10話:育たない希望
「シシルエーネは、十八歳だ。次の初夏で十九歳になる」
「な……」
アマリアは絶句した。
あの子が自分より年長だなど、信じられない。小柄だとか、幼顔だとか、そのような説明で補える程度を遥かに超えている。彼の背丈はおおむね一メートルほどしかなく、仕草や物言いも、まるきり五、六歳の子どものものなのだ。
オルヴェステルは、目を伏せた。
「天の神が魔族にくだした罰なのか、それとも討ち倒した無数の異民族どもの怨念か……『呪い』は、魔族から未来を奪った。多くの妊婦の腹の子が、同時期に流れ、失われた。秘術を編んだ偉大なる王の子であっても、『呪い』からは逃れられなかった」
オルヴェステルは、低くかすれた声で、当時のことを淡々と語った。
「二十年前、シシルエーネはまだ胎児だった。臨月の母親の腹の中で、生まれ出るのを今か今かと待っている状態だった。
しかし、予定日をいくら過ぎても、あの子は生まれてこなかった。それどころか、大きかった母親の腹が、だんだんとしぼんでいった。
二年が過ぎたとき、母親……当時の王妃が、自分の腹を割いてでも子をとりあげてほしいと、医師たちに泣いてすがった。ちょうど、女たちの流産や死産が相次ぎ、新しい懐妊の噂さえ聞こえなくなってきた頃だった。
医師たちは、手を尽くした。しかし、『秘術』の影響で、医術刀を入れても、たちどころに傷が塞がってしまう。やむを得ず、王妃の体をほとんど真っ二つに引き裂くようにして、子はとりあげられた。
その時、赤子に呼吸はなく、心臓も止まり、未熟児のような大きさだった。ロトゥンハーシャが、血液を操る異能力を使って、止まった心臓を強引に動かした。五日間にわたる、飲まず食わずの蘇生の甲斐あって、シシルエーネはようやくこの世に生を受けたのだ」
アマリアは両手で口を覆った。産屋に満ちる血の濃さが、鼻先に感じられるようだった。王の息子の生誕という、喜ばしいはずの瞬間は、悲劇と死別に取って代わられたのだ。
(だからロトゥンハーシャは、シシルエーネのことで、あれだけ取り乱したんだ……)
オルヴェステルは語り続けた。卓の上で組まれた指には、固く力がこもっていた。
「⽣み落とされた後も、シシルエーネの成⻑は、常識とはかけ離れていた。
ほとんど意識を保っていられないのだ。一日、二日、普通に過ごしたかと思いきや、その後の一月を仮死状態で過ごす。二度と目覚めないのでは、と医師が絶望した頃、何事もなかったかのように、また目を覚ます。
そんな事の繰り返しだからか、シシルエーネの体は、常人の三分の一か、四分の一くらいの速度でしか、育つことができない。体だけでなく、心もだ」
闇の中では、オルヴェステルの光る目が、苦しげに細められるのがよくわかった。
「伯父上……先王ダースラーンは、自身の奥方の出産に係る顛末を、その七日も後に知った。あの方は、『秘術』の起動後、政務も生活も擲ち、秘術場に籠もりきりで、ひたすら術を書き足し続けていた。取り憑かれたように……。
王妃の死と、王太子の血みどろの生誕を聞かされて、伯父上は、ようやく秘術場の外へと歩み出た。そして、王位とシシルエーネを私に託すと、ずたずたに裂けた義伯母上の屍を抱いて、そのまま入水し、亡くなられたのだ」
語り終えた彼は、口を閉ざした。重苦しい沈黙が闇の中に満ちた。
シシルエーネが見せてくれた笑顔には、いっさいの陰りがなかった。きっとあの子は、自分の運命を呑み込んでいる黒々とした濃い闇を、まだ知らないのだ。
オルヴェステルは、あわれな従弟に課された重荷を、何も言わずに、代わりに背負っている。
アマリアは、いたたまれなくなった。彼女は思わず問いかけた。
「シシルエーネ様が、ご自分で王の務めを果たせるようになるまで、あなたは国を守っていくつもりなのですね」
「そうだ」
「シシルエーネ様は、普通の速度では、大きくなれないのですよね」
