168 皿の上、空の下
「なんで俺がこの店気に入ってるか、分かるかラグナ」
今し方届いた実に旨そうな焼き立てステーキを前に、リンクスは妙に浮ついた声音でそんな事を口にした。
同時に饗されたマーレスダ風パスタをフォークでクルクル巻いていたラグナは、うっそりとした視線を当の虎へと向ける。
「まあ美味しいから……じゃない?」
丁寧に巻き取ったパスタを優雅に口へ運ぶラグナは、チラリと横へ視線を向ける。
いつぞや――もう数ヶ月以上は経つだろうか。
講和会議の為、セフィロトより訪れた使者ダアトと……不幸にも昼食時に出くわしてしまった二人。逃げるように入った店が、丁度今ラグナらが遅めの昼食を喫している場所だった。
きっかけこそ酸いものの、以来二人はこの店を甚く気に入りよく利用している。
ロロネア通りの少しばかり古風で高雅な風景を眺められるテラス席。そして丁寧で美味な料理の数々は値段こそ張るものの、帝国式の多様な品々をたっぷりと味わえる。
「どのメニューが、まで当ててみろ」
「ダルっ……まぁステーキじゃない? 君、いつもそれ頼んでるでしょ」
前線行きが決まって機嫌がいいのか、面倒な絡み方をしてくるリンクスに、思わず本音が漏れるラグナ。
どのメニューが好きなのか当てて見ろなどという、本当にしょうもない即興のクイズに、ラグナは適当に応じた。
リンクスがいつも頼むのはリブロースステーキ(700グラム)である。決まってこれをメインに据えているので、きっと好きなのだろう。
丁度彼は、肉に喰い付くのが好きそうな顔立ちをしている――そんな皮肉まで思いついたが、今のリンクスに投げてもロクな波紋が返ってこない事は承知していた。
溜息の後、ラグナはリンクスが頼んだ料理に目を向けた。
彼の席の前には、件の料理が供されている。
赤身とサシのバランスの良い、見事なミディアムレアの分厚いステーキが、よく映える白い皿の上にドンと乗っかっていた。
付け合わせはマッシュポテトに、複数のハーブや香辛料を混ぜたチーズ、それによくツヤの出たニンジンのグラッセだ。
「チッチッチッ、それじゃ及第点はやれないな。惜しくはあるんだが」
得意げな顔を崩さす外れを宣告するリンクス。ラグナの額に僅かに青筋が浮かんだ。
(ヤバい、どうしよ、本当にウザいな)
前線で勇者らと戦える機会に恵まれ、楽しくなっているのは理解しよう。
だが、如何せんこのテンションにはついていけない。
「正解はな――」
ふふん、とでも言いたげな顔つき――可愛げがあると思ってやっているのなら、鏡を見ろと言いたい。そんなつもりは無いとしても、それはそれで鬱陶しいが――のまま、リンクスの持つフォークはステーキ……の付け合わせであるグラッセへ吸い込まれた。
「これ、これだよ!」
「……ニンジン?」
するりとフォークで刺さるニンジンのグラッセを、リンクスは美味そうに一口で食べる。
「あぐっ……ほら、やっぱ一番旨い! ふふ、バターと砂糖がな、いいんだよな」
「……」
好物を食べてキャッキャと騒ぐリンクスに、ラグナは白けた目線を送ってしまう。イメージを空かされたようで、少しばかり腹立たしくもある。
「なんでさ、なんでそっちなの」
「お前、舐めてるなコイツを。ステーキにはグラッセだろうが――ステーキが戦士なら、グラッセは剣だ。それくらい大事だろうに」
「そんな?」
「それだけじゃない。ここの店のグラッセは、間違いなくセレニアで一番の美食だ。だって見ろ、この照りと輝きを」
