148 悪巧み
ヴェドがまず向かったのは、シャマインにある宿屋だった。
宿としては一般的なグレードだったが、ネレとしては久しく見ない程整った部屋。
感動も感嘆もする間も無く、入室するや否や、
「適当に座っていろ」
にべもなくそう言い放つヴェドが、しばし部屋中を見渡す。素早く油断のないその動きは、戦闘用に馴致された獣を思わせた。
文字と姿の通り、何かを見出そうと警戒する狼がそこにいた。
「お姉ちゃん……だいじょぶ、かな」
部屋に備えられた椅子にコルトを座らせると、当の彼が心配そうに、離れるのを拒むようにネレの服を掴んだ。
「コルト……」
弟の名を呼ぶネレの声には、顧慮と小さな後悔が滲んでいた。
正直ヴェドは明らかに真っ当なニンゲンではない。そんな者の怪しげな誘いに乗ってしまった。
乗ってしまった以上、もう降りる事は出来ない。だが、軽率な判断だったのではないか、そう思わなくもない。
コルトを巻き込んでしまった。ただその後悔の一点のみが、ネレの後ろ髪を引いている。
「――よし、いいだろう」
何の確認を終えたのか、ヴェドが満足げに頷く。
ヴェドは剣を壁に立てかけ、宿屋のベッドに腰掛けた。二メートルを優に超える大男の体重を受けかねたように、寝台がギシリと不吉に軋む。
それに頓着することもなく、ヴェドは足を組んでネレを見下ろした。
「さて、当然何の対価も無く恩恵に与れるとは思ってないだろ?」
開口一番、紅い狼の傲慢な物言いがネレを打ち据えた。
「……それは、そう――です」
覚悟はしていた。血と涙は元より、慈悲も憐憫も無い冷血漢である事など、知り合った瞬間から理解出来ていた。
だからその宣言も、心の何処かでは予見していた。何かしら、代償を求めて来るだろうと。
ならば獣は、果たして弟以外に何もない少女から何を奪う?
戦々恐々としたネレの視線を受けるヴェドは、ただ冷徹に彼女を見下ろしていた。
……ゴクリと、唾を呑みこむ音がした。
刹那の沈黙の後、チィンと高く澄んだ金属音が、宿の一室に心地よく響いた。
音の正体は、ヴェドの手慰みである。
彼は帝国の貨幣である、かつての皇帝アウグストスの記念銀貨を弄んでいた。
キィンと再び銀貨が宙に舞い、狼はパシリと掴んで手に収めた。やがてヴェドは興味なさげにネレを一瞥。
「代価は単純だ」
ヴェドは囁き、ネレに視線を合わせた。
不吉に輝く紅い瞳が、少女を貫いた。もしも室内でなければ、気圧されて数歩後退っていた事だろう。
――だがここは逃げ場のない檻。この狼と同じ檻である。
「一つ、目を合わせて誓うだけだ。『俺に従う』――とな」
「……えっ?」
果たして何を求められるのか。恐々としていた所に、この要求である。
言ってしまえば肩透かしだった。口約束だけで、本当に良いのだろうか?
「どうした、聞こえなかったのか?」
「う、ううん。聞こえた――えっと、聞こえました」
呆気に取られていたのをどう思ったのか、ヴェドが冷たく聞き返し、ネレが慌てて肯定した。
不興を買わずに済んだのか、ヴェドは目を細めてネレを見下ろす。
「じゃあ誓えるな。それとも嫌か?」
詰めるように言ってくるヴェドに気圧されかけるネレ。
口約束程度でいいのなら全く構わない。ネレとしては、もっとこう――己の根幹に関わる重要なモノを代価として求められると思っていた。
案外いい人――なんて思ったりはしないが、事実として良心的である。
――何かを、見落としているのだろうか?
