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24話:去りしハヤブサ

 忙しなく解読作業を進める魔術師たちを秘術場に残して、そのさらに奥へと続く道に、二人は足を踏み入れた。

 曲がりくねる細い下り坂には、ごうごうという低い音が、絶え間なく響き渡る。

 カンテラの明かりだけを頼りに、不安げに辺りを気にするアマリアへと、オルヴェステルは手を差しのべた。


「アマリア、手を」


「えっ」


「ろくに見えないのだろう。……この音は、付近の地下水脈のものだ。触れれば凍える激流が、果ては冥府へ通じているというのは、単なるおとぎ話ではない。すべらないように」


 おずおずと手を取る彼女の様子が、()()の利くこちらからは、よくわかった。陽光も()(じん)の視線も遮られた闇の中では、年相応の少女に見える。

 横に並び、歩幅を合わせて、二人は暗がりをゆっくり降りていった。

 先へ先へと進むうちに、周囲の風景は徐々に様変わりしていった。塗り込めたような暗闇の中に、ちかちかと光る、星のような輝きが混ざり始める。地底の星粒は、カンテラの光を反射して、青や緑にきらめいた。

 アマリアは岩壁を見上げて、わあ、と小さな歓声をあげた。


「まるで、夜空のようです」


 幼い頃、自分もまたそう言ったのだった。

 導いてくれた人の面影を思い出す。当時の言葉をなぞるように、オルヴェステルは彼女に教えた。


「あの星々の正体は、石だ」


「石? 宝石でしょうか」


「そうだ。神話の伝えるところによれば、地底深くの死者の国は、神々の中で最も豊かな、死の神が治めている。

 宮殿は色とりどりの輝く宝石で(けん)(らん)に彩られ、都はすべてが(きん)(ぱく)貼り。死者たちは、生前の(ろう)()に応じた褒賞として、不自由のない穏やかな暮らしを与えられるそうだ。

 この洞窟が『冥府(アウン)()(ラプ)』と名付けられたのも、地底にこうして美しい鉱石が眠っているのを、誰かが見つけたからなのだろう」


 アマリアはゆっくり目をしばたたかせ、しみ入るような声音で言った。


「優しい神話ですね。亡くなられた方は、きっと(いこ)っておられる、というのは」


 やがて、長かった(ずい)(どう)は、幾分か開けた場所に出た。

 そこは地下水流の河原だった。びっしりと繁茂したヒカリゴケが、激しくうなる川をぼんやりと照らし出す。

 その川のほとりに、石で作られた碑がいくつも並んでいる。それらは一つ一つが小さく、分厚い(ほこり)を被っていたが、形は城の慰霊碑とよく似ていた。

 オルヴェステルは、自分の失敗に気づいた。


「すまない、アマリア。ここは……休憩には不向きだった」


「え?」


「……墓地だ。魔族の」


 アマリアが固まった。もう一度「すまない」とつぶやいて、オルヴェステルは己の気の利かなさを恥じた。

 これまで魔術師たちに同行したときは、帰還のために呼ばれるまで、ここで一人で過ごしていたのだ。だが、自分一人ならともかく、年若い少女が、墓場で過ごして楽しいはずがない。

 彼女は、ぎくしゃくした動きで周囲を見渡すと、励ますように明るく言った。


「こ、これもご縁です! 陛下にとってはせっかくの里帰りですから、ご先祖様にお参りしましょう! どちらで手を合わせればよろしいでしょうか?」


 彼女には、至らぬ部分を見せるたび、いつも気を遣わせてしまう。自分は彼女の倍も歳上なのに、申し訳なく思う。


 オルヴェステルは、最も手前にある碑を示した。その碑だけは、他と異なり、大きな木棺を伴っていた。

 「母の墓だ」と、オルヴェステルは告げた。


「棺に、屍は入っていない。母の体は焼かれて灰となり、わずかも残らなかった。代わりに、生前大切にしていた、服や櫛などの日用品を葬った」


 墓碑や棺に積もった埃を、手で払う。その手触りは、オルヴェステルを簡単に過去へと呼び戻す。


「あの秘術場は、もとはといえば葬儀場だ。みな、あの広間で集まって死者を(いた)む。その後、ここに墓碑を建てて、祈りとともに棺を川に流す。死者の国へ、どうか無事に迎えられるように、と。

