18話:黒鉄の碑
「あなたは、異民族が憎い? 殺してやりたいほどに?」
それは、明くる日の昼だった。アマリアは自室にラヤを呼びとどめ、その言葉を投げかけた。
まっすぐ切り込んできた問いに、ラヤは身じろぎしておびえた。アマリアは、それでも彼女から目をそらさなかった。
確かめたいのだ。魔族の『民』が抱いている、普遍的な感情を。本当に、いざという時が来たら、誰もが王を捨て大公に味方してしまうのかを。
己を恥じて心を隠す孤独な同盟者の存在が、不思議と、アマリアに戦う勇気を与えていた。
ラヤは、うつむいて肩を丸めた。
「わ、私は……わかりません。ずっとお城で働いているので、婢族と会ったことは無いんです。いえ、見かけたことは、あるのかも。でも、思い出せません。怖いんです」
少し奇妙な物言いだった。ラヤの瞳はふらふらと泳ぎ、その両手は胸の前でぎゅっと固く握られていた。関節が白くなるほど強く。祈るように。
「キーラタは、覚えているみたい。でも、彼も婢族を恐れています。鉄の大公さまは、お城へいらっしゃるたびに、キーラタに言うんです。『おぬしもいずれは剣を取り、おぬしの父のために戦わなくてはならぬぞ』って。でも、キーラタは、兵士にならずに、お城にいます。……私は、安心してます。あんなおっちょこちょい、戦場に出たら、きっと……」
それきりラヤは口をつぐんだ。彼女の不安はわかる。キーラタはラヤの恋人で、優しいが、とてもではないが兵士に向いた性格ではない。少しでも安全な場所にいてほしいと思うのが人情だろう。
アマリアは、それ以上ラヤを問い詰めるのを諦めた。彼女はつとめて優しく言った。
「ありがとう、がんばって話してくれて。ラヤのこと、責めたかったわけではないのよ。一番そばにいてくれるあなただから、一番始めに聞いただけ。いつもごめんなさいね」
「いえ、そんな……! 私も、アマリア様のためならば、何だってお手伝いいたします。ですが、すみません、今回はお役に立てなくて……」
「そんなことないわ。助かりました。ところで、他にも誰か、話をしてくれそうな人に、心当たりはある?」
「ううん……そうですね、ジョサムなら。彼は、お城に勤める人の中では年長ですから」
「ジョサムね、ありがとう。さっそく当たってみます」
善は急げだ。アマリアは立ち上がって、厨房へ向かうことにした。途中、ふと振り返って、もう一つだけ尋ねた。
「ラヤ、あなた、陛下のこと、どう思ってる?」
深呼吸して心を落ち着けていた侍女は、ぱちくりと目を開いて、小首をかしげた。
「陛下でございますか? それはもちろん、尊敬しておりますよ。獣族征服作戦の折、いずれの大公をも凌ぐ、比類なき戦功をあげられた方ですし、魔族の兵たちを保護する方針の、思いやり深い戦略を掲げておられます。偉大な方です。その、少し雰囲気が近寄り難いですが」
「へえ……」
戦功や戦略についての評は初耳だ。オルヴェステルは、本人が思い悩むほど、民に軽んじられているわけではないのだろうか? あるいは、彼は後ろ向きな性格なので、過大に不安視しているだけかもしれない。「ありがとう」とほほえみを返し、アマリアは思案しながら廊下へ発った。
厨房のジョサムは、忙しいだろうに、アマリアが訪うと、他の同僚たちと調整して時間を作ってくれた。休憩室で、ラヤに言ったのと同じ問いを繰り返すと、彼は迷い無く答えた。
「俺は憎いですよ、婢族どもが。獣族が姉さんにした仕打ちを、俺は忘れていません」
「……あなた、獣族に、お姉様を……」
「姉さんは、兵士でも何でもなかった。当時は、ただの十四歳の村娘でした。それをやつらは……」
ジョサムは鋭く歯ぎしりした。彼のまなざしは、ここではなく、過去の光景をにらんでいるようだった。そして、アマリアの瞳に浮かぶ曖昧な色を見て取ると、察してうなずいた。
「……そうか、王妃様はまだご存じないのですね。婢族を根絶やしにしなくてはならない理由。地上に出てきた俺たち魔族に、けだものどもが何をしたかを」
「何かあったのですね。あなたの心にそれほど深く刻まれる、決定的な出来事が」
彼は肯んじた。そして、すっくと立ち上がった。
「ご案内しますよ。俺たちの、憎しみの標まで」
そこは、もとは獣族の礼拝所だったのだろうと思われた。
建物は基礎部を残して徹底的に打ち壊され、屋根を失い野晒しとなった屋内には、瓦礫にまみれた獣族の神像が、首と腕とを砕かれて、胴だけになって風に朽ちていた。
ジョサムは、そこへは入らなかった。礼拝所の前庭に設置された、とある構造物の前で、彼は立ち止まった。
その一画だけは、萎れた芝生ではなく、白い砂利が敷いてあった。中央には、つやのある黒い石碑が聳え立っていて、その足元に小箱が据付けられている。小箱の中身は灰だけだ。アマリアは、これと似たものに見覚えがあった。
(お線香を立てる、香炉? これは……鋼で作られた、お墓?)
