくれないか。どうして、こんなことを?」
「あなたを助けるために決まっているでしょう!」
アマリアは顔を上げると、両手でむちゃくちゃに涙を拭った。そして、深呼吸を繰り返してから、口を開いた。嗚咽混じりに語られた彼女の目的は、オルヴェステルにとって、とても信じがたいものだった。
じつのところ、アマリアは、蛮勇とも言えるこの策に、おのれの持てるすべてを費やしていた。
前世の記憶も、聖女としての力も、そして王女としての立場も。
彼女は、潔斎場から飛び出したあと、謁見の間で父王にひざまずいて、こう言ったのだ。
『女神の血を、国外の者に与えるお許しをください。そして、わたくしに、神国軍の勇敢なる兵たちを、どうかお貸し与えください!』
居並ぶ神官たちは、思いもよらぬ発言に、戸惑って顔を見合わせた。彼らはあくまで、魔王のもとから帰還した聖王女の無事を喜び、おそろしい目に遭った彼女の傷心をなぐさめる場であるという認識で、ここにつどっていた。
父王パウエルは、確かめるように言った。
『兵を連れて、他国へ侵入するというのか……? 我らは、平和を誓った神の国の民。みだりに誤解を招くようなことは……』
『誤解ではありません。わたくしは、兵をもって平原に攻め入り、魔族から国を奪うのです!』
『な……なんと……』
神官たちは息を呑んだ。気弱なパウエル王もまた、目に見えて狼狽した。彼は、蓄えた髭をなでさするという、困ったときの手癖を繰り返して、うなった。
『……ううむ。乱心した、などとは、言うまい。幼き頃より、そなたの英明は、誰よりも余が知っている。しかし、いったい、なんのために……』
『苦しむ民を救うため。そして、いままさに兇賊に殺されようとしている、魔族の王、わたくしの夫を救うためです。
父上、どうかお聞きください。この山の頂で、わたくしたちが神の御威光と平和を享受している間、麓ではどれほどの憎悪と絶望が渦を巻き、現世にいかなる地獄が生み出されているのかを』
アマリアは、魔族の受けてきた数百年にもわたる迫害と、その彼らがいまや加害者に転じていること、他の民族がいかに虐げられているかについて、おのれの見てきたありのままを語り聞かせた。
みな、息を詰めて、それを聞いていた。無理もない。かつてのアマリアもまた、地上で何が起こっているのかなど、まったく知らなかった。イェラ神国は、戴く神を等しくする南側の近隣諸国とのみ、これまで国交を持っていた。険しい山岳の麓にある北側の神杓平原とは、一切の関わりがなかった。
神国王は、その徳高き心のままに、人々をあわれんで青ざめた。それでも、髭をなでつつ、視線をさまよわせ、うつむいてぼそぼそとつぶやいた。
『……しかし、やはり、我らは女神イェラの遺志を継ぐもの。兵を挙げ、戦によって事をなすというのは……』
パウエルは、意志が弱くも温厚な王だ。長く国民に愛され、かつてはアマリアも尊敬していた。
だが、この期に及んで。
アマリアはついに我慢の限界を迎えた。彼女は床を殴り、腹の底から吼えた。
『神祖イェラでさえ! 人々を救うためには、天より下り、神のままであれば永遠であったはずの命を、自ら擲つ必要があったのですよ! 人の身であるわたくしどもが、雲の上から祈るばかりで、いったい何を救えるとおっしゃるのですか!』
その場の全員が、唖然としてアマリアを見つめた。慈悲の化身であるイェラの王族が、ましてや聖王女が怒鳴るなど。
驚きのあまり、口もきけずにいる父をキッとにらんで、アマリアは床を蹴って立ち上がった。
『もう結構です! わたくし、一人でも参ります!』
『あ、アマリア、早まるな』
『嫁いだときも一人だったのです! 再びそのようにするだけです! 女神の血だけ頂いて参りますわ! あとは、勘当するなり、追放するなり、お好きなようになさいませ!』
背を向けて出ていこうとするアマリアに、遅れてやって来たスヴェンだけが冷静に呼びかけた。
『まあ待ちなよ、姉上』
『スヴェン、わたくしを止めないで!』
『止めやしないよ。でも、喧嘩別れってのも嫌だろ。……ねえ、父上』
パウエルは、息子の加勢に、必死にうなずいた。額に浮いた細かい汗をせっせと拭う父に、スヴェンは静かに語りかけた。
『父上。僕らは、確かに女神のご遺志を継ぐ血族です。不戦を誓い、平和を守る使命を授かっています。
ですが、神祖は、傷つき苦しんでいる人々がいると知った僕らに、耳目を塞いで我が身だけを守るようにと、果たして望まれるでしょうか? 助けを求める手から目を背け、足早に遠ざかることが、果たして真の天意でしょうか?』
神官たちは、恥じ入るようにうつむいた。スヴェンは落ち着いた声音で弁舌を振るいながら、彼らの一人ひとりに目を合わせた。
『僕は、そうは思いません。たとえ確かな勝ち目がなくとも、己が傷つくことになろうとも、手を取って助けようとする。それこそが、神話に残る神祖イェラの御姿ではありませんか』
スヴェンは、アマリアをちらりと見た。
『……それにさ、姉上。今回は、特別に勝算があるんだろ?』
人々の視線が、アマリアに集まった。パウエルはおそるおそる尋ねた。
『そうなのか、アマリア』
アマリアは、うなずいた。
『はい。……ただ、わたくし一人きりでは、ほんの数人しか助けられません。もしも、父上がわたくしにすべてを託してくださるのであれば、神杓平原で苦しむ人々すべてを、あるいは助けられることでしょう』
アマリアは、両膝をつき、両手もついて、深々と頭を下げて、ひれ伏した。そして、改めて父王に懇願した。
『先ほどは、お見苦しい姿をお目にかけてしまい、申し訳ございません。父上、いま一度お願い申し上げます。どうぞわたくしを信じ、兵権をお貸し与えください。兵たちは、決して一人も失わせず、手を汚させもしないと、お約束いたします!