そう思わなくもなかったが、
「……いいえ。やります。目を合わせて、誓えばいいんですね?」
決然と言い放つネレに、ヴェドは鷹揚と頷いた。
「お姉ちゃん、その――」
今までオドオドと様子を窺っていたコルトが、ネレに何かを言いかけるが――戦災以来、随分と気弱になってしまった弟が、ヴェドの強面な視線に耐えられるハズも無く、
「ううっ……」
コルトは目を逸らし、椅子から降りてネレの背中に隠れてしまう。
(怖いもんね、このヒト)
何を言おうとしたのか気にならないでもないが、コルトに無理をさせるまでもない。ネレは弟を庇うように立ち、ヴェドを見上げた。
ヴェドはネレの後ろに隠れたコルトを貫くように睨むが、やがて目を逸らすと、
「まあいい。お前だけで十分だ」
吐き捨てるようにそういい、ネレへ視線を戻す。
視線が交錯した。
血よりも真っ赤な瞳はあまりに鋭く強く、凶兆を示すように煌めいていた。
「さて――」
ヴェドは立ち上がり一歩進む。窓から入っていた陽光が狼の巨躯で遮られ、ひどく茫洋とした影がネレを覆う。
彼はしゃがみ込み、程近くでネレの目を覗き込んでくる。
……真っ赤な瞳が不吉におぞましく、超自然的に輝いている。
「……っ」
目を逸らしたくなる衝動に駆られるネレだが、ぐっと堪えて睨み返すように見つめた。
「では誓え。俺に従うと」
「……アタシは、ち……誓います――」
単なる口約束だ。だというのに、凄まじく重く感じられた。まるで唇が泥で覆われているようだ。
ヴェドの双眸は、そんな風に回らぬ舌で約束を囁くネレを見つめていた。真っ赤で、刃のような視線だけがネレを覆っていた。
「――あ、あなたの……ヴェドさんの言う事を聞きます」
震えながらもネレは宣誓をどうにか終えた。……終わった頃には、感じていた重圧は消えていた。
「……そら、終わった」
ヴェドは呆気なくそういうと、ベッドに戻ってまた偉そうに足を組んだ。
間近で睨まれて麻痺したのか、彼への恐怖心はだいぶ薄れていた。
あまり喜ぶべきではないのかもしれないが、恐々とし続けるよりはマシだろう。
そう考えたネレは、幾分か軽くなった心持ちのままコルトを再び椅子に座らせ、ヴェドへと向き直った。
「えっと……それで、どうやって天使院に入るんですか?」
問われたヴェドは腕を組んで何度か尻尾を揺らし、
「………今から考える」
と、少し低い声で視線を逸らして呟いた。
どういう意味なのか、彼は何を言ったのか、ネレは一瞬理解に苦しみ――やがて及んで、
「はっ? 今から? な、何も考えてないの?」
思った事がそのまま声に出てしまい、慌てて自分の口を塞ぐが遅かった。ヴェドの酷く不機嫌そうな視線がネレへと注がれているのを感じ、彼女は「うっ」と怯んでしまう。
だが――ここで引いてはいけない。天使院でコルトが治療を受けられるかは、この狼に掛かっているのだ。ネレは奮起し、ヴェドの紅い宝石のような視線と相対した。
「こ、困るよッ! 貴方に、アタシ達が天使院に入れるかは貴方に掛かってるんだからさ!」
「お、お姉ちゃん、ヤバいよ……!」
「チッ、うるせえな。分かってるよ、静かにしないと殴るぞクソガキ共」
口調も声音も荒いが、ヴェドは確かにバツが悪そうにそっぽを向いた。一応、悪いとは思っているのだろうか。
しかし責めても解決する問題ではない。少しでも解決の為に、ネレ自身から動かねば。
「まず、天使院に“選ばれる”には、沢山いるヒト達――」
「――邪魔だな」
――ネレの言葉を切って取るように、ヴェドが不穏な事を呟いた。
別にネレはそんな過激な事を言うつもりは無かったのに、この調子である。
まさかとは思うが、暴力的な手段で解決しようとしているのではないか。
「……もしかして、人殺しとか考えてます?」
「……………いいや。そんな事したら大騒ぎになるだろ」