言ってフォークで刺したグラッセを持ち上げるリンクス。確かにニンジンとは思えない程、濃い橙色が砂糖とバターと肉の脂で照り輝いている。
「まあ、確かに綺麗だけれど……僕ニンジンそんな好きじゃないんだよね」
「ガキかよ、好き嫌いがあるなんて勿体ねェな」
そういってパクパクと肉とニンジンを次々口に放り込んでいくリンクスに、呆れを込めて溜息をついた。
「全く……一週間後にはミレイオへ出立だってのに」
「ナハハ! だからさ。これが最後の御馳走になるかもだろ?」
ラグナのボヤキに笑って返すリンクスは、なんでもないかのようにそう言ってステーキにナイフを入れた。
その様、そして言葉にラグナは溜息をつく。衒いなく先の死と戦いを受け入れる、困った友人を慮って。
「ハァ……縁起でもない」
「ナハハ! まァ、いくら強ぇ使い手も死ぬ時は死ぬからな。一週間後の前線であっさり死んでも、何も不思議じゃあない」
「……慢心してないのはいい事だけど、軽すぎるのもどうかと思うよ」
「態度が軽いくらいはいいだろ? 少なくとも、苦労してスった財布が軽い時よかな」
「ひどい冗句」
立場的には到底相応しくない冗談にラグナは苦い笑いが零れる。
何とも際どい冗談だが、ラグナはこの手の冗句に弱かった。くつくつと零れる笑いを押し込むように、よく冷えた果実水を呷る。
「……でもまあ、君に限って万が一なんて無いだろうけど、油断しない事だね」
そして笑いを飲み干した先にあったのは、一種の顧慮。
目の前で馳走にがっつく虎人は、ラグナ・レイヴェールが知る中で最も強い戦士である。
かつて英雄であり、突如去った事で名実共に伝説となってしまった近衛騎士団の筆頭――ウルスラ・マグナハートの直弟子。
剣も魔法も体術も銃も――きっと彼は何者にも劣りはしないだろう。
だがそれでも人類種、ヒトである。
如何に超人的で、伝説的至宝たるデュランダルに選ばれていたとしても、ヒトである。
はっきり言ってしまえば、どれほどの戦士とて死ぬ時は死ぬ。今し方、当の本人が言った通りに。
流石にそれは、悲しいと思う。
気恥ずかしいから素直に言葉は出ないが、ラグナとて友に死んで欲しくはない。そのような想いこそ、捻じくれた顧慮の正体だった。
「ナハハ、まァ激励として受け取っとくぜ」
或いは秘めた心さえ伝わったのか、声色は少しばかり自信気であり柔らかかった。
「だから、そうビビんなよ」
「……十中八九、聖国の懐刀――秘蹟機関が対手となるだろう。僕らと同じく至宝……聖遺物使い――“勇者”だよ。いくら想定した所で足りはしない」
大陸中の魔物や魔族と戦い続けている聖国の「秘蹟機関」は、他国が恐れる聖国の権威、その片割れたる武の象徴である。ラグナの口が出るのもむべからぬこと。
だがそうあって尚リンクスは、好戦的な笑みを絶やさない。翡翠色の瞳の奥には、未だ遥か遠くにある勇者共の影を投じて。
「勇者といえど、俺にとっては獲物であり、好敵手であり――そして他人だ」
「……」
鋭利な瞳を何処ぞへ向けて、リンクスはそう語り出した。
戦いに、そして自らの生命にかける彼自身の哲学は、長く友であり続けているラグナとて傾聴に値する。故に蒼髪のエルフは沈黙し耳を傾けた。
「俺はなラグナ、人生には明確な主役がいると思っている。俺の人生の主役は今の所、俺だ。そして主役にとって他人とは端役――」
リンクスはそう語り、またひとつステーキに刃を入れる。
「どれだけ重要で、どれだけ魅力的でも端役は端役。決して主足り得ない。俺が倒してきた無数の敵と同じく、誰かの物語に刻まれる存在」
