序&表紙イラスト
「――というわけで、あなた方はこちらの世界に転移してきてしまったようなのです。分かりますか? 恵みの者よ」
「はい? ……え、ちょっ、待っ――。……すみません、全然分かりません」
冷たく硬い大理石の床の上で、蛍は幼い娘を抱きながら間抜けな声で首をかしげることしかできなかった。
その日は、いつもと同じように慌ただしい朝だった。
「マ~マ〜。くちゅした、どこぉー?」
「さっき自分で出したでしょ! あっ、それ裏表!」
頬に米粒をつけた娘の問いかけに歯ブラシをくわえたまま答えるのも。
「はいできたね。遅れちゃうから行くよっ」
「……おトイレ」
「はい!? えええ……保育園まで我慢できない?」
「むりぃ。もれちゃうよぉ!」
今まさに出かけるというタイミングで引き止められるのも。全部、いつも通りといえばいつも通りのことだった。トイレが大きいほうだったこと以外は。
(ヤバいヤバいヤバい、今日こそ遅刻する……!)
引きずるように娘、心――ココを抱え柚原蛍はアパートの階段をおりた。運の悪いことに先ほどからどしゃ降りの雨が降っており、ところどころ歩道が冠水している。
「危ないな……。ココ、長靴はいてるけど気をつけてね」
「うん。ココ、らいじょうぶ!」
いつもと違う濡れた道に、ココは目をキラキラさせて蛍から手を離した。歩道から車道に飛び出し、車は来ないもののピンクの長靴が水たまりに数センチ浸かるようになり蛍はハラハラと追いかける。
「ココ、先に行かないで」
「ママもはやくー!」
バチャバチャと水音を立ててピンクの長靴が跳ねる。靴とおそろいのレインコートがひるがえり、ココが笑顔で振り返った。
「ママ、たのしいねえ! どうろがうみになっちゃったみた――」
「ココ!」
ココの姿が、ふっと沈んだ。転んだのではない。二つに結んだふわふわの髪が真下に落ちるように逆立ち、蛍はとっさに手を伸ばした。
(マンホール!? こんなとこにあった!?)
小さな手をすんでのところで掴み、その代わりに自分の傘を手放した。ココを抱きとめた瞬間、蛍自身も足元の地面を失い真下へと引きずり込まれる。マンホールよりも暗く、そして果てしなく深い水の中へと。
(うそっ。溺れる!? 苦し……っ。ヤバい、これは死ぬ……)
近所のマンホールで溺死だなんて笑い話にもならない。せめてココだけでも上に、と思うが水の重みは暴力的で抗うことは不可能だった。
(くっそ……養育費の支払い、今日が初だったの、に……。もらいそこねた…………)
どうしようもないクズ男だった元夫への恨み言を最後に、蛍の記憶は途切れた。
イラスト:蒼獅郎様、タイトルロゴ:猫埜かきあげ様