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33話:人の手でできること

※残酷な描写あり

 アマリアは、アゲルカストラでネノシエンテの回復を待ってから、雨の中、全速で馬車を走らせ、城へ急いだ。

 帰着したのは深夜だった。馬車が止まるや飛び降りて、ふたり駆け足で廊下を急ぐ。ネノシエンテの姿を見て、キーラタが駆け寄ってきた。


「母さんっ、無事なの!?」


「生きているわ! それよりもキーラタ、シシルエーネ様は!?」


「陛下たちが助け出して、今は医務室。でも――」


 最後まで聞かず、アマリアとネノシエンテは医務室へ走った。


 医務室前の廊下は、遠巻きに様子をうかがう不安げな人々が、大勢集まっていた。ラヤや、ジョサムもそこにいた。

 その人だかりの中心、扉の前に、暗い表情でたたずむオルヴェステルがいた。


「陛下、シシルエーネ様は!?」


 オルヴェステルは、指で沈黙を指示した。そして、ささやき声で二人に答えた。


「……外傷は、すでに無い。あの子の治癒能力は、あるいは私よりも強い。だが……」


 彼は首を横に振った。

 アマリアは、音を立てないようにそっと扉を開けた。ネノシエンテも、後背から室内をうかがい見た。


 真っ暗な医務室の寝台の上で、身をすくめてうずくまる小さな人陰と、それを抱きかかえる大きな人陰とが、ぴたりと寄り添っていた。廊下から差し込む光を浴びて、小さな人陰がびくりと跳ねた。


「…………だ、れ……」


「シシルエーネさ――」


「やだ、やだ、やだ、こないで、こないで」


 シシルエーネが、身をよじって暴れ始めた。ロトゥンハーシャはそれを守るように抱き寄せた。


「ゆるして、もうやだ、ゆるして、やだ、やだ、ごめんなさい、ごめんなさい! こないで、おねがい!」


「大丈夫です、シシルエーネ様」


「もう食べたくない! もう指食べたくないよ! 目も食べたくない! やめて、ごめんなさい、もうやだ、やめて! 切らないで! やだ! やだ! やだ!」


「もう大丈夫。何もさせません。私がおります、シシルエーネ様」


「もうないから! もう目ないから、取らないで! ごめんなさい! やだ、やだ、やだ、やだ! ハーシャ助けて! 助けて、お願い、ハーシャ、ハーシャ助けて!」


「ハーシャはここです。ここにおります。大丈夫」


 半狂乱で叫ぶシシルエーネを胸に守り抱えながら、ロトゥンハーシャは、アマリアをにらんだ。闇に浮かぶ赤い眼光は、誰も入るな、と雄弁に告げていた。アマリアは震えながらうなずき、扉を閉めた。直後、廊下にへたり込んだ。


(何を……されたの。あんな小さな子に、バーンソルドは、何をさせたの)


 幼い彼の悲鳴の端々が、おこなわれた残虐を物語っていた。アマリアの脳は理解を拒んだ。ありえない。度を超えている。人間のする所業ではない。

 ネノシエンテも、両手で口を覆い、立ち尽くしていた。彼女たちの背に、シシルエーネを救出した本人が言った。


「……意識を取り戻してからは、ずっとあの調子だ。光と他人におびえ、ロトゥンハーシャ以外は近づけない」


 オルヴェステルは、暗い声音のまま告げた。


「今後について話す。場所を変えるぞ」




 王の政務室に、オルヴェステルと、アマリアと、ネノシエンテとが集まった。オルヴェステルは簡潔に状況を述べた。


「バーンソルドは自らを魔王と名乗り、私に反旗を翻した。現在は、隠れもせずに、牙の属領の領都で待ち構えている。()()二千名だけでなく、秘密裏に共謀していた混血魔族の反乱軍をも、己の手勢に加えたようだ。

 すでにギルンザディンが、鉄の大公軍の三分の二を引き連れて、領都に急行した。これから我々も後を追い、ともにバーンソルドを捕縛することになる」


 ネノシエンテは、目をぎらつかせてうなずいた。


「翼の属領の我が()()を、すぐさま連れてまいります。私の失態です。必ずや奴を捕らえ、愚行の報いを受けさせます!」


「ああ。行け」


「失礼いたします!」


 勇んで駆け去るネノシエンテと入れ違いに、別の人物が、音もなく現れた。

 ロトゥンハーシャであった。彼は、低く平坦な声で報告した。


「シシルエーネ様は、お眠りになりました。あのご様子では、数日目を覚まさないでしょう」


 アマリアは、彼の顔を見て、びくりと後ずさった。ロトゥンハーシャの両頬には、瞳がそのまま溶け出したような、赤黒い血の(るい)(せき)が、色濃くこびり付いていた。

 凍てついた表情、凍てついた声音のまま、ロトゥンハーシャはオルヴェステルを見据えて言った。


「牙の属領で、バーンソルドを捕らえるのですね」


「そうだ」


「私も戦闘に参加します」


「ならぬ」


「この手で殺させてください。シシルエーネ様を(おびや)かした者どもを」


「秘術場の防衛魔術が、下手人どもをすでに噛み砕いた」


「では、命じたバーンソルドを。私に殺させてください」


「だめだ。許可しない」


「なぜです、オルヴェステル様!!」


 ロトゥンハーシャは絶叫し、オルヴェステルに掴みかかった。彼は、かつてない形相で(どう)(こく)した。


「あの子が受けた仕打ちをご存じでしょう! あなたが助け出したのだから、あなたは(じか)に見たはずだ! シシルエーネ様は、いまだに怪物の影におびえて泣いているのですよ! それなのに、それなのになぜ殺してはいけないのですか!」