 屍無き母は、死者の国で暮らすための体を持てなかった。だから、棺は流せなかった。

 母が死後の安楽さえ奪われたことに絶望して、伯父は葬儀場を閉ざし、己の血肉と涙を墨として、かの呪印を床一面に刻んだのだ」


 まぶたの裏に、あの日の風景がまざまざと浮かび上がった。葬送の言葉の最中、伯父は儀式の言葉を途中でかなぐり捨てて、地面を殴り、獣のように()えた。(おん)(こう)(とく)(じつ)で知られていたダースラーン王のあのような姿は、誰ひとり見たことがなかった。

 はっとして、オルヴェステルの意識は、現実に立ち戻った。ここにいるのは、伯父でも、参列者たちでもない。かたわらのアマリアは、黙り込むオルヴェステルを不安そうに見上げていた。


「すまない。私はいつもこんな話ばかりだな」


 アマリアは悲しく笑んで首を振った。そして、手を合わせて黙祷した。

 よどみない所作は、まるで(きっ)(すい)の魔族のようだ。異国にあっても、聖女とはかくあるものなのか。オルヴェステルは、しばしその横顔に見入ってから、己も手を組んで祈った。自然と、常より深く頭が下がった。母にも、妻にも、合わせる顔がないと思った。

 長い長い沈黙がおりた。それを払ったのは、アマリアの控えめな声だった。


「どのようなお方だったのですか、クトゥパシャトラ様は」


 思いもよらぬ問いに、戸惑う。


「どのような……」


「わたくしにとっても、お義母(かあ)さまですから。お人柄や、お好きだったものなど、伺いたいです。その……ご負担でなければ」


 母の、人柄。

 なかば助けを求めるように、オルヴェステルは墓碑を見つめた。

 クトゥパシャトラの名は、つねにその死に様とともに語られ、魔族の憎悪の火を絶やさぬための油として継ぎ足されてきた。悲劇は繰り返し言い表され、あらゆる冷たい形容が、おどろおどろしくまとわりついた。

 だが、母が生きていた日々を表しうる語句は、それらの中には一つもない。二十年以上前の記憶を、オルヴェステルはゆっくりと紐解き始めた。


「母は……いつも明るくて、誰にでも優しかった」


 語り始めてしまえば、思い出はとめどなく湧き出てきた。まるで、語られるのをずっと待っていたかのように。


「王妹だったが、身分を気にせず、どこにでも行って、何にでも手を貸した。『国とは言っても小さいのだし、魔族はみんな親戚のようなものだ』というのが口癖だった。だから慕う者も多く、みなに親しまれていた」


「ほがらかな方だったのですね」


「そうだな。社交的で、前向きで、人情家だった。それから……」


 ふと、一つの記憶が鮮明に思い出され、オルヴェステルは、つい笑った。


「ふ、そういえば、変な人だったな」


「……変?」


「ああ、少し。いや、かなり……?」


 故人を(しの)ぶにはふさわしからぬ物言いに、アマリアが二度見するのがわかった。

 胸の内で墓碑に問う。話しても構いませんか、と。

 在りし日の声が、耳にこだました気がした。


『あーあオルヴィ、言っちゃうんだあ、それ。

 いいけどね! 私はアレ、自信あったからね!』


 笑みを噛み殺す。追憶が痛みを伴わないのは、かねて久しいことだった。彼は(きょう)(しゅう)に目を細め、()(げん)そうなアマリアに向き直った。


「母上は、優れた魔術師である伯父上をとても尊敬していた。その伯父上を(たす)けるために、魔術とは別の方法で、魔族たちの暮らしぶりを良くできないかと、模索していたのだ。

