31話:屍を耕し、血を蒔いて
※残酷な描写あり
影を伝い、砦内の営倉や空き部屋に侵入した。油を含ませた布に火種を包み、木箱や樽の中に投げ入れた。孤立した兵の背後に現れ、物言わぬ姿にして野晒しにした。
そうした工作を数カ所におこなうことで、複数の混乱を生じさせた。対応に追われる兵たちの目をかいくぐり、閉ざされた門に奪った砲丸を当てて破壊した。
さあ、夜が来る。
兵たちとともに。
終わりをもたらすために。
罪悪感を鈍麻させようと、つとめて己の為すべき手順だけを意識した。不可能だった。髪に、服に、指先に、煙と返り血の匂いが染み込んで、オルヴェステルの心に、絶えず業を突きつけた。
(アマリア、頼む。見るな)
両手で顔を覆う。陣頭に立つ王が、このような表情を兵に見せるわけにはいかない。
勇ましくあらねばならない。
そうでないなら、せめて冷徹であらねばならない。
周囲の闇はいよいよ深まり、境界の向こうの世界が鮮明に映る。突入してきた鉄の大公軍が見える。彼らを死なせるわけにはいかない。その責務が、オルヴェステルに逃避を許さない。
急ぎ戦列を組んで迎え討たんとする、竜族の部隊の統率は見事だった。その整然とした隊列は、美しいひとかたまりの巨大な陰影を、暮れゆく大地に落としていた。
それこそが地獄への入口だった。
オルヴェステルは、敵部隊よりもやや後方の影から、地上に出た。
そして、彼らの足元の影へ、両の手のひらを大きくかざした。
力を込めて拳を握り、強く引く。
竜族は、ぴたりと動きを止めた。
「何だ……これは」
誰かがつぶやく声が聞こえた。ざわめきはさざ波のように広まり、やがて荒れ狂う絶叫の嵐となった。
「隊長ッ! 足が……体が、動きません! 動かせません!」
「ふざけるな! なんだこれは……ええい、まやかしだ、惑わされるな!」
「戦闘態勢、……いや、撤退を、……どうすれば、くそッ、どうしたらッ!」
怒号が響くたび、オルヴェステルの両腕にすさまじい負荷がかかる。投網を引くのはこういう感覚か、と、いつか思ったことがある。渾身の力で、人々の死に物狂いの抵抗に耐える。全身の筋肉が悲鳴をあげる。そして、己の良心もまた。
彼が『影縫い』と呼ぶこの力は、人や物の陰影を大地に縫い止め、その動きを止める。
捕らわれたが最後、逃げ出すことはできない。
オルヴェステルの有する、もう一つの異能力だ。
逃れようとする人々の抵抗は、空間を越えて、影を掴むオルヴェステルの腕へと届く。ダースラーンの秘術によって遥かに強化された肉体で、それを強引に押さえ込む。ゆえに、オルヴェステル自身もその場から身動きできない。
強大だが、常用できない能力だ。
そして、使いたくもない能力だった。
鉄の大公軍は、惑乱する竜族を尻目に、ゆうゆうと隊列を整えた。そして、ギルンザディンの合図とともに、剣を抜き放ち、正面から歩いて接敵した。
「始め」
地獄がばっくりと口を開けた。
無数の悲鳴と断末魔が、地を満たした。
魔族たちは、左手で竜族の頭を掴み、右手の剣でそれを斬り落とすだけでよかった。竜族はみな、影を縛られ、身じろぎさえできない。鍛え上げられた肉体も、研ぎ澄まされた武術も、なにひとつ役に立たないまま、木偶の坊のように立ち尽くして、前から順に首を斬られていく。
「悪魔どもめが!」と罵る声があった。
ただちにそれは斬って捨てられた。
「母さん!」と泣く声があった。
むしり取られて打ち捨てられた。
鉄の大公とその兵たちは、怒りも憎しみも、愉悦さえもない、まったくの無表情で、淡々と敵兵を処理していった。
それは戦いではなかった。
実った稲穂を刈るような、決まりきった作業だった。
オルヴェステルは、竜族たちに死を強いながら、その惨劇から目を逸らすことを許されていなかった。
異能力の効果は、能力者の視野に依存する。
目を背ければ、死ぬのは魔族たちの方だ。
王は、自国の民を守らなければならない。
(俺が……この力を得たのは……)
