01話:人質の王女
イェラ神国のもとへ届いた、脅迫じみた親書について、父から聞かされた時、聖王女アマリアはふと、何かを思い出しかけた。
けれども、かすかな既視感は、国とおのれの緊急時を前にして、すぐに過ぎ去ってしまった。
「結婚……ですか、わたくしが?」
父王は苦い顔でうなずいた。
聖女を妻に寄越せ。さもなくば滅ぼす。
要約すれば、そのような手紙であった。
送り主の名は、魔王オルヴェステル、とある。
ご丁寧に捺された血の印章が、かの国の玉璽であるらしい。
王の名も、玉璽の印章さえも初めて知るような国からの、不躾な求めだ。しかし、アマリアたちの国は、これを簡単には笑殺できない。
このイェラ神国は、三日月型の巨大な山脈の、南の山頂に位置する、小さな神殿都市国家だ。
天に坐す偉大なる神々の一柱・イェラ神を祀り、その神の血をひく王族を中心に、信仰を守るために寄り集まって暮らしてきた。
人々の暮らしは清貧そのもの。産業らしい産業もなく、あるのは歴史と権威だけ。近隣の国々からの寄進が主たる収入である。人口は一万人に届かず、常備兵はわずか三百人。長く平和が維持されてきたため、とても戦慣れしているとは言い難い。
一方、魔王というのは、三日月山脈の円弧の内側に抱かれた神杓平原一帯において、急速に勢力を拡大している、『魔族』の指導者であるのは間違いなかった。
柳の葉のような長い耳と、闇の中でも光を放つ不思議な瞳を持つ民族……ということしか、アマリアは知らない。
国家として名を聞くようになったのは、およそ十五年ほど前だろうか。風に乗って伝わってくる噂によると、もとは辺境のいち民族に過ぎなかったが、すさまじい力で、周辺の他民族を次々と従えたのだそうだ。
いくつもの村を焼いた、とか、街を一つ毒の沼に変えた、とか、おそろしげな噂ばかりが聞こえてくる。だというのに、王は誰で、都はどこで、どのような政を敷いているのかは、不思議なことに、いっさいが謎に包まれていた。
その魔族の君主が、なぜ突然に、イェラ神国との姻戚関係を求めてきたのかは分からない。確実なのは、彼らはたやすく神国を滅ぼすことができるということだ。王家を慕う無辜の民たちを思えば、要求を容れるしかない。
イェラ王家に、姫はアマリアただ一人。神に仕える聖王女が、神殿を出て山を下ることになるとは、思ってもみなかった。
謹んでお受けします、と父にひざまずきはしたが、なぜだかアマリアは、これが奇妙に他人事のように思えて仕方がなかった。
翌日、父から神官たちに、正式な布告がなされた。アマリア自身よりも、仲の良い巫女たちのほうが、却って悲しんで泣いていた。涙に暮れて勤行が手につかない友人たちを、当のアマリアが慰めて回る様子は、まるであべこべだった。
しかし、弟のスヴェンが、
「父上は意気地なしだ。自分たちを守るために、姉上を売ったんだ」
と、悔しげにこぼした時は、胸にじくりと痛みが走った。家族を悪く言ってはならない、と、その場で孝行を説きはしたが、弟の言葉はゆっくりと心に沈殿し、アマリア自身の思いとなった。
(わたくしは売られる。民の命を購うための対価として。わたくしの心身は、素性もしれぬ男に買い叩かれる)
友を慰め、弟をなだめ、父を励まして、アマリアは神に仕える王女として毅然と振る舞った。そして、自分の部屋で一人になってから、声を殺して静かに泣いた。
日に日にアマリアの気分は落ち込んでいった。
神国は、王女への求婚を受けることと、輿入れの時期や式典の内容についての相談を、先方に申し伝えた。
魔族からの返事は、にべもなかった。
『身一つでよい。早く来い』
スヴェンは怒り、父は嘆いた。結局、神国民だけで、地上へ下る王女の無事を願うための儀式を執り行った。そして、アマリアはわずかな供を連れて、山の麓、神杓平原へと降りていった。
神杓平原は、三日月山脈に囲まれた、なだらかな丘と平野から成る、楕円形の草原地帯だ。
上から眺めると、平原の北、西、南を、壁のように切り立った山脈に囲まれているのがよく分かる。東側だけ山がなく、遠く外海へと繋がる翡翠海に沈んでいる。