 そこで、洞窟から出て、地上の国々の知識や技術を学ぶと言い出した。それを地下での生活に役立てたいと。

 無論、ただ出てゆけば、排斥されるのは目に見えていた。だから、地上の人々に見つからないよう、闇にまぎれてこっそりと調べ回ることになる。

 何人かの魔族たちが、危険な真似をしようとする母上の身を案じて、手伝うと申し出た。こうして、魔族の未来を探すための組織ができた」


「へえ……。とても能動的ですね」


「行動力の塊だったな。それで、せっかくだから、その組織に名前をつけようということになったのだが……ふふ、母上は、いったい何と名付けようとしたと思う?」


「え? うーん……地上調査局、とか……」


「『元気モリモリわくわく冒険団』」


「ぶっ!」


(ぼつ)になった。第二案が、『未来創造ドキドキ探検隊』」


「う、嘘でしょ……」


 愕然とするアマリアの前で、ついにこらえきれず、オルヴェステルも声を立てて笑った。

 あの時の人々の反応といったらなかった。大笑いする者、脱力する者、椅子からひっくり返る者までいた。母は最後まで自信たっぷりで、横で聞いていたオルヴェステルのほうが、恥ずかしがってうつむいていた。


「母上は、壊滅的にセンスが無かったんだ。歌や詩文や物語を、人一倍愛していたのに、自作の出来はさっぱりだった。それなのに、下手の横好きで、しばしばとんでもない歌を作っては、近所の子どもたちに歌って聴かせていた。音痴だったよ。幼い私の寝物語や子守唄は、いつも母の新作のお披露目会だった……。

 結局、見かねた伯父上が『エトゥム』という名を組織につけてくださった」


「エトゥム?」


「神話に出てくる、ハヤブサだ」


 オルヴェステルは、エトゥムに関する神話を、かいつまんで語り聞かせた。


 ハヤブサのエトゥムは、どんな鳥よりも早く飛ぶ翼を持っていた。それを見込まれ、天の宮殿に住んでいる太陽神から伝令役を仰せつかって、地下宮殿の死の神へと、伝言を届けにゆく。

 だが、太陽神と死の神は、表向きは敵同士。秘密の伝言は誰にも知られてはいけない。

 エトゥムは、道中で家族や友、地上の民衆、果ては神々からも「何のために急いでいるのか」と問われるが、絶対に答えず、死者の国を目指して一心に飛ぶ。そのために皆に嫌われて、石を投げられて傷つき、雷で打たれて片翼を失う。

 使命を果たすために命がけで飛び、ついに辿り着いた死者の国で、エトゥムは伝言を届けるとともに息絶える。死の神は、この忠実な伝令役に深く感謝し、絢爛な宮殿に一室をあたえ、無二の側近として迎えたという。


「『エトゥム』という名は、伯父上からの激励だったのだろう。困難な道だが、きっと報われるから、根気よく取り組め、と。エトゥムの構成員たちはみな、誇りをこめてその名を名乗った。

 私がエトゥムに参加することが認められたのは、十四歳のときだった。とても嬉しかったのを覚えている」


「オルヴェステル様も、エトゥムだったのですね」


 うなずく。そう、彼もハヤブサの一羽だった。

 忘れるはずがない。夕闇に紛れる(とび)(いろ)の外套と、護身用の短剣を授かった、あの日の喜びを。


 母は、不安そうに言っていた。『オルヴィ、なにも君まで、危なっかしいことをする必要はないんだよ』と。

 それに対して、『その危なっかしいこと始めた張本人が、何言ってんだか』と、すかさず混ぜっ返した声があった。『オルヴィは昔っから、お前よりずっとしっかりしてるよ。なあ?』と、髪をぐしゃっとかき乱して、なでてくれた手のひらがあった。

