21話:はじまりの地へ
アマリアは、自室の窓を力いっぱい開け放った。途端に、身震いするほど冷たい早朝の風が、びゅうっと吹き込んでくる。
冬が、もうすぐそこまで迫っているのだ。
ここは平原の南部だから、まだ雪の気配はないが、三日月山脈の最北の峰は、じきに初雪を迎えるだろう。
窓枠に手をかけ、冷風に身を晒す。それでも、考え過ぎでぼうっとなった頭の熱は、なかなか下がってくれなかった。
原因は、数日前。鉄の大公の話を聞き、倒れてしまったアマリアに、オルヴェステルが掛けた言葉のせいである。
(私が陛下を見限るならば、陛下はそれを受け入れる……。どういうこと? 陛下は、私に見限られると思っているの?)
アマリアは、遠くの空をじっとにらんだ。
(炎の大公の非道は、許せない。でも、鉄の大公の話を聞いて、彼らの抱く憎しみの強さがわかってしまった。
……陛下は、私がその両方を知ったから、私に選べと言っているの? このまま陛下に味方して魔族に復讐をやめさせるか、それとも大公に味方して異民族を滅ぼすか)
正直、困る、とアマリアはつぶやいた。どちらを選ぶのも、重すぎる。
なんだか、オルヴェステルの中には、正反対の二つの気持ちが渦巻いているように見える。
一つは、民族を守る王として、なんとかして大公たちの暴走を止めなくてはという気持ち。
もう一つは、個人として、身内のための復讐をためらうおのれを恥じる気持ち。
彼自身、どちらが正しいのか、迷っているのだろう。だから、第三者であるアマリアに、裁きを委ねたがっている。が、第三者というのはつまり、部外者ということなのだ。
甘えるな、と、どついてやりたい気持ちもある。
だが、彼の声が。あの、すがるような目が。
どうしても、アマリアは放っておけない。
(……たぶん、精神的に限界なんだろうな、あの人。敵とも味方ともずっと戦ってきて、なかなか大きくならない従弟の成長を待ち続けて。……助けてあげたいけど、でも、余所者の私に、何ができるの?)
結局のところ、それなのだ。
複雑に絡み合う糸を、すぱっと一刀両断するような、あざやかな解決策など、そう浮かぶものではない。「ええい!」と大声を出して、アマリアは窓を閉め、部屋を飛び出した。
(ここに居たって、何も変わらない。とりあえず外行こう、外!)
一人で廊下を駆けゆく王妃を、すれ違う使用人が、ぎょっとして見送っていた。
裏庭にやってきたアマリアは、思わず歓声をあげた。
「孵ってる……!」
いつぞやの鳥のつがいのもとに、愛らしい雛が加わっていた。巣の中から顔をのぞかせ、チイチイ鳴いて親を呼ぶ。親たちは、せわしなく飛び回っては餌を拾い、雛に口移しで与えている。
彼らが餌にしているのは、この庭の虫だ。
以前の実験が功を奏し、鳥たちの食卓を彩っているらしい。
ぐるりと草むら全体を見ても、今回は、弱っている植物は見受けられない。植物だけでなく、土壌生物にもマナを与えればよい、という考察は正解だったようだ。
(部屋から出て良かった。まずは、成果一つ! また倒れてしまわないように、土壌生物へのマナの与え方は練習しなくちゃならないけれど、これは大きい!
枯れた耕地を回復できるというのは、上手く使えば、敵対している人々との交渉材料になるよね。このカード、どうやって使うのが一番効果的かな……ううん、難しくてすぐには思いつかない。まあ、こういう作戦こそ、陛下に相談すればいいか。
あ、でも、このマナ枯れを引き起こしたのが、本当に魔族の体質かどうかは、検証できていないんだった。地下生活時代と現代の差を調べるには……ああ、考えることが本当に多い!)