切り取ったステーキにフォークを入れる事もなく、彼はそれを眺めていた。断面からは薄く赤い肉の汁が零れ、少しばかり不吉に白い皿を穢していく。
「いずれ俺が誰ぞに殺されて、そいつにとっての他人になるまでは――そうして主役の座を追われるまでは、相対する勇者共さえ同じく端役。グラッセと何ら変わらない」
そうして彼は翡翠の鋭い瞳を細めて、皿に残った最後のグラッセを見下ろしていた。
「そして端役ってのはいつだって、主役の為に死ぬモンだ。だが俺が誰かの端役になるのは、少なくとも今じゃない」
そのセリフと共に突き刺したフォークが、皿を不吉に軋ませた。
「成りたい時は、もう決まってるんでな」
翡翠の瞳に投じられたのは勇者共の影ではなく、きっと――
◇◇◇
グランバルト帝国、ミレイオ州。
ヴァーロム州の隣に位置し、より帝都側の地域である。
御多分に漏れずグランバルト帝国の属州であり、大陸北側の中ほどにあるミレイオは、帝国の主要な通用口としての地位を築いていた。
そして大陸全土を巻き込む二大国の戦争が幕を開けた今、そのミレイオとて例外なく戦地となる。
ヴァーロム州を落とし、イーファル共和国を橋頭保とした聖国は、次なる一手としてミレイオへ歩を進めた。
必然、これを帝国が座視するハズもなく、今まで以上に苛烈な防衛が聖国軍の行く手を阻んでいた。
だがそのミレイオの地にて、蠢く影。
――州都オストレヴァ近郊の盆地に、聖国軍と秘蹟機関所属の男女が陣地を敷設……攻略の機会を窺っていた。
「本国は……どう?」
鬱屈とした声音でそう発するのは、それこそ憂鬱そうな少女。
金色のショートヘアに浅めの褐色、尖った耳と整った顔立ち。だがその幼さを想起させる様相とは裏腹に、片目にモノクルを掛け、着ているのは黒色の法衣。傍らには少女と同じか、それより大きい戦槌がある。
秘蹟機関、第八席次――レヴィス・ダーレイ・レテルネラ。
ドワーフ族の彼女は、見た目とは裏腹に経験を重ねた戦士であり、秘蹟機関の中でも歴戦の勇者だ。
「はっ、レン高原での戦闘は未だ膠着状態――聖区カダスの魔法障壁に、帝国軍は成す術もないと」
レヴィスの言葉を受けて敬礼じみた祈りの所作で返答を返すのは、白い法衣の男。遥かに背丈の小さなレヴィスに、だがその男は些かの侮りも無く、心からの推服を以て返答していた。
聖別軍――聖国アズガルドが持つ三大軍のひとつ。所謂通常戦力である聖別軍は、だがその殆どが魔導師で構成されており、アズガルドが如何に魔導に通じているかを証明している。
中でもこの男は、戦術魔導兵と呼ばれる攻撃火力に特化した兵科である。
戦術魔導兵とは、聖別軍の中でも多数かつ強力な攻撃魔法を修めた有能な魔導師しか配属されない。
最低条件が元素、無属、神聖系統をそれぞれ第七位階まで会得という、厳しいラインが引かれている。
通常、魔導師には得手不得手があり、元素系統の達者でも神聖系統は初歩さえ詠めない、という者も多い。
普通は満足に修得できる系統が二つあれば一端であり、三つはそれなりに良い才能の持ち主とされていた。
ちなみに――五系統を第六位階まで使いこなせる魔導師を〈五色詠者〉と呼称し、六系統の使い手を畏敬を込めて〈第六奏者〉と称する。
……世界七大系統全てを行使できる存在など、人類種・魔族の魔力形質の都合上存在し得ないので、〈第六奏者〉が事実上の最高位である。
――何はともあれ、三つあれば上等という得意系統を、贅沢にも第七位階という区切りで集める……聖国アズガルドが、強国たるを示す証明であるのだ。
