19話:悪魔が生まれた日
ダースラーンの秘術が生み出され、魔族が力を得たきっかけは、二十年前、オルヴェステル様の母君が、獣族の村でむごい殺され方をしたことでした。このことは……ご存じのようですな。
にわかには信じられないかもしれませんが、そのとき、実際に復讐のために手を血で汚したのは、魔族の中でもほんの一部でした。
亡くなられたクトゥパシャトラ様を特にお慕いしていた、数十人の義士たちが、玉砕覚悟で、悲劇を起こした村に討ち入ったのです。
そして、秘術の絶大な効果を体感したために、周辺の村へと逃げ出した残党をも狩り出し、結果的に複数の獣族の村を制圧しました。
復讐者たちでさえ、大半がこの時点で、戦いに一区切りをつけようとしていたのです。
わしらの先祖は、古くは地下洞窟ではなく、地上で暮らしておりました。そして、陽も差さぬ暗闇で耐え忍びながら、豊かで暖かな地上の暮らしに、ずっと恋い焦がれておりました。
ですから、このとき討った獣族たちの村に、魔族のための新しい国を建てられないかと、誰ともなしに言い始めました。
秘術が力を与えてくれたのだから、これからは獣族たちに虐げられることのない国を、地上に再び興すことができるのではないかと。
わしが異能力を得たのは、ちょうどその頃でした。もとが鍛冶師だったからなのか、鉄や鋼を、望んだ形で、無から生み出すことができるようになりました。
この力で、わしは仲間たちのためにたくさんの家を建て、新しい鍋や包丁、鍬鋤を作ったのです。
小さな村ができあがりました。
魔族の多くが洞窟を出て、おそるおそる、けれども明るい未来を夢見て、そこで暮らし始めたのです。
わしらは、秘術の力を過信し、思わぬ希望に目がかすんでいました。
いくつもの農村をたやすく制圧できたことに喜んでいました。
獣族は、なにも農民ばかりではなかったのです。村々を統べる武人階級の支配者たちがいました。
武人たちは氏族ごとに分かれて、より多くの領地を手中に収めるために、互いに争っていました。だから、自領のことに敏感で、そして戦いにも慣れていました。
それを、わしらは知らなかった。
浮足立って無防備な当時のわしらの村を偵察し、隙を見つけるのは、やつらにはさぞかし容易かったことでしょう。
ある日、魔族の男衆は、村に水路を引くために、みなで連れ立って川まで出かけていきました。愛する妻や子を村に残して、愚かにも、村の守りを疎かにして。
数日間、泥にまみれて作業して、帰ってきたとき、迎えの声はありませんでした。
村は荒らされ、無残な血痕が其処此処にこびりついて、家族は誰もいませんでした。
ほんの数人、倉で震えて隠れていた子どもたちの証言で、獣族の騎兵隊が女や子どもを攫っていったのだと知りました。
血眼で行方を追いました。ようやく見つけた場所は、獣族のとある牧場でした。わしらの家族は、そこで——
……生きてはおりませんでした。
それどころか、顔を拝むこともできませんでした。
やつらの家という家をすべて暴き、牧草の山を崩しても見つからず、家畜小屋の豚どもをすべて追い出して、……その、飼い葉桶の中に、牧草や麦の粒に混ざって、無数の腐った肉片と、娘に……アーチシャに作ってやった、花型のブローチが入っていました。
やつらは悪魔だ! 人の顔をしたケダモノだ!
秘術に守られて生半なことでは死ななくなった魔族を、やつらは、どうしても殺そうとした。
だからといって、女や、子どもや、老人を、どうして細切れの肉にまで引き裂いて、豚の餌になどできる。それが、心を持つ人間のやることか!