またまた脳が茹だってきたので、ひとまず休憩することに決めた。
食事を求めて厨房へ向かうと、いつにもまして騒がしい。ちょうどジョサムがいたので、声をかけてみる。
「おはようございます。忙しそうですが、今日は何かあるのですか?」
彼は、料理の手を止めず答えた。
「これは王妃様。お弁当作りですよ、陛下がもうすぐお発ちになるので。おーい、乾物から先に積み込んでくれ!」
「陛下が……?」
「あれ、聞いていませんか。しばらく留守になさるのです。涙の大公の、例の件でね」
「例の件……?」
「あ、それもまだご存じありませんか。そうか、王妃様がいらしてから、まだ一月半くらいでしたね。すっかり馴染んでて、ご存じかと……おーい! ちんたらしてると間に合わないぞ! 俺も今からそっち手伝うから……」
「……なんだか、お邪魔になってしまいますね。わたくし、これで……」
「あ、申し訳ありません。陛下なら前庭ですから、詳しいことはそちらでお聞きになってください!」
「ありがとう。がんばってくださいね」
とても自分の食事を頼める雰囲気ではない。アマリアはすごすごと厨房から離れた。
さて。
「涙の大公の、例の件で、しばらく留守に……?」
まったく心当たりがない。
せっかくなので、本人たちに確かめてみることにした。どんな用事なのか、質問するくらい構わないだろう。
前庭には、六人乗りの立派な馬車や、荷を積む巨大な幌馬車が、何台も乗り入れていた。城の使用人たちが、大量の荷物を積み込んでいる。王の外出ともなると、こんなにも準備が忙しないものなのか。
オルヴェステルもいた。支度を待ちながら、涙の大公ネノシエンテと話している。アマリアが近づくと、ネノシエンテは泣きぼくろの目を嬉しそうに細め、笑顔で挨拶してくれた。
「まあ、アマリア様! ご機嫌麗しゅうございます」
「お久しぶりです、ネノシエンテどの。この度は、どのような?」
「あら? 陛下、お伝えしていないのですか?」
「……」
オルヴェステルは、アマリアから目を逸らした。
朝日の下の彼の表情は相変わらず凶悪だが、さすがに見慣れた。なので、彼のその仕草が、どうやら気まずさからくるものであることが、アマリアには読み取れた。
ネノシエンテには、王と王妃はたいへん仲睦まじいのだと、勘違いしてもらっている。彼女の前で、他人行儀に振る舞うのはまずいだろう。アマリアは苦笑してごまかした。
「じつは先日、恥ずかしながら、少し仲違い致しまして……。二人でお話しする機会が減っているのです」
「まあ、いけませんわ! 陛下、こういうときは、年上の男性が譲って差し上げるのも重要なのです」
「……心得ている」
オルヴェステルはぼそりと返す。口裏を合わせてくれたのだ。ちょっと申し訳ない。
鉄の大公の一件があってから、オルヴェステルがアマリアをなんとなく避けていたのは事実だ。どうせまた、妙な負い目でも感じているのだろう。
ただ、女性との交際について説教されるオルヴェステルというのは、やや笑いのツボに来るものがある。
(意外と気にかけてくれて、優しいんですよ、本当は)
とは、胸の中だけでの弁護だ。
ネノシエンテは、夫婦円満の重要性をひとしきり説いた後、「そうですわ!」と手を打った。
「陛下、いかがでしょう。せっかくですから、此度はアマリア様もご一緒に、というのは」
オルヴェステルは、目をしばたたかせた。そして、陽のまぶしさに鋭く研ぎ澄まされている例の目つきで、アマリアを見た。
「……お前が望むのならば、構わないが」
「どこへ向かわれるのですか?」
「アウン・ラプ洞窟。神杓平原の最北端……魔族がかつて他の三族に追いやられて暮らしていた、地下洞窟だ。我らの故郷ということになる」
「故郷、ですか」
「『ダースラーンの秘術』の呪印が、そこに刻まれている」
アマリアは目を見開いた。話が繋がった。
「ネノシエンテどのは、秘術の解読と改良を試みる『調整派』。もしや、その作業のために?」
「そうだ。片道の移動にまる一日かかるのと、作業も数日掛かりなので、しばらく城を留守にする。行くか?」
「行きます!」
アマリアは即答した。
なんという僥倖か。呪いの調査にうってつけだ。
(洞窟へ行けば、地下生活時代の環境調査ができる! 現在との差異を見つければ、マナ枯れを引き起こした原因が特定できるから、また一歩先に進める! もう、こんな重要な場所に行くなら、ちゃんと事前に教えてくださいよ、陛下!)
