20話:心は影に溶けて
報告を聞き終え、鱗の属領へと帰還するギルンザディンを送り出したのは、すでに夜闇の迫りつつある夕刻だった。「一秒でも時間が惜しい」と、老大公は宿泊の勧めを辞退して、数人の部下とともに発っていった。
オルヴェステルは、彼らの姿が道の果てに消えるまで、門前で見送った。そして、衛士たちにひとつうなずいてから、城へと踵を返した。
前線の戦況は、芳しくない。
先のギルンザディンの言葉が、頭の中で反響した。
『半島に棲まう竜族どもは、草原の獣族や海辺の鳥族とは、まるで性質が異なります。
広い領土こそ持ちませぬが、神杓平原の地上を数百年にわたり牛耳ってきたのは、じつのところ竜族です。やつらには知恵があり、技術があり、外洋交易で得た富があります。
やつらの堅固な防塁と無数の大砲に打ち勝つのは、数にて劣る我ら魔族には難しいというのが、変わらぬ実情です。
加えて、傲慢ゆえに簡単に挑発にのる獣族とは違って、竜族は絶対に野戦に応じず、頑なに籠城します。
普通ならば、数年がかりの籠城など不可能なはず。ですが竜族は、幾重もの長大な防塁によって、半島全体を巨大な城のようにして、平原側の我々に対して門を閉ざしています。呪いの影響で平原側の耕地は枯れてゆきますが、半島には港があるため、飢えるのは却って我々の方です。
時間は敵です、陛下。多少強引な手を使ってでも、我が軍は早急に防塁と砲を突破しなければならない。
冬が来る前に、現在攻略中の砦・アゲルカストラを、なんとしても制圧したいのです。そうすれば、鱗の属領を拡大でき、また新たに資源も得られましょう。陛下直々のご親征を賜りとうございます』
分かっていたことだ。
竜族はきわめて精強だ。そのうえ国策は専守防衛。いくら秘術が魔族を超人に作り変えたとはいえ、兵数たった二千余の鉄の大公軍が、快勝できるような相手ではない。
それでも、彼らは竜族を斃すことを諦めない。蜂起のきっかけとなったクトゥパシャトラの死の悲劇には、三族のすべてが関わっている。それを根絶やしにするまで、魔族の抱く憎悪は……恐怖は、終わらない。
だからいずれは、オルヴェステルも、また両手を敵の血で汚さなければならない。
太陽が沈む。闇が広がる。
オルヴェステルは、石の廊下を塗りつぶす濃い影に、ずるりと足を沈みこませた。
長身が煙のごとくゆらぎ、その場に溶けて、かき消える。
廊下はたちどころに無人となった。
一陣の風が吹き抜け、わずかに残った気配さえ拭い去っていった。
オルヴェステルは、色の無い世界に、ただ一人訪れていた。
先程まで立っていた廊下が、遠く頭上に、水面のように揺蕩うのが見える。それだけではなく、壁や扉で隔てられている各部屋の中や、城壁の外に広がる荒野まで、遥かな景色を一望できる。
これが彼の異能力だった。
影の中に、潜ることができる。
地面の中にいるわけではない。廊下や大地を刃で斬りつけられても、オルヴェステルには届かない。
闇が光で照らされて消えても、体が蒸発しはしない。ただ、そこから『出入り』できなくなるだけだ。
影の世界は、普段の現実の世界と重なり合うように存在する、表と裏のような関係なのだと、彼は実感として理解していた。そして、この二つの世界を、夜や影などが作り出す濃い闇が『門』として繋いでいる。
オルヴェステルだけが、門を開けて自由に出入りすることができた。この権能を、彼は『影渡り』と呼んでいた。
足に力を込めて、空間を蹴る。身体はふわりと軽く浮いた。この無彩色の世界では、重みが無いので、泳ぐようにして動く。影の中では、馬車よりもずっと早く移動することができた。