天の神が、海の水を汲むために差し入れた巨大な柄杓のようだということで、このような名前で呼ばれていた。
アマリアの暮らしていたイェラ神国は、三日月の南の弦の頂にある。対して、魔王の本拠地は、遥か雲の下、平原の南西部にあるらしかった。
山を下るのに徒歩で半日、麓から魔王城まで馬車で半日。到着は日暮れ前になる見込みだ。
山麓で、迎えの魔族が用意した馬車に乗り込んだとき、朝から歩き通しだったアマリアは疲れきっていた。このところ、夜に眠れなかったこともあり、ガタガタと揺れる馬車の中で、彼女はひとときまどろんだ。侍女としてついてきた二人の巫女は、王女のつかの間の休息を守るため、馬車の木窓をそっと閉ざした。
どれほどの時間が経っただろう。
けたたましい馬のいななきと、ただ事ではない激しい揺れによって、アマリアは乱暴に起こされた。
いけない、眠ってしまった……とあわてたが、同乗している侍女たちも狼狽していて、尋常ではない。
「何事ですか!?」
「わ、分かりません。急に大きな音がして、馬車が止まって……」
窓を開けて様子をうかがうか、外に出てみるか、それとも立てこもっているべきか……。
戸惑う彼女たちは、やがて車の外から響き始めた怒号と、金属同士のぶつかる音に、はっとして身をすくませた。
争っている。
自分たちは、襲われている。
窓と扉の小さな閂をかけ、アマリアは侍女たちと抱き合って震えた。馬車の扉が、がたん! と揺らされ、誰かが外から強引に開けようとしたことが分かった。
「開かないぞ! 鍵がかかってる」
「中にいるはずです、急いで!」
「どけ、蹴破る」
「馬鹿言うな! もし怪我をさせたら……」
「言ってる場合か!」
何度か激しい音がして、馬車の扉の板材がへし折れた。穴から何者かの手が突っ込まれ、板が剥がされ、閂が放り投げられる。こじ開けられた扉の先には、武装した複数の男たちがいた。
そのうちの一人、まとめ役らしき獣耳の少年が、アマリアを見据える。
短く赤い髪、意志の強そうな顔。
差しのべられる手。
「あんたが神国の王女だな。助けに来た、さあ!」
刺すような頭痛が駆け抜けた。
アマリアは、これをすでに知っている。
なぜ? 夢で見た?
違う、これはソシャゲの静止画だ。
ソシャゲ? それは何?
何って、ゲームだ。あんなに毎日プレイしていた。
毎日? いつの話?
ついこの間までだ。サ終するまで、受験勉強中、半年くらい。
そうだ、受験どうなったっけ。
違う、受けてない。その前に私は、トラックに轢かれて……。
体験したはずの死が、まざまざと脳裏に蘇った。それを皮切りに、あらゆる記憶が、強烈な頭痛とともに、濁流のようにアマリアの意識を呑み込んだ。
私は、真理。日本の高校三年生。
取り柄もやる気も特になくて、ずっと帰宅部。
学校は好き。成績はそこそこ。親友は二人。
うっかり者の父さんと、心配症の母さんがいた。
十一月なのに大雪が降って、寒い寒いって友達と騒ぎながら、通学路を自転車で走ってたら、すべって転んで、後ろからトラックが来て——
頭痛がひいて、全身に血の気が戻ってくる。
気づけば、一行を襲ったあやしげな集団は、ひとりもいなくなっていた。拉致しようとしたアマリアが微動だにしないので、諦めて退却したのだろう。
ひしゃげて壊れた馬車の扉と、心配して背をさする侍女の手のふるえが、襲撃は夢ではなかったのだと示していた。
魔族の御者や護衛は、手傷を負ってはいたが、みな無事だった。彼らはアマリアたちに怪我が無いことを確認すると、車を修理し、馬をなだめて、遅れた道のりを取り戻そうと急いで再出発した。
それらの報告にすべて生返事をして、アマリアは、動き出した馬車の中で再び真っ青になった。今度は、頭痛のためではなかった。
(わたくしは……私は、死んだ。死んで、転生したんだ。
……ていうか、どうしよう! ここはよりによって『スカデン』の……打ち切りエンドでサ終した、戦争ゲームの世界だ!)