「人殺しなど誰にでもできるからだ!」


 オルヴェステルは怒鳴り返した。彼は、ロトゥンハーシャの右腕を掴んで、「見ろ!」と命じた。


「これがお前の腕だ。シシルエーネを救い、守り、育ててきた手だ。今のシシルエーネを唯一恐れさせずに触れられる指だ。それだというのに、怒りに任せて敵の血でこれを汚すのか!? 憎悪に染まり、鉄の匂いをさせた手で、シシルエーネに再び触れるのか!? その時、あの子に、お前と仇の違いがわかると思うのか!!」


 ロトゥンハーシャは、なおもオルヴェステルをにらみ上げていた。真新しい涙をあふれさせて、歯を食いしばって。

 オルヴェステルはロトゥンハーシャの腕から手を離し、代わりにその肩に触れた。


「……シシルエーネは、まだ生きている。まだ、この先も、生きていかねばならない。あの子が再び笑顔を取り戻すとしたら、そのために必要なのは紛れもなくお前だ。血で汚れていないお前の手だ。……頼む、ロトゥンハーシャ。城に残れ」


 オルヴェステルは、かすれた声で懇願した。


「あの子のそばにいてやってくれ。お前にしかできないことなんだ」


 ロトゥンハーシャはうなだれた。何度も涙を拭い、長いこと肩を震わせていた。やがて、嗚咽(おえつ)の狭間に、声のない声が絞り出された。「仰せに従います」というその言葉だけを残して、彼は背を向け、力無い足取りで部屋から出ていった。


 二人きりになり、静まり返った政務室で、アマリアは何も言えなかった。オルヴェステルは、ふ、と小さく自嘲の笑みをこぼした。


「我々の敗北だ」


 遅々とした足取りで、彼は椅子に向かい、崩れ落ちるように腰掛けた。


「バーンソルドに、完全に秘密が割れた。やつは、私の『(かげ)(わた)り』が他者を(ともな)えることについて、なんらかの理由で、疑いを抱いたのだろう。それを確かめるために、シシルエーネを闇に閉じ込めて(おとり)とし、私を誘う罠を仕掛けた。まんまとしてやられたわけだ」


 肩を落とし、組んだ両手に頭を預けて、彼は力なく語り続けた。


「バーンソルドは殺せない。所詮は(かい)(らい)に過ぎない私と異なり、やつは兵たちからの人望が厚い。捕らえたとしても、即座の処刑はおこなえない。必ず(おおやけ)の場での裁きを要する。

 バーンソルドは、そこで真実を(ばく)()するだろう。その時、すべての魔族はバーンソルドの側につく。民を裏切った愚王は(はい)され、やつが新たな王となる。そして、魔族はあらゆる非道をもって、今度こそ()(ぞく)を滅ぼし尽くすことだろう。人の手で()()()る、すべての悪行をもって」


 アマリアは、よろりと一歩踏み出した。声はみっともないほど震えた。


「何か、手はないのですか……? 他にも、まだ、わたくしたちにできることは……」


 オルヴェステルは、絶望に濁った瞳で、じっとアマリアを見つめた。そして目を閉じ、ふーっと大きく息を吐いた。


「……ある」


 再びまぶたが開かれたとき、彼の氷色の目の奥に、見たことのない光がやどっていた。

 オルヴェステルは、妙に落ち着いた声でこう言った。


「アマリア。その前に、ひとつだけ頼みがある。聞いてくれるか」


「もちろんです。わたくしにできることなら、何だって……!」


「君を抱きしめたい」


 思いもよらぬ要求に、アマリアは「えっ」と一瞬息を呑んだ。だが、うなずいて彼に歩み寄った。

 オルヴェステルはゆらりと椅子から立ち上がり、静かにアマリアを抱き寄せた。彼の胸元からは、いつかも感じた、澄んだ冷たい香りがした。

 消えかけの声が、頭上から降ってきた。


「ずっと死にたかったんだ」


 アマリアの頭は彼の胸元にぴたりと寄せられ、表情を見ることは叶わなかった。オルヴェステルは、ぽつぽつと心を吐き出した。


「母が死んだ時に、あるいは伯父が死んだ時に、なぜ俺も一緒に死んでおかなかったのだろうと、ずっと思いながら、今日まで地獄を生きてきた。……だけど、ようやくわかった」


 両肩を抱く腕の力が、ぎゅっと強まる。


「最期に、君に見つけてもらうためだったんだ」


 アマリアの目に、じわりと涙が(にじ)んだ。喉が詰まって、声が出ない。彼女は、心の中で叫んだ。


(いやだ。どうして。これでお終いみたいなこと言わないで)


「俺から君へしてやれる、たったひとつの贈り物がある。受け取ってほしい」


 抱きしめる腕がそっと解かれる。後ずさりながら、アマリアは何度も首を横に振った。聞きたくなかった。決定的な言葉など。


 オルヴェステルは、寂しげにアマリアを見つめた。まなざしには、あらゆる想いが――悲しみが、優しさが、そして愛が――込められていた。

 ゆっくりとしたまばたきののち、それらの全てが消え去った。


 初めて出会ったときと同じ、冷え冷えとした声で、彼は告げた。


「イェラ神国の、聖王女アマリア。王権をもって命ずる。今日この時をもって、貴様との婚姻を破棄する。()く出国せよ。しかるのち、二度と我が国土を踏むことは許さぬ」


「オルヴェ――」


 名を呼ばせてもくれなかった。突然首の側面に衝撃が走った。あっという間に暗く遠のく意識の端で、「ありがとう。さよならだ」という声だけが、最後に届いた。

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