ぎりり、と歯を食いしばった。全身がバラバラに張り裂けそうだ。
(……こんな事のためでは、ないのに……)
オルヴェステルは、魔族の異能力について、一つの推測を立てていた。
異能力は、秘術によって並外れて強大なマナを得た魔族が、強烈な願望を抱いたとき、それを叶えるための力として発現するのでは、と。
復讐を誓ったバーンソルドが、クトゥパシャトラを焼いたのと同じ炎を得たように。
傷痍兵たちをあわれんだロトゥンハーシャが、その流血を止める技を得たように。
日の当たる暮らしを望んだギルンザディンは、仲間のために道具を作る力を得た。
夫を家畜の餌にされたネノシエンテは、生きとし生けるものを苦しめる毒を得た。
だが、オルヴェステルの『影縫い』は、敵を無抵抗のまま殺すことを願ったのでは、決してなかった。
あれは、魔族が獣族の武人たちと、初めて正面から戦ったときのことだった。バーンソルドが不意をつかれて、目の前で敵兵に殺されかけた。
もう二度と家族を失いたくないと、十五歳のオルヴェステルはただ願い、無心で手を伸ばしたのだ。
やめてくれ。殺さないで、と。
その瞬間、敵は彫像のように立ち止まった。
バーンソルドは、敵兵を討ち、オルヴェステルを褒めた。
『オルヴィ、お前がやったのか。
……よくやった。それでこそシャトラの息子だ。あいつの無念を、お前のその力で晴らすんだ』
クトゥパシャトラが死んでから、彼が笑いかけてくれたのは、それが初めてだった。
オルヴェステルは、安堵して笑み返した。
あの時、母を助けることはできなかったが、今度は彼を助けることができた。
そして、自分を恨んでいるはずのバーンソルドと、また家族に戻れるのではないか……と、その時は純粋にそう思ったのだ。
しかし、違った。
バーンソルドは、オルヴェステルを運用した。
殺戮のための、便利な兵器として。
将を殺した。兵を殺した。民を、ときには子どもさえ殺した。陣屋で、前線で、各地の村の家々で、影を縫われて磔にされた人々が、叫びながら殺されていった。
オルヴェステルの能力が、あらゆる惨劇を引き起こした。
一度、途中で影から手を離したことがあった。『影縫い』で拘束したひとりの獣族の女を、わざと殺さず、兵たちが全身の肉を削いで甚振っていたのだ。
あまりの仕打ちに耐えきれず、オルヴェステルは目を背けた。急に縛めから解き放たれた女は、猛り狂って暴れ、剣を奪って兵たちに斬りかかった。女が死ぬまでに、二人の兵が重傷を負った。
事の次第を知ったバーンソルドは、オルヴェステルに冷たく言い放った。
『自分の仕事に責任を持て。お前はそのうち王になる男だ。影縫いを途中で解いたら、兵に危険が及ぶって、わかんだろ? 民を守れ。二度としくじるな』
オルヴェステルは、それを聞いて、目の前が真っ暗になるのを感じた。
自分は、道具なのだ。
彼を救うために得た力で、これからも自分は人を殺し続けるのだ。彼の言いなりになって。
足元の地面が無くなったような感覚だった。
消えたいと、心から望んだ。
『影渡り』の力に目覚めたのは、その日の夜のことだった。
剣が振られる。首が落ちる。
竜たちの声は、ほとんど絶えていた。
同胞の死を間近で見せられ、絶望に濁った眼差しで、もはや黙って斬首を受け入れていた。
オルヴェステルは、なおも戦場を見据えていた。額から滝のように流れる汗が、目に入ってしみた。頬を伝う液体が、汗なのか涙なのか分からなかった。
足元の首を乱雑に蹴り、重なる屍を踏み分けて、己の国の兵士たちが、死を生む作業を進めている。
(なんのために、俺は、こんな真似をしている)
深まり続ける夜闇の中で、無感動に殺人を犯す、ギルンザディンたちの影絵が見える。頭が割れそうに痛い。顔が固くこわばっているのは、風の冷たさのためではない。
オルヴェステルは、心の中で叫んだ。
(魔族の幸福とは、誰かの屍を積み上げた先にしか、実らないものなのか? 魔族の明日とは、憎悪と悲嘆によってしか、育まれないものなのか?
