164 導き無き者共へ
「お姉ちゃん、お姉ちゃん――っ!」
いつも通りの、愛しい弟コルトの声がする。
ああ、確かにいつもより少しばかり肌が白いが、それ以外はなにも変わらない弟だ。
「僕……コルトなんだよ、ホントにそうなんだよ……? わかんないけど、わかんないけど、本当にそうなんだよ……!」
ネレに抱き着くコルトは、必死に叫ぶ。目に涙を浮かべながら、ただひたすらに――自分でさえ状況を理解できていないように。
「だから……お姉ちゃん……いっしょに逃げようよ……」
底の方で魔力が鳴動し建物が揺れている。魔法の素養のないネレにさえ分かる程、凶悪極まりない魔力の圧。ネレだって、今すぐに逃げ出したい程の恐怖に襲われている。
いいや……怖いのは、そのせいじゃない。
「オネエ……チャン……」
繭の中から切なそうに響く、歪んだ怪物のような声。
枯れ木のような手を伸ばすその様は、母を――或いは姉を求める幼子を思わせる。手首には……コルトにあげたネレの褪せたリボンが結ばれていた。
「……っ」
どちらが、そうなのか。
果たしてどちらが――コルトなのか。
そんな思案を弄ばねばならない現状が、堪らなく恐ろしい。
――ネレは知らぬ事だが、御存じの通り彼女の弟コルトは、既に天使院の歪によって変わり果てている。
天使院の主の妄執によって、数多くの先達と同じく弟は、見た目も精神も同じだが「根本」が異なる怪物へ――そして残った方もまた、異形に成り果てている。
それを察してか、ネレは御しがたい程の当惑と絶望に襲われていた。
「コルト……」
何も残らなかったネレに唯一残った宝を、切なく呼ぶ。
「お姉ちゃん……!」
名を呼ばれた弟は、目を輝かせてネレを見上げた。
「オネエチャン……」
名を呼ばれた弟が、小さく応じた。
「あぁ……」
どちらもそうだ。選べなどというのは、あまりにも酷じゃあないか。
自らの無意味な固執、無根拠な希望の果て――それがこれならば、或いは罰ならば、身を以て贖罪しなければならない。
どちらの「弟」にも、しかと報いることが出来るように。
「大丈夫、コルト、大丈夫だよ」
右手と左手で白い手と枯れ木のような手を掴み、自分の頬に持っていく。白い手は少しだけ冷たく、枯れ木のような手はやはり酷く軽かった。
「コルト……少しだけ……待っててくれるかな?」
縋る様にネレを見上げる白いコルトへ、優しく告げた。
「……うん」
コルトはやや迷ったのち、力強く頷く。
そんな弟を見てネレは淡く微笑み、やがて未だ繭の中で蠢く「弟」を見つめた。
「大丈夫……だいじょうぶ」
どうしてこうなってしまったのか。
原因を求めるのはそう難しい事ではない。
帝国が、或いは戦うしかない世界が、人類が――他責に救いを見出せば、どれほど楽になれただろう。
けれど、現実はそうじゃない。安易な「救い」にネレが飛びつかねば、少なくとも避けられた艱難辛苦である。
そして、そんな愚物のせいで今もなお苦しみ悲しみ怯える「二人の弟」をせめて救う。苦しくはあるかもしれないが、少なくとも悲しくなく、もう二度と怯えもしないように。
ただひとり、身一つのネレに出来る「贖罪」とは――
◇◇◇
うっす、合成魔獣です。
「……なんか知らんが、手前勝手に満足してくたばったな」
湧き上がって来ていた臓腑が融けた血、その残りを吐き捨て、何故か満足げに死んだ熾天使を見下ろす俺。最後の態度といい、攻撃の手段といい、死の原因といい……何から何までムカつく野郎だ。
まあ、何かしらの妄執を果たした故の最期は兎も角として……戦闘の終盤、奴の恐ろしく強力な神聖魔法〈三位・極限浄滅〉を凌ぐため、俺もまた持ち得る火力の全てを集中する羽目になった。
アレだけの威力を持つ神聖魔法相手では俺も無傷とはいかない。
そもそも、神聖魔法相手では威力の減衰というのが難しい。
目算六割。俺の火力を殆ど出し切って尚、それだけの威力をそのまま受ける羽目になった。
