17話:やりすぎ
それは、何ということのない、とある日曜日だった。リビングでごろつく真理は、開け放された掃き出し窓から、庭の父が話すうんちくを聞いていた。父は家庭菜園に凝っていて、その日も土をいじりながら、にこにこしていた。
『真理ー、見ろー、ミミズがいたぞー』
『えー、虫キモーい、見たくなーい……』
『なんだとお。虫を馬鹿にしちゃいけないぞ! いいか、土の中にはな、土壌生物っていう、ほんの小さな生き物がたくさんいて、こいつらが頑張って、良い土を作っているんだ。ミミズや蟻んこだけじゃない、カビや茸の仲間の菌類、目に見えないような細菌類、アメーバの仲間の原生生物もいるし、藻類とか……ほら! ダンゴムシだ!』
『うわ、やめてよ気持ち悪い! 無理無理無理! 母さーん、父さんが家に虫持ってくる!』
『ええ? 何やってるの、あんたたち』
テレビを見ながら、母は呆れていた。わあわあ文句を言いながら奥へ引っ込んだ真理に、父は未練がましくダンゴムシを掲げていた。家族と話すのが大好きなくせに、年頃の娘の気持ちが分かっておらず、話題選びがいつも下手くそな人だった。
(……もう少し、話聞いてあげればよかったな)
懐かしさに胸がちくりと痛む。帰らぬ日々だ。
しかし、思い出に含まれるのは、感傷ばかりではない。魔王の城の裏庭で、いま、アマリアは目を輝かせた。
「土壌生物は、生き物です! 土そのものではなく彼らにならば、マナを与えることができる!
天に坐す父なるアドゥマよ、あなたの娘イェラの裔より、畏み申し奉る! イェラの如くに命を癒やす、天与の恵みを授け給え!」
早口に祝詞を唱えると、アマリアは草花のさらに下、地中に向かって手をかざし、一心に祈った。
——途端に、がくりと膝から崩れ落ちた。
祈りは、届いた。マナの黄金の輝きは、確かにアマリアの全身を一瞬包んだ。
気を失う寸前の、強烈な脱力感とともに。
(え、なに、どうなって)
耳元で、わあん、と響く音がした。しばらくすると、それが人の声だとわかった。
「……リア、アマリア! しっかりしろ!」
じんわり意識が戻ってきた。オルヴェステルに抱えられ、肩を揺さぶられている。
「え?」とつぶやいた唇が、汚れている気がした。ぬぐった。血だった。
「……なんで?」
「光ったと思えば急に倒れて、鼻血を吹き、目を回していたのだ。……話せるということは、少しは気分がましになったか?」
「たぶん……」
まだぼんやりした気持ちのまま、手の甲で丹念に顔をこする。なるほど、鼻血だ。見かねたオルヴェステルが、布でアマリアの顔をぬぐい、小鼻を押さえた。
「うつむいて、じっとしていろ。……何をした?」
「ふごっ。あの、地中に住んでいる、ミミズなどの土壌生物に、マナを与えたのです。……あ」
アマリアは、自分の失敗の理由に気がついた。
ミミズやダンゴムシばかり思い浮かべていたアマリアだったが、前世の父が列挙していた、無数の土壌生物たちは、ほとんどが微生物だ。
彼らは、わずか一グラムの土の中に、一千万匹以上もいる。
「……マナを、一度に放射しすぎた、かもです……」
天の神が与えた量を遥かに超えるマナ放射は、アマリア自身に自腹を切らせた。結果、急速にマナを失った体が、こうして悲鳴を上げたということだろう。
(うっかり死ななくて、本当に良かった……!)