石碑には碑文が刻まれていた。アマリアにはそれが読めない。この平原やイェラ神国の周辺で通じる公用語ではなく、魔族の古代文字だ。隣のジョサムが、アマリアの視線の戸惑いを見て取り、読み上げてくれた。
「『我らが妻、我らが子、我らが無念、ここに眠る。アーチシャ、アロイーユ、エヨルペ、イラ、フォルーシャン……』。列挙されているのは、すべて人名です」
「人の名前、ですか……」
改めて石碑を見上げた。背丈より高い碑の表面に、名はびっしりと刻まれている。その数は、おおよそ一千にも及ぶだろう。
これだけの人の魂が、ここに祀られている。
二人は、しばらく静かに石碑を見つめていた。並んだその背に、挨拶が投げかけられた。
「おお、これはこれは、王妃様。ご無沙汰しております。このような場所でお会いするとは」
振り返ると、そこにいたのは、鉄の大公ギルンザディンだった。先日と変わらず鎧に身を包んでいる。城へ来ていたのか。
以前話したときは、近寄りがたい厳格な覇気をまとっていたが、今日の彼は、年齢を感じさせるゆったりとした足取りで歩み寄ってきた。
「ジョサム、おぬしもおるとはな」
「お久しぶりです、鉄の大公。あの事件のことを、王妃様にお聞かせしようと思いまして。王妃様の侍女はラヤなのですが、彼女はあの時の記憶を失ってしまっていますから、俺が代役というわけです」
「ふむ。しかし、おぬしとて心穏やかには語れまい。婢族を前にすると息が詰まってしまう病は、治っておらぬのだろう?」
「……はい、恥ずかしながら。これさえなければ、俺も閣下のもとで戦えるのですが」
「悪いのはおぬしではない。アマリア様、昔話は、このじじいが引き受けましょう。ジョサム、おぬしは仕事に戻るがよい」
アマリアとジョサムは顔を見合わせ、うなずいた。
「王妃様、申し訳ございません、俺はここで」
「いえ、よいのです。わたくしのためにつらい思いをしてほしくはありません。ここまで連れてきてくださって、ありがとうございます」
「とんでもない。それでは、失礼いたします」
ジョサムが行ってしまったのを見届けてから、ギルンザディンは石碑の前にしゃがみ込み、懐からあるものを取り出した。それは線香だった。腰のカンテラの火種で灯し、小箱の灰にそうっと刺す。か細い煙が、ゆっくりと立ち上った。
アマリアは、彼の黙祷が済むのを待って、ささやいた。
「墓碑なのですね」
「ええ、慰霊碑です。わしら魔族は、花を枯らしてしまいますから、代わりにこうして香を供えます。城へ来たとき、わしは、必ずここに来ます」
線香を供えて墓前で拝むギルンザディンは、姿こそ日本人とは異なるものの、前世の記憶にある真理の祖父母と、なんら変わらない。
この様子だけを見たのならば、彼が『族滅派』なる過激な派閥の筆頭だとは、察することもできなかっただろう。
それが、なぜ。キーラタの足を刺し貫こうとしたギルンザディンは、恐ろしかった。人ではなく、鬼か悪魔のようだった。
心を読んだわけでもあるまいに、ギルンザディンは、石碑の前にひざまずいたまま、静かにつぶやいた。
「わしら魔族にも、心があります。暗く冷たい洞窟で不遇を託っていても、命を尊ぶように教えられて育ち、家族や隣人を愛して暮らしてきました。誰かが傷つけば共に涙し、誰かを失えば墓前で悼みます。みな、そういった『普通の人間』だったのです」
「……」
「この慰霊碑に名の刻まれた者たちも、『普通の人間』たちでした。ひとりひとり覚えております。なにしろ、この碑を建てて、名を刻んだのは、わし自身ですからな」
「あなたが?」
「ええ。そして、わしの妻イラと、幼かった娘アーチシャも、ここに眠っております。二人とも、奥ゆかしく優しい性格でした。武器を持って人を傷つけるなど以ての外、他人を悪く言うことさえしませんでしたよ。アーチシャは、生きていれば、今頃あなた様のような美しい娘になっていたでしょうな」
ギルンザディンは遠い目をした。アマリアは、彼の瞳に、深い悲しみの年輪と、未だ生々しく癒えずにいる痛みを見た。
こんなふうに、妻と娘の喪失に苦しみ続ける『普通の人間』が、戦場では人を殺し、他の民族を根絶やしにすることを望むという。それがなかなか実感として理解できなかった。
彼は立ち上がり、碑をそっとなでた。
「お話ししましょう。わしらが、どうして獣族ども……異民族どもを憎むのか。なぜ、今に至るまで、決してやつらを許さないのかを……」