『王というより、斥候向きの能力だな』と、バーンソルドは評価した。
この力があれば、どんなに堅固に守られた密室であっても、人が潜り抜けられる大きさの暗闇さえあれば、簡単に忍び込める。
要人を狙って暗殺するのも、閉ざされた城門を内側から開けるのも、破壊工作を仕掛けるのも、造作もないことだ。
しかし、その実行役がよりによって君主では、万一失敗して捕殺された場合、魔族側の損失が大きすぎる。
他の兵を影に同行させられるか、と尋ねられた。不可能だ、と答えた。それで、前線での運用は諦められた。『お前が王でさえ無けりゃあな』と、苦笑されたのを覚えている。
せめて、と言って、オルヴェステルは、この城を含めた、王の直轄領全域の夜間の守備を、己が単独で担うと申し出たのだ。
夜ならば、城内とその周辺地域のすべてを、影の中から一望できる。敵の接近を察知し、背後から襲うなどたやすいことだと。
そして、代わりに城の衛士を減らして、炎と鉄の大公軍にそれぞれ割り振りたいと。
大公たちは、手勢が一人でも増えることを喜び、これに賛同した。もう十二年も前のことだ。
それ以来、日没から夜明けまで、オルヴェステルは毎夜、闇に潜る。そして朝方、闇から這い出て、ほんの数人の衛士たちに引き継いでから、わずかに二刻眠って、起きる。
実際のところ、魔王城に夜襲を掛けようという軍勢はいない。城下にあった街や周辺の人里は、執拗に繰り返した掃討戦と、呪いによる耕地腐敗の影響で、無人の大地と化している。
慰霊碑のもととなる事件があってから、魔族はみな、拠点の防備を手薄にすることを激しく恐れる。だが、減るばかりで決して増えない限られた味方兵力を、できるだけ重要な戦地に配備したいという思惑も、もちろんある。
王じきじきの異能力による守りは、おもに鉄の大公やその麾下に、安堵を与える働きをしていた。
ここまでしてようやく、オルヴェステルは、他の魔族や大公から離れて、一人きりになれる時間を手に入れたのだった。
オルヴェステルは大公たちの傀儡だ。
十五歳で母を失い、十七歳で即位してから、復讐に取り憑かれて兇賊と化した同胞たちを止めきれず、翻弄され続けてきた。
滅びに向かってひた走るさだめの手綱を、操れないまま、ただ握らされていた。
(……彼女は、これを打ち明けても、受け入れ励ましてくれた。だが……)
無音の世界で、彼は密かに吐息をもらす。
(ギルンザディンの話を聞いたからには、今度こそ、俺を軽蔑するだろうな。……肉親の仇討ちをしたくないというのが、どれだけ恥ずべきことか、実感できただろうから)
言葉遣いひとつ取っても、王は大公の言いなりだった。主君が臣下におもねるな、と、バーンソルドに苦言を呈され、今は亡き伯父の口調に倣っている。実際は彼らの奴僕に過ぎないのに、上辺は権威を装わされて、虚しいばかりだ。
この闇の中でだけ、オルヴェステルは昔の通り、おのれのことを『俺』と呼んだ。
昔。そう、昔は幸せだった。
母がいた。自慢の母が。暗い洞窟都市の中で、人々の心を照らす太陽のような人だった。
生まれた時から父はいなかったが、オルヴェステルはそれを寂しいと思ったことはなかった。母や伯父から注がれる愛情は、オルヴェステルを満たしてやまず、彼に孤独が忍び寄る隙はどこにもなかった。
ただ、王妹でありながら父無し子を産んだ母を、陰でそしる者たちはどうしてもいて、そのたびに母の笑顔は哀しく翳った。
だから、常に母を気にかけてくれる、ふさわしい人物が、己の継父となってくれればいいのに、と、いつも願っていたのだ。
バーンソルド。彼がそうなってくれれば、と。