そんな選ばれし精鋭たる魔導兵の男も、レヴィス・ダーレイ・レテルネラほどの存在を、敬服せずに接する事など出来ない。
それほどまでに、聖国アズガルドにとって“秘蹟機関”とは、“勇者”とは――巨大な存在であった。
「誇れる事でもないだろ」
――報告を受けていたレヴィスと魔導兵の男の間に入る、いっそ侮蔑に満ちた声音。
「アデルニアを見捨ててまで穴熊決め込んだんだ。遥々帝都より来られた客人一行程度は、歓待出来なきゃ世話もない」
続く言の葉もやはり冷酷であり、内容は痛烈なほど聖国アズガルドへの皮肉で満ちていた。
聖国軍が敷設した陣地の中にあってこの態度――不敵な物言いに不快感を覚える所か、口さがない者には「狂信者」等と言われるアズガルド人ならば、暴力沙汰の一つが起こっても不思議ではない。
だというのに、その場に居る聖国人は一切反駁する事も無く、ただ苦々し気に顔を背けるのみ。
それも当然――この皮肉気な男もまた、アズガルド人が畏敬して然るべき聖遺物の使い手、即ち“勇者”なのだから。
男は、一本の鋭剣を思わせた。
その痩躯はだが決して粗末なワケではなく、無駄を削ぎ落した結果の強かさ。
顔つきは猿を思わせる野性味――耳もまた獣のように尖り、纏う黒い法衣は機関員の装束のハズだが、容貌と相まって異邦の雰囲気を漂わせる。
猿のような男は、手に携えた武骨な鉄棍を少々苛立たし気に地に叩きつけた。
――秘蹟機関第七席次、「忍耐」のオーヴァ・リガン・ローウェル。上位七席次の末席に連なる勇者。その実力は今まさに隣に居るレヴィスより上とされていた。
「……それに、帝国には魔法を封じる兵器がある」
「今レン高原で有利を取れてるのは、帝国がそれを使ってないから――依然帝国側に主導権を握られている事には変わりない。その辺しっかり意識しろよ、本国の命運はコッチの戦線に懸ってる」
「は、はっ! 申し訳ございません、浅慮でした……」
勇者二人の冷静な指摘を受け、得意満面の態度で報告を仕っていた魔導兵の男は、一転して恐縮する。
その様にオーヴァは溜息をついて天幕の外に出る。時刻は夜、空には無数の星屑たちが煌めいていた。
「スーッ……ハァ」
天幕の中の曇った空気に満ちた肺を換気すべく、大きく深呼吸するオーヴァ。だが代替として入ってきた空気は、野営の為に焚かれた火の煙に満ちている。
オーヴァは焚き火の匂いがあまり好きではなかった。
深呼吸一つさえ気分転換に寄与しない。そんな現状が果てしなく苛立たしい。
「ちっ」
だがそのような無様を、大勢の聖国軍が居る陣地内で晒すワケにも行かない。忍耐の座が示す通り、喉元まで出掛かった嫌味を呑み込んで、代わりに舌打ちをひとつ突き出した。
(あまり、いい傾向じゃあないよな)
オーヴァが苛立つ原因はいくらでもある。
本国が戦争に掛ける態度、手段、戦局、こんな仕事をしなければならない現状――だがそれよりも尚先に彼の神経を刺激したのは、浮足立つ聖別軍らの雰囲気であった。
長らく難攻不落を誇っていたグランバルト帝国の要衝――ヴァーロム州、州都ヴァーロム。
帝国本土への侵攻には、国境沿いの要所であるヴァーロムを落とす必要があった。
それを手っ取り早く済ませる為、アズガルド本国の最高議会は勇者の投入と「核熱魔法」の行使を決定。
結果としてヴァーロムは呆気なく瓦解し、後続の聖国本軍も無事通過できた。
確かにヴァーロムの攻略は対帝国にて、決して避けては通れない問題であった。それを手早く済ませたのは確かに凄まじい功績である。――取った方法は兎も角として。