「そうだ」
「……あなたは、いったいあと何年、大公たちと対立しながら、解けない『呪い』に苦しめられ、周辺民族と戦い続けるというのですか?」
オルヴェステルは、はりつめた表情で言った。
「……その時が来るまでだ」
痛々しいほどの決意だった。
彼は、本当に己が譲位を成し遂げられるとは、きっと信じていない。それでも、最後まで茨の道を歩むつもりなのだ。
アマリアには、彼の凍てついた氷色の瞳が、ひび割れかけた湖面のように、もろく頼りないものに感じられた。
(この人は、国のために、死ぬ覚悟かもしれない)
アマリアは心を決めた。膝の上でぎゅっと拳を握りしめ、彼女は彼に答えた。
「あなたに協力しましょう。わたくしの持つ、マナを操る能力について、大公たちにはこれ以上明かさないことを、お約束します」
オルヴェステルは、目に見えて安堵した。
「すまない。感謝する」
「ただし、もう一つのお願いについては、お断りいたします」
「……と、いうと?」
不安げな眼差しを、アマリアは強く見つめ返した。そして、はっきりと断言した。
「わたくしは、神国には帰りません。この地で起きている『呪い』を解き明かし、その解決の道筋を立てるまで、わたくしは王妃として、この国に留まります」
オルヴェステルは、視線を戸惑わせた。
「……先程も言ったが、『呪い』が解かれれば、大公たちは、滞っている異民族排除に、全力を傾ける。だからこそ、やすやすと解決することは……」
「戦が終われば、よいのでしょう? 異なる民族と争うことをやめ、虐げることをやめて、和平が結ばれればよい。『呪い』は、それから解けばよいのです。
あなたは、いえ、わたくしたちは、この国の民の生活に責任を負う者として、それを必ず成し遂げるべきです!」
王の目が見開かれた。
アマリアは、大それたことを言っている、と自覚しながら、不思議と心が落ち着くのを感じた。おのれが転生した意味、そして政略結婚をした意味が、ここにあるような気がした。
(たくさんの人が苦しんでいて、平原全部が滅びかけている。それなのに、ひとりだけ神国に帰って、忘れて過ごすなんてできないよ。
何ができるかなんて、わからないけど……。でも、この人だって、逃げる気はない。力を合わせれば、少しは成果を出せるはず。
うまくいけば、『スカデン』で味方だったゼノたちだって、ダルマとか、ヤスリがけとか、酷い目に遭わなくて済む。どんなに難しいことかわからないけれど、きっと、これが私の使命だ)
オルヴェステルは、心底わからないといった顔で、つぶやいた。
「……なぜ、部外者のお前が、そこまでする?」
さすがに、転生がどうとか、サ終したゲームがどうとか、そんな理由は明かせない。きっと信じてもくれないだろう。
アマリアは、今の人生で培った、イェラ神国の聖女としての笑みを浮かべて、お行儀の良い答えを返した。
「我が神祖イェラは、地上の争いに心を痛め、傷ついた人々を助けるために、地に下ったと伝えられています。ですから、我が王家のモットーは、人助けなのです。
それに、ラヤやキーラタたちと、こんなに仲良くなれたのに、彼らの苦境に目を背けて帰国などできませんわ。
……どのみち、出戻りの王女に、行くあてなどございません。それならば、この国で皆さまのために尽力したほうが、父も神祖も喜ばれるでしょう」
アマリアの冗談めかした自嘲を聞いて、オルヴェステルは恥じ入るように目を伏せた。そして、いま一度「すまない」と言って、深々と頭を下げた。(この人、なんでも思い詰めすぎるのかも)と、アマリアはちょっと不憫に思った。
こうして、二人の間に盟約が結ばれた。
のちの歴史書の著者たちは、魔王オルヴェステルと聖女アマリアの密談について、誰ひとりとして知り得ず、書き得なかった。
しかし、神杓平原の運命を大きく変えた第一の分岐点は、この夜をおいて他にない。