家族のような男だった。彼自身が孤児だったからだろう、父のないオルヴェステルを案じて、毎日のように面倒を見てくれた。
母の幼馴染で、いつも親しげにしていた。出来の悪い詩や歌をからかい、無茶をすれば本気で怒って心配し、けれども結局、最後に折れるのは必ずバーンソルドのほうだった。
いつも気安い態度の彼が、母の背を見つめるときは、せつなげな眼差しをしていたのを覚えている。
それなのに。いや、それだからこそ。
(王であっても、俺は一生、彼の奴隷だ)
オルヴェステルが本心では復讐を望んでいないことを、知っている者はごく僅かだ。アマリア、ロトゥンハーシャ、そして……バーンソルド。
彼に強いられ、オルヴェステルは常に前線で戦ってきた。
武人階級の獣族を皆殺しにするまで。
鳥族の都市を沈めるまで。
魔族を『呪い』がさいなみ、資源確保のために異民族の奴隷を設ける必要性が生まれて、現在の半休戦状態が敷かれるまで。
その連戦の事実と、オルヴェステルのもう一つの異能力がもたらした数多の戦果が、彼の心を民から覆い隠していた。
だが、シシルエーネが生まれるよりも前、母が殺された直後でさえ、なぜオルヴェステルが復讐を望まなかったのか、その最初の理由を知っている者は、誰一人いない。
(俺が復讐を望まなかったのも、それなのに誰よりも手を汚す復讐者となったのも……)
オルヴェステルは、闇しかないはずの世界の中で、なおも両手で顔を覆った。見たくなかった。見られたくなかった。
(どちらも、あなたのためなんだ……バーンソルド)
影は、城の暗い壁を透過し、模型のように内部を映す。
アマリアはまだ起きているのだろう。彼女の部屋は、光に白く塗りつぶされて、中の様子はうかがい知れない。出入りできない明るさの場所は、影側からはそのように見えた。
昼間は倒れて寝込んだはずだが、わざわざ明かりを灯したようだ。
夕食だろうか。あるいは、また実験だろうか。
彼女はいつも、王妃として、聖女として、打てる手を探り、寸暇を惜しんで力を試している。
アマリア。この城にやってきた、新たな可能性。
竜族の捕虜への尋問で得た、イェラ神国の王族についての情報。それを知った『鉄』と『涙』と『炎』とが、魔族の勝利のために必ず獲得すべきだと主張して、ついに拒みきれずに、この地獄へと否応無しに引きずり込んでしまった、穢れなき少女。
大公たちに利用されてしまうのを少しでも遅らせようと、オルヴェステルは『血』に頼み、彼女を隠して孤立させることで守ろうとした。
だが、未来を信じ、事を為そうと一心に力を尽くすひたむきさは、疲労と絶望に倦んだオルヴェステルにとって、あまりにもまぶしい。
いつしか、姿を目で追っていた。
人々の話を聞き回り、考え続けて、またせわしなく歩き始めるアマリアは、オルヴェステルの心に、小さな希望の種を落とした。
アマリアは、広大無辺な暗い荒野で、歩みを止めない旅人だ。
その背中に、痛みに頽れ立ち尽くすオルヴェステルは、見入っている。
ここはまだ行き止まりではないと、どこかに繋がる道があると、信じさせてくれる。
(アマリア。俺たち魔族は、まだ辿り着けるだろうか。君がもといたような、日の当たる世界へ。それとも、君は俺をさげすみ、見捨てて立ち去るのだろうか)
行く末の景色は、まだ見えない。
あるいは、彼女さえ呑み下そうと、戦禍は襲い来るかもしれない。
もし、その時が来たら。
(君だけは、なんとしてでも此処から逃がす。それだけならば、俺にも出来る)
決意を固めて、オルヴェステルは妻の部屋に背を向けた。
そして、為すべきことのために、ひときわ強く闇を蹴った。