神杓平原に満ちる憎悪の渦、血で血を洗う復讐の連鎖を、わたくしがかき消せるよう、どうかお力添えをお願いいたします!』
アマリアがなぜ魔族の国を征服したのか、明日の会議でいったい何をしようとしているのか、オルヴェステルはその計画のすべてを聞いた。そして、愕然とした。
「……無茶だ。うまくいくはずがない。君は、こんなことのために、地獄へ舞い戻ってきたのか」
「決めつけないで! あなたを救う道筋は、もう、これしか思い浮かばなかった!」
「だが、失敗したら、君はどうなる!」
「殺されます、あなたとともに! でも、それが何? バーンソルドはもとからそのつもりでしょう!」
「な……」
「だから、勝つんです! 必ず成功させるんです!」
アマリアは、オルヴェステルの両腕をぎゅっと握って、涙ながらに訴えた。
「お願い。最後の瞬間まで、助けを求めて手を伸ばすのをやめないで。自分一人で終わろうとして、掴んだ手を離してしまわないで。私、あなたとなら、一緒に地獄へ落ちたっていい。だから最後まで運命に抗って」
溺れゆく人を、底なしの沼から引き上げるように、アマリアは必死に言いつのった。
「あなたは間違ってない。人の命を奪いたくないと願うあなたは、絶対に間違ってなんかいない。だからお願い。あなたの心を踏みにじって、人殺しの道具にしようとする人たちに、どうか負けないで。諦めないで、オルヴェステル様」
まっすぐなまなざしは、あやまたずオルヴェステルの心の芯を突き刺した。
「……バーンソルドに……」
震える唇から、言葉は血のようにしみ出した。
「俺は、あの人に、もう一度認めてほしかった」
アマリアの肩に触れていた両腕が、だらりと垂れた。
そうだ。本当はわかっていた。
王として、暴走する民を諌め、『呪い』を解決し、力づくにでも人々の営みを復活させなければならないことなど、わかっていた。
表立ってそれをできず、人々の狂奔の波に流されるままになっていたのは、ひとえに未練のためだった。
「母の復讐のために武器を取ったあの人を、俺が引き止めたのも、もう失いたくなかったからだ。
秘術がどれだけ魔族を強くしたかなんて、あの時は誰も知らなかった。だから、復讐なんて無謀だと……バーンソルドは、ただ母の後を追って死にに行くのだと、俺は思った……」
お願いです、行かないでください、とすがりつく十五歳のオルヴェステルの手は、冷たく振り払われた。
あのときのバーンソルドの表情が、記憶にこびりついて離れない。
親しみも、優しさも、その一切が失われていた。
虫けらでも見るような目だった。
「……あの時から、あの人にとって、俺はとっくに家族じゃなかった。目障りで薄情な役立たずだった。異能力に目覚めた後だって……俺は、ただの道具で……」
声が涙で湿った。オルヴェステルは、胸の内に溜まった、熱い痛みを絞り出すように、言葉を吐いた。
「わかっていた、本当は。もう、元通りに戻れはしないことなど。それでも俺は、目を背けた」
閉ざしたまぶたの裏に、一瞬だけ、遠い過去がよぎった。
小さくも暖かな洞窟の家。下手な歌を歌いながら、心底楽しげに笑う母。その母に軽口を叩きながら、自分の頭をくしゃりと撫でる大きな手。『ほんとにお前は、シャトラにはもったいねえほど、出来た息子だよ』――
幸福な思い出がひび割れる。
オルヴェステルは、ついに、その喪失を正視した。
「家族を、失ったのだと……認めてしまうのが、怖かったんだ……」
涙と嗚咽の波が引くまで、長い沈黙を要した。
ようやくまぶたを開いたとき、アマリアは、辛抱強く彼の言葉を待っていた。オルヴェステルは、自分をまっすぐ見つめる彼女に、まなざしを返した。
そうだ。自分は失った。
しかし、いま、たった独りではない。
「……もう逃げはしない。私は、やつと戦う。あの男を……シシルエーネさえも害し、すべての魔族の未来を食い潰しながら、再び殺戮を始めようとする、バーンソルドを……倒す」
言葉にして初めて、おのれのすべきこと、真に歩むべき道が、はっきりと見えた。
守るべきものは、砕け散った過去の残影などではない。悲しみの霧が晴れたいま、従弟や、友や、導くべき民の一人ひとりの顔が、はっきりと胸に浮かび上がった。
オルヴェステルは、決意を固めた。彼は、自分のためだけに地獄へ戻ってきてくれた、愛する少女の手を取って、今こそ決然と言った。
「アマリア。俺も、君の策に賭ける。ともに戦ってほしい。最後まで」
彼女の目尻に、何度めかの涙が浮かんだ。それは暖かな喜びの涙だった。アマリアは、ほほえんで力強くうなずくと、オルヴェステルの胸元に身を寄せ、両腕でぎゅっと抱きしめた。