出した変異どもを盾にしてなお、肉が消し飛び骨身を晒す。それでも骨格が残っていただけマシだな。一応、魔力でコーティングすれば骨格だけでも動けるから。
「……しかし、派手にやりやがって」
そう呟き上を見上げれば、そこは天使院の暗い天蓋ではなく、青空である。少しばかり日が傾き出して、藍色になりつつある見事な空。
あの神聖魔法は、凄まじく広大な天使院全てを焼きつくし、空までブチ抜く勢いで投射された。
当然、それだけの威力を持つ魔法……間近である詠唱者本人も影響は被る。
如何に聖性の存在といえど、受肉している以上肉体的な要素を持っている。攻撃系の神聖魔法が物質を焼くという形でニンゲンに影響を齎すのと同じく――ヤツの受肉した肉体そのものを焼き尽くしたのだ。
そう、奴の直接的な死因は自爆である。
ここまで手古摺らせたくせに、自爆して果てたのだ。せめて俺の手で直接死んで欲しかったが、まあいいさ。
「オイラ……疲レタゾ」
「限界、ゲンカイ……」
ギリギリ生き残っていたオルとトロスがいつになく蕩けた滑舌で疲労を訴える。無理もない、俺も正直かなり疲れた。取り分けオル・トロスは、ヒュドラを使う為の制御装置の役目もこなしていたのだ。その疲労は推し量るに余りある。
「休んでていいぞ。よくがんばったな」
「ホント、ホント……?」
「オイラ達、頑張ッタカ……?」
「ああ、お前らは頑張ったぞ」
クリクリとした目を眠そうにパチクリと瞬かせるオルとトロスに、俺は両手で優しく頭と顎を撫でてやる。俺の手の中で、双子の蛇は満足そうに目を細め舌をチロチロと出した。
「エヘヘ……エヘヘ……」
「ルベドノ為ダカラ……頑張レタゾ……」
そう呟いたのを最後に、オルとトロスは健やかな寝息を立てて眠り出した。
実際、コイツらが今回のMVPだ。ヒュドラの毒責めが無ければ状況を動かせず、緩やかな敗着に落ち着いていた事だろう。
せめてもの賞賛と感謝を込めて、俺はゆっくりとオルとトロスから手を離し、辛うじて毒と霊子光から逃れた熾天使の頭部を持つ。
「帰るか」
誰に聞かせるでも無くそう呟き、俺は丁度外へのルートとして空いた大穴から、遥かな空を見上げた。
あの馬鹿天使が開けやがった穴を跳躍で飛び越え、一息で地上まで戻る俺。周囲は瓦礫塗れになっているが、情報部が展開していると思しき結界は、一応壊れてはいない。天使院が地下に広大な構造で助かったな。
「あ?」
人払いの術式も籠っているから、人っ子一人いないハズなのだが――何故か、俺の気配が何者かの気配を捉えた。それも背後――かつて天使院の入り口だったと思われる門の残骸の奥から。
「ヴェドさん……なんですか?」
そこにいたのは……あの貧民の少女ネレ。弟のコルク? いやコルトか、コルトと手を繋ぎながら俺の方を不思議そうに見つめていた。先ほどまでとは異なり、俺を見る視線に恐怖のそれはなく、ただ純粋な興味と疑問だけがあった。
「お前ら、生きてたのか。運がいい奴だが――いや、待て」
すぐに新たな気配と――そして目の前の姉弟の魔力が以前とは「一致しない」事に気が付き目が細まる。
「お前らは誰だ」
鋭く問えば、ネレはコルトを慈愛の籠った所作で抱き寄せ、俺を見上げる。
「アタシ達は、もう……違うんです」
そういって、ネレは瓦礫となった天使院の入り口へと目を向ける。やがてそこから、俺が捉えた新たな気配の主がのそのそと這い出て来た。
「なんだこいつ」
見たことのない生き物だ。マスコットキャラのようにずんぐりとした卵のような形に、手足がついている。そして顔の部分には二つ――ネレのような顔と、コルトのような顔が浮かんでいた。そして背には、とってつけたように天使の羽が生えている。
「アタシ達です」
「は?」
意味不明な紹介に、俺はドスの利いた声で返事をしてしまう。