とんだヒヤリハットである。アマリアは、ぎりぎりのところで聖印をかき消してくれた天神アドゥマに、深く感謝した。
オルヴェステルは、気遣わしげに眉を寄せた。
「あまり危険なことはするな。……つまるところ、その生物を活性化させたから、土壌の回復が見込まれ、今度は植物の活力も長く続くということか?」
「はい、そうだと良いなと期待しています。効果が出るのが楽しみです。今朝、ここで萎れた花を見たときは、もうだめだと落ち込んでしまいましたが……えへへ、なんとかまた前進ですね」
「そうだな……」
彼は、顔を曇らせ、目をそらした。
「お前は、私たちが長く囚われていた問題に、こうして次々に道を見出してくれる。……私などには過ぎた同盟者だ」
おや、とアマリアはいぶかった。成果が出て喜ぶならともかく、このじめじめと湿った態度は何だろう。なだめるように彼女は言った。
「今回の発想は、陛下のお言葉がきっかけですよ」
「偶然、私だっただけだ。誰にでも話せることだ」
「だとしても、今、ここでわたくしに教えてくださったのは、陛下だったでしょう。ならば、今回は陛下のお手柄です。つまり、わたくしたちの協力の賜物です。胸を張ってください!」
オルヴェステルは、「そうだろうか……」とつぶやいたが、アマリアの強い視線を受けて、それ以上は言い返してこなかった。
アマリアは、オルヴェステルのことがだんだんわかってきた。どうやら相当な根暗だ。多少強引な態度を取ったほうが、うまくやっていける気がする。
鼻血は止まった。ずっと押さえてくれていた手をどけて、アマリアは立ち上がった。
「手当てをありがとうございました。実験の結果が確認できるのはまた十数日後ですので、わたくし、一旦部屋に戻ります! それでは、引き続きがんばりましょう! ごきげんよう!」
一礼してくるりと背を向け、勇ましく歩き出したアマリアの背に、「待て」と声がかかり、ふわりと何かが被せられた。
オルヴェステルの外套だった。彼は苦笑した。
「服に血がついているから、これで隠していきなさい。衛士たちを驚かせてしまう」
わざわざ首元のボタンまでかけてくれた。彼は背丈がかなり高いので、黒い外套は、アマリアの足首まですっぽり覆い隠してしまった。
襟元から、澄んだ冷たい香りがする。彼の匂いだと気づいて、急にアマリアはへどもどした。
「あのっ、ご親切に……」
「……今日は、話せて良かった。本当は、牙の属領での出来事を聞いて、お前をいたわりたかったのだが、却って私の方が心を慰められた。すまないな」
「いえ、その、わたくしも、その」
「またいずれ、二人で話そう。部屋まで送ろうか」
「だだだ、大丈夫ですっ」
「そうか。……ではな」
去りゆく姿を、アマリアはその場に固まったまま見送った。全身から湯気が立つような心地だった。
どこをどう歩いたかも記憶に無いまま、自室に戻ると、アマリアを出迎えたラヤは、いたく興奮した。彼女の目は、獲物を見つけた鷹のように、ぎらぎらとかがやいていた。
「アマリア様……! 夜も明けないうちに、書き置きだけを残して、どちらへ行かれたかと思えば、陛下のお召し物を羽織って朝帰りだなんて……! それに、目元に泣き腫らした跡が……!」
「え……あ! ちが、違うのよ、全然そういう、やましいことではないの! ちょっと、わたくしが服を汚してしまって、これで隠すようにと貸してくださっただけで……」
「陛下と密会していたのは事実なのですね!? そのうえお召し物を汚されて……!」
「違うの、ラヤ! 汚れというのは、ただの鼻血で……」
「鼻血が出るようなことを!? それってやっぱり……!」
「うう……ううう……!」
裏庭での実験は機密事項だ。ラヤには話せない。
答えに窮するアマリアを見て、勘違いを深めたラヤはすっかり大喜びだ。
「私、とっても嬉しいです! お城へいらしたばかりの時は、あんなにいがみ合っていたお二人が、ついにこんなにも仲睦まじく……!」
「む、むつ、ちが、ちが、」
「シシルエーネ様も、このところずっとお元気そうですし、魔族の王家は安泰です! ……あ、お着替え手伝いますね。朝食の支度もできております!」
「……ありがとう、ラヤ……」
ラヤはキーラタと交際しているために、その母のネノシエンテに似たのだろうか。急にぐったり疲れたアマリアは、なんとか着替えと食事を済ませた。
その後、彼から借りた外套を、城の洗濯室を通して返しに行くと言うので、少し悩んで、アマリアはそれに、ごく短い手紙を書いて添えた。
『陛下の御厚意に感謝致します。アマリア』
文面が堅すぎただろうか、もっと長く書けば良かっただろうか、と一日思い悩んでいたが、その日の夜に、オルヴェステルからの返事が届いた。そこには、まるで教本のような美しい筆致で、こう記されていた。
『養生せよ。オルヴェステル』
自分の書いたものより遥かに堅く短い返信に、アマリアは安心して吹き出した。そして、たったそれだけの手紙を、眠りに就くまで何度も指でなぞり、読み返した。
その夜は、悪夢は見なかった。