何故、否定するまでに間があったのだろうか。ネレはあまり深く考えないようにした。
「です、よね? うん、当然」
「………ちっ」
不機嫌そうな舌打ちにまたぞろ肝が冷えそうになるが、ネレは努めて無視。
「選ばれるのを待っている人たちをどうにかしないといけないワケで――うーん、そうするよりも、天使院のヒトを説得するとか――?」
「無理だな、もう試したが連中は梃子でも動かない」
天使院の職員を説得する。無理そうな話であるとネレ自身理解はしている方法を述べるも、ヴェドは絶対に不可能だと断言した。まるで分かり切っているかのように。
「……? それは説得の方法が――」
「――あ?」
「……なんでもないです」
とはいえ方法に問題があったのでは、そう言いかけたネレだがヴェドのドスの利いた声に萎んでしまう。
実際、天使院側を懐柔するというのは現実的じゃないのかもしれない。この男が試したというからには、一通りの方法は取ったハズなのだから。
「……ってなると、やっぱり、順番をどうにかしないと」
なればやはり、待っている側をどうにかするという選択。
「少し見たが、かなりの数が集まってるじゃないか」
言外に侮蔑を滲ませてヴェドが言う。自分達姉弟もヴェドに蔑視される側であるが故に、少しムッとするネレだが取り合う必要もない。
「それこそ説得――は無理かぁ。多いもんね」
「……何か、渡すとか」
無い頭を捻っていた二人の間に、今まで黙り込んでいたコルトが突如としてそう呟く。決して大きな声ではなかったが、三人しかいない室内に彼の声はよく通った。
「物乞いに施してやるのか? はっ」
軽蔑も露わにヴェドは吐き捨てた。なんとも軽薄な態度だ、外見性格の通り過ぎていっそ感動さえ覚える。
「……ご飯あげて、代わりに三日後の選定を譲ってもらうとか」
「ざっと路地に屯している連中を見たがな、あんな連中を一々相手にしていたら――」
ネレの発言に反駁するヴェドだが、突如として言葉を切り何かを考えるように腕を組んで中空をボンヤリと眺め始めた。
「……悪くないな。褒めてやるぞ、ガキんちょ」
ついで、ヴェドは得心が言ったように頷き、恐ろしい事にネレを褒めて来た。
そんな大した事を言ったつもりは無い上に、現実味があるか怪しい所だ。治療を待つ貧者たちは、きっと十や二十では利かないくらい居るハズだ。
「アタシの名前はネレです」
一先ず、一番気になった所を訂正するネレ。コルトが「不味いよ」と小声で言うが、そんな彼を窘めつつネレはヴェドを見上げた。
「あっそ。じゃあガキ共、一つお使いに行ってこい」
当然のようにネレの訴えを無視するヴェドは、ポケットから財布を取り出しいくらかの硬貨を取り出した。
(た、大金だっ)
銀貨が十枚ほど――ネレからしてみればかなりの額だ。これだけあれば、安い食べ物ならいくらだって買えるだろうし、服も宿も思いのままだろう。
ヴェドは庶民――というより戦災に傷ついた者からしてみれば相当な金額を、雑にネレへ寄こした。
「これで飯買ってこい。連中に配れるくらい、沢山な」
「……ほ、ホントにこの作戦で?」
自分で言った手前、そう否定も出来ないのだが――穴がある……それも沢山あるように思う。
「ああ、これでいく。ほら、さっさと買いに行け」
だがヴェドはネレの憂慮に取り合わず、さっさと行けと言葉と態度で冷たく示した。
「わ、分かった――じゃなくて、分かりました」
コルトを置いておくのも心配だ。ネレはコルトを立たせ、ヴェドを見た。
紅い狼は酷く不機嫌にネレを一瞥し、もう一回顎で「さっさと出ていけ」と示す。
「……行こ、コルト」
「う、うん」
これ以上怒らせるのも考え物だ。早く言う通りに買いに行かなければ。
使命感にも似た感情に押されながら、ネレはコルトを連れて部屋を出て行った。
「――さて、出て行ったな。悪いな、一瞬だが出番だぞ、オル・トロス」