だがそれはあくまで入り口。帝国攻略に際して最低限必要な条件に過ぎない。言ってしまえばこれより起こる熾烈の前の、小さな小さな勝ち星に過ぎない。
それでも、長らく伝説的な防衛力を誇っていたヴァーロムを、自分達の手で落した。その現実こそが、何よりも理想的な華美として兵達を酔わせている。
きっと、起こってしまった殺戮より目を背ける為の陶酔も含まれているのだろう。如何に信心的でも、同じ形をした者達を非道に殺し尽くすのは心を病む。
(だろうが、良くない事には変わりない)
依然として、オーヴァ・リガン・ローウェルとはリアリストである。
士気が上がるのは良い事ではあるが、この戦勝の陶酔はきっと油断に繋がる。何処かで引き締め直さないとならないだろう。
「……ハァァァ」
同時、脳裏に過る様々な懸念が纏まって押し寄せ――オーヴァは堪えられず酷い溜息を吐いてしまう。
仕事辞めたい。
何とも俗っぽい倦怠が胸中に過る。
決して声高には言えないが、オーヴァは“ユグドラス教”なるものを、あまり熱心に信じていない。
オーヴァという個人においてのアズガルドとは、ユグドラス教――ひいてはその運営を行う聖国という組織の必要性……それ故の恭順でしかない。
教義だの何だのに堅苦しく縛られるつもりもないが、聖国という存在がこの重苦しい世界で、人類種存続の一助になっている事は承知していた。
故にこそ、教義に決して妄信的とは言えないオーヴァも、秘蹟機関の勇者として真面目に働く事に躊躇いも無いのだ。
聖国の貧しい地方都市で育ち、暮らしの為に入信し――そして聖遺物に選ばれた彼にとっての宗教観とは、所詮その程度だった。
無論、一応はアズガルドを代表する組織に所属している身なのだから、そのような思考を口に出す事は無いが。
「……お疲れね」
倦怠感ばかりが溢れるオーヴァを慮るのは、足元の方から響く物憂げな声。
うっそりと下を見れば、そこにはやはりドワーフの勇者――レヴィスが見上げていた。
「――レヴィス」
「……少し、歩かない?」
ローテンションながら、口角を少々上げてそう誘うレヴィスに、オーヴァは頷いた。
……暫くの間、二人は並んで無言を保ったまま聖国軍の陣地内を歩き回る。陣地内の聖国軍らにすれ違う度に大仰な態度を取られる。その都度、疾うの昔に慣れたハズの面倒臭さが、今になって少しずつ顔を出してきた。
だがそのような茶番も束の間、二人はやがて聖国軍の盆地を少しばかり見下ろせる小さな丘に辿り着く。
遠方で周囲を警戒する見回りの小隊以外は、二人だけ。
好ましい沈黙と澄んだ空気が、オーヴァが抱いていたストレスを優しく解いていく。
「ふーっ……ここいらは大分マシだな」
「……貴方、煙たいのが嫌そうだったから」
あくまでも冷たく低い調子でそういうレヴィスは、携えていた戦槌を手ごろな岩に立てかけて、自らもそこに腰掛けた。
酷く拒絶的にも思える声音だが、レヴィス・ダーレイ・レテルネラという女の本質は柔らかな優しさなのだろう。
席次でこそ上を往くオーヴァだが、秘蹟機関に所属し活躍している長さも実年齢も、目の前のドワーフの方が上である。
機関員としての訓練を第四席次であるフレンに施されたオーヴァにとって、レヴィスという個人を知り得たのはつい最近の事である。それまでは共に肩を並べて仕事をすることも無かった。
「……レヴィス、アンタ秘蹟機関に入って――どれくらい経つ?」
慮られた事が好奇の虫を疼かせ、それが囁くままに問いを投げる。