…………申し訳ありません、取り乱しました。
わしらは……、わしらは、おがくずや豚の唾液にまみれた、家族の欠片を、泣きながらひとつずつ拾い集めて、持ち帰りました。
そして、今度こそ、戦えるもの全員で武装蜂起し、獣族の武人どもの住む街を、残らず滅ぼして回ったのです。
わしは無数の剣を、槍を、鎧を生み出して、仲間たちに渡し、自分でもそれを使って敵を殺しました。襲撃を指示した武将の一族を、串刺しにして晒すための鉄杭も、わしが作りました。
ですが、やつらの痛みなど、イラやアーチシャが感じた痛みに比べれば、ちっぽけなものだったでしょう。何しろ、あの獣族どもには、殺された魔族たちと違って、即死する権利がありましたからな。
アマリア様。これが、わしらの戦う理由です。
徹底抗戦を叫んだ、ごく一部の復讐者たちは正しかった。
この世界は、わしらが少しでも幸福になることを認めようとしない。
だから、戦って打ち勝たなければならんのです。おぞましき敵をすべて排除して、もう誰にも害されることのない大地を手に入れなければ。そうでなければ、妻や子どもが安全に暮らせる国など、興しようもない。
端から見れば、わしらは、とうに狂っているのでしょう。
ですが、わしらが武器をとった理由だけは、あなた様にも知っておいていただきたい。
わしらは人殺しですが、生まれながらの悪魔などではない。愛や悲しみ、人の心を持っていたがゆえのことなのです。
わしらは、みな、遺族なのです。
「…………この碑の下には、あの時に失われた一千五十三人の同胞たちの、遺品が眠っています。そのほとんどが、女、子ども、老人でした。
いま生きている魔族は全部で五千七百二人で、大半は男。そして、ほぼすべてが兵士です。誰もが復讐を固く誓っております。
この城にいる使用人は、その他の例外です。事件の際、わずかに生き残った当時の子どもたちや、精神を病んだ者たちが、戦地から離れて働くことで、心の傷を癒やしておるのです」
アマリアは、口を手で押さえて、耐えきれずに玉砂利の上に突っ伏した。血の気を失い震えるその姿を見て、ギルンザディンは苦笑する。
「イェラは平和な国だったのですな。そこで王女として生まれ育ったあなた様にとっては、信じ難い出来事でしょう。お耳を汚してしまい、申し訳ございません」
返事をしようとしたが、口を開けば吐いてしまいそうだ。胃酸の匂いがこみ上げてきている。
生きたまま人を八つ裂きにして、遺体を家畜の餌にする?
敵将のみならず、その家族まで鉄の杭で串刺しにして、殺して晒す?
どちらも、この老人の身の回りで、二十年前、実際に起こった事なのだ。生々しい残虐な想像は、強烈な目眩や吐き気として、アマリアを襲った。
耳鳴りの彼方から、かすかに声が聞こえてくる。
「……えさま! 義姉さま、どうしたの、大丈夫なの!?」
「シシルエーネ様、申し訳ございません。わしがアマリア様に、怖い話を聞かせてしまい、ご気分を損ねられたのです」
「そんな……。従兄さま、どうしよう、義姉さまが……」
ぐらぐら揺れる地面に、長い影が落ちた。
低く静かな声がする。
「ギルンザディン。アマリアに話したのはこの碑の由来か」
「その通りです。面目ない」
「訪問の要件は、鱗の属領における戦況の定期連絡だな」
「はい」
「政務室で聞く。先に行って待て」
「かしこまりました」
「シシルエーネ、ロトゥンハーシャをここに呼びなさい。アマリアが慰霊碑の前で倒れていると伝えるんだ。出来るな?」
「……はい、従兄さま!」
足音が二度、離れていった。
視界は黒い砂嵐だ。指先の感覚がない。誰かがアマリアの隣にしゃがんで、冷えきった背にためらいがちに触れた。暖かい手のひらが、少しだけ寒気を払った。
彼は、「すまない」と、いつもの口癖を言った。
「鉄の大公は、ただ知ってほしかっただけなのだろうが、またお前を……おびえさせた」
彼が謝ることではない。首を横に振りたかったが、頭を動かすと倒れそうだ。
じっとしていると、オルヴェステルは人目を憚るように声を低めて、ささやいた。
「……時折、思う。彼らの考えこそが『真っ当』で、私こそが狂っているのかもしれないと。家族を殺された人間は、仇を滅ぼし尽くすまで、止まるべきではないのでは、と……」
遠くから、硬い足音が駆け足でやってくるのが聞こえた。背中を支えてくれていた手の感触が、そっと離れる。去り際、彼はこう言い残した。
「……アマリア、徳高きイェラの聖王女よ。この平原で、復讐の連鎖の外にいるのは、お前だけだ。だから、そのお前が私を見限るならば……私はそれを、受け入れる……」
アマリアは、その言葉を何度も胸で繰り返した。ロトゥンハーシャに促されるがまま、袋に吐いて、水を飲み、部屋に担ぎ入れられて寝かされている間も、ずっと考え続けた。
(自分が狂っているかもだなんて、そんなにも葛藤しているあなたが、復讐に身を委ねないのは、なぜなの。本当にシシルエーネ様のためだけなの? 伯父さんの遺言のため、可哀想な従弟のため……そのためだけに、ここまで憤る民の前に、立ちはだかることができるというの?
あなたが、自分のお母さんを殺されたとき、復讐よりも望んだことって、いったい何だったの……?)