アマリア、どうか教えてくれ。こんなことを繰り返してきた俺たちに、本当に、未来を望む資格などあるのか——)
最後の案山子が、どうと倒れた。オルヴェステルもまた地面に崩れ落ちた。肩で息をして、片膝をつき、なんとか顔をあげる。
一面に、血と肉の畑が広がっていた。
マナを失い腐り果て、黒ずんだ草原の上に。
オルヴェステルは、いま一度願った。
消えてなくなりたい、と。
アマリアたち支援部隊が砦に入るのを許されたのは、翌日の正午を過ぎてからだった。
戦闘は夜のうちに終結していたが、安全確保と各種の処理のために、と言われて、陣屋で待機を命じられたのだ。
荷馬車が通れるように広く開かれた門を通って、アマリアはまず、周辺の地面の植物がすっかり枯死していることに、眉をひそめた。
(強大な異能力……それか、大勢の治癒能力が使われたんだ。信じられない量のマナが、環境から失われている。それに、ものすごい血の匂い……)
遠くで火が焚かれており、死体はそちらで焼かれているらしかった。アマリアは、立ち上る煙に向かって、深く頭を下げて悼んだ。亡くなってしまった命が、敵も味方もなく、等しく冥福を得られるようにと祈りながら。
医療器具や糧食を積んだ馬車をギルンザディンたちに受け渡し、兵らに声をかけて回るロトゥンハーシャとも別れてから、アマリアはオルヴェステルに会いにいった。
彼は、占領したアゲルカストラ砦の、司令室にいるのだそうだ。無事に生きているのだと、それを聞いてまずほっとした。
「……オルヴェステル様、アマリアです。入ります」
彼は、廊下に衛士も置かず、ひとりきりで、司令官の席に座っていた。机の上にはいくつかの書面や帳簿が積んである。内容を検めていたらしかった。
ぞっとするほど暗い目で、彼はアマリアを見た。
幽鬼のような顔色だった。瞳は凍てつき、心を完全に覆い隠していた。
怖気づきそうになりながら、アマリアはどうにか声をかけた。
「お怪我は、ございますか」
「無い」
「戦いが終わったのは、昨夜と聞きました。きちんと休まれましたか」
「無用だ」
「……大丈夫ですか」
消え入りそうなかすれ声で、彼は言った。
「王は、民を守るために戦う。当然のことだ」
その責任こそが、彼を逃さない軛であり、彼を支える唯一の杖なのだと気づいた。
こらえきれず駆け寄って、アマリアはオルヴェステルを抱きしめた。涙が出て止まらなかった。されるがままのオルヴェステルの、低いささやき声が聞こえた。
「私は無事だ。怪我など無い」
「嘘です。とっても痛いのでしょう」
「魔族の傷など、すぐ治る」
「心の傷まで治るのですか」
「……何故、お前が泣く、アマリア」
「あなたが泣かないから、代わりに、私が泣いているんです!」
オルヴェステルの肩に顔をうずめ、身を震わせて、アマリアはむせび泣いた。やがて、彼の右腕が、そっと背に触れるのを感じた。
弱々しくすがりつくその指先が哀しくて、アマリアは、ぎゅっと両腕に力を込めた。
手を離せば、彼がいなくなってしまうような気がした。
窓の向こうで暮れなずむ空を見つめながら、アマリアとオルヴェステルは、司令室の長椅子に寄り添って座っていた。
オルヴェステルが、ぽつりと言った。
「……これで、竜族との停戦交渉が始められる」
アマリアは静かにうなずいた。
希望といえば、今はそれだけだ。
魔族がほぼ無傷でアゲルカストラを陥落させた事実は、竜族たちに強いおそれを抱かせるだろう。魔族側から停戦が申し入れられれば、さらなる失地の回避のためにも、対策の用意のためにも、きっと竜族は受け入れるはずだ。
停戦の実績が生まれれば、族滅派の勢いは、やや弱まる。大公はともかくとして、その麾下の魔族たちには、一時停戦を継続的に繰り返す中で、厭戦の雰囲気を醸成できるだろう。
そうして稼いだ時間は、秘術の解析を進める調整派に、何らかの成果をもたらすかもしれない。そうすれば、大地の回復はいっそう早まる。
もし、それで魔族が再び子を得ることができるようになれば、融和派の非人道的な混血政策を凍結させられる。『牧場』で強引に出産させられている、異民族の婦女を解放することができる。
状況は、きっと好転する。
せめてそう思わなくては。
(でも、なぜだろう。胸騒ぎがする)
悪い予感は的中した。
翌朝、アゲルカストラに一人の使者が訪れた。襤褸に身を包み、息せき切って駆け込んできたその人物は、竜族の都の方角ではなく、牙の属領側から現れた。そして、その場の誰もが知っている人物だった。
「ネノシエンテ!」
ぜえぜえと獣のような勢いで息をする彼女を、ロトゥンハーシャが駆け寄って支えた。
「いったいどうしたのです、ネノシエンテ。この血痕、衣類の損傷……まさか、両足を斬られて、再生しながら来たのですか?」
彼女が着ていた黒づくめの礼服は、長かった裳裾が膝で断ち切られ、引きちぎれていた。そこから伸びる白い素足は、爪が剥げ、無数の小石が食い込んでいて、血まみれだ。裸足のまま走ってきたのだろう。
オルヴェステルは彼女の肩を掴んだ。おそろしい形相だった。
「シシルエーネはどうした。バーンソルドと、お前の部下たちも。ともにアウン・ラプ洞窟へ向かったはずだろう」
荒い呼吸の勢いのままに、ネノシエンテは、ざらついた声で叫んだ。
「ご、ご報告、申し上げます。炎の大公、バーンソルドめが、裏切りました……ッ!
やつは、自らを魔王と名乗り、オルヴェステル様に背いて、玉座を簒奪するつもりです。シシルエーネ様は、人質として囚われました。あの反逆者は……例の混血の反乱組織と、結託しています!」