以前ならそれだけでビビり散らかしていた姉弟二人。だが怯える事も無く、弟の方は興味深そうに俺を見上げて、姉の方は淡くニコリと微笑んだ。
「これが……天使院の奇蹟の正体だったんですよ。忠実な贋作を――アタシ達みたいな贋作を造って、治したように見せる。そして残った“本物”の残骸が、これ」
そういって諦めたように笑うネレの説明ですべて得心が行った。
あの時――熾天使が造っていた「オーレリウス」なる男は、ヒトに忠実に似せただけの「天使」だった。戦う前に魔眼で見て、大体の素性は分かっていたのだが――あんな感じのをいくつも作る、アホらしい組織を運営していたワケだ。
そして、目の前の「ネレとコルト」もその複製に過ぎず、寧ろ卵のような天使の残骸こそが本物のネレとコルト――とさえ、もはや言い切れないワケか。
「……で、だったなら俺にはお前達を生かす理由が無くなったワケだが。魅了の魔眼が効いていたから生かしておいただけ、中身が敵の天使とあらば殺した方が後腐れが無い」
にべもなくそう言い切る俺に、ネレは諦めたように微笑み「そうだね」とだけ呟く。
俺が何故ネレなる少女を生かして置き、いい様に利用していたか――あの時、天使院前で出会い使えると踏んだ際に、逆らえぬよう魔眼で暗示を施していたからだ。
だが今となってはそれもない。外見こそ同じだが中身は別物。――というか別の生物と言っていい。当然だが魅了の術式は疾うに切れている。おまけに主を喪っていつ不安定になるかも分からない天使の眷属――殺さない理由を見つける事の方が難しい。
「でも……ほら……」
だがそうあって尚、ネレは命乞いを諦めないようだ。
ネレは俺に手を見せると、淡く微笑む。
「元々の……天使サマ? が消えちゃったからなのか……もうアタシ達、時間が無いみたいです」
そういって差し出す手は――よく見れば石像の劣化が如く小さな罅が入っていた。
……受肉はしているから、魔力供給の問題ではないな。
考えられる理由としては、あの熾天使が存在を保証する「楔」の役目を負っていたか……それとも余剰次元の異界者特有の、禁則事項なんかに触れてしまったか。
どちらにせよ、確かにこの――姉弟に良く似た天使共は助からない。あと一時間から二時間持てばいい方だろう。
「アタシは、姉なんです」
言って、ネレは微笑みを浮かべてコルトを見下ろす。コルトはネレの手の感触を確かめるように、しっかりと握り返していた。
「コルトは、弟なんです」
「……」
「アタシのせいで、アタシ達はここに来ることになって――だったら、ずっと一緒にいるのが、せめて姉に出来る償いだって、思ったんです」
――曰く、第八層に辿り着いた時にはもう、コルトは「こうなっていた」そうだ。
そこに責任を感じて、ネレもまた――コルトの残骸が入っていた「繭」に入ったという。
「だから――せめて一緒になって、一緒に死ぬ。でも、それが生きるって事ですよね?」
「……知るか」
「ふふっ。だから、見逃してくれなんていいません。どうせ死にますから。そう、どうせ死ぬから――ここで、見ていてくれませんか?」
中々に大胆な物言いに、俺の眼が冷たく細まった。
「死ぬまで、そうありません。どうせ死ぬヒトを、わざわざ殺すのも無駄じゃないですか?」
「無駄かどうかは俺が決める事だが?」
「そうですね……でも、アタシやっぱ、最後くらいは――コルトと一緒に、精一杯時間を過ごして死にたいんです。姉として……弟に報いれる、唯一の方法なんです」
……姉に、弟か。
脳裏に過る、俺とよく似た紅い狼。
或いはその狼を通じて視える黒い少女と白い少年。
そして、満点の星空――。
「…………好きにしろ。俺も今日は疲れてる、どうせ死ぬヤツに振るう爪は無い。――今日に限ってはな」
これは気の迷いでさえない。目の前の少女が宣うように、死すべきであり、死に瀕した者に振るうだけの元気さえ、今の俺には無いというだけ。アレだけの激戦の後なのだから、無理もない。
――本当に?