 大人扱いされたのが嬉しくて、オルヴェステルはその人を見上げてはにかんだ。


 バーンソルド。彼のことを。


 あの日、彼はどんなふうに笑いかけてくれたのだったか。

 思い出せない。あんなに嬉しかったのに。なぜ——


 手に、柔らかいものが触れる感覚で、オルヴェステルの意識は現実に引き戻された。

 アマリアの指だった。彼女は両手で、オルヴェステルの左手を、そっと包んだ。


「大丈夫ですか。ひどい顔色です……」


 言われて初めて、自分が全身に脂汗をかいていることに気がついた。悪夢の後のようだった。

 呼吸を整えていると、遠くから、誰かの足音が近づいてくるのがわかった。魔術師たちの今日の作業が済んだのだろう。上に戻らなければ。

 それを伝えると、アマリアはうなずいた。そして、つま先立ちで顔を寄せて、小声でささやいた。


「よかったら、また聞かせてください。楽しかった思い出や、クトゥパシャトラ様のことを」


 オルヴェステルがうなずくと、ほっとした顔で、彼女は笑った。




 明くる日も、そのまた明くる日も、二人はともに朝食を作って食べ、アウン・ラプの上層を巡り、そして地下水流の河原へ行って、夕方まで肩を並べて過ごした。


 オルヴェステルは、乞われるまま、アマリアに色々な話をした。アウン・ラプでの人々の暮らし、母の作った突飛な物語、果ては自分の趣味だった細工物のことまで。

 問われて、それに答えるたびに、自分の中にこれほどの思い出がまだ残っていたことに、オルヴェステルは驚いた。

 そして、かけがえのない追憶のひとつひとつに、バーンソルドの姿があることに……優しかった彼の表情が一つも思い出せないことに、苦しめられた。


 四日目の昼に、ついにアマリアは尋ねてきた。並んで座る二人の距離は、日に日に近づき、ついに互いの肩が触れんばかりになっていたことに、オルヴェステルはこの時ようやく気づいた。


「炎の大公バーンソルドは、陛下にとって、特別な方だったのですか?」


 答えに(きゅう)した。

 いや、本来ならば、迷うはずがない。その通りだとうなずけばよい。『彼は、母の幼馴染だ』と、『家族のような人だったんだ』と、胸を張って答えればよい。

 それなのに、声は喉で詰まった。「彼は……」とうめく吐息は、ざらざらにかすれて絞り出された。


「彼は、……私は、彼に、(つぐな)わなくてはならないんだ」


 河原の砂利を握りしめて、オルヴェステルはうつむいた。揺れる視界は黒く歪んで、現在ではなく過去の記憶を、鮮明に映し出した。


 あの夜——母が、洞窟に落ちてきた竜族(ドラコ)の迷子を地上に送り届けて、獣族(ガルー)鳥族(ハルピュイア)に殺された夜。

 竜族の子の忘れ物を届けるため、母の後を追ったオルヴェステルに、バーンソルドが付き添ったのは、決して偶然などではなかった。彼は、幼馴染の息子を、危険な地上にひとりで行かせるはずがない男だった。


 だから、囲まれて殴られ、痛みと恐怖で立てなくなった母が、油を浴びせられて焼かれるのを、二人だけが目の当たりにした。

 歌も踊りも大好きだった母が、耳をつんざく絶叫をほとばしらせながら、火だるまになって踊り狂うのを見せられて、オルヴェステルは、物陰でただ立ち尽くした。

 闇の中で、青白い目を、こぼれ落ちそうなほど見開いて。


 バーンソルドは、とっさにオルヴェステルの腕を掴んで、アウン・ラプまで走って逃げた。

 闇に輝く魔族の瞳が、狂った殺人者たちに見つかる前に、と。


 彼がどれほど母を助けたかったかなど、聞かなくても分かった。助けられなくても、残酷な殺戮者たちの間に割って入って、せめて母とともに死のうとしただろう……彼が一人きりだったならば。

 オルヴェステルまで捕まってしまわぬように、バーンソルドは、幼馴染を見殺しにしなければならなかった。


 洞窟にたどり着いたとき、茫然自失のオルヴェステルを、彼は地面に叩きつけた。

 泣いていた。血の涙を流して。

 オルヴェステルのことを、はっきりとにらみつけて。


 あのときの後悔と憎悪こそが、彼を真っ先に異能力に目覚めさせたに違いなかった。秘術の呪印が輝きだして間もなく、母を焼いたのと同じ色の炎を、バーンソルドは身に纏うようになったのだから。


 だから、オルヴェステルには、バーンソルドを止められない。

 王だろうが、忘れ形見だろうが、関係ない。

 彼は、仇を憎むのと同じ強さで、オルヴェステルを憎んでいる。


 ぎゅっと自分の手を握る温度で、オルヴェステルは正気を取り戻した。アマリアの悲壮な表情は、どうやら自分が、それらの過去を彼女に吐露したらしいことを示していた。自分がどんな言葉を、どんな声で吐き出したのか、まるで覚えていなかった。


「……あなたは、彼が、大切だったのですね」


 アマリアは、透き通った瞳で、まっすぐにオルヴェステルを見た。そこに()(しゃく)の色はなく、ただ、そこにあるものを、あるがままに触れて確かめるような素直さだった。