果たしてレヴィスは何を想っているのか、目を伏せたままに口を開く。
「……もう十と九年になるかしら。長いものね」
曰く、成人を迎えてすぐに機関員に抜擢されたという。
彼女はそこからずっと、秘蹟機関として「勇者」などという、バカげた重荷を背負っているのだ。得物の戦槌よりも、きっと重い思いを長い事――。
僅かに畏敬が、オーヴァの心に根差した。
「……情けない。イーファル戦役だって経験してるのに……ヴァーロムでは迷惑をかけたわね」
「……誰だって躊躇うだろ、ありゃ。その折はすまねぇ――オレも、少し動転していた」
そんなメランコリックなドワーフが次いで口にしたのは、数ヶ月前のヴァーロム侵攻作戦。
堅牢にして強固なヴァーロムを破る為、レヴィスの聖遺物と戦術魔導兵らによる「核熱魔法」で爆撃した。
その只中、いざヴァーロムを核熱魔法で爆撃するとなった時、レヴィスは躊躇いを見せた。それを荒々しく一喝したのもまだ、昨日の事のようにオーヴァは記憶している。
席次的には下で、おまけに如何に接点が無かったとはいえ、年も在籍歴も上の先輩を怒鳴るなど、普段のオーヴァならしない。
それほどまでに……あの状況は勇者二人を混迷させるに足る――異様と混沌を孕んでいたのだ。
「いいのよ……アレは私が悪いのだし」
言って、レヴィスは果ての空を見上げた。無数の星と月が煌めく、いつもと変わらぬ空。
「何も変わらないのにね。聖遺物も魔法も……どちらもヒトを殺してる事は、何も」
「……」
端的な実感の籠った言葉に、だがオーヴァは返すべき答えが見つからなかった。
……オーヴァの沈黙を契機に、また静寂が二者を包み込む。決して気まずいものではなく、何処か安堵や安息の満ちた静寂。
空を見上げるレヴィスの横顔に釣られるよう、オーヴァも星を見る。
綺麗だと思う感性くらいは、まだオーヴァにもあった。……いや、本当に綺麗だったのは、果てに望む空などではなく、この緩やかな時の流れる空間そのものなのだろう。
秘蹟機関の中でも多数の魔法系統と戦闘技能を会得し、汎用性に優れるオーヴァは、日々様々な実働任務に追われている。
空を見上げて、ただ物思いに耽る。そのような余暇は久しくなかった。或いはあったとしても、思いつきさえしなかった。
「……ねぇ、貴方ってフレンに訓練つけてもらってたのよね?」
心地の良い沈黙を破ったのは、やはりレヴィスだった。
彼女の言葉で機関に入りたての時分を思い出す。あの鷲は一切の容赦なく、自分を鍛え上げてくれたものだ。
「ああ。フレンの旦那は恐ろしく厳しかったが、お陰で生き残れている」
レヴィスの問いに懐かしさを感じながら答える。当時こそ恨み言が沸く程に手厳しい訓練であったが、今思えば機関員としての苛烈な任務をこなし、生き残れるようにというフレンの計らいだったのだろう。
故にオーヴァは、フレン・スレッド・ヴァシュターという男を尊敬している。
「……知ってる? フレンって、喫煙者だったのよ?」
そんなオーヴァにクスリと笑いかけるように、レヴィスが告げるフレンの一面。
「……そりゃマジか?」
中々に衝撃であった。
あの生真面目が形を成したような鷲の男に煙草の趣味があったとは。
他国の文化ではいざ知らず、煙草の類は酒と同じく体内に毒を取り込む行為である――聖国ではそのような価値観であり、実際身体に悪影響を齎す。
法の類で禁じられているワケではないが、聖国の原理主義者の中には目くじらを立てて排斥しようとするものも居るのだ。
フレンもその手の思想とばかり思っていたが、どうやら存外柔軟らしい。