急に貴人がひとり増えたので、支度をしていた使用人たちは悲鳴をあげた。が、王命だ。逆らえない。アマリアは申し訳なくなり、せめて身の回りのものぐらいは自分でと、大急ぎで荷造りした。
皆で協力して、出発前のどたばたをなんとか乗り切る。アマリアがようやくひと息つけたのは、走り出した馬車の中であった。
六人乗りの広い馬車に、オルヴェステルと二人きりである。
気まずい沈黙が流れる。
向かい合って座っているのに、視線がまったく交わらない。彼が目を逸らすせいだ。仕方がないので、アマリアから話しかける。
「同行を許可してくださったこと、感謝いたします」
「礼には及ばない。ネノシエンテの提案だ」
「洞窟には、以前から行ってみたかったのです。『呪い』以前の環境がみられるはずですから」
「そうだな」
「……お出かけするなら、あらかじめ知りたかったです」
「……すまない」
相変わらずの辛気臭さである。出会ったばかりのときは威厳らしきものを纏っていたくせに、ここ最近の彼は、梅雨でもあるまいに急激にじめついてきた。ため息ひとつついてから、「あのですね」とアマリアは身を乗り出した。
「実験、成果が出ましたよ。あの方法で、長期的に効果があるようです」
「裏庭の植物か……。それは朗報だ」
「そうです。そして、これから地下洞窟を見に行きますよね。現在との差異を示すものがあれば、それこそが『呪い』解決の鍵です」
「そうだな」
「大公たちの動向は、わたくしが来てからも、この数年と特に変わらず。そうですね?」
「そうだが……」
「つまり、対立勢力が停滞している間に、こちらは進歩しています。状況は良くなっているのです。それなのに、なぜうじうじと落ち込んでいるのですか!」
叱りつけられて、オルヴェステルは身を縮めた。アマリアより頭一つ以上も高い図体が嘘のようだ。彼はうつむいてぼそぼそ答えた。
「お前は、私を軽蔑してはいないのか」
「そんなことで? 初対面でわたくしを軟禁しようとしたくせに、何ですか、今更!」
「……そうだった」
「わたくしたちの間で大事なことは、終戦の実現と、呪いの解決! この二つの大仕事です。そちらは少しずつ進んでいるのです。前向きです、陛下! 前向きですよ!」
やけくそで励ますと、オルヴェステルは小さくうなずいた。完全に気圧されている。手のかかる男だ。アマリアは、ふん、という荒々しい鼻息で説教を締めくくり、背もたれに深くもたれた。
車内には、車輪の音だけががらがら響く。オルヴェステルは罪人のようにずっとうつむいている。アマリアは、横目でそれをちらちらと見て、ぼそりと言葉を付け足した。
「大切な人のためならば、人を殺してでも復讐すべきかなんて……わたくしにも、わかりません」
「……」
「でも、殺される人や、涙を流す人が、できる限り少なくなればと思います。そして、憤り悲しむ人に、いつでも誰かが寄り添えたなら、と」
「……」
「怒りに燃える復讐者……大公たちや、ジョサムたちも、心の痛みを慰めてくれる何かが、得られればよいですね。握りしめた拳を解けるような、何かが」
長い長い沈黙の後、オルヴェステルは声なき声で、何度めかの「そうだな」を言った。そして、こうも言った。
「すまない。ありがとう」
アマリアはくすりと笑った。「陛下は、いつもそればっかりですね」
オルヴェステルはかすかに恥じ入った。ずっと年上のはずの彼が、まるで少年のように感じられて、おかしかった。あやうく、「陛下って、ちょっとかわいいですよね」だとか、ばかなことを口走りそうになって、アマリアはあわてて唇を噛んで、耐えなくてはならなかった。