「あなたが真に恐れたのは、大公()()との対立ではなく、バーンソルドとの対立……だったのですね?」


 誰にも知られてはならないことだ、と、隠し続けていたのに、オルヴェステルは自然とそれを(がえ)んじた。

 懐かしい故郷で過ごし、思い出を語り続けたこの日々は、オルヴェステルの心の中の、堅固に閉ざされた門を、知らぬ間にすっかり崩していた。(せき)を壊した濁流のように、押しとどめるものを無くした言葉は、無防備に唇からこぼれ出た。


「バーンソルドが大切にしていたのは、私ではなく、『クトゥパシャトラの息子』だった。母を失ってから、バーンソルドにとって、私は無価値になった。……もし、母ではなく、私があの竜族を送り届けて、死んでいれば……きっと彼は、復讐者になど、ならなかった」


 あの夜、迷子を見つけたのは、オルヴェステルだった。だから、始めはオルヴェステルが行こうとした。『村の近くの森までならば、獣族に見つからずに済むはずですから』と言って。


「母が、危険を冒してまで、国の役に立とうとしたのも、私のせいなんだ。王妹でありながら、(てて)()()を産んだ母は、王家が被った汚名を拭うために、無茶をするようになった……。だから、地上へ出るなどと……」


 母は、『それなら、私が行こうじゃないか』と笑ったのだ。『子どもだけで行かせるわけにはいかないよ。大丈夫さ、何と言っても、私はエトゥムの長なんだからね!』と、あの人は自信たっぷりに胸を叩いた。それが、最期の笑顔だった。


「それなのに、なぜ、私は……この期に及んで、おめおめと生きているんだ……」


 すべての弱音を受け止めきって、アマリアは静かにそれに答えた。


「深く傷つけられた人は、痛みが引いて、血が止まるまで、その場にうずくまって、一歩も進めなくなってしまいます。

 あなたの傷は、きっと今もまだ、真っ赤な血を流し続けているのですね。だから……」


 アマリアは、握った手をそっと離した。そして、オルヴェステルを優しく抱きしめた。


「あなたの中では、お母様を(うしな)って、お父様に憎まれて、途方に暮れて立ち尽くす十五歳の子どもが、まだ泣いているのね」


 限界だった。涙が、頬を伝ってぽたりと落ちた。ひとたび流れだしたそれは、後から後からあふれだして、抱きしめてくれるアマリアの肩を濡らした。

 オルヴェステルは、震える手で、アマリアの背にすがった。少女の髪に顔をうずめた。歯を食いしばって、嗚咽(おえつ)を噛み殺した。

 小さくて柔らかい手のひらが、ゆっくりと、繰り返し背をさすってくれた。凍てついてひび割れた心を、優しく溶かすようにして。




 どれほどそうしていただろう。全身の涙をすべて流しきって、オルヴェステルはようやく顔を上げた。「すまない」と謝った声は、情けないほど湿っていた。

 アマリアは、オルヴェステルの目尻にそっと指で触れ、残っていた涙の粒をぬぐった。


「聞かせてくださって、ありがとうございます。陛下のこと、ようやくわかった気がします」


 オルヴェステルは、目を伏せて首を横に振った。


「『陛下』と呼ばなくていい、二人きりのときは。俺は君の前で、こんな……泣きさえしたのに、今さら敬わなくたっていい」


 アマリアは、視線をあちこちに泳がせ、頬を染めて、もじもじしながら言った。


「では、その……オルヴェステル様、と」


 「『様』も要らないよ」と苦笑したが、アマリアは顔を真っ赤にして、頑としてそれは譲らなかった。


 二人はそれから、手を繋いだまま、静かに並んで座っていた。言葉はこれ以上必要なかった。互いの手から伝わる温度だけが、世界を優しく満たしていた。

 魔術師が呼びに来て、河岸を去る直前、オルヴェステルは一度だけ振り向いて、母の墓碑を見つめた。


 最初のハヤブサは、道半ばで息絶えた。他のハヤブサは、使命を捨てて飛び去った。『エトゥム』は、もういない。

 だが。


(母上。俺はまだ、飛び続ける一羽のハヤブサでいられるでしょうか)


 答えはなかった。必要もなかった。決意だけを胸に秘め、オルヴェステルは、過去を背にして歩き始めた。

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