「ええ……機関に入って一年くらいで、見事にね」
「随分詳しいんだな」
「私と彼、同期だから」
これもまた意外――と考えた所で思索を止める。この女はドワーフ、見た目以上に年月を経ている。
「自分の理想と食い違っていたのでしょうね、秘蹟機関が。現実を直視する為の、精神の慰め――でも彼、煙草止めたのよ。理由も彼らしい」
「……どんなだ?」
「……曰く、“勇者っぽくないから”って」
なんだそりゃ。突飛な理由に思わず零れかけた言葉――何とか吞み込めたものの、湧き出る苦笑いばかりは掻き消せなかった。
そんなオーヴァの思考が読めたのだろうか、レヴィスもまた応じるように微笑みを浮かべる。
「ふふっ……ある意味らしいわよね。彼の性格、生真面目そのものな理由だもの」
「まぁ、確かにそうだけどよ」
「……でも、すごいわよね」
レヴィスの微笑は先よりも更に物悲しい憂鬱な表情に変わり、何処へも行かぬ視線を移ろわせた。
「諦めてないんだもの、“勇者”である事を」
「……」
魔へ挑む英雄を、人は古来より「勇者」と呼んで来た。いつの時代でも「勇者」はすべてより羨望と希望を集め、一心に背負う存在であった。
そのような自覚などあったろうか。勇者たろうと、刹那でも意識したことがあっただろうか。
そして、この時代この世界において、一体どれだけのニンゲンが「勇者」等という幻想を希望として抱けているだろうか。
少なくともオーヴァは、ただの一度も自分が勇者である等とは思った事はない。機関員に相応しい振舞いはすれど、勇者を信じた事はない。
――聖国の狗ならば、此処に居るだろうが。そのような皮肉さえ湧いてくる。
「いつだかも、こんな風に空を眺めたわ。相手は貴方じゃなくてフレンで、夜と星じゃなくて夕焼けの下だったけれど」
「そりゃまた随分ロマンチックなハナシだな」
「ふふっ……その時も、大体こんな話をしてた。けれど彼は――諦めた私とは違って、言ってたの」
レヴィスはひとつ間を開けて、やがて言い放った。
「――勇者は居るって」
「……」
オーヴァは息を呑んだ――感嘆から。
あの男はまだ信じているのだ。
世界を、ヒトを、何もかもを救う英雄を、勇者という幻想を――確かに現実のモノとしようと、まだ足掻いている。
あの鋭い眼光の奥に、そのような稚気じみた思いを秘めていた。
その事への畏敬と感嘆。
オーヴァがただ一度も信じた事のないモノを信じている。
それ自体への、恐らくは憧憬。
「……アンタも、信じてるのか?」
「……」
故にオーヴァは、その問いを投げる。
「勇者を――それとも、旦那を?」
問いの意味は明白だろう。
レヴィスもまた、勇者を信じてはいない。
それでもなお、この寡黙な女が熱っぽく語る理由。
深い意図はない。けれど知りたいと思ったのだ――隣にある女戦士の、秘めたる想いの色を。
「……いいえ、私は憧れているだけ」
果たしてレヴィスは、やや考えてから答える。その横顔に微かな笑みを浮かべて。
瞳は変わらず、彼方の星光を映している。
「可愛い答えじゃなくて、ごめんね」
「……いや、いいんだ」
憧れとは、如何様にもその色を変える。
果たして彼女が持つ憧れの色は何色か。
……いいや、野暮な詮索は止そう。
秘した想いの行方など、知れぬくらいが丁度良い。
その日、二人の間に会話はそれっきり無く――ただ何も言わずに、星を眺めていた。
彼方の空は、全天の名において煌めいている。平等に、或いは冷たく――ヒトの想いなど、知らぬ存ぜぬとでも言いたげに。




