視線の向こう側に
彼女は窓際の席に座っていた。
毎朝7時23分、この電車に乗り込む彼女を、私は三ヶ月前から見ていた。
黒髪をきっちりと後ろで結び、常に同じネイビーのスーツを着て、小さな革のバッグを膝の上に置く。
彼女の指には指輪がない。それだけが私の救いだった。
「次は青山、青山です」
アナウンスが流れる度に、私は息を止める。彼女が降りる駅だからだ。今日も彼女は本を閉じ、立ち上がった。ドアが開く前に、彼女は一瞬だけこちらを見た。
その瞬間、時間が止まった。
これまで一度も目が合ったことはなかった。
いつも彼女は窓の外か、膝の上の本に視線を落としていた。だが今日は違った。彼女の瞳は、確かに私を捉えていた。
ドアが開き、人々が押し寄せる中、彼女はホームに降りた。私の心臓は早鐘を打っていた。バッグから何かが落ちる音がして、振り返ると、座席の隙間に小さな手帳が挟まっていた。
迷わず私はそれを手に取った。表紙には何も書かれていない。開けるべきか躊躇した時、一枚のしおりが滑り落ちた。
そこには住所と、小さな字で一言。
「見つけてくれたら、会いに来て」
次の駅で私は降りた。今日の仕事は休もう。生まれて初めて、私は衝動に身を任せることにした。
住所は青山の閑静な住宅街にあった。小さなカフェの二階。看板には「Bookmark」と控えめに書かれている。
扉を開けると、小さな鈴の音が店内に響いた。
「いらっしゃいませ」
その声に、心臓が跳ねた。彼女だ。
窓際のテーブルで本を読んでいた客が一人、私に気づいて視線を上げる。
電車の中で見た彼女とは違う。髪は肩にかかるくらいの長さで、カジュアルな服装。でも、間違いなく同じ人だった。
「手帳、ありがとうございます」
彼女は立ち上がり、私に向かって微笑んだ。
「どうして...わかったんですか?私だと」
彼女は首を傾げた。「三ヶ月前から毎朝、同じ電車に乗っているでしょう?いつも私の斜め前の席で、本を読むふりをしながら、ときどき視線を送ってくる」
私の顔が熱くなった。気づかれていたなんて。
「あの、これ、わざと落としたんですか?」
彼女は小さく笑った。
「さすがに毎日同じ場所で本を読んでいるのに、一度も声をかけてこない人には、何か仕掛けないと」
カウンターの奥に立っていた年配の女性が、「智子、少し休憩したら?」と声をかけてきた。
彼女——智子は頷き、私を窓際の席へと案内した。
「ここは祖母の店なんです。私は大学を卒業してから手伝っています。本と珈琲が好きで...」
「僕、小説家志望なんです」思わず口にした。
「いつも原稿用紙を持ち歩いて、でも全然書けなくて...」
「知ってます」彼女は静かに言った。
「いつも電車の中で悩んでいる顔をしていたから。一度、メモ用紙に何か書いているのを見かけたんです」
驚いた。彼女は私のことを、私が彼女を観察していたのと同じくらい、見ていたのだ。
「実は...」智子は少し恥ずかしそうに言葉を選んだ。
「この店には作家さんがよく来るんです。もし良かったら...紹介しても」
言葉が詰まった。初対面の彼女がなぜそこまで。
「あ、押し付けるつもりじゃないんです!」
慌てて彼女は言い足した。
「ただ、毎朝見かけるうちに、何か縁があるのかなって思って...」
窓の外から差し込む午後の光が、彼女の横顔を優しく照らしていた。
「智子さん」
初めて彼女の名前を呼んだ。
「僕は佐藤啓太です。これからもこの店に通ってもいいですか?」
彼女の表情が明るくなった。
「もちろんです。ここではいつでも書き物ができますよ」
それから一年が経った。
「Bookmark」の窓際の席は今では私の定位置になっていた。そこで書いた小説が、先月ついに出版された。
「これ、最新のレビューよ」
智子がコーヒーカップを置きながら、雑誌を差し出した。
「佐藤啓太の処女作は、電車内での偶然の出会いから始まる現代の都市伝説のような恋愛小説だ...」
私は微笑んだ。
本のタイトルは『視線の向こう側に』。
「啓太さん」智子が真剣な表情で言った。「わたし、東京を離れることになったかもしれない」
心臓が凍りついた。
「どういうこと?」
「祖母が体調を崩して...田舎の実家に戻ることになって」
「じゃあ、この店は?」
「売ることになるかも」
言葉を失った。この一年で、私にとってこの場所は、単なるカフェ以上のものになっていた。
智子がいる場所。私の物語が生まれる場所。
「買おうか」思わず口にした。
「え?」
「この店を、僕が買おう」
智子は驚いた顔をした。
「冗談じゃないよ。本当に」
「でも、お金も...」
「本が売れたんだ。それに、編集者から次回作の打診もある」
彼女は黙って私を見つめていた。
「もし君が祖母さんの世話で田舎に行くなら...週末だけでも、ここで一緒に過ごせないか?僕がここを守るから」
智子の目に涙が浮かんだ。
「それとも...僕も一緒に行こうか。小説はどこでも書けるし」
「啓太さん...」
「どっちでもいい。君がいる場所が、僕の物語の舞台だから」
彼女は静かに頷いた。窓の外から差し込む光が、二人の間に明るい未来を描いていた。
初めて見た日から、既に私の心は彼女へと動き出していた。
そして今、二人の物語は新しいページへと進もうとしていた。
智子がそっと手を伸ばし、私の手を握った。温かかった。
「新しい物語、一緒に紡いでいきましょう」
彼女の言葉に、私は静かに頷いた。
窓の外では、春の陽光が暖かく降り注いでいた。
(終)