字句通り息を吹きかけるだけで殺せる相手への労力など、無いに等しいというのに。
鎌首をもたげる疑問から目を背けるように、或いは胸を噛む矛盾と向き合うべく、俺は天使院の瓦礫に腰掛けた。
「ありがとうございます、ヴェドさん」
「……ふん」
所詮は気まぐれの慈悲に過ぎない。そんなものを感謝されても、薄ら寒いだけだ。
頬杖をついた俺は、その「姉弟」を眺め続けた。何故か隣に立ち、その光景を見つめる「残骸」と共に。
二人は死までの時間を、他愛も無く語り合って過ごしていた。どうでもいい、心底どうでもいいような会話――それがひとつ終わると、姉弟は瓦礫の中を駆けて遊んだ。
弟が走り、それを姉が追いかける。二人共、とても楽しそうな笑顔を浮かべて。
弟の方は存外速い。日が傾き、空が茜色に染まる頃――姉が弟に追い付いた。
「つかまえた!」
「えへへっ……やっとっ……捕まえてくれたねお姉ちゃん! 遅いよー!」
息を荒くしながらも、二人の姉弟は笑っていた。
丁度その時――姉と弟の駆けっこが終わった瞬間に、
「あっ」
バキリと、ガラスを踏み砕くような音が響いた。それは刻限を告げる、死神の足音だったろうか。
――姉弟二人の身体が白く石になるように染まっていく。
二人はそれを見て、覚悟したかのように頷くと……互いを強く、強く抱きしめ合った。
抱擁を終えたまま、身体の全てが白い塩の彫像と化し――その兄弟は、死んだのだった。
「……死んだか」
誰に聞かせるでも無くそう呟くと、或いはそれを契機にしたように、彫像に罅が入り唯の塩の粒子となって辺りに散らばる。いくつかが風に乗って夕日を反射し、静かに朱く煌めいた。
「……」
しばらくの間、俺はそれを眺めていた。
何を考えながら眺めていたのか、俺自身分からない。或いは何も考えていなかったのかもしれない。
ただ、少なくとも――その日の夕日は、いつもと同じく茜色に煌めている。
「ァ……ァ」
暫くそうしていると、隣から声が聞こえてきた。少女とも少年とも似つかぬ声の主は、やはり「残骸」の天使。
その天使は、手にもった褪せた色のリボンを俺に差し出していた。
――いや、差し出すというよりも、これは……
「結んでほしいのか?」
「ァ……!」
塩を攫う風に解けたそれを、結び直してほしいらしい。
天使の分際でこの俺にお願いか。
そんな皮肉が湧いて出るものの、口にはせずにリボンを手に取り、少しだけ弄んだ後――その「残骸」に巻いてやる。
「ァ……ァ!」
残骸の天使は巻き直されたリボンを見せるように、嬉しそうに呻いて右手を挙げていた。その所作からは、あの「姉弟」の名残は見えない。
「知能もなさそうだな。本当に残骸なんだな、お前。つーか、お前だけ消える気配無いな、なんでだ」
独り言のようにソイツに語り掛けるものの、この有り様の天使が答えるハズもない。あーだのうーだの呻きながら、疑問を呈するように身体を傾けている。
それを見て俺は溜息をひとつ。
「魔法開発部にも土産が必要か。情報部にこき使われてたみたいだし」
そういって、俺は立ち上がり残骸の天使を見下ろす。
「お前も来るか?」
そう聞けば残骸の天使は、
「ァ!」
嬉しそうに手を挙げて同意する。
稚気じみた所作に、俺はまた溜息を一つ吐く。
まぁ、魔力量もカス以下。一般人と変わんないくらいの天使一匹――俺の裁量でも連れて帰れるか。
「……ほら、もう行くぞ。いつまでも居るワケにはいかない」
そういって、俺は卵のような天使を連れてその場を立ち去っていく。
何故、こんなものを連れて行く気になったのだろうか。そんな思考を玩味しながら。
……いや、自分自身に偽っても詮無き事。特にもう、今となっては。
基軸となるべきモノが失われた、贋作と残骸。
その様に、ある狼と怪物を重ねなかったと言えば、嘘になる。
答を急かされているような気がした。いや、或いは俺は――あの姉弟に、そして五百年前のアルス=マグナ達に……そんな、そんなハズはない。
俺にはイルシアが居るのだ。
そして俺には……イルシアしか居ないのだ。
言い聞かせるような言葉を何度も念じ、静かに背後を振り返る。
そこには崩れ去った、かつての天使の園。重い石くれが積み重なったそれは、沈黙が保たれた光景と相まって墓のようだった。
ならば、果たしてアレは誰の、何の墓石だろうか。
打ち立てた俺にさえ分からぬ問いを轍として残し、怪物の蹂躙はまた一つ終わりを迎えたのだった。
◇◇◇
塩の粒子が、煌めきを纏って黄昏の中を舞っていく。
陽光を反射して空を漂うその光景は、まるで天使の翼のようだった。
――ある世界に、こんな逸話が残っている。
ある時、悪徳に満ちた街がついに神の怒りを買った。
神は怒りに狂い、裁きとして空より硫黄の炎を降り注がせた。
そんな悪徳の街の中、ただ唯一信仰を守っていた男のその家族は、例外として神に救われた。
お前達は逃げても良い。だが決して、逃げている途中で振り返ってはならない。
“救い”に際して、神が男と家族に課した戒律。
だが男の妻は……その戒律を破り、逃走の最中振り返ってしまったという。
神の約束に裏切った男の妻は、罰として塩の彫像にされた。
……話を戻そう。
神の戒律、その約束に背いた末路。
それこそが白い塩たち。
まるで翼のように空を舞い、ただ漂って煌めく光こそが末路。
罪と罰の行き着く先が、その光景だとするならば、
裏切りの、なんと尊